遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 知っている人は知っていると思うが、先月、新潮社の関係者宅から太宰治『斜陽』や島崎藤村の小説原稿、石川啄木や菊池寛の手紙など約30点が見つかった。
 太宰治の有名作品『斜陽』は、それまで6枚の所在が不明であったが、そのうちの4枚が今回発見された。『斜陽』は『新潮』で1947年7月号から10月号まで掲載され、今回発見された直筆原稿は、9月号と10月号の冒頭の2枚ずつであった。発見された冒頭原稿は、乱れのない几帳面な字で書かれていたと新聞記事に書かれていた。太田静子から借りた日記をもとに太宰独自の脚色を加え、大事に作品を造り上げたことがうかがえる。残る原稿は2枚。貴重な冒頭の原稿が発見されて何よりだが、残り2枚はたしてどこにあるのだろうか。無事にすべて揃えばいいのだが。
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 資料の一部は、先月新潮社から発売された「『文豪とアルケミスト』文学全集」に掲載されているとのことだ。

 この『斜陽』の直筆原稿が発見されたことは先月のうちに知っていたのだが、この新聞の切り抜きを私の両親がわざわざ実家から送ってきてくれたので、せっかくなので記事に載せることにしました。

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by dazaiosamuh | 2017-11-15 20:36 | 太宰治 | Comments(0)
 深浦の秋田屋旅館に泊まった翌日の昭和20年7月31日、太宰一家は駅の発車時間まで間があったので、海での団欒を楽しんだ。その時のことが『回想の太宰治』に書かれている。
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翌日は、晴天で、窓をあけてみると空地に網や漁具が干してあって、漁港に泊ったことを実感した。宿に頼んでワカメを土産用に買って駅に向かった。…(中略)…夕方までに金木へ着けばよいので、のんびりした気持で駅で発車の時間をたしかめてから、足はしぜんに海べに向かった。
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朝の海は凪いでいて大小様々の岩が点在し、磯遊びには絶好であった。四つの長女はまだ海を見たことがない。一家で子供中心の行楽の旅に出たこともなかったから、私たちははしゃいで、しばらく海べでのまどいを楽しんだ。
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 太宰一家が訪れた当時は、広く大きな砂浜が広がっていたが、今はないようだ。せっかくの楽しい一家団欒のひとときであったのに、太宰はこれを題材に金木で「海」というコントを書いている。それに対しての不満を、妻・美知子が書いている。
海を指して教えても川と海の区別ができない子、居眠りしながら子の言葉にうなずく母
 
 海というと私に浮ぶのは、あの深浦の楽しかった家庭団欒のひとときである。「浦島さんの海だよ、ほら小さいお魚が泳いでいるよ」とはしゃいだのはだれだろう。太宰自信ではないか。なぜ家庭団欒を書いてはいいけないのか…私は「海」を読んでやり切れない気持であった。

 せっかく家族で楽しい時間を過ごしたのに、それとは正反対のことを書かれた妻からすれば当然不満であることはたしかである。しかも一番はしゃいでいたのは太宰である。がしかし、これが作家というものなのだろう。太宰も妻子と海辺で楽しい時間を過ごしたことは間違いないのだから、大目に見てほしい。

 深浦の記事はこれで最後になります。


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by dazaiosamuh | 2017-11-01 10:18 | 太宰治 | Comments(2)
 太宰は料亭二葉で一人さみしくお酒を飲み、ふたたび秋田屋旅館へ帰ってきた。そして、翌日、朝食を食べていたら主人がお銚子を持ってきて、あなたは津島さんでしょう、と言った。宿帳には筆名の太宰を書いていたはずなのだが、
そうでしょう。どうも似ていると思った。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになったからわかりませんでしたが、どうも、あんまりよく似ているので」
「でも、あれは、偽名でもなのです」
「ええ、ええ、それも存じて居ります、お名前を変えて小説を書いている弟さんがあるという事は聞いていました。どうも、ゆうべは失礼しました。さあ、お酒を、めし上れ。この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒の肴にはいいものです」
 私はごはんをすまして、それから、塩辛を肴にしてその一本をごちそうになった。塩辛は、おいしいものだった。実に、いいものだった。

