遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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木造の町は、一本道の両側に家が立ち並んでいるだけだ。そうして、家々の背後には、見事に打返された水田が展開している。水田のところどころにポプラの並木が立っている。
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『津軽』で太宰が書いている通り、木造駅に降り立つと、目の前に一本の道があるだけだ。そうしてやはり、両側には住宅などの建物が並んでいる。しかし、太宰が訪れた当時はどうだったのか分からないが、随分と廃れた印象を受けた。明らかに人が住まなくなった家々が目に付いた。
 さて、肝心のポプラ並木はどれかと思い周りを見渡すが、ポプラの木を意識して見た事など今までに一度もないので、どれなのかいまいちよく分からず、周辺をうろうろしてしまった。実際は駅を降りて、道路左側の方を見て歩くとすぐに発見できる(私がポプラの木をよく知らなっただけです)。近くで見るには、私有地に入らなければいけなかったため、農作業をしていた年配の男性所有者に許可を得て土地に入り、写真を撮りました。
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 ポプラの木の写真を撮らせてもらってもいいですかと尋ねると、「植物の調査か何かですか?」と訊かれたので、正直に、太宰治の小説『津軽』に、木造にポプラの木が見事に並んでいる描写があることを話し、それを見たくてきたのだと答えたら、ああ、それでですか!、と太宰治『津軽』の木造に於ける場面を知っているような反応で納得してくれました。その男性が、「ポプラの木は、もともと畑や水田を守るため、暴風・防雪のために植えられたんですよ」と教えてくれました。しかし、近年は老木となり、本数も、数えれるほどに減ってきている。

こんど津軽へ来て、私は、ここではじめてポプラを見た。他でもたくさん見たに違いないのであるが、木造のポプラほど、あざやかに記憶に残ってはいない。薄みどり色のポプラの若葉が可憐に微風にそよいでいた。

 微風に可憐にそよぐポプラの若葉があざやかに記憶に残るほど太宰の心をとらえたほどであったから、当時は、さぞかし沢山のポプラの木が並んでいたのであろう。違う角度からポプラの木を眺めてみたいと思い、周辺を遠回りして裏手側に回ってみたところ、堂々たる津軽富士が目に飛び込んできた。
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ここから見た津軽富士も、金木から見た姿と少しも違わず、華奢で頗る美人である。このように山容が美しく見えるところからは、お米と美人が産出するという伝説があるとか。この地方は、お米はたしかに豊富らしいが、もう一方の、美人の件は、どうであろう。これも、金木地方と同様にちょっと心細いのではあるまいか。その件に関してだけは、あの伝説は、むしろ逆じゃないかとさえ私には疑われた。岩木山の美しく見える土地には、いや、もう言うまい。こんな話は、えてして差しさわりの多いものだから、ただ町を一巡しただけの、ひやかしの旅人のにわかに断定を下すべき筋合いのものではないかも知れない。

 とても天気がよく、風も心地が良かった。晴々とした気持ちになる。『華奢で頗る美人』な津軽富士に見つめられ、なんだか照れ臭いような思いでもあった。
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 見づらいが、ポプラ並木と津軽富士。青空の下、すーっと裾を伸ばす津軽富士と心地よい微風にそよぐポプラの木は、なかなか格別な風景であった。今まで見た津軽富士のなかでも、私は木造から見た津軽富士が一番好きかもしれません。

 さて、太宰が書いている美人の件であるが、町中を、美人はいないかときょろきょろしながら歩くが、まず通行人がほとんどいない。なので感想を述べることができないのが残念である。せいぜい犬の散歩をしている中年の女性か90歳近い老婆ぐらいしか見かけなかった。米は当然美味いであろう。言うまでも無い。

 ちなみに木造のポプラの木は明治13年ごろより植林された。太宰の父・源右衛門(本名・松木栄三郎)は明治4年生まれ。栄三郎が8歳頃にポプラの木が木造に植林されたことになる。『津軽』には書いてはいないが、太宰もきっと、「父もこのポプラの木を見たのだろうな」としみじみ思ったのではないでしょうか。


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by dazaiosamuh | 2017-07-28 21:18 | 太宰治 | Comments(0)
 先月の太宰治生誕祭で青森へ行った際、ついでに太宰が訪れた西海岸を歩いたので、今回から太宰治名作『津軽』の中にある『五 西海岸』を、のんびり書いていこうと思います。

