遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 ついこの前、友人から、太宰治が表紙を飾った本があると教えられた。タイトルは『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら

 何だろう、なぜか興味がそそられる。タイトルからして下らなそうなのだが、読んでみたい。しかも表紙は太宰治である。私は友人から教えられた、その日のうちに本屋へ走り躊躇うことなくレジへ向かった。

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 表紙の太宰治を見ると、誰もが見たことのある有名漫画家の絵柄のように見える。そう、ただそう見えるだけなのだ。太宰のすぐ横に小さな文字で、『※もし手塚治虫が太宰治を描いたら…を田中圭一が描いたら』と記載されていた。紛らわしくややこしい、が面白い。

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 早速、太宰治のページを開く。『焼きそば失格

 タイトルは、そう来るだろうなと思ってました。読んでみると、この本の作者はどこまで太宰治の本を読んだのかは分からないが、ポイントをしっかり押さえて太宰治らしい文体となっている。第二の手記の『私に湯切りをする資格があるのでしょうか。』で吹き出しそうになりました。そして第三の手記は、

カップ焼きそば。

 よい湯切りをしたあとで一杯のカップ焼きそばを啜る。

 麺から立ち上る湯気が顔に当たって

 あったかいのさ。

 どうにか、なる。』となっている。

 これは太宰治の処女短編集『晩年』を読んだ人ならすぐ分かるはず。『葉』のパロディである。

 太宰治の『葉』は、

生活。

 よい仕事をしたあとで一杯のお茶をすする

 お茶のあぶくに

 きれいな私の顔が

 いくつもいくつも

 うつっているのさ

 どうにか、なる。

 わずか2ページだけであるが、よくまあこんなお題で書いたものだと感心しました。

 他にもコナン・ドイル『湯切りの研究』、ドストエフスキー『カラマーゾフの湯切り』、松尾芭蕉『麺の細道』、三島由紀夫『仮面の焼きそば』、谷崎潤一郎『痴人の焼きぞば』、川端康成『伊豆の焼きそば』、中原中也『汚れちまった焼きそばに』、芥川龍之介『羅蕎麦門』、夏目漱石『焼蕎麦っちゃん』など、多くの作家、有名人を使って書かれている。実にくだらない、しかし、面白い!! 普段こういった本はあまり読まないが、小説ばかりではなく、たまには気晴らしに何も考えずに読むのもいいかもしれない。



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by dazaiosamuh | 2017-07-18 21:29 | 太宰治 | Comments(2)
 先月、太宰治の誕生日である6月19日に金木へ行き生誕祭に参加し、その後斜陽館で歌留多大会に出場したが、斜陽館に新たなグッズが増えていたことに気が付いた。
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 太宰治の有名作品『人間失格』のクリアファイルとノートがあった。1年前に訪れたときはなかったような気がする。
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 こちらはクリアファイルで、本の表紙をそのままモチーフにしたデザインだ。会社でこんなクリアファイルを使っていたら周りはどう思うだろうか…。
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 こちらはノート。思わず自分の悪い部分、人間失格な部分を書き連ねたくなる。やはり出だしは、『恥の多い生涯を送ってきました』で書き始めようか。
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 ノートを開くと、下の余白に薄っすらと『恥の多い生涯を送ってきました』とすでに書かれている。しかも全ページ。これも会社で使うのは控えようかな。
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『人間失格』だけでなく『津軽』のクリアファイルもありました。『津軽』なら何の抵抗もなく外で使えそうです。裏側もしっかり本と同じようにプリントされています。

『人間失格』と『津軽』の2つだけのようですが、そのうちどんどん増えるかもしれません。『櫻桃』『斜陽』もあったらカッコいいかも。
 今後も楽しみです。


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by dazaiosamuh | 2017-07-11 11:21 | 太宰治 | Comments(2)

 金木町を歩いていると太宰治に関したプレートなどが至る所に設置されているのが目に付く。その中で、かつて金木町に競馬場があったことを示すプレートを発見した。

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金木の競馬場

 大正五年、金木町芦野の地に西洋式の芦野競馬場が開設されました。旧暦六月一日、二日になると、金木名物の競馬が芦野競馬場で開かれました。当日は県知事も来町し、開会式はラッパ吹奏で始まり、花火もドンドンと打ち上げられました。見物の子ども達は花火の音に大はしゃぎし、いよいよ競馬が近くなると、町内の商店では万国旗がはりめぐらされました。一般見物人が集まる高台からは、四キロもあったと思われる円形の走路が全部見えるようになっていました。


