遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 つい最近、神保町の古書店で『金木郷土史』という本を購入した。昭和15年発行とある。もしかしたら太宰も目を通したことくらいはあるかもしれぬと思い、思い切って買った(1万円近くした)。
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 たしか妻・津島美知子が『回想の太宰治』で太宰が所有していた書籍を書いていたのを思い出して読み返してみた。

文筆業でありながら蔵書を持たず、従って書棚もなかった。仕事に必要な資料を買う場合でも、できるだけ文庫本によったくらいで、小型の軽い本を好んだ。
 座右の本は、すぐ若い方に進呈してしまうので、始終入れ替わっていた。三鷹時代ずっとこの書斎にあったのは、辞典の外には、
「真宗在家勤行集」(彼の生家には、仏間にこの折本が何部も用意されていて、菩提寺の院主様が読経に見えると、集まった家族、縁者一同、その折本を手にして唱和する習わしだった。この経本と津軽塗の硯箱とは、郷里を出るとき持たされたという感じであった。)
「金木郷土史」(昭和十五年、青森県北津軽郡金木町役場発行、寄贈本。)
「文芸懇話会」(昭和十二年五月発行、佐藤春夫編集臨時特集号、近世文芸名家伝記資料として黙阿弥以降五十九名の物故作家の略伝と、肖像写真などを収載している。佐藤先生か井伏先生から頂いた雑誌ではないかと思う。特別、大切に保存していた。)
 以上三部の特殊の出版物くらいのものである。』(回想の太宰治
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 購入した金木郷土史は、昭和15年8月15日発行とあるのでこの郷土史で間違いないと思われる。この本には太宰治の父である津島源右衛門が、元衆議院議員・元貴族院議員として1ページに大きく写真で掲載されている。唯一1人で大きく写真が掲載されているのは、津島源右衛門だけである。さらに郷土史補修の頁には、太宰治について記載されている。
津島修治氏
氏ハ明治四十二年六月ノ出生ニシテ靑中ヨリ弘高ニ進ミ帝國大學佛文科ヲ修ヘ現在東京市杉並區淸水町ニ居住著述業ニ從事ペンネーム太宰治トシテ中央作家タリ

 発行年月日の記載された頁には、非賣品とあり、『回想の太宰治』にもあるように「寄贈本」とあるので、津島源右衛門の息子であるため贈られたもののようです。
『文筆業でありながら蔵書を持たず…』『座右の本は、すぐ若い方に進呈してしまうので、始終入れ替わっていた。』とあるなか、『金木郷土史』は三鷹時代にずっとあったということは、自身の作品の資料としてだけではなく、やはり人間太宰治は故郷を愛していたからに他ならないのではないでしょうか。そして、『人間失格』の中で、恐ろしい存在として描かれた父が郷土史の中で大きく1枚の写真に掲載されていることが、誇らしかったのではないだろうか。

 他にも当時の雲祥寺や金木町役場、金木警察署、金木郵便局、また太宰の通った金木尋常高等小学校の写真も掲載されており、当時を偲ぶことができる。
 もしかしたら太宰は、ときおりこの『金木郷土史』をめくり、故郷・金木に思いを馳せることがあったかもしれない。

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by dazaiosamuh | 2017-01-29 17:56 | 太宰治 | Comments(0)
 資料などを入れるのにクリアファイルはよく使うが、いざ使おうと思った時に、案外に家になくて困るときがある。ファイルは無いよりは、いざというときのためにあまるくらい持っていると便利だ。
 つい最近、色々と調べものをして大量にコピーし、それを適当な場所に山積みにしていたので、そろそろファイルごとに整理しようかと思い、部屋でファイルを探しているとまったく在庫がないことに気が付いた。そして、辛うじて探し出したのが、太宰治のファイルであった。
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 かわいい。非常に可愛い。心が和む。太宰治をキャラクター化したイラストが描かれている。たしか去年の6月に青森で買ったと思うのだが、どこで購入したのか覚えていない。斜陽館の目の前の店だったような気もする。『かなぎ』と文字が書かれているので、やはり斜陽館のすぐ目の前の物産館で購入したファイルのようだ。
 しかし実に可愛く、しかもよく特徴を捉えてキャラクター化されている。使うのがもったい。結局私はこのファイルは使わず保存することに決め、普通のクリアファイルを買いに行きました。