前にも幾度となく述べて来たが、私は津軽に生れ、津軽に育ちながら、今日まで、ほとんど津軽の土地を知っていなかった。津軽の日本海方面の西海岸には、それこそ小学校二、三年の頃の「高山行き」以外、いちども行った事がない。…(中略)…この機会に、津軽の西海岸を廻ってみようという計画も前から私にあったのである。鹿の子川溜池へ遊びに行ったその翌日、私は金木を出発して五所川原に着いたのは、午前十一時頃、五所川原駅で五能線に乗りかえ、十分経つか経たぬかのうちに、木造駅に着いた。ここは、まだ津軽平野の内である。私は、この町もちょっと見て置きたいと思っていたのだ。降りて見ると、古びた閑散な町である。人口四千余りで、金木町より少ないようだが、町の歴史は古いらしい。精米所の機会の音が、どっどっと、だるげに聞えて来る。どこかの軒下で、鳩が鳴いている。
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 木造駅に到着すると、まず初めてこの土地を訪れた者を驚かせるのは、この巨大な土偶の駅舎である。当然太宰がいた頃にはない。太宰がこれを見たらどのような反応をするのだろうか。一瞬そのユーモアさに驚きつつも、何と反応したらいいのか閉口するかもしれない。とういのも、私がこの反応だったのである。何と感想を述べたらいいのか分からなかった。
 木造駅は1924年(大正13年)10月21日に開業し、1992年(平成4年)8月3日に現在の駅へと建て直された。この土偶は亀ヶ岡遺跡から発掘された遮光器土偶がモチーフで、地元では「シャコちゃん」と呼ばれ親しまれているらしい。以前は列車の発着に合わせて土偶の目を点滅させる『いらっしゃいビーム』をやっていたらしいが、子供が怖がるなどの理由から点滅『いらっしゃいビーム』は行っていないとのことだ。『いらっしゃいビーム』とか……。センスがあるんだかないんだか。しかし、どんな感じで点滅(ビーム)をするのか、一度見てみたかったです。

ここは、私の父が生れた土地なのである。金木の私の家では代々、女ばかりで、たいてい婿養子を迎えている。父はこの町のMという旧家の三男かであったのを、私の家から迎えられて何代目かの当主になったのである。この父は、私の十四の時に死んだのであるから、私はこの父の「人間」に就いては、ほとんど知らないと言わざるを得ない。…(中略)…父が死んでからは、私は現在の長兄に対して父と同様のおっかなさを感じ、またそれゆえ安心して寄りかかってもいたし、父がいないから淋しいなどと思った事はいちども無かったのである。しかし、だんだんとしを取るにつれて、いったい父は、どんな性格の男だったのだろう、などと無礼な忖度をしてみるようになって、東京の草屋に於ける私の仮寝の夢にも、父があらわれ、実は死んだのでなくて或る政治上の意味で姿をかくしていたのだという事がわかり、思い出の父の面影よりは少し老い疲れていて、私はその姿をひどくなつかしく思ったり、夢の話はつまらないが、とにかく、父に対する関心は最近非常に強くなって来たのは事実である。
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 太宰は『津軽』を書くために自分の故郷である津軽を歩くことにしたのだが、木造においては、父・源右衛門の生まれた土地であるため、西海岸の中でも一番見て置きたい場所であった。太宰が木造町を訪れたのは、昭和19年5月25日頃であった。滞在時間は2時間ほどであった。太宰は父のことを『父はこの町のMという旧家の三男かであった』と書いているが、三男ではなく四男である。太宰治の父・津島源右衛門は、太宰が書いているように婿養子として津島家に迎えられた。本名は、松木栄三郎で、西津軽郡木造村の薬種商松木家八代目七右衛門の四男として、明治4年6月17日に生れた。木造新田の開拓に於いて、従事した家柄には木造の松木家の名も含まれていた。父・源右衛門が死没したのは大正12年3月4日、53歳であった。木造を訪れた時、太宰は数え年36歳で、徐々に父・源右衛門が亡くなった年に近づいてきた年齢であった。太宰は年を重ねるに連れて、今の自分と、父の20代、30代、40代の父を比較してみたかったのかもしれない。30代の頃の父はどうだったのか、はたまた小さい頃の父はどんな子供だったのか。小さい頃、父に対して恐怖心ばかりであったが、大人になり冷静に父に対して考えるようになったとき、次第に父がどんな人間であったのか、興味が湧くようになっていた。