 県知事も来町し盛大な花火に子供たちははしゃぎ出す。如何に金木町で大きな行事であったかが文章から伺える。そして※印で小さく、『競馬場創設者は金木の津島源右衛門、中里の古川正孝、西郡の鳴海周次郎などがいました。金木オートキャンプ場の一角には、特別功労者の石碑が建っています。芦野競馬場の門は現在でも金木町内に残されています。(金木今昔物語)参考』とありましたので、探してみることにしました。

 近隣の人などに場所を尋ね、見つけました。太宰治の生家・斜陽館とは反対側の線路を越えたほうにありました。

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 プレートに書いてあったとおり、門だけが残されていました。なぜ未だに門だけが残されているのかは不明です。太宰の父・源右衛門も競馬場創設に力を貸したということで、源右衛門本人も年に1回の競馬を大いに楽しんだことだろう。

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 門を通り抜けると、ただの住宅と空地が拡がっているだけだ。門が無ければかつてここに4キロに及ぶ円形走路の競馬場があったことなど全く分からない。今は辛うじて残っているが、空き地に住宅などが建てられたりなどしたら、この門も姿を消すかもしれない。

 競馬場が創設された大正5年(1916年)は太宰が8歳の時。太宰も家族、もしくは同級生たちと馬が疾駆する姿と大きな花火の音に大はしゃぎしたはず。

 この芦野競馬場は地方競馬規則公布後の1928年から青森県産馬畜産組合連合会による地方競馬開催が始まったが、1937年を最後に休催し、1939年の軍馬資源保護法が公布されたのに伴い廃止された。芦野競馬場が廃止された1939年は太宰が31歳の時で、1930年(昭和5年)には東京へ出て来ているから、その間、何回ぐらい芦野競馬を見た事があったのだろうか。

 ちなみに芦野競馬場が創設された大正5年8月に、父・源右衛門は勲四等瑞宝章を受け、村を挙げての叙勲祝いがなされた。翌年2月頃に太宰の子守であったタケが叔母キエの家の女中となり太宰の生家を去っている。地位、名誉共に村からもてはやされる父・源右衛門とは対照的に、大好きであったタケを失った太宰は寂しい思いであったであろう。



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by dazaiosamuh | 2017-07-05 11:17 | Comments(0)

斜陽館に太宰治像が

 
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 先月、太宰治の生誕祭で金木を訪れた際、斜陽館で是非とも見たいものがあった。太宰治の銅像だ。銅像と言っても、芦野公園にあるような大きさではなく、片手で持てるほどの大きさの太宰治像だ。
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 館内の2階へ行く途中の踊り場に、太宰治はいた。遠くからだとはっきりと顔をみることができない。
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 製作者は芦野公園の太宰治の銅像を造った中村晋也氏です。高さ約50㎝。
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 何やら少し気難しく考え込んでいるような…そうでもないような…。
 ポーズが太宰っぽい。太宰っぽいと言ったら失礼か。しかし、こんなことを言っては失礼だが、芥川龍之介にも見えるのは私だけだろうか。太宰治は芥川龍之介を敬愛していて、学生時代に芥川のポーズを真似た写真がいくつもあるので、芥川に似ていると言っても、太宰は怒りはしないだろうと思う。
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 真正面から顔を拝見。何か考え事をしているような。これからは毎日、自分の生まれ育った生家でのんびりできて良いですね。
 銅像ではなく、太宰治に忠実に似たフィギュアが販売されることをいつも期待しているのですが、その日は来るのだろうか。