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by dazaiosamuh | 2017-01-22 19:00 | 太宰治 | Comments(0)
 以前、あつみと広島について書いた記事で、あつみが天勝に熱狂的に憧れていたことを書いたが、その天勝とは何者か、少し書いてみようと思います。

 松旭齋天勝(しょうきょくさい てんかつ)は、1886年(明治19年)に、東京都神田松富町で質屋を営んでいた中井栄次郎の長女(5人兄妹)として生れた。本名は、中井かつ子。
 温もりのある家庭で育っていくが、『父の事業の失敗から家運次第に傾き、米屋に転業したのはかつ子が八歳の頃で、そのころから世の中のつらい波は彼女の身辺を浸しはじめていた。』(太宰治 七里ヶ浜心中)
 学校から帰ると中井かつ子は懸命に仕事を手伝った。その仕事に対しての手先の器用さなどが、そのうち周囲に知れ渡り、また驚かせたという。それは『近くに住んでいた日本奇術界の先駆者、松旭齋天一師』をも感嘆させるほどであった。その頃、かつ子の父は米屋も失敗し小さな酒屋を開業したが、傾いていくばかりであった。松旭齋天一がかつ子の器用さを見込んで弟子にしたいと思っていたときでもあり、やむなく父・中井栄次郎は、天一師匠にかつ子を任せることを承諾したのであった。
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 東京都台東区にある光照山・西徳寺。ここに松旭齋天勝こと中井かつ子が眠っている。西徳寺は寛永5年(1628年)に江戸の金助町(東京都文京区本郷付近)に建立されたと伝えられてる。現在の竜泉(現在の台東区)に移ったのは天保3年(1683年)であるというが、それまでに3度も火災で焼け出されているという。それがあり移転したと思われる。
 後、大正12年(1923年)の関東大震災により本堂が全壊した。その後再建に取りかかり、昭和5年(1930年)に鉄筋コンクリート造の寺院を完成させ現在に至っている。
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 正門のすぐ脇に、第17代目中村勘三郎墓所と刻まれた石碑が建っていた。中村勘三郎の墓がここにあることを私はこの時初めて知りました。
 
松旭齋天一の仕込みかたは、厳格を極めた。生来負けず嫌いのかつ子は、氷を割り水を浴びて厳しさに耐える、芸道への精進を続けた。その頃のかつ子は、「泣かずの勝」と異名を取ったほどの気の強い少女だったが、それでも十一、二歳の感じやすい年ごろ、人なき部屋の隅とか暗い手洗いの中で、泣いて泣いて泣きぬいて、涙をふいて笑顔で人前に出て来る彼女であった。
 その後、数度に渡るアメリカ興行も大成功させ、次第に師匠の天一を凌ぐまでになっていった。帰国後、洋装スタイルに加え欧米風なマジックショーを披露し、拍手喝采となった。その頃師匠の天一は病により舞台から身を引くようになった。
 明治44年(1911年)、27歳のときに独立し天勝一座を名乗るようになり、浅草、大阪、京都と活動範囲を広げ、また『高橋内閣のとき、首相官邸にて英国のコンノート殿下来日歓迎会が催された際にも、摂政の宮殿下、皇族重臣の御前公演をおこなうなど、目まぐるしいほど天勝の活動は輝かしいものであった。
 あまりの人気に、それにあやかったニセモノの天勝一座も複数現れたほどであったそうだ。
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 松旭齋天勝(本名・中井かつ子)のお墓です。華々しく活躍した当時とは対照的に、現在はその疲れを取るかのようにひっそりと静かに眠っています。何の面識もない私は、何と声を掛けたらいいのか、何だか照れ臭くあいさつし、「あつみさんを弟子に出来なくて残念でしたね。一座に入っていたらどんな活躍振りを見せてくれたのでしょうね。」と心の中で話かけました。少し残念そうな顔が浮かんで見えました。

天勝一行が再度米し巡業の途にのぼったのは、関東大震災で私財の大半を失った直後の、大正十三年一月のことである。米国ではサンフランシスコ、タコマ、シャトル、カナダに入ってバンクーバー、ビクトリア、また戻ってソートレイク、デトロイト、セントルイス、ミルウォーキイ、シカゴ、ニューヨーク等の各地で公演。海外の大先輩とも堂々の技術を競い、大正十四年二月にアメリカのジャズバンドを率いて帰朝した。これが今日のジャズの基を開くことになったのである。広島の歌舞伎座に出演した頃は、松旭齋天勝一座のまさに全盛時代であった。