 太宰はこの後、父の生まれ育ったM家を訪ね、父の『人間』に触れる。地味で微笑ましい場面で、私は個人的に『津軽』の中でもなかなか好きな場面である。

 それではのんびり書いていこうと思います。


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by dazaiosamuh | 2017-07-24 14:14 | 太宰治 | Comments(2)

 ついこの前、友人から、太宰治が表紙を飾った本があると教えられた。タイトルは『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら

 何だろう、なぜか興味がそそられる。タイトルからして下らなそうなのだが、読んでみたい。しかも表紙は太宰治である。私は友人から教えられた、その日のうちに本屋へ走り躊躇うことなくレジへ向かった。

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 表紙の太宰治を見ると、誰もが見たことのある有名漫画家の絵柄のように見える。そう、ただそう見えるだけなのだ。太宰のすぐ横に小さな文字で、『※もし手塚治虫が太宰治を描いたら…を田中圭一が描いたら』と記載されていた。紛らわしくややこしい、が面白い。

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 早速、太宰治のページを開く。『焼きそば失格

 タイトルは、そう来るだろうなと思ってました。読んでみると、この本の作者はどこまで太宰治の本を読んだのかは分からないが、ポイントをしっかり押さえて太宰治らしい文体となっている。第二の手記の『私に湯切りをする資格があるのでしょうか。』で吹き出しそうになりました。そして第三の手記は、

カップ焼きそば。

 よい湯切りをしたあとで一杯のカップ焼きそばを啜る。

 麺から立ち上る湯気が顔に当たって

 あったかいのさ。

 どうにか、なる。』となっている。

 これは太宰治の処女短編集『晩年』を読んだ人ならすぐ分かるはず。『葉』のパロディである。

 太宰治の『葉』は、

生活。

 よい仕事をしたあとで一杯のお茶をすする

 お茶のあぶくに

 きれいな私の顔が

 いくつもいくつも

 うつっているのさ

 どうにか、なる。

 わずか2ページだけであるが、よくまあこんなお題で書いたものだと感心しました。

 他にもコナン・ドイル『湯切りの研究』、ドストエフスキー『カラマーゾフの湯切り』、松尾芭蕉『麺の細道』、三島由紀夫『仮面の焼きそば』、谷崎潤一郎『痴人の焼きぞば』、川端康成『伊豆の焼きそば』、中原中也『汚れちまった焼きそばに』、芥川龍之介『羅蕎麦門』、夏目漱石『焼蕎麦っちゃん』など、多くの作家、有名人を使って書かれている。実にくだらない、しかし、面白い!! 普段こういった本はあまり読まないが、小説ばかりではなく、たまには気晴らしに何も考えずに読むのもいいかもしれない。



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by dazaiosamuh | 2017-07-18 21:29 | 太宰治 | Comments(2)
 先月、太宰治の誕生日である6月19日に金木へ行き生誕祭に参加し、その後斜陽館で歌留多大会に出場したが、斜陽館に新たなグッズが増えていたことに気が付いた。
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 太宰治の有名作品『人間失格』のクリアファイルとノートがあった。1年前に訪れたときはなかったような気がする。
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 こちらはクリアファイルで、本の表紙をそのままモチーフにしたデザインだ。会社でこんなクリアファイルを使っていたら周りはどう思うだろうか…。
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 こちらはノート。思わず自分の悪い部分、人間失格な部分を書き連ねたくなる。やはり出だしは、『恥の多い生涯を送ってきました』で書き始めようか。
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 ノートを開くと、下の余白に薄っすらと『恥の多い生涯を送ってきました』とすでに書かれている。しかも全ページ。これも会社で使うのは控えようかな。
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『人間失格』だけでなく『津軽』のクリアファイルもありました。『津軽』なら何の抵抗もなく外で使えそうです。裏側もしっかり本と同じようにプリントされています。

『人間失格』と『津軽』の2つだけのようですが、そのうちどんどん増えるかもしれません。『櫻桃』『斜陽』もあったらカッコいいかも。
 今後も楽しみです。


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by dazaiosamuh | 2017-07-11 11:21 | 太宰治 | Comments(2)

