2013年 12月 23日
太宰の故郷を旅する 2日目 №1 太宰治疎開の家!
「いやぁ、泊まったことはなかったみたいです……。でも、ここら辺界隈をぶらぶらと友人たちと歩いたり、カフェに行ったりはしていたらしいですよ」
太宰が高校時代三年間を過ごしたこの弘前をゆっくりと歩きながら、金木へ行くべく弘前駅へと向かいました。
弘前駅から電車で40分、乗り換えるため五所川原駅に着いたのですが、待ち時間が30分程あったため『あげたいの店 みわや』へ行くことに。
この「あげたい」というのは、鯛焼きをさらに油で揚げたもので五所川原の名物の一つにもなっています。中身はもちろん餡子で、揚げた鯛焼きに砂糖がまぶしてあり、揚げパンの鯛焼き版だと思って間違いない。一個100円で普通の鯛焼きの値段と変わらないので、待ち時間に余裕のある方は是非。駅から徒歩5分というのもグッド。
五所川原駅からは太宰の有名作「走れメロス」から取った、「走れメロス号」に乗り換えて金木へ向かいます。車内ではアナウンスの女性が津軽弁で、どういうルートで太宰の足跡をたどればいいか、是非寄って行ってほしい場所等話してくれました。
小中高の国語の教科書などに掲載されてきた「走れメロス」は、最も広く知られている作品の一つだろう。人々に希望を与える分かりやすい明確なテーマと力強い文章で多くの人々に読み継がれてきた名作だ。幼いころから家族間、他者との人間関係に苦しんできた太宰だからこそ書けた作品であると言える。
『母は離れの十畳間に寝ていた。大きいベッドの上に、枯れた草のようにやつれて寝ていた』
「がんばって。園子の大きくなるところを見てくれなくちゃ駄目ですよ」私はてれくさいのを怺えてそう言った。
突然、親戚のおばあさんが私の手をとって母の手と握り合わさせた』
太宰は我慢できずに母の元を離れた。廊下をあるいて洋室のある部屋へと向かうのです。上の写真は、母・たねが寝ていた部屋。下の写真は、太宰が懸命に涙を怺えた描写が書かれた、マントルピースがある洋室。
また、太宰の妻・津島美知子も自身の著書『回想の太宰治』に母・たねのことを書いている。
『母は離れの座敷のベッドに寝ていた。蒼みがかった頬、黒い大きな眼、濃い長い睫毛、美しい人であった』
その後、太宰は、兄たちとの確執も徐々に解け、昭和19年には『津軽』の取材旅行でも帰郷している。翌20年(太宰36歳)は、三鷹と甲府の空爆で二度罹災し、やむなく7月末に、妻子を連れて金木の生家に疎開している。
ここの新座敷は、一応手入れなどはされてはいるが、ほとんど当時のままである。太宰の母・たねの寝ていた部屋の奥は、昭和20年に被災し逃げ込んできた時に、太宰が1年3カ月、仕事部屋として使っていた部屋だ。太宰は執筆の時、片膝を立てて書く癖があったという。そんな太宰の姿を目に浮かべながらデジカメのシャッターを切った。部屋の外の廊下はL字型になっていて、床は鴬張りとなっている。侵入者を入れないための工夫だろうか。
ここに見学に来たのは、私以外にもう一人年配の女性だけであった。話を聞くとこの女性も太宰のファンで、この新座敷は見たことがなかったため見に来たとのこと。
ところで、この新座敷がなぜ、今は『斜陽館』から離れた場所にあるのかというと、終戦後の農地解放のために地主制度は解体し、政界に復帰して青森県知事となった長兄・文治は、昭和23年6月(太宰が没した同月)に大邸宅を売却することになりました。その際、新座敷を現在地に曳屋して家族の居宅としたのです。やがて旅館となった母屋は、太宰の生家として有名になったが、新座敷は、時と共に人々の記憶から消えていったというわけです。
この新座敷にいると、まるで太宰の息づかいが聞こえてくるようで、家族に気を遣う姿や、作家としての太宰を感じることができたように思います。
新座敷を後にし、次はいよいよ『斜陽館』へと向かいます。