遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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甲府市のすぐ近くに、湯村という温泉部落があって、そこのお湯が皮膚病に特効を有する由を聞いたので、家内をして毎日、湯村へ通わせることにした。』(美少女)

 太宰が書いた短編『美少女』の舞台となったとされる旅館明治は、湯村温泉旅館協同組合館から徒歩で僅か1,2分先にある。太宰が甲府の湯村温泉郷を始めて訪れたのは昭和14年6月頃だったとされている。この時、旅館明治も初めて訪れたとされる。更に昭和17年2月、旅館明治に滞在して『正義と微笑』を執筆。翌年昭和18年3月には、再び湯村の旅館明治に滞在し、『右大臣実朝』を執筆している。
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『太宰治の宿 明治』とある。こういうのを見ると、太宰ゆかりの地に来たなあ、という実感が更に湧く。
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 旅館の中へ入ると、協同組合館・ゆかりの人物資料室の等身大の太宰治と同じポーズの太宰治がお出迎えしてくれる。
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 すぐ横には太宰治資料室がある。甲府での太宰治に関する資料が多く展示されている。太宰治次女・故津島佑子が旅館明治を訪れた際の記念の直筆サインが飾られていた。日付は1994年2月。大雪の日に訪れたようだ。
 この資料室で、太宰の甲府市でのゆかりの地について、太宰が訪れた場所の住所などもボードに記載されていたり、ガイドブックやパンフレットなどから、多くの情報を得ることができた。
 受付で貰った旅館明治について記載された3つ折りのパンフレットには、当時太宰が旅館明治で執筆した部屋の写真が載っており、『太宰は向って左主屋の一番二番の両室を占拠(?)して執筆していました。現在の「双葉」の間がその室にあたります。今はまわりに建物が出来たために見通しが悪くなってしまいましたが、当時は三方が開けていて、もっとも眺望の良い室でした。執筆は明るい二番の室で行い、床の間のある一番で寝起きしていました。太宰は朝寝坊だったらしいのですが、朝起きると必ず袴を着けて室に居たといいますから説通りかなりハイカラだったわけです。
 当館の者は最初は小説家とは知らず、係の者に聞くと何か書き物をしているとうのでかなり後になってわかったのです。
 たまには散歩に出ましたが訪問者もなく、殆ど一日中部屋に閉じこもって執筆していました。

 訪問者もなく、とあるが昭和17年2月に『正義と微笑』を執筆していた頃、弟子の堤重久が甲府を訪れ、さらに太宰の借りている旅館明治の部屋にまで訪れている。
甲府に着いた。まだ動いてる車窓から、改札口の向側に突立って、漠然とこちらを眺めている、のっぽの太宰さんが見えた。カーキ色の国民服が、幅を利かせてきた時節であったが、太宰さんはまだ、下駄履きの和服姿であった…(中略)…「『正義と微笑』順調のようですね。」「うん、なんていうのかなあ、すらすら、すらすらかけるんだね。そろそろ、おれも、脂ののる年頃になった感じだね」…(中略)…今度はバスに乗って、湯村の旅館にいった。十二、三日前から、太宰さんが仕事をしている宿屋で、湧湯があるとのことだった。二階の、太宰さんが借りている、正面の座敷に入って坐ると、手摺越しに、甲斐の山波が見えた。遠い山は薄蒼く、近い山は濃淡の緑を見せて、三方を取囲んでいた。』(堤重久著 『太宰治との七年間』)

 太宰が旅館明治に宿泊していたことを知る、貴重な証言です。太宰は二部屋を借りていたとのことですが、旅館のパンフレットには『当時の宿泊料金は一泊二円、昼食席料は一円でしたが、太宰は二円五十銭で泊り、帰りには現金で払ったのですから、生活が苦しかったとはいえ、一般の人よりは贅沢ではなかったかと思われます。』とある。二部屋を2円50銭で借りたのか、それとも一部屋につき2円50銭で借りたのか、どちらだったのでしょう。どちらにしても、普通の人よりはやはり贅沢だったようです。

 太宰がこの旅館で執筆した作品は『正義と微笑』『右大臣実朝』の2作品になります。

 次回も旅館明治について書きます。




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by dazaiosamuh | 2018-01-11 17:07 | 太宰治 | Comments(0)
『Easy割烹 峠の茶屋』は現在は無く、残念であった。移転するとのことなので、新しくできたらまた訪ねてみようと思います。
 次に私は、ちょっと距離があるが湯村温泉郷へ向かいました。湯村温泉郷は、地図でみると近そうにみえるが、実際レンタサイクルでもなかなかの距離でした。太宰治の聖地巡りを始めてから、かれこれ5年目となるが、未だに地図上と実際の距離間がよく分からず、苦手です。昔から方向音痴なのです。

