太宰の故郷を旅する 2日目 №2 『斜陽館』

 旧津島家新座敷『太宰治疎開の家』に引き続き訪れたのは、疎開の家から徒歩2分にある太宰治の生家にして現在記念館となっている『斜陽館』です。
 ここは太宰の父・津島源右衛門が、明治40年(1907)に総工費約4万円(現在の価格で約6~8億円)を掛けて建てた豪邸である。
 以前にも出てきたが、ここの建築を担当したのは『旧弘前市立図書館』『青森銀行記念館』を設計、施工した堀江佐吉だ。しかし、佐吉は完成を見ずに亡くなり、佐吉の四男、斎藤伊三郎が棟梁を務めた。青森県産のヒバや秋田杉、タモなどをふんだんに使い、基本の入母屋造りの和風建築に当時弘前で流行していた洋風建築を合わせた和洋折衷な造りで、県内では例を見ない。周囲に巡らせた高い煉瓦塀は、当時多かった小作争議に備えたものといわれている。
 
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 一階は十一室、二百七十八坪の広さを誇る。ここでは同居していた津島家の親族、使用人である乳母、女中、行儀見習い、子守などを加える三十人以上がともに暮らしていたのだが、和風の一階は、十八畳の仏間、十五畳の座敷が二間、囲炉裏の付いた十五畳の茶の間があり、襖を外せば六十畳以上の大広間となり、父・源右衛門の時代はしばしば大宴会が繰り広げられた。 
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 元台所跡にはかつてのように、たくさんの箱膳が並べられていた。
太宰は代表作『人間失格』の中で、暗澹たる思いで食事をする場面を書いている。
『最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。(中略)ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。』
『人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種の儀式のようなもので、家族が日に三度々々、時刻をきめて薄暗い一部屋に集まり、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんを噛みながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした』

 
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 妻・津島美知子の『回想の太宰治』の中で、太宰は箸の使い方が非常に上手かったと書かれていた。津軽屈指の大地主であり政治家でもある父の元に生まれた太宰は、女中たちに厳しく躾けられたのだ。食事の時間を苦痛に感じたのも無理はないかもしれない。

 少し奥に進むと衣装箪笥のある小部屋があるのだが、そこにはなんと、太宰が着ていた二重回し(マント)のレプリカが二着掛けてあるではないか。その二重回しをぼーっと眺めていると、ある女性が「撮ってあげましょうか?」と声を掛けてきてくれた。その女性はどこかで見たことがあると思ったら、先ほど『太宰治疎開の家』で一緒に見学した女性でした。私はやや緊張しながらマントを羽織ったのですが、サイズが大きいのです。それもそのはず、太宰は当時で珍しく身長が約175㎝あったと言われています。身長160㎝しかない私には大き過ぎたのです。女性にお礼を言うと、「またいつでも声を掛けてください。何枚でも撮ってあげますよ」と言ってくれました。親近感を覚えた私は一緒に館内を見てまわることにしました。
 
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 さらに奥に進むと展示室になっていて、直筆の原稿や太宰が実際に来ていた二重回し(マント)、財布や灰皿などの太宰の愛用品が展示されていた。展示室は二階もあり、こちらは主に初版本などが展示されている。この展示室は上下階ともに写真は禁止のため撮ることはできなかった。太宰が実際に着た二重回しなどの愛用品はここでしか見られない。他にも非常に貴重な展示品が多数あり、太宰が好きな方は是非その目で見て感動してもらいたい。

 二階へ進む途中の階段は非常に日当たりが良く、木の温もりを感じさせる重厚な造りだ。この階段を幼い日の太宰は駆け上がったりしていたのだろうか。階段に腰掛けて読書をするのも中々絵になりそうだと思わず思ってしまうほどだ。
 
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 この階段を上がると約百十六坪、八室の部屋がある。長椅子のある洋間があるのだが、『津軽』に『中学時代の暑中休暇には、金木の生家に帰っても、二階の洋室の長椅子に寝ころび、サイダーをがぶがぶラッパ飲みしながら、兄たちの蔵書を手当り次第に読み散らして暮らし、どこへも旅行に出なかった』と書いている。
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 他にも、金襖のある部屋や襖に「斜陽」の文字の入っていることから「斜陽の間」と呼ばれる部屋もある。一緒に見ていた女性も「立派な家だねぇ、どんな暮らしぶりだったんだろうねぇ」と言っていた。確かに広く贅沢な造りである。しかし、いつも人の顔色ばかり伺う太宰が、ここで伸び伸びと生活していたとは言い難い。 
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 これだけ贅沢な造りをした豪邸だが、太宰は『苦悩の年鑑』の中でこんなことを書いている。
『私の家系には、ひとりの思想家もいない。ひとりの学者もいない。ひとりの芸術家もいない。役人、将軍さえいない。実に凡俗の、ただの田舎の大地主というだけのものであった。父は代議士にいちど、それから貴族院にも出たが、べつだん中央の政界に於いて活躍したという話も聞かない。この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである。間数が三十ちかくもあるであろう。それも十畳二十畳という部屋が多い。おそろしく頑丈なつくりの家ではあるが、しかし、何の趣も無い。(中略)しかし、その家系には、複雑な暗いところは一つも無かった。財産争いなどという事は無かった。要するに誰も、醜態を演じなかった。津軽地方で最も上品な家の一つに数えられていたようである』

 津島家がここまで大きくなったのは、明治維新後、帰農した士族が安く手放した農地を次々と買取り、冷害がもたらした凶作に打撃を受けた農民へ高利の金貸しを行い、返せなくなった自作農から抵当の田畑を取り上げ続けたことにあると言われている。太宰はそんな生家をあまり良く思っていなかったのだ。
 そんな豪邸も戦後になって津島家が手放し、昭和25年から『斜陽館』として町の観光名所となり、平成8年3月に旧金木町が買取り、旅館『斜陽館』は46年の歴史に幕を下ろした。
 ちなみに『斜陽館』の名は、『斜陽』がベストセラーになっていたこともあったが、「泊まり客は、日が傾いた頃に来る」ことから命名されたとも言われている。

 太宰治という一人の苦悩する作家が生きた生家は、今もこうして世の人に語り継がれているのだ。太宰があるいた廊下、太宰が見た窓からの景色、太宰が駆け上がった階段、太宰が生活した空間がここにある。太宰に興味のない人間でも、この豪邸には目を丸くするであろう。

 金木町に立ち寄ったら是非、この『斜陽館』は多くの人に見てもらいたい。名残惜しみながら私は『斜陽館』を出て行きました。
 
by dazaiosamuh | 2013-12-25 00:07 | 太宰治 | Comments(0)