 すごいですね。記事を書きながら、田部あつみはこんなすごい人のもとに弟子入りしようとしていたのかと思うと、あつみの度胸に改めて関心しました。二人に共通する、負けず嫌い、気が強い、洋装スタイルを好む点、舞台が好き、などを考えると、あつみが天勝を憧憬の的とするのも無理はないと思ってしまう。
 天勝は1936年に引退し、二代目天勝の名を姪に譲っている。
 余談になるが、女流イリュージョニストである二代目・引田天功(プリンセス・テンコー)は相関図を遡れば「松旭齋一門」である。

後年、父の島吉は、もしあつみの望みを叶えて天勝師匠に任せていたら、あんなこと(津島修治と鎌倉腰越で心中)にはならなかったろうにと、そのことばかりいつまでも悔やんでいたという。

 あつみの父・島吉のこの苦しみを思うと、読んでいてこちらも胸が苦しくなります。本当に残念でなりませんね。

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by dazaiosamuh | 2017-01-20 16:53 | 太宰治 | Comments(0)
 昭和5年、鎌倉で心中する3日前の11月25日、修治(太宰治)は小舘保ら4人とともに銀座に飲みに出掛けた。
太宰の発案で我々五人はそれぞれ正体を隠してくりこむこととなった。それぞれ音楽士、芸人、画家、それに私は医学生、太宰は文士という風に受持ち役割を仕立てた。横なぐりの雨の中を高田馬場から二台のタクシーに分乗した。誰もがお互の役割を確かめあってはしゃいでいた。
 車はしの突く雨の中を走り抜けて、銀座裏通りの「ホリウッド」という看板をかかげたバーの前で停った。車賃は五十銭であった。ホリウッドは十五、六人が座ればいっぱいになるような狭い酒場だった。酒場の暗い照明も手伝って、それぞれが紛した役割を十分に果した。とりわけ文士を名のる太宰は誰もその素性を疑うことはなく、太宰はすこぶるご満悦の体であった。

 エッセイ集『太宰治に出会った日』の中で、小舘保が証言している。さらに、その時ホリウッドで働いていた、田部あつみの印象をこう書いている。
数人いる女給の中で、園(ソノ、本名・田部シメ子、十九才)は一際目立つ存在であった。原節子に似た理知的な顔立ちは東京でも滅多に見ない美しさだった。黒に近い紫色の地に赤と黄色の模様が描かれたワンピースが大柄な身体を一層引き立たせた。広島の出身と自己を紹介したが、言葉には訛りが少しも感じられなかった。
 シメ子は自分の夫の職業は画家であるといい、そして自らも筆をとってカンバスに向かっていると話した。あの当時珍しかったショートカットの断髪は、きっと自己表現の一部であったのかもしれない。

 広島でも一際魅力的であったあつみは、やはり東京でも大抵の男の目を引く女性であったようだ。『当時珍しかったショートカットの断髪は、きっと自己表現の一部であったのかもしれない』とあるが、広島でのあつみのことなどを全く知らずに、前知識なしにそう見解したのなら、かなり目の鋭い人だ。
我々は看板まで大いに騒いだ。最初から最後まで、流行のビールやウィスキーではなく日本酒で通した。園も我々と一緒に店を出て帰途のタクシーに乗った。常盤館へ帰り着くと太宰の姿はなかった。園と二人で本所で降りて、どこかへ消えてしまったという。
 私の脳裏を黒い影がよぎった。今夜の太宰は、今にして考えてみると異常ちも思えるはしゃぎようではなかったか、それでいて決して目は笑っていなかった。私は言いようのない不安に襲われた。
 私が太宰の姿を再び見たのは鎌倉・恵風園のベッドの上であった。命が縮まる思いで小山初代を上京させてからまだ一卜月も経たないというのに……。私は内からわいてくる腹立たしさを覚えながら太宰の寝顔を見つめていた。