 湯村温泉郷には太宰治が実際に逗留し、執筆活動をした『旅館明治』があります。そして付近には湯村温泉旅館協同組合があるため、何か情報や甲府の太宰ゆかりの地図などが手に入るのではと思い、最初に来てみたのでした。
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 湯村温泉旅館協同組合がありましたが、横に太宰治の人物画が…。なんて分かりやすいんだ。
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 ゆかりの人物資料室と書いてあり、さっそく中を拝見させてもらう。
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 資料室は、協同組合の受付の方へも繋がっており、6畳ほどのスペースで、壁に太宰に関する資料が掲載されている。写真には写っていないが、棚があり、太宰だけでなく山梨に関する情報が掲載されたガイドブックなどが陳列されていた。
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 等身大と思われる太宰治がいた。パンフレットには、『湯村温泉郷の、ゆかりの人物資料室で、新婚時代の若き太宰治と、記念撮影をしてみませんか?』と記載されているが、この等身大(実際より少し低いような気が…)の太宰は、1947年(昭和22年)に三鷹で撮影されたもので、心中して果てる僅か1年前の写真で、年齢的にはたしかにこの時は38歳頃で若いが、『新婚時代の若き太宰治』ではない。パンフレットの裏面には太宰の甲府でのゆかりの地が載っているので参考になる。資料室内では、太宰のゆかりの地などが書かれたガイドブック(35p~40p程の冊子 200円)も購入できる。一応全部買っておこうと思ってスタッフに頼んだら、1種類だけ売り切れていて手に入らなかった。もしかしたら観光案内所で手に入るかもしれないというので、仕方がないので、後で観光案内所で手に入れるか、図書館でコピーを取ることにし、資料室を出て、先に『旅館明治』へと向かいました。



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by dazaiosamuh | 2018-01-07 13:02 | 太宰治 | Comments(0)
 今月、『なぞり書きで楽しむ太宰治』というムック本が発売された。これはタイトルにある通り、太宰の小説をなぞり書きする書き込み式の本で、よくあるボールペン字練習帳や筆ペン字練習帳のようなものだ。普段は太宰の小説を読むだけで、書きながら太宰文学の世界を楽しむとは、思いつかなかった。
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 収録されている作品は、『走れメロス』『富嶽百景』『人間失格』『女生徒』『ヴィヨンの妻』『斜陽』『満願』『お伽草子』『グッド・バイ』の9作品。しかし、それぞれ部分的に抜粋されており、この本だけでは太宰治の作品を読んだことがない人には理解できない。
 私のような太宰好きで、字の下手な人間には、太宰文学を味わいながらしかも自然に字が上手くなり、一石二鳥だ。
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 さらに、万年筆を持つと、気分はすっかり太宰治だ。なんだか本当に太宰治になった気になる。(万年筆はインクが出なかったため、この後、ボールペンでなぞり書きしました。)
 せっかく着物もあるので、真似て書いてみようかな。
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 それにしても、なぜ私は2冊も買ってしまったのだろう。つい勢いで買ってしまった。1冊1100円(税抜)、2冊で…。結構高い…。まあ太宰の世界に浸れて、しかも字が上手くなるなら安いか。


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by dazaiosamuh | 2017-12-27 10:14 | 太宰治 | Comments(0)
 2019年に太宰治生誕110年を迎えるが、それに伴い、太宰治名作『斜陽』が映画化するとのこと。2019年秋に公開予定。
『斜陽』の映画といえば、2010年にすでに映画化されているが…、あれは非常に残念な映画となっていた。携帯電話が登場したシーンでは、観るのも嫌になった記憶があります。
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 果たして、2019年に公開される『斜陽』は、太宰治生誕110年にふさわしい作品に出来上がるのか、非常に楽しみだ。すでに失敗例があるわけだから、同じ過ちは、まずないはず。

『人間失格』はすでに映画化されているので、ほかには、太宰の作品の中でも人気の『津軽』も個人的に映画化してもらいたい。まずは2019年の『斜陽』を楽しみに過ごそうと思う。