 鮑のはらわたの塩辛とは美味しそうですね。私はイカの塩辛くらいしか食べたことがありません。あとになって知ったのですが、鮑のはらわたの塩辛は、円覚寺前にあるお店で買えるそうです。私はたしか円覚寺前にあるお店で蕎麦を食べたのですが、鮑のはらわたの塩辛があるとは気づきませんでした。腹が減っていたため、蕎麦にしか目がいきませんでした。味見してみたかったです。
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 太宰は秋田屋旅館にきたとき、『津軽へやってきて以来、人にごちそうにばかりなっていたが、きょうは一つ、自力で、うんとお酒を飲んで見ようかしら…』と意気込んでいたが、『こうして、津軽の端まで来ても、やっぱり兄たちの力の余波のおかげをこうむっている。結局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して、珍味もひとしお腹綿にしみるものがあった。要するに、私がこの津軽領の南端の港で得たものは、自分の兄たちの勢力の範囲を知ったという事だけで、私は、ぼんやりまた汽車に乗った。』と、ただただ津島家の力を思い知るのであった。

 その翌年の昭和20年7月30日には一家で深浦の秋田屋旅館に泊まっている。一夜で焦土と化した甲府から逃れて、金木へ向かう途中に、深浦へ寄ったのだ。その理由については、『太宰の深浦泊りの目的が何にあるのかが察しがつくので仕方なく同意して…』と妻の津島美知子が『回想の太宰治』で書いている。
 到着したときはすでに夜で、懸命に太宰は戸をたたき、やっと二階へ上がらせてもらえたのだが、『前年の「津軽」の旅のとき、主人から特別のもてなしを受け、やまげんの勢力がここまで及んでいることを感じたことを太宰は記しているが、その主人は現れない筈、長患いの床に就いているとのことであった。』とあり、17、18歳の娘さんが給仕してくれたのだが、『手もとが僅かに見えるほどの暗い部屋で、とうてい、お銚子をと言い出すことが出来なくて、あてにして来た太宰が気の毒であった。甲府で罹災して以後も毎夜焼跡で飲んできていたが、甲府出発以来アルコールが全く切れていた。これではなんのためにまわり道して、深浦に泊ったのかわからない。』とある。そう、太宰は酒が飲みたくて、わざわざ妻子を連れまわして深浦へ来たのだ。『津軽』の深浦の場面で、『子供は百日咳をやっているのである。そうして、その母は、二番目の子供を近く生むのである。たまらない気持がして私は行きあたりばったりの宿屋へ這入り…』とあんなに妻子を心配していたのに、アルコールが切れると酒優先になってしまうのは、酒飲みのなんとも悲しい性だと思います。

 太宰が泊まった秋田屋旅館(現・ふかうら文学館)ですが、実は太宰は、秋田屋旅館の経営者が、兄・英治の友人(島川貞一)であることを事前に知っていたのではないか、という説もありますが、分かりません。

 深浦の記事はもう一度だけ書きます。


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by dazaiosamuh | 2017-10-26 10:07 | 太宰治 | Comments(0)
 秋田屋旅館にてすぐにお膳が運ばれてきたことに救われた太宰であったが、どうやらお酒はもうないとのことであった。そこで太宰はお膳を持ってきた若い娘さんに、他にお酒を飲める場所はないかと尋ね、ございますという返事に安堵し、その料亭へそそくさと足を運ぶのであった。

ほっとして、その飲ませる家はどこだ、と聞いて、その家を教わり、行って見ると、意外に小奇麗な料亭であった。二階の十畳くらいの、海の見える部屋に案内され、津軽塗の食卓に向かって大あぐらをかき、酒、酒、と言った。
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 写真の建物付近に当時太宰が行った料亭がありました。太宰が行った料亭というのは料亭二葉のことで、現在は風待ち館という観光協会の建物と駐車場になっている。

お酒だけ、すぐに持って来た。これも有難かった。たいてい料理で手間取って、客をぽつんと待たせるものだが、四十年配の前歯の欠けたおばさんが、お銚子だけ持ってすぐに来た。私は、そのおばさんから深浦の伝説か何か聞こうかと思った。
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 お酒もすぐに出て、そのおばさんに名所などを尋ねる太宰であったが、突如、『ぶってり太った若い女』が現われて、変に気障な洒落などを飛ばし、太宰は頗る不快な思いで我慢がならず、『私は、いやで仕様が無かったので、男子すべからく率直たるべしと思い、「君、お願いだから下へ行ってくれないか」と言った。私は読者に忠告する。男子は料理屋へ行って率直な言い方をしてはいけない。私は、ひどいめに逢った。その若い女中が、ふくれて立ち上がると、おばさんも一緒に立ち上がり、二人ともいなくなってしまった。ひとりが部屋から追い出されたのに、もうひとりが黙って坐っているなどは、朋輩の仁義からいっても義理が悪くて出来ないものらしい。私はその広い部屋でひとりでお酒を飲み、深浦港の燈台の灯を眺め、さらに大いに旅愁を深めたばかりで宿へ帰った。

