遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 井伏宅を見た後、私は太宰が妻・初代と生活した碧雲荘へと向かった。碧雲荘での生活は昭和11年11月15日から始まった。
 碧雲荘のまえは、船橋時代や武蔵野病院での一ヶ月入院など苦しい生活であったが、無事に退院。初代と井伏夫人が探しておいてくれた、白山神社裏手の光明院裏の照山荘アパートに移るが、太宰の気に入らず、11月13日、初代と井伏夫人とが貸間さがしに行き、11月14日、「天沼に八畳の貸間」を見つける。
 そして、11月15日に荷物も運び移り住んだ。碧雲荘は天沼衛生病院裏手の大工さんが経営していた。太宰たちは二階であった。

 檀一雄は碧雲荘を訪れた時のことを、『小説 太宰治』に記している。
『太宰が、モヒ中毒除去の為に、例の格子のある病人に監禁されたのは、何時の事であったか、私は全然関知しなかった。又、太宰が船橋をたたんで、再び荻窪に舞い戻ったのも知らなかった。私は昭和十一年の八月から、十月の末迄、満州旅行を試みて居り、多分、この間の出来ごとであったに相違ない。
 帰郷してみると、太宰は、荻窪の碧雲荘に移っていた。碧雲荘と書くと、堂々たるアパートに聞こえるが、実は全く和室の二階八畳の、間借りだった。ただ、階上に炊事場が一部屋あって、間借りでも随時、炊事出来るという状況である。』

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 上の写真が現在の碧雲荘である。周りの住宅とは打って変わって、昭和の雰囲気が漂っている。ここに太宰と初代が共に生活し、太宰はここで『人間失格』の原型である『HUMAN LOST』を執筆している。死ぬ直前に書かれた『人間失格』の元となった作品を書いた貴重な場所が今でも残っているというのは、訪れた私を非常に興奮させた。
 11月末には、熱海温泉に赴き、「二十世紀旗手」の改稿に着手。翌年の1月には「音について」を発表、2月には3月1日付発行の「若草」三月号に「あさましきもの」を発表するなど、病気の快復と共に執筆にも少しずつ力が入ってきた。が、ここでまた太宰にショックな出来事が起きる。
 小舘善四郎が、太宰の妻・初代と過ちを犯してしまったことを太宰本人に打ち明けたのだ。太宰は平静を装うが内心は強い衝撃を受けた。そして、初代を追及し過失を告白させた。
 3月中旬、太宰と初代は谷川岳の山麓でカルモチンによる心中自殺を図るも未遂に終わる。
 その後、太宰は碧雲荘に戻り、初代は井伏家を訪れ滞在(叔父である吉沢家に滞在したという説もある)、別居生活となった。
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 4月1日付発行の「新潮」4月号に『HUMAN LOST』を発表。8日、三姉あいが、「十歳を頭に四人の幼い子供たちを遺して」逝去した。
 6月に入り、初代との別離が決定し、21日、杉並区天沼一丁目二百十三番地鎌滝富方に単身移転した。初代は、碧雲荘での諸道具などを整理し、家財具等を実母方に発送。7月10日、家郷から送られてきた三十円を貰って、7月中旬に青森に帰った。

 碧雲荘での生活も太宰にとって、後味の悪い過去となってしまった(太宰も娼婦と散々遊んでいたみたいだが、それはいいのかな)。小舘善四郎が初代との過ちを太宰に打ち明けたことには経緯があったが、ここでは省略させてもらいました。後ほど書くつもりです。
 それにしても、太宰が住んだアパートがまだ残っているとは驚きでした。荻窪ではかなり貴重な建物ではないでしょうか。私が訪れたときは、どうやら誰も住んでいないようでしたので、建物自体も古いですし、もしかしたら近いうち取壊されるかもしれませんね。
 ですので、太宰に興味のある方は今のうちです。


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# by dazaiosamuh | 2014-06-01 18:57 | 太宰治 | Comments(2)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)