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by dazaiosamuh | 2017-07-01 20:42 | 太宰治 | Comments(2)
日曜毎に友人たちが遊びに来るのだ。私たちは、もう、みよの事を忘れたようにしていた。私は友人たちと必ずピクニックにでかけた。海岸のひらたい岩の上で、肉鍋をこさえ、葡萄酒をのんだ。弟は声もよくて多くのあたらしい歌を知っていたから、私たちはそれらを弟に教えてもらって、声をそろえて歌った。遊びつかれてその岩の上で眠って、眼がさめると潮が満ちて陸つづきだった筈のその岩が、いつか離れ島になっているので、私たちはまだ夢から醒めないでいるような気がするのである』(思い出)
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 太宰と友人たちが肉鍋、葡萄酒に歌を歌って気持ちよく寝た岩の上というのは、裸島のことだと思われる。裸島は高さ33mの巨岩で、本当かただの伝説なのか、『むかし、裸島の頂上にオオワシにさらわれた我が子を助けるため、素手で岩を登ろうと必死に岩肌を引っ搔いた母親の血で染まったため、今の形になった』と言われているらしい。なんともおっかないエピソードである。結局我が子を救うことはできたのかは定かではない。
 太宰は浅虫温泉に対して『津軽』で、『この浅虫の海は清冽で悪くは無いが、しかし、旅館は、必ずしもよいとは言えない。』とし、『寒々した東北の漁村の趣は、それは当然の事で、決してとがむべきではないが、それでいて、井の中の蛙が大海を知らないみたいな小さい妙な高慢を感じて閉口したのは私だけであろうか。自分の故郷の温泉であるから、思い切って悪口を言うのであるが、田舎のくせに、どこか、すれているような、妙な不安が感ぜられてならない。私は最近、この温泉地に泊った事はないけれども、宿賃が、おやと思うほど高くなかったら幸いである。これは明らかに私の言いすぎで、私は最近に於いてここに宿泊した事は無く、ただ汽車の窓からこの温泉町の家々を眺め、そうして貧しい芸術家の小さい勘でものを言っているだけで、他には何の根拠も無いのであるから、私は自分のこの直覚を読者におしつけたくないのである。むしろ読者は、私の直覚など信じないほうがいいかも知れない。浅虫も、いまは、つつましい保養の町として出発し直しているに違いないと思われる。
 ただ、青森市の血気さかんな粋客たちが、或る時期に於いて、この寒々した温泉地を奇怪に高ぶらせ、宿の女将をして、熱海、湯河原の宿もまたまさにかくの如きかと、茅屋にいて浅墓の幻影に酔わせた事があるのではあるまいかという疑惑がちらと脳裡をかすめて、旅のひねくれた貧乏文士は、最近たびたび、この思い出の温泉地を汽車で通過しながら、敢えて下車しなかったというだけの話なのである』と書いている。
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 私は浅虫温泉を訪れて、『小さな妙な高慢』は別段感じず、『田舎のくせに、どこか、すれているような』印象も受けなかった。太宰が訪れた当時とはだいぶ町の雰囲気も違うかもしれないが、太宰はあえて自分の故郷の悪口を言いつつも、実際にそこを訪れた読者に「なんだ、とても良いところじゃないか」と言わせたいのかもしれない。貶されるまえに自分で貶すところがあるように思う。
『遊びつかれてその岩の上で眠って、眼が覚めると潮が満ちて陸つづきだった筈のその岩が、いつか離れ島になっているので、私たちはまだ夢から醒めないでいるような気がするのである』とロマンチックに描かれているが、『浅虫のかずかずの思い出は、鮮やかであると同時に、その思い出のことごとくが必ずしも愉快とは言えない…』と述べている。
 故郷に対する複雑な思いがあるのだろう。

 だらだらと続いてしまったが、太宰治と浅虫温泉の記事は終了になります。


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by dazaiosamuh | 2017-06-26 22:28 | 太宰治 | Comments(0)
 浅虫温泉の記事がまだだらだらと終わってませんが、今月6月19日の太宰治生誕祭に参加するために青森へ2泊3日で旅行に行っていたので、先に生誕祭を書こうと思います。
 
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 今年で生誕108年を迎えますが、今回は地元から小学校、中学校、高校と多くの学生、ファン・関係者を含めて500人以上が参加した。最近ではアニメ「文豪ストレイドッグス」の影響により10代、20代の若い世代からもファンが急増している。そういえば確かに若い人たちの姿(自分も含めて)がちらほら目に付いた。
 太宰治の長女・津島園子さんは現在76歳、足腰を悪くしており式典では座っての挨拶であった。「太宰文学を次の世代へ繋げていってほしい、太宰文学を忘れないでほしい」などと語っていた。
 