 料亭二葉での話は本当なのか『津軽』を面白くする上での創作なのかは分からない。『君、お願いだから下へ行ってくれないか』
 これは誰でも不機嫌になってしょうがないであろう。ひどいめに逢ったのはお互い様である。
 
 深浦町の記事は次回で最後になります。



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by dazaiosamuh | 2017-10-20 10:41 | 太宰治 | Comments(2)
駅からまっすぐに一本路をとおって、町のはずれに。円覚寺の仁王門がある。この寺の薬師堂は、国宝に指定せられているという。
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 太宰が書いているとおり、駅からまっすぐにひたすら歩いていくと、円覚寺の大きな仁王門が見えてくる。途中、お腹が空いたので仁王門のすぐ目の前のお店に入り、蕎麦を食べて腹ごしらえをし、改めて仁王門へと向かうと、門に掛けてある幕には、『開山1150年 33年ごと ご本尊開帳記念大法要平成30年 7月17日~31日』とある。33年ごとにご本尊の開帳が行われているらしい。これを逃すと、次は2051年まで待たなくてはならない。

 この春光山円覚寺は、県内でも屈指の古刹で、大同二年(西暦807年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が建立したと伝えられている。
 円覚寺のHPによると、『円覚寺の古来から澗口観音として信仰を集めた祈願寺で、嵐の中を無事に生還した船乗りのチョンマゲが多数奉納されている』とのことだ。信仰の厚い、由緒あるお寺ですね。
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 しかし、円覚寺を訪れた太宰は、『私は、それにおまいりして、もうこれで、この深浦から引上げようかと思った。完成されている町は、また旅人に、わびしい感じを与えるものだ。私は海浜に降りて、岩に腰をかけ、どうしようかと大いに迷った。まだ日は高い。東京の草屋の子供の事など、ふと思った。なるべく思い出さないようにしているのだが、心の空虚の隙をねらって、ひょいと子供の面影が胸に飛び込む。』と、東京にいる子供のことを思い出し、なんだか寂しい気持になるのであった。

 太宰が訪れたこの円覚寺は上記に書いたとおり、来年7月に御開帳となる。33年ごとだ。太宰が訪ねた地ということもあり、是非とも見ておきたい。逃すと次の御開帳の頃には私は還暦を過ぎてしまう…。その頃には、いったい自分はどういう人間になっているのだろうか。


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by dazaiosamuh | 2017-09-29 15:18 | 太宰治 | Comments(2)
深浦町は、現在人口五千人くらい、旧津軽領西海岸の港である。江戸時代、青森、鯵ヶ沢、十三などと共に四浦の町奉行の置かれたところで、津軽藩の最も重要な港の一つであった。
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 太宰が訪れた当時は人口約5千人ほどであったが、少し深浦の人口について調べて見ると、1955年(昭和30年7月29日)大戸瀬村と合併し、1970年には人口が1万8千人を超えた。しかし、過疎化や少子高齢化が進み、1980年は1万5千人、1990年には1万3千人と減少し、2005年(平成17年3月31日)には西津軽郡岩崎村と合併するも人口は1万人であった。2015年には8千4百人まで減少している。少子高齢化、過疎化は日本に於いての深刻な問題である。

丘間に一小湾をなし、水深く波穏やか、吾妻浜の奇巌、弁天嶋、行合岬など一とおり海岸の名勝がそろっている。しずかな町だ。漁師の家の庭には、大きい立派な潜水服が、さかさにつるされて干されている。何かあきらめた、底落ちつきに落ちついている感じがする。
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 弁天島。この付近一帯は、日本の渚百選、日本の夕陽百選に認定されているとのこと。浜辺から夕陽を眺めたら、さぞ美しかっただろう、あいにく滞在時間があまりなかったので、夕陽はおろか弁天島へ行く時間も無かった。またあとでじっくり訪れたい。