 金木町を歩いていると太宰治に関したプレートなどが至る所に設置されているのが目に付く。その中で、かつて金木町に競馬場があったことを示すプレートを発見した。

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金木の競馬場

 大正五年、金木町芦野の地に西洋式の芦野競馬場が開設されました。旧暦六月一日、二日になると、金木名物の競馬が芦野競馬場で開かれました。当日は県知事も来町し、開会式はラッパ吹奏で始まり、花火もドンドンと打ち上げられました。見物の子ども達は花火の音に大はしゃぎし、いよいよ競馬が近くなると、町内の商店では万国旗がはりめぐらされました。一般見物人が集まる高台からは、四キロもあったと思われる円形の走路が全部見えるようになっていました。


 県知事も来町し盛大な花火に子供たちははしゃぎ出す。如何に金木町で大きな行事であったかが文章から伺える。そして※印で小さく、『競馬場創設者は金木の津島源右衛門、中里の古川正孝、西郡の鳴海周次郎などがいました。金木オートキャンプ場の一角には、特別功労者の石碑が建っています。芦野競馬場の門は現在でも金木町内に残されています。(金木今昔物語)参考』とありましたので、探してみることにしました。

 近隣の人などに場所を尋ね、見つけました。太宰治の生家・斜陽館とは反対側の線路を越えたほうにありました。

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 プレートに書いてあったとおり、門だけが残されていました。なぜ未だに門だけが残されているのかは不明です。太宰の父・源右衛門も競馬場創設に力を貸したということで、源右衛門本人も年に1回の競馬を大いに楽しんだことだろう。

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 門を通り抜けると、ただの住宅と空地が拡がっているだけだ。門が無ければかつてここに4キロに及ぶ円形走路の競馬場があったことなど全く分からない。今は辛うじて残っているが、空き地に住宅などが建てられたりなどしたら、この門も姿を消すかもしれない。

 競馬場が創設された大正5年(1916年)は太宰が8歳の時。太宰も家族、もしくは同級生たちと馬が疾駆する姿と大きな花火の音に大はしゃぎしたはず。

 この芦野競馬場は地方競馬規則公布後の1928年から青森県産馬畜産組合連合会による地方競馬開催が始まったが、1937年を最後に休催し、1939年の軍馬資源保護法が公布されたのに伴い廃止された。芦野競馬場が廃止された1939年は太宰が31歳の時で、1930年(昭和5年)には東京へ出て来ているから、その間、何回ぐらい芦野競馬を見た事があったのだろうか。

 ちなみに芦野競馬場が創設された大正5年8月に、父・源右衛門は勲四等瑞宝章を受け、村を挙げての叙勲祝いがなされた。翌年2月頃に太宰の子守であったタケが叔母キエの家の女中となり太宰の生家を去っている。地位、名誉共に村からもてはやされる父・源右衛門とは対照的に、大好きであったタケを失った太宰は寂しい思いであったであろう。



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by dazaiosamuh | 2017-07-05 11:17 | Comments(0)

斜陽館に太宰治像が

 
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 先月、太宰治の生誕祭で金木を訪れた際、斜陽館で是非とも見たいものがあった。太宰治の銅像だ。銅像と言っても、芦野公園にあるような大きさではなく、片手で持てるほどの大きさの太宰治像だ。
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 館内の2階へ行く途中の踊り場に、太宰治はいた。遠くからだとはっきりと顔をみることができない。
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 製作者は芦野公園の太宰治の銅像を造った中村晋也氏です。高さ約50㎝。
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 何やら少し気難しく考え込んでいるような…そうでもないような…。
 ポーズが太宰っぽい。太宰っぽいと言ったら失礼か。しかし、こんなことを言っては失礼だが、芥川龍之介にも見えるのは私だけだろうか。太宰治は芥川龍之介を敬愛していて、学生時代に芥川のポーズを真似た写真がいくつもあるので、芥川に似ていると言っても、太宰は怒りはしないだろうと思う。
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 真正面から顔を拝見。何か考え事をしているような。これからは毎日、自分の生まれ育った生家でのんびりできて良いですね。
 銅像ではなく、太宰治に忠実に似たフィギュアが販売されることをいつも期待しているのですが、その日は来るのだろうか。


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by dazaiosamuh | 2017-07-01 20:42 | 太宰治 | Comments(2)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)