 生誕祭に限らず、様々な太宰治のイベントに若い人を呼び込む理由は、一番はやはり太宰文学の魅力を少しでも多くの人に知ってほしいということだが、もう1つの大きな理由は、『太宰治の魅力、太宰文学の魅力を伝える人がどんどんいなくなってきている』ことが、最も大きな理由だと私は思いました。現在太宰治に実際にお会いしたことのある人物はほとんど残っておらず、しかも去年は次女・津島佑子さんが亡くなっている。昔からの太宰治研究家や関係者もどんどん高齢化している現在、私たち若い世代がそれを引き継いで伝えていかなくてはならないと、今回の式典で園子さんの話や周りの関係者を見ていて改めて実感した。
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 地元の小学校、中学校、高校から4人の生徒が読書感想文の朗読を行った。『走れメロス』『浦島太郎』などの感想を披露していた。
 太宰治の銅像への献花は参加者全員が行うことができ、順番に銅像の前へ行き、晴々とした笑顔でお辞儀する人、じっと見つめ心の中で語る人、目を潤ませる人など、それぞれが思い思いに献花していた。太宰もきっと喜んでいることだろう。

 そういえば、去年お会いした「あきた太宰会」の方々ともまた再会することができた。こういったイベントに参加していけば、知り合いもどんどん増える。ファン同士の輪が広がっていくのだ。
 太宰治が好きな方は是非、一度は生誕祭に参加してみてはいかがだろう。

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by dazaiosamuh | 2017-06-21 15:00 | 太宰治 | Comments(0)
 今日は6月13日。太宰治と山崎富栄の命日だ。朝から生憎の雨であったが、8時頃に止んだのを機に三鷹へ向かった。途中、吉祥寺で降りて井の頭公園をのんびり散策してから向かおうと思っていたが、また雨が降り出してきて煩わしく、ほとんど立ち止まることなく歩を進めたのだが、突然住宅地に入り込んでしまい、なんだか嫌な予感がした。私にとって住宅地は迷路同然である。迷った。案の定迷ってしまった。普通の人からしたら、そんなのスマホで地図を見ればいいじゃないかと思うかもしれないが、私はスマホを持っておらず、しかもメールと電話以外使わない主義なのであった。方向音痴で地図を見るのが苦手なのでスマホで地図を見てもたぶん迷うと思われる。どうにか迷路を抜け出し、禅林寺に辿り着いたときには吉祥寺駅から1時間以上も掛かっていた。我ながら間抜けで、よくまあ1時間も歩いたものだ。
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 久しぶりのご対面です。挨拶をしゴールデンバットをそーっと置きます。年々太宰治のファンは増えていると聞くが、命日にも関わらず、誰もいなかった。せっかくなので太宰と一緒に私もバットを吸おうとしたら、ライターを忘れたことに気がつき苦笑した。普段吸わないのでバットは準備してもライターは失念してしまった。まあ太宰が吸ってくれるならそれでいいか。せっかく誰もいないので太宰ともう少しおしゃべりしていこうとしたら、後から太宰ファンの若い女性が来た。もう少ししゃべりたかったが、ここはやはり同じファンとして太宰と二人っきりにしてあげたほうが女性も太宰も喜ぶだろうと思い、その場を離れました。

 死後70年近くが経ってもなお女性を惹きつけて止まない太宰はさすがである。寂しがり屋の太宰であるからきっと喜んでいることであろう。

 三鷹から今度は有楽町線の通る江戸川橋駅へ向かいました。途中でさくらんぼを買い求め、山崎富栄の眠る永泉寺へ。
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 ここもまた誰もいませんでした。平日でしかも雨降りなので、そのせいかもしれません。太宰治の眠る墓所は知っていても、共に心中した山崎富栄の墓所を知らない人は意外に多いのではないでしょうか。ふと思ったが、太宰を好きな女性ファンからすると、山崎富栄はどう映るのでしょうか。嫉妬を感じるのか、共感し涙するのか、最後まで介抱してあげたその姿勢に敬意を表するのか。
 毎年さくらんぼで飽きるかもしれないが、太宰と一緒に食べて喜んでもらえたらと思います。来年から気の利いたものを持っていこうと思います。



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by dazaiosamuh | 2017-06-13 17:42 | 太宰治 | Comments(0)

 浅虫温泉において太宰治と母、姉が宿泊した宿は『鶴の湯』であったのか『椿館』であったのか、はっきりとは分からなかった。『太宰治と青森のまち』の中に書かれている方々の証言の通りだと、『鶴の湯』ということになる。はたしてどちらだったのか。