 次回は、円覚寺を書きます



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by dazaiosamuh | 2017-09-24 18:29 | 太宰治 | Comments(0)
 久しぶりの記事になります。幼い頃から目が弱く、近頃、目を開けているのも辛い状態でしたが、何とか記事を続けていきます。

 木造から深浦へ向かった太宰。『津軽』で途中の千畳敷海岸について書いているが、おそらくは車窓から眺めただけで、海岸へは降りていないと思われます。
 深浦町へ到着した太宰は、『この港町も、千葉の海岸あたりの漁村によく見受けられるような、決して出しゃばろうとせぬつつましい温和な表情、悪く言えばお利巧なちゃっかりした表情をして、旅人を無言で送迎している。つまり旅人に対しては全く無関心のふうを示しているのである。』と町の印象を書いている。しかし、太宰は深浦の欠点を述べているのでは決してなかった。
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 深浦駅。小さな駅舎で、私が来たとき、横柄な駅員が気になったが、まあ長閑な場所である。

そんな表情でもしなければ、人はこの世に生きて行き切れないのではないかとも思っている。これは成長してしまった大人の表情なのかも知れない。何やら自信が、奥底深く沈潜している。津軽の北部に見受けられるような、子供っぽい悪あがきは無い…(中略)…津軽の奥の人たちには、本当のところは、歴史の自信というものがないのだ。まるっきりないのだ。だから、矢鱈に肩をいからして、「かれは賤しきなるものぞ」などと人の悪口ばかり言って、傲慢な姿勢を執らざるを得なくなるのだ。あれが、津軽人の反骨となり、剛情となり、詰屈となり、そうして悲しい孤独の宿命を形成するという事になったのかも知れない。』とここでもやはり太宰特有の自論を展開している。
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 深浦駅を出てすぐ前にある通りは、人が誰も歩いておらず、何だか廃れた寂しい印象を受けた。太宰の『旅人に対しては全く無関心のふうを示している』を肌で感じた気持ちであった。寂しい気持ではあったが、しかし、この雰囲気がまた私には心地よかった。
 太宰はそして『人からおだてられて得た自信なんてなんにもならない。知らん振りして、信じて、しばらく努力を続けていこうではないか。』と言っている。その通りだ。人からおだてられて得た自信なんて、なんにもならないのだ(おだてられるような場面が、まず私にはないが)

 太宰の歩いた深浦を、少しずつ書いていきたいと思います。


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by dazaiosamuh | 2017-09-19 20:33 | 太宰治 | Comments(0)
 千畳敷駅を下車してすぐに太宰治の文学碑があり、その背後には日本海と駅名に由来する数えきれない岩石が展開している。
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この辺の岩石は、すべて角稜質凝灰岩とかいうものだそうで、その海蝕を受けて平坦になった斑緑色の岩盤が江戸時代の末期にお化けみたいに海上に露出して、数百人の宴会を海浜に於いて催す事が出来るほどのお座敷になったので、これを千畳敷と名付け……
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 でこぼことした岩石が露出している。なるほど、言われてみればお座敷に見えなくもない。ここで数百人で酒を飲めたら、たしかに楽しそうだ。この千畳敷海岸を歩くことを事前に分かっていたのに、この旅行で私が履いてきた靴は、通気性を良くするために、底に数カ所の穴のあいたランニングシューズであった。おかげで海水のしみ込んだ砂地を歩くときに、その穴からじわりじわりと海水が入ってきて、靴下がびしょびしょになってしまい、靴のなかは海水臭くなってしまった。なんてドジなんだろうと思いながら千畳敷の岩盤の上から遠く日本海を眺めていました。
 この岩盤は、1792年(寛政4年)に地震で隆起したと伝えられている。藩政時代は殿様専用の避暑地で、庶民は近づけなかったという。

またその岩盤のところどころが丸く窪んで海水を湛え、あたかもお酒をなみなみと注いだ大盃みたいな形なので、これを盃沼と称するのだそうだけれど、直径一尺から二尺くらいのたくさんの大穴をことごとく盃と見たてるなど、よっぽどの大酒飲みが名附けたものに違いない。
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 たしかに海水をなみなみと注いだような丸い窪みがある箇所があった。これをお酒をなみなみと注いだ大盃と見るのは、太宰の言うとおりよほどの大酒飲みである。それにしても、とても綺麗な丸い窪みだ。ほんとうに自然にできたのかと思って見入ってしまった。