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by dazaiosamuh | 2017-12-04 20:31 | 太宰治 | Comments(0)
 知っている人は知っていると思うが、先月、新潮社の関係者宅から太宰治『斜陽』や島崎藤村の小説原稿、石川啄木や菊池寛の手紙など約30点が見つかった。
 太宰治の有名作品『斜陽』は、それまで6枚の所在が不明であったが、そのうちの4枚が今回発見された。『斜陽』は『新潮』で1947年7月号から10月号まで掲載され、今回発見された直筆原稿は、9月号と10月号の冒頭の2枚ずつであった。発見された冒頭原稿は、乱れのない几帳面な字で書かれていたと新聞記事に書かれていた。太田静子から借りた日記をもとに太宰独自の脚色を加え、大事に作品を造り上げたことがうかがえる。残る原稿は2枚。貴重な冒頭の原稿が発見されて何よりだが、残り2枚はたしてどこにあるのだろうか。無事にすべて揃えばいいのだが。
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 資料の一部は、先月新潮社から発売された「『文豪とアルケミスト』文学全集」に掲載されているとのことだ。

 この『斜陽』の直筆原稿が発見されたことは先月のうちに知っていたのだが、この新聞の切り抜きを私の両親がわざわざ実家から送ってきてくれたので、せっかくなので記事に載せることにしました。

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by dazaiosamuh | 2017-11-15 20:36 | 太宰治 | Comments(2)
 深浦の秋田屋旅館に泊まった翌日の昭和20年7月31日、太宰一家は駅の発車時間まで間があったので、海での団欒を楽しんだ。その時のことが『回想の太宰治』に書かれている。
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翌日は、晴天で、窓をあけてみると空地に網や漁具が干してあって、漁港に泊ったことを実感した。宿に頼んでワカメを土産用に買って駅に向かった。…(中略)…夕方までに金木へ着けばよいので、のんびりした気持で駅で発車の時間をたしかめてから、足はしぜんに海べに向かった。
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朝の海は凪いでいて大小様々の岩が点在し、磯遊びには絶好であった。四つの長女はまだ海を見たことがない。一家で子供中心の行楽の旅に出たこともなかったから、私たちははしゃいで、しばらく海べでのまどいを楽しんだ。
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 太宰一家が訪れた当時は、広く大きな砂浜が広がっていたが、今はないようだ。せっかくの楽しい一家団欒のひとときであったのに、太宰はこれを題材に金木で「海」というコントを書いている。それに対しての不満を、妻・美知子が書いている。
海を指して教えても川と海の区別ができない子、居眠りしながら子の言葉にうなずく母
 
 海というと私に浮ぶのは、あの深浦の楽しかった家庭団欒のひとときである。「浦島さんの海だよ、ほら小さいお魚が泳いでいるよ」とはしゃいだのはだれだろう。太宰自信ではないか。なぜ家庭団欒を書いてはいいけないのか…私は「海」を読んでやり切れない気持であった。

 せっかく家族で楽しい時間を過ごしたのに、それとは正反対のことを書かれた妻からすれば当然不満であることはたしかである。しかも一番はしゃいでいたのは太宰である。がしかし、これが作家というものなのだろう。太宰も妻子と海辺で楽しい時間を過ごしたことは間違いないのだから、大目に見てほしい。

 深浦の記事はこれで最後になります。


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by dazaiosamuh | 2017-11-01 10:18 | 太宰治 | Comments(2)
 太宰は料亭二葉で一人さみしくお酒を飲み、ふたたび秋田屋旅館へ帰ってきた。そして、翌日、朝食を食べていたら主人がお銚子を持ってきて、あなたは津島さんでしょう、と言った。宿帳には筆名の太宰を書いていたはずなのだが、
そうでしょう。どうも似ていると思った。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになったからわかりませんでしたが、どうも、あんまりよく似ているので」
「でも、あれは、偽名でもなのです」
「ええ、ええ、それも存じて居ります、お名前を変えて小説を書いている弟さんがあるという事は聞いていました。どうも、ゆうべは失礼しました。さあ、お酒を、めし上れ。この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒の肴にはいいものです」
 私はごはんをすまして、それから、塩辛を肴にしてその一本をごちそうになった。塩辛は、おいしいものだった。実に、いいものだった。