 浅虫温泉を歩くにあたって、浅虫温泉駅前の案内板を隅から隅までじーっと見ていると、見覚えのある名前を発見した。『小舘善四郎宅』と書かれていた。

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 駅内の観光案内所でもらった地図と見比べると、ほとんど案内板と同じなのだが、貰った地図には小舘善四郎の自宅は印されていなかった。どうやら駅前の案内板にしか載っていないようだ。『鶴の湯』『椿館』もちゃんと記されており距離も遠くないので方向音痴の私でも迷うことはなかった。

 小舘善四郎は1914年(大正3年)11月29日、青森市で生れ、レモンをモチーフにした静物画を多く描き、「レモンの画家」と呼ばれた青森県出身の洋画家である。小舘は旧制青森中学校を卒業して上京し、帝国美術学校(武蔵野美術大学)に入学、牧野虎雄に師事した。1936年(昭和11年)11月、学校側の都合により帝国美術学校を繰上で卒業し、同年から1943年(昭和18年)まで母校青森中の図画科教師として勤めた。928年(昭和3年)6月、同郷の作家・太宰治の四姉・きやうが小館の長兄・貞一に嫁いだため、小館善四郎は太宰治の義弟となった。1936年(昭和11年)10月、自殺を図って篠原外科病院に入院した小舘を小山初代は何度もお見舞いに病院を訪れ、ある日、小舘と初代は過ちを犯してしまう。若気の至りであった。お互いに秘密にするよう約束したのだが、1937年(昭和12年)3月、小舘は太宰に初代との過ちを告白してしまった。その理由は、前年11月29日消印の「一嚙の歯には、一嚙の歯を。」という一節を含む太宰からの葉書を読み、初代が秘密を夫・太宰に告白してしまったと思い込んでしまい、昭和12年3月、帝国美術学校に卒業作品を提出するために上京した際、荻窪にある碧雲荘を訪ね、手洗いで二人で用を足しているときに、初代との関係を告白した。太宰はこのとき平静を装っていたが、内心はかなり動揺したことだろう。この後、太宰は初代に厳しく追及し、告白させた。これが原因で太宰と初代は水上へ行き心中未遂をし、その後、離別に到る。

 初代と小舘であるが、2人の結婚することを勧める者もあったが、小館にも初代にもその気は全くなく、小舘善四郎は1943年(昭和18年)6月、初代が小舘に言った、「早くいい人を見つけて結婚しなさい」という言葉通りに木村幸枝と結婚した。

 小舘は2003年(平成14年)10月8日に88歳で亡くなっている。代表作に「赤衣少女」「檸檬とれもんの絵」などがある。

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 この道沿いに小舘善四郎宅がある。表札にしっかり「小舘」と書かれていました。しかし、玄関前の雪に靴跡があったが、人が住んでいる気配があまりないように感じられた。誰か親族が住んでいるのだろうか。

 太宰は小舘のことを可愛がっており、初代に対して過ちを追求したが、小舘に対しては怒り、憎しみはなく、許してあげる気持ちでいっぱいだったようです。小舘善四郎は平成10年、津島美知子の一周忌に、太宰治夫妻の墓所である禅林寺へ初めて手を合わせに行っている。小舘善四郎についてはあまり詳しくは調べていないが、平成10年に初ということは、太宰治没後50年の月日が経っている。初代との過ちを後悔し、それが原因で太宰と初代が別れてしまったのだという罪の意識などが少なからずあったのだろうか、後ろめたさなどから墓所を訪ねることが憚られたのかもしれない。

 浅虫温泉の記事は次回で終了になります。



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by dazaiosamuh | 2017-06-10 17:54 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治と浅虫温泉の記事の続きになります。
『つるの湯』では宿主に太宰治が家族と泊まったと聞いたがと尋ねると、『はあ、そのように聞いています』と曖昧ではっきりとした返事を聞く事ができなかった。ならば私がこの日宿泊する予定で、HPに太宰治が投宿したと記載している『椿館』はどうなのか、私は『つるの湯』を出たあと浅虫温泉の町をぶらぶらとまた散策し、『椿館』へ向かいました。
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 立派な正面口ですね。さっそく館内へ入ると、スタッフが暖かく迎えてくれ、仲居さんに案内されながら部屋へ向かいます。その途中で私はすかさず「ここに太宰治が泊まったとHPにありましたが」と訊くと、「はい…、何回か…。それよりも棟方志功が泊まったことで有名です。」と太宰の話は逸らされてしまった。もしくは棟方志功をお客様により深く知ってもらいたく言ったことなのかもしれない。事実、ここは棟方志功が何度も泊まったことで有名なのであった。

