2014年 01月 04日
太宰治のお墓!
息を切らせながらたどり着くと、小奇麗な正門が見えてきた。こんな立派な正門を私は発見することができずにウロウロしていたのだ。我ながら情けないものだと思いながら、正門の前で一つ深呼吸しなかへ入った。
太宰のお墓には、花が手向けてあった。私はお花どころかお線香も持ってきていなかったため、少し失礼なことをしてしまった。この太宰のお墓の右斜め向かいには、森鴎外のお墓もある。太宰は生前、『花吹雪』の中でこんなことを書いていた。
『どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小奇麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持ちが畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。私には、そんな資格が無い。立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い』
だが、太宰はこうして鴎外の斜め向かいに安らかに眠っている。それは、妻である津島美知子夫人の計らいにより、太宰の気持ちを汲んでここにお墓を建てたのだ。そして、美知子夫人の遺骨も遺族により太宰のすぐ横で二人一緒に眠っている。
お墓とはいえ、まるで本人を目の前にしているかのようで、緊張してしまった。写真を撮る前に、失礼しますと一言あいさつし写真に収めた。
・太宰治(津島修治)
1909年(明治42年)~1948年(昭和23年)
・津島美知子(旧姓 石原美知子)
1912年(明治45年)~1997年(平成9年)
ちなみに、毎年6月19日は『桜桃忌』があり、大勢のファンが集まるのだが、これは太宰の友人で同郷の、今官一の提唱により偶然にも遺体が発見された日が太宰の誕生日であることもあり、『桜桃忌』と名づけられたのだ。
なぜ桜桃なのかというと、太宰の名作に『桜桃』があることと、太宰本人が桜桃を好み、桜桃の実る頃に逝ったことによる。
月日が流れようとも、太宰文学の愛読者は尽きない。私もこうしてなんでもない日に来るように、誕生日でもなければ命日でもないのに、手向けの花や線香の紫煙が途切れることはないのだ。
次来るときは、手向けの花とお線香を持って是非とも『桜桃忌』に参列したいものだ。その時はまた上手く記事にできればと思います。
わたしも、一度は禅林寺の入口付近に来ていたのに見逃して引き返したりして、時間がかかり、汗をかきました。このときも別の道に行ってしまったり。同じですね〜。
墓地には人がいなくて、お花やタバコ、お酒にビールが供えられていました。わたしも!お供えがなくて。太宰治と一体一で向かい合っているようで、えええと。戸惑いました。
小さな家は休館、文学サロンでたくさんお話を伺えて、うれしい一日になりました。
いざお墓の前に来ると、妙な照れくささというか、やはり何を言ったらいいか迷いますよね…
しかし、太宰はきっと喜んでくれてると思いますよ!!