 鮑のはらわたの塩辛とは美味しそうですね。私はイカの塩辛くらいしか食べたことがありません。あとになって知ったのですが、鮑のはらわたの塩辛は、円覚寺前にあるお店で買えるそうです。私はたしか円覚寺前にあるお店で蕎麦を食べたのですが、鮑のはらわたの塩辛があるとは気づきませんでした。腹が減っていたため、蕎麦にしか目がいきませんでした。味見してみたかったです。
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 太宰は秋田屋旅館にきたとき、『津軽へやってきて以来、人にごちそうにばかりなっていたが、きょうは一つ、自力で、うんとお酒を飲んで見ようかしら…』と意気込んでいたが、『こうして、津軽の端まで来ても、やっぱり兄たちの力の余波のおかげをこうむっている。結局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して、珍味もひとしお腹綿にしみるものがあった。要するに、私がこの津軽領の南端の港で得たものは、自分の兄たちの勢力の範囲を知ったという事だけで、私は、ぼんやりまた汽車に乗った。』と、ただただ津島家の力を思い知るのであった。

 その翌年の昭和20年7月30日には一家で深浦の秋田屋旅館に泊まっている。一夜で焦土と化した甲府から逃れて、金木へ向かう途中に、深浦へ寄ったのだ。その理由については、『太宰の深浦泊りの目的が何にあるのかが察しがつくので仕方なく同意して…』と妻の津島美知子が『回想の太宰治』で書いている。
 到着したときはすでに夜で、懸命に太宰は戸をたたき、やっと二階へ上がらせてもらえたのだが、『前年の「津軽」の旅のとき、主人から特別のもてなしを受け、やまげんの勢力がここまで及んでいることを感じたことを太宰は記しているが、その主人は現れない筈、長患いの床に就いているとのことであった。』とあり、17、18歳の娘さんが給仕してくれたのだが、『手もとが僅かに見えるほどの暗い部屋で、とうてい、お銚子をと言い出すことが出来なくて、あてにして来た太宰が気の毒であった。甲府で罹災して以後も毎夜焼跡で飲んできていたが、甲府出発以来アルコールが全く切れていた。これではなんのためにまわり道して、深浦に泊ったのかわからない。』とある。そう、太宰は酒が飲みたくて、わざわざ妻子を連れまわして深浦へ来たのだ。『津軽』の深浦の場面で、『子供は百日咳をやっているのである。そうして、その母は、二番目の子供を近く生むのである。たまらない気持がして私は行きあたりばったりの宿屋へ這入り…』とあんなに妻子を心配していたのに、アルコールが切れると酒優先になってしまうのは、酒飲みのなんとも悲しい性だと思います。

 太宰が泊まった秋田屋旅館(現・ふかうら文学館)ですが、実は太宰は、秋田屋旅館の経営者が、兄・英治の友人(島川貞一)であることを事前に知っていたのではないか、という説もありますが、分かりません。

 深浦の記事はもう一度だけ書きます。


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by dazaiosamuh | 2017-10-26 10:07 | 太宰治 | Comments(0)
 秋田屋旅館にてすぐにお膳が運ばれてきたことに救われた太宰であったが、どうやらお酒はもうないとのことであった。そこで太宰はお膳を持ってきた若い娘さんに、他にお酒を飲める場所はないかと尋ね、ございますという返事に安堵し、その料亭へそそくさと足を運ぶのであった。

ほっとして、その飲ませる家はどこだ、と聞いて、その家を教わり、行って見ると、意外に小奇麗な料亭であった。二階の十畳くらいの、海の見える部屋に案内され、津軽塗の食卓に向かって大あぐらをかき、酒、酒、と言った。
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 写真の建物付近に当時太宰が行った料亭がありました。太宰が行った料亭というのは料亭二葉のことで、現在は風待ち館という観光協会の建物と駐車場になっている。

お酒だけ、すぐに持って来た。これも有難かった。たいてい料理で手間取って、客をぽつんと待たせるものだが、四十年配の前歯の欠けたおばさんが、お銚子だけ持ってすぐに来た。私は、そのおばさんから深浦の伝説か何か聞こうかと思った。
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 お酒もすぐに出て、そのおばさんに名所などを尋ねる太宰であったが、突如、『ぶってり太った若い女』が現われて、変に気障な洒落などを飛ばし、太宰は頗る不快な思いで我慢がならず、『私は、いやで仕様が無かったので、男子すべからく率直たるべしと思い、「君、お願いだから下へ行ってくれないか」と言った。私は読者に忠告する。男子は料理屋へ行って率直な言い方をしてはいけない。私は、ひどいめに逢った。その若い女中が、ふくれて立ち上がると、おばさんも一緒に立ち上がり、二人ともいなくなってしまった。ひとりが部屋から追い出されたのに、もうひとりが黙って坐っているなどは、朋輩の仁義からいっても義理が悪くて出来ないものらしい。私はその広い部屋でひとりでお酒を飲み、深浦港の燈台の灯を眺め、さらに大いに旅愁を深めたばかりで宿へ帰った。

