遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 父の生れた家を見たくて松木家を訪ねた太宰であったが、そこで思わぬ嬉しい発見をする。それは…、
この家の間取りは、金木の家の間取りとたいへん似ている。金木のいまの家は、私の父が金木へ養子に来て間もなく自身の設計で大改築したものだという話を聞いているが、何の事は無い、父は金木へ来て自分の木造の生家と同じ間取りに作り直しただけのことなのだ。』(津軽)
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 写真の郵便局の周辺がM家(松木家)のあった場所。太宰の実家である斜陽館がここにあったと想像すれば分かりやすいと思います。その間取りであるが、松木家は、『床の間付きの二十四畳間、回り廊下に面した書院付きの十五畳間、常居、小間、台所、通り土間、薬倉、文庫蔵……。間口三十六間、奥行き二十七間といわれた大きな屋敷だったという。
 津島家の住宅は、父源右衛門が明治四十年六月に新築した。構造においては松木家を、外観は五所川原の佐々木嘉太郎家をそれぞれ模している。一階は十一室二七八坪。四部屋をブチ抜くと六三畳の大広間になる。二階は和洋折衷で八室一一六坪からなる。文庫蔵、中の蔵、米蔵三棟、泉水を配した庭園と前庭を合わせて宅地六八〇坪余の建物である。』(郷土文化誌 いしがみ)
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 太宰は自分の生家の間取りと同じことに気付き、『私には養子の父の心理が何かわかるような気がして、微笑ましかった』とし、『そう思って見ると、お庭の木石の配置なども、どこやら似ている。私はそんなつまらぬ一事を発見しただけでも、死んだ父の「人間」に触れたような気がして、このMさんのお家へ立寄った甲斐があったと思った。』と素直に語っている。太宰にとって木造に来て一番の収穫は、父の生れた家を訪ね、『死んだ父の「人間」に触れ』ることができたことであった。『津軽』の文中で私の好きな場面でもあります。
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 太宰とこの時一緒に酒を飲んだ松木尚三郎の三男の松木宏泰は、『若いころ、金木の津島家に行った折、飯を炊く大釜を見て、木造の家にあるものより大きいのに驚いたことがある。源右衛門は、恐らく木造の生家にまけない家をと婿養子に入った時から思っていたに違いない。その私の育った家は、昭和三十三年に解体してしまい、一部が残っているのみである。」と「太宰と父の家」に記している。
 また、尚三郎が逝去した後、妻・ムツが1人で住んでいたが、平成11年11月27日に亡くなり、その後は現在の通り廃墟となっている。

 太宰の父・源右衛門(本名・松木永三郎)は婿養子として津島家に迎えられたのだが、『明治二十一年の春、津島家から婿見の一行がやってきた時、十八歳の永三郎は屋敷の裏の小川のそばで下駄を作っていたそうだ。この健気さが津島家の印象を良くしたと言われている。もっとも、長兄絶対権力の中でおんじカスという境遇からなんとしても這いあがろうと、利発な永三郎が計算づくで下駄づくりの芝居を演じたとの話もある。』と尚三郎の三男・宏泰が語った話が記されている。
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 松木家のあった場所のすぐ裏手にはたしかに小川が流れている。婿養子に何としても迎えてもらうため、熱心に下駄づくりを演じた(と思われる)姿が微笑ましく想像される。『津軽』にはこの話は出てこないが、太宰は尚三郎から聞いたのだろうか、もし聞いていれば、なお父に対する親近感が増し、父への想いも変わったことだろう。

 余談になるが、この木造の記事で引用した『郷土文化誌 いしがみ』は、廃墟となった『まつきや』のすぐ目の前の道路を挟んだ向かい側にある喫茶店で女性店主から偶然いただくことができた。おかげで記事を書くにあたって非常に役立てることができました。感謝しています。

 木造編はこれで終わりになります。


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# by dazaiosamuh | 2017-08-23 17:41 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)