『椿館』は伝承では400余年の歴史があると言われている老舗の旅館で、椿の根本より温泉が湧き出した事が名前の由来となっている。
 青森県出身で世界的に有名な版画家・棟方志功は、郷土をこよなく愛する人であった。そんな志功は創作の場を『椿館』に選んだ。昭和16年頃から毎年夏には家族で『椿館』に逗留し、多くの作品を残している。
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 旅館入口に入ってすぐのラウンジに棟方志功の展示品がある。
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 他に通路にも棟方志功の作品が多く展示されており、美術館などとはまた展示されているものが違うため非常に貴重で、見るものを飽きさせない。
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 夕食は地元名産の具材を使った郷土料理を堪能。あまりの美味さに少食の私でさえぺろっと平らげる。

 夕食前に風呂に入ったが、寝る前にもう一度風呂に入り、部屋へ戻る途中に今度はフロントでスタッフに「太宰治がここに泊ったと聞きましたが」と再度尋ねると、仲居さんとは違って堂々と「はい、泊まっています。作品『思い出』に書かれています。まず太宰のお姉さんと母親が来て、そのあとに太宰治がこちらに来ました」との返答であった。

 結局よく分からなかった。堂々とHPに載せているぐらいだから太宰治は本当に『椿館』に泊ったのかもしれない。しかし、書籍等には一切『椿館』は登場しない。出てくるのは『鶴の湯』である。どう結論を出せばいいのだろうか。いやもしかしたら『椿館』と『鶴の湯』の両方に宿泊したことがあるのかもしれない。そういうことにしておこうか。

 何だかもやもやしてしまったが、 『椿館』はおもてなしも良く、料理も絶品で、温泉も非常に気持ちが良かった。太宰治は抜きにして、泊まって良かったと思える旅館であった。


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by dazaiosamuh | 2017-06-04 20:50 | 太宰治 | Comments(0)
 
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 碧雲荘は当時、1階が母屋で2階がアパートとして使用されていた。写真の左の玄関が母屋用で、右がアパート用の玄関であった。ここを訪れた際、興奮して当時から使用されている扉や梁などをベタベタさわったりしたが、太宰治と小山初代は主に2階のアパートの一室を使っていたので、母家の方へはあまり来ることはなかったのではと思います。
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 こちらはアパート用の玄関です。太宰治も当然ながら、小山初代や太宰の友人、知人も使った。私がこの玄関で一番目を引いたのは、写真中央上にあるステンドグラスであった。
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 このステンドグラスは私の中である印象が残っていた。昨年の6月頃、碧雲荘の解体が終了し更地となった碧雲荘の跡地を空虚な気持ちで眺め、その後いつも荻窪へ来るたびに寄っていた軽食屋へ行くと、マスターがある雑誌を渡してきた。
 それは朝日新聞出版の6月19日号の週刊朝日であった。マスターが碧雲荘が載ってるよと教えてくれて、中を見ると、少しだけであるが碧雲荘の内部の写真がカラーで載っていた。玄関のステンドグラスが掲載されていたのである。移築を知ったときは、衝撃を受け、日本民家再生協会や碧雲荘の持ち主に直接、中の見学を交渉したが断られてしまったこともあり、碧雲荘の中を写真を撮れなくてもいいから拝見させてもらいたかったと、羨む目でじーっといつまでもこの写真を眺めた記憶がある。そのためにやけに印象に残っていたので、この度、お目に掛かることができて感無量であったのだ。太宰治は100%このステンドグラスを見ているのである。何といっても玄関なのだ、嫌でも目にする。太宰だけではない、太宰の友人知人もみな見ているのだ。楽しかった日も悲しかった日も、晴れの日も雨の日も風の日も。ステンドグラスもまた、太宰治を覚えているのである。

 訪れた方には、是非、このステンドグラスもじっくり見てほしい。


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by dazaiosamuh | 2017-05-12 12:03 | 太宰治 | Comments(2)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)