 料亭二葉での話は本当なのか『津軽』を面白くする上での創作なのかは分からない。『君、お願いだから下へ行ってくれないか』
 これは誰でも不機嫌になってしょうがないであろう。ひどいめに逢ったのはお互い様である。
 
 深浦町の記事は次回で最後になります。



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by dazaiosamuh | 2017-10-20 10:41 | 太宰治 | Comments(2)
駅からまっすぐに一本路をとおって、町のはずれに。円覚寺の仁王門がある。この寺の薬師堂は、国宝に指定せられているという。
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 太宰が書いているとおり、駅からまっすぐにひたすら歩いていくと、円覚寺の大きな仁王門が見えてくる。途中、お腹が空いたので仁王門のすぐ目の前のお店に入り、蕎麦を食べて腹ごしらえをし、改めて仁王門へと向かうと、門に掛けてある幕には、『開山1150年 33年ごと ご本尊開帳記念大法要平成30年 7月17日~31日』とある。33年ごとにご本尊の開帳が行われているらしい。これを逃すと、次は2051年まで待たなくてはならない。

 この春光山円覚寺は、県内でも屈指の古刹で、大同二年(西暦807年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が建立したと伝えられている。
 円覚寺のHPによると、『円覚寺の古来から澗口観音として信仰を集めた祈願寺で、嵐の中を無事に生還した船乗りのチョンマゲが多数奉納されている』とのことだ。信仰の厚い、由緒あるお寺ですね。
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 しかし、円覚寺を訪れた太宰は、『私は、それにおまいりして、もうこれで、この深浦から引上げようかと思った。完成されている町は、また旅人に、わびしい感じを与えるものだ。私は海浜に降りて、岩に腰をかけ、どうしようかと大いに迷った。まだ日は高い。東京の草屋の子供の事など、ふと思った。なるべく思い出さないようにしているのだが、心の空虚の隙をねらって、ひょいと子供の面影が胸に飛び込む。』と、東京にいる子供のことを思い出し、なんだか寂しい気持になるのであった。

 太宰が訪れたこの円覚寺は上記に書いたとおり、来年7月に御開帳となる。33年ごとだ。太宰が訪ねた地ということもあり、是非とも見ておきたい。逃すと次の御開帳の頃には私は還暦を過ぎてしまう…。その頃には、いったい自分はどういう人間になっているのだろうか。


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by dazaiosamuh | 2017-09-29 15:18 | 太宰治 | Comments(2)
深浦町は、現在人口五千人くらい、旧津軽領西海岸の港である。江戸時代、青森、鯵ヶ沢、十三などと共に四浦の町奉行の置かれたところで、津軽藩の最も重要な港の一つであった。
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 太宰が訪れた当時は人口約5千人ほどであったが、少し深浦の人口について調べて見ると、1955年(昭和30年7月29日)大戸瀬村と合併し、1970年には人口が1万8千人を超えた。しかし、過疎化や少子高齢化が進み、1980年は1万5千人、1990年には1万3千人と減少し、2005年(平成17年3月31日)には西津軽郡岩崎村と合併するも人口は1万人であった。2015年には8千4百人まで減少している。少子高齢化、過疎化は日本に於いての深刻な問題である。

丘間に一小湾をなし、水深く波穏やか、吾妻浜の奇巌、弁天嶋、行合岬など一とおり海岸の名勝がそろっている。しずかな町だ。漁師の家の庭には、大きい立派な潜水服が、さかさにつるされて干されている。何かあきらめた、底落ちつきに落ちついている感じがする。
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 弁天島。この付近一帯は、日本の渚百選、日本の夕陽百選に認定されているとのこと。浜辺から夕陽を眺めたら、さぞ美しかっただろう、あいにく滞在時間があまりなかったので、夕陽はおろか弁天島へ行く時間も無かった。またあとでじっくり訪れたい。

 次回は、円覚寺を書きます



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by dazaiosamuh | 2017-09-24 18:29 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)