遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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『私は書き上げた作品を、大きい紙袋に三つ四つと貯蔵した。次第に作品の数も殖えて来た。私は、その紙袋に毛筆で、「晩年」と書いた。その一聯の遺書の、銘題のつもりであった。もう、これで、おしまいだという意味なのである。』(東京八景より)

 太宰治の初の処女創作集『晩年』は、昭和11年6月25日付で砂子屋書房から刊行された。この『晩年』の出版の背景には、太宰のこれだけでも世に残したいという強い思いと、檀一雄や井伏鱒二たちによる、太宰を死なせたくないという思いから実現した事情があった。太宰は、銀座のカフェの女給・田辺あつみとの心中により自分だけが生き残ったという罪悪感、非合法運動、生家からの義絶、新聞社試験の失敗による自殺未遂事件など、精神的に追い詰められていた。さらには、盲腸炎から腹膜炎を併発し麻薬性鎮痛剤パビナールを打ち続けるが、麻薬中毒に陥ってしまいます。そんな時、1935年(昭和10年)、憧れの作家・芥川龍之介の賞、芥川賞が創設された。太宰はなんとしても栄えある第一回の受賞者になり、栄誉を手に入れたかったことと、苦しい生活から挽回するためにも賞金が欲しかったのだ。
 しかし、同年8月10日、芥川賞の発表があったが、受賞したのは石川達三の「蒼氓」だった。失意の中、9月には授業料未納で東京帝国大学を除籍にされた。
 こうしたこともあり、心配した周囲は創作集『晩年』を刊行すべく動くのである。特に、檀一雄は出版社に掛け合ったり、刊行にあたっての打合せなど、尽瘁した。
 そして、1936年(昭和11年)、第一創作集『晩年』が刊行されたのだ。
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『晩年』の出版記念会は昭和11年の7月11日に上野精養軒で開かれた。会費は2円50銭。参加者は、亀井勝一郎、檀一雄、平岡敏男、今官一、尾崎一雄、浅見淵、中村貞次郎、丹羽文雄、山岸外史、小舘善四郎、井伏鱒二、佐藤春夫など友人知己37名のそうそうたる面々で行われた。この時の司会は檀一雄が担当した。亀井勝一郎「太宰治の思い出」によると、太宰の服装は、黄色い麻の着物をきて、仙台平の袴を穿いていたそうである。
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 上野精養軒は、明治9年に上野公園開設に伴い、不忍池畔の現在の位置に建てられました。JR上野駅から徒歩6,7分の場所にあります。私は以前、友人Sさんに案内されて一緒にここに来たことがあるが、外観や店内などの写真を撮るために、また一人でやってきたのだ。お店に入ると、平日で夕方だったこともあり殆ど空席だった。                                                                                                    しかし、ベランダを見ると嫌な予感がした。Sさんと来た時は、ベランダで食事をしたのだが、今日はデーブルがベランダにないのである。私は、Sさんおすすめのハヤシライスを注文する時に、女性店員に「写真を撮りたいのですが、ベランダには出さ せてもらえないですか」と聞いてみた。女性店員は「申し訳ございませんが、この時期はベランダは開けないようになっています。」と事務的に答えた。
 せっかく来た私は諦めきれず、ハヤシライスを持ってきた男性店員にも同じことを聞いたが、答えは一緒であった。だが、それでもめげずに「実は、ここに太宰治が昔来たことがあると聞いてきたのです。それが目的でここに来たのですが、写真を少し撮るだけでいいのでベランダに出させてもらえないでしょうか」と言った。すると男性店員は「分かりました。今回だけ特別ですよ」と言ってベランダの鍵を開けてくれたのだ。私は嬉しくて何度も感謝の言葉を述べた。
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 ベランダから庭の景色を撮った後、店内も撮っていいですかと聞くと、「ほかのお客様が写らなければ構いません」と快く言ってくれた。さらに、「太宰治がここに来た話などはご存知ないでしょうか」と聞くと、「来たことは知っていますが、詳しい話まではちょっと…」と、太宰についての話は聞くことができなかった。
 その後、テーブルでゆっくりハヤシライスを堪能した。
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 太宰治は、『もの思う葦』の中の『「晩年」に就いて』、『「晩年」は、私の最初の小説集なのです。もう、これが、私の唯一の遺著になるだろうと思いましたから、題も、「晩年」として置いたのです。読んで面白い小説も、二、三ありますから、おひまの折に読んでみて下さい。私の小説を、読んだところで、あなたの生活が、ちっとも楽になりません。ちっとも偉くなりません。なんにもなりません。だから、私は、あまり、おすすめできません。』

 「おひまの折に読んでみて下さい。」と書いているのに、「あまり、おすすめできません。」と書いている所が、なんとも太宰らしい一文。『晩年』は初版は五百部ぐらいで、全部売れたとしても、殆ど儲けはなかったそうだ。この時期は「二・二六事件」などがあり世相は暗かったが、太宰は、「もう死んでも思い残すことはありません」と、出版を非常に喜んだという。
 芥川賞については、『晩年』が周りから推薦されていて、候補に上がっていることなどから、太宰は今度こそは賞を取れると信じていた。しかし、第2回は該当者なし、続く第3回も受賞が叶うことはなかった。
 その後、パビナール中毒により苦しい生活が続くことになる。

 上野精養軒を出て、目の前の駐車場を通り道路に出ると、店のドアマンが走ってきて、「すみません、お客様、あちらに車をとめたままにしないでください!」と黒い乗用車を指さしながら言ってきた。私は、「はい?私の車ではありません」と答えると、「すみません、失礼しました」と言って引き返して行った。なんて失礼なドアマンだと思いつつも、車を運転する男に見られたことに少しうれしく思った。
 
 私は卒業検定以来、一度も車を運転していない。この時の出来事で、ちょっと運転してみたい気持ちがちらと動いた。


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# by dazaiosamuh | 2014-02-04 01:01 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)