 大宴会の開かれたとされる千畳敷であるが、太宰からすると、この辺から、津軽ではないと言っている。
外ヶ浜北端の海浜のような異様な物凄さは無く、謂わば全国至るところにある普通の「風景」になってしまっていて、津軽独得の詰屈とでもいうような他国の者にとって特に難解の雰囲気は無い。つまり、ひらけているのである。人に眼に、舐められて、明るく馴れてしまっているのである…(中略)…私などただ旅の風来坊の無責任な直感だけで言うのだが、やはり、この辺から、何だか、津軽ではないような気がするのである。津軽の不幸は宿命は、ここには無い。あの、津軽特有の「要領の悪さ」は、もはやこの辺には無い。山水を眺めただけでも、わかるような気がするのである。すべて、充分に聡明である。所謂、文化的である。ばかな傲慢な心は持っていない。

 津軽特有の『要領の悪さ』というのが、何だか分かるような分からないような。風土の違いを太宰は敏感に感じ取り指摘している。津軽出身の人からすると、太宰のこの見解をどう思うのだろうか。

 この後、靴の中がびっしょりの状態で再び列車に乗り込み、深浦へ向かいました。


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by dazaiosamuh | 2017-09-09 20:32 | 太宰治 | Comments(0)
『津軽』の『五 西海岸』の木造からの続きになります。
 コモヒの町・木造で父の生家でMさん(松木尚三郎)から思わぬもてなしを受け、なおも引きとめられるのを汗を流して辞去した太宰は、どうにか深浦行きの汽車に乗り込みます。
木造から、五能線に依って約三十分くらいで鳴沢、鯵ヶ沢を過ぎ、その辺で津軽平野もおしまいになって、それから列車は日本海岸に沿うて走り、右に海を眺め左にすぐ出羽丘陵北端の余波の山々を見ながら一時間ほど経つと、右の窓に大戸瀬の奇勝が展開する。』(津軽)
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 事前に景色のよい日本海側の席を確保していたのだが、私の隣と通路を挟んで反対側の2席には、鹿児島から旅行で来た家族3人連れが座っていました。私の隣に座っていた年配のおじさんが話しかけてきて、せっかく景色を1人で静かに楽しもうと思っていたのに、と最初は煩わしく感じたが、その家族3人連れの人達と会話が弾み、私が太宰治ゆかりの地を巡っている話などをし、次に停車する千畳敷は太宰治の作品『津軽』にも登場し、文学碑もあることを教えると、せっかくなら降りて写真を撮ろうかということになりました。五能線を走るリゾートしらかみは千畳敷駅で、たしか約10分ほど停車し、観光客に千畳敷海岸へ降りて楽しんでもらうというサービスがあるのでした。
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 駅を降りて、道路を挟んですぐに海岸へ降りる入口に、太宰治の文学碑があります。碑には『津軽』の『五 西海岸』から千畳敷について書かれた部分が抜粋されています。
 この文学碑の前で、隣りに座った家族と記念に写真を撮りました。とてもよい思い出になりました。こういうのも、太宰のおかげで巡り合えた出会いだと1人で勝手に太宰に感謝してます。ありがとう太宰。
 文学碑の背後には、太宰が書いた千畳敷海岸が広がっています。次回書きます。


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by dazaiosamuh | 2017-09-02 12:09 | 太宰治 | Comments(0)
 つい先日、山梨県甲府市を歩いた。その日、山梨県立文学館へ行ったのだが、そこで津島佑子の展覧会が行われることを知った。

 津島佑子(本名・津島里子 1947年~2016年)は、太宰治(津島修治)の次女で、去年の2月に亡くなっている。太宰治のことは知っていても、次女のことは知らない人は多いかもしれない。しかも父と同じく作家なのだ。
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 津島佑子の業績をたどる初の展覧会とのことだ。私は太宰のことばかり調べて、実は、次女のことはあまり知らない。津島佑子の本は何冊も買っているのに、未だに読んでいない。展覧会は9月23日~11月23日までの2カ月間だ。これを機に作品を読み、太宰の次女・津島佑子の人と文学を知り、展覧会へ行き、さらにその世界に浸ろうと思います。


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by dazaiosamuh | 2017-08-31 09:15 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)