太宰の故郷を旅する 1日目 №1 弘前城

 今月の初めに、太宰の故郷である青森へ1泊2日の一人旅に行ってきました。
目的は、太宰の実家であり現在は記念館になっている『斜陽館』に行くためですが、折角なのでまずは弘前に行くことにしました。

 太宰が弘前で過ごしたのは、高校時代の3年間である。昭和2年(1927)中学校を卒業した太宰は、ここ弘前の官立弘前高等学校に入学する。弘前高校は青森、秋田、岩手三県で唯一の旧制高校であり、選ばれた秀才が集う超エリート高校であった。当時の弘前高校は弊衣破帽、高下駄で闊歩する旧制高校の気風を保つと同時に、全国的に見ても最も左翼活動が盛んな学校の一つであった。
 高校へ入学した太宰は、寮には入らず「病弱」を理由に高校近くの津島家遠縁に当たる藤田家に下宿することになる。入学した年の七月、憧れていた芥川龍之介の自殺に衝撃を受ける。入学早々に受けたこの衝撃は、太宰の心に陰影の付いた複雑な思いを抱かせることになる。太宰はこの思いを胸に過酷な時代と人生の荒波へと突き進んでいくことになる。
 
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 弘前駅からは『100円バス』というのがあって、洋館や弘前城など、主要な見所はほぼ回れるようで、私も並んでいると、前に並んでいたおじさんに話しかけられ、何やらこのおじさんも一人旅で来たようで、お互いデジカメを持参してきたこともあり、意気投合し、二人で弘前公園を周ることにしました。

 弘前城を太宰は小説『津軽で、こう説明している。
「弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦為信は、関ヶ原の合戦に於いて徳川方に加勢し、慶長八年、徳川家康将軍宣下と共に、徳川幕下の四万七千石の一侯伯となり、ただちに弘前高岡に城池の区画をはじめて、二代藩主津軽信牧の時に到り、ようやく完成を見せたのが、この弘前城であるという」
 
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 時期が12月なだけに、枯れた桜の木の中でどっしりと佇む弘前城は、想像以上に小さく、少し寂しい感じがしました。
 しかし、折角来たのでおじさんと一緒に交代でデジカメを撮りながら、園内を周りましたが、「やっぱり、桜が咲いてないと少しばかり寂しいもんだねぇ」と同じことを思っていたようです。
 この弘前公園には、日本一太いソメイヨシノ(樹齢約120年)と日本最古のソメイヨシノ(樹齢約130年)を見ることができます。その他にも、十月桜弘前雪明かり枝垂桜など約50種類の桜を楽しむことができます。なぜ弘前公園には桜が多いのか、それは、正徳5年(1715年)に津軽藩士が京都から桜の苗木を取り寄せたのが始まりでした。その後、明治時代にはソメイヨシノ約1000本が植えられ、市民からの寄贈もあり、大正時代には城を埋め尽くすほどになり、現在は約2600本にもなるようです。
 毎年、陽春には多くの観光客が、桜花に包まれた弘前城を観に来るのでしょう。これから先もその健在を誇っていってほしいです。

 本丸から少し北に進むと、津軽平野のシンボル岩木山』を拝むことができるのですが、少し頂上付近に雲がかかっておりはっきりとは見えませんでした。
こちらも『津軽』から引用。
「『や! 富士。いいなあ』と私は叫んだ。富士ではなかった。津軽富士と呼ばれている1625mの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふわりと浮かんでいる。実際、軽く浮かんでいる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもっと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮かんでいる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとおるくらいに嬋娟たる美女ではある」
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 岩木山も例によって、交互に撮り、二人で弘前城を後にしました。
 ちなみに、私は東京から旅に出きたわけですが、出会ったおじさんは仙台から日帰り旅行で来たようです。「孫が東京に居て、明日会いに行くんだ」と楽しそうに話しておりました。もしかしたら、旅で撮った写真をお孫さんに見せたりして楽しんでいるのかもしれません。
 別れのとき、「東京は大変だと思うけど、しっかり頑張れよ」と元気づけてくれました。私もまた、「おじさんも、いつまでも元気で長生きしてください」といい、手を振って別れました。
 

by dazaiosamuh | 2013-12-20 17:23 | 太宰治 | Comments(0)