 そして前回、前々回に書いた記事が次の日の昭和5年11月26日のことになります。次の日、即ち心中事件前日の27日には、太宰は田部あつみを伴って、築地小劇場で中村貞次郎と逢っており、その夜は、神田区旅籠町一丁目十番地の万世ホテルに泊まった。
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 写真中央の道路を挟んで、左が現在の外神田三丁目、右が外神田一丁目になります。太宰とあつみの泊まった万世ホテル跡(神田区旅籠町一丁目)は、現在の外神田三丁目にあり、なおかつ現在の外神田一丁目よりに位置していた。
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 写真は現在の外神田三丁目。当時この付近が神田区旅籠町一丁目であったと思われる。万世ホテルもこの付近のどこかにあった。
 太宰はその万世ホテルの便箋を使用した初代宛の遺書を残している。
『お前の意地も立った筈だ。自由の身になったのだ。/万事は葛西、平岡に相談せよ。』『遺作集は作らぬこと』と記した実際の遺書が残っており、書籍等で確認できる。

『命が縮まる思いで小山初代を上京させてからまだ一卜月も経たないというのに……。私は内からわいてくる腹立たしさを覚えながら太宰の寝顔を見つめていた。』と小舘保が書いている通り、もし私が小舘保の立場だったら、お前何やってんだ、と腹を立てる筈です。
 この万世ホテルに27日に泊り、翌28日に鎌倉であつみは太宰と共に心中を図り、自分だけが命を落とすことになる。その万世ホテルに泊まり二人で心中することに対ししてどのような話がされたのか、たぶんお互い未遂に終わる段取りであったと勝手に推測するが、互いの身の上を話し、どのぐらい理解し合い、ことに到ったのか。

 中途半端になってしまったが、田部あつみの東京編はここで終わりになります。
 鎌倉での心中の記事は、後でゆっくり書こうと思います。

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by dazaiosamuh | 2017-01-13 20:36 | 太宰治 | Comments(0)
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歌舞伎座を出てから、こんども地下鉄で浅草へ行くことにした。終点で下車して表に出る。陽はまだ高かった。吾妻橋を渡って隅田川の川べりを上流に向かって歩き、人通りのほとんどない提上に腰を下ろした。あつみが言い出しかねている要件は、修治にも充分すぎるほど判っていた筈だ。先に喋りはじめたのは修治のほうだったが、「勘当されてしまった」との一言があつみを驚かせた。暫くは信じられない思いであった。

 現在の吾妻橋。外国人観光客が非常に多く賑わっています。吾妻橋から写真を撮っていると、後ろから声を掛けられ、振り向くと会社の同僚で驚いた記憶があります。以前、神谷バーの記事を書いたときにそのときのことを少し書きました。
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 あつみと太宰がこの日来たのは、昭和5年11月26日。すでにこの時、太宰は小山初代の件で長兄・文治と対談し、初代との結婚を条件に分家除籍されている。分家に伴う財産分与はなく、大学卒業まで仕送りするとのことだけであった。
記録によると、このとき結納の品を持参した人物として、津島市三郎と豊田太左衛門の名前が記載してある。つまり、あつみが新橋で修治と逢った二日前には、すでに青森では結納が滞りなく交わされていたのである。』(太宰治 七里ヶ浜心中)

 この二日後の28日に、太宰とあつみは鎌倉腰越町小動崎の海岸東側東端の畳岩の上で、カルモチンを嚥下し、あつみだけが亡くなることになる。どの時点で二人が心中する話を持ち出したのか、そして動機は、薬はいつ用意したのかなど、なぞが多く残っている。

 次回も25日~27日にかけての行動を載せようと思います。


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by dazaiosamuh | 2017-01-08 12:21 | 太宰治 | Comments(0)
次の日、二日まえに兄を見送ったばかりの新橋駅の西口に、紺に縞柄の和服姿の田部あつみが人待ち顔に立っていた。その前夜、修治と約束した待ち合わせの場所だったのである。』(太宰治 七里ヶ浜心中)
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 現在の新橋駅西口。写真はすべて去年7月に撮ったものです。普段新橋へは来ないのですが、いつもテレビでSLを背景にサラリーマンなどがインタビューされているのが印象的です。
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すこし遅れて現われた修治の顔は蒼白だった。駅前の”大和田„に入ったが、昼食時と重なり店内はかなりの混みかたであった。時間がかかりそうなので注文しないまま出てきてしまった。

 この大和田とはどうやらうなぎ屋さんのようです。その大和田の公式サイトを見ると、『大和田と新橋は昭和2年からのおつき合い』とのこと。太宰と田部あつみが出会ったのは昭和5年なので、すでに大和田はありました。『当時の店舗の場所は現在のSL広場の有楽町側 ”マツモトキヨシ”がある辺り』だったそうだ。 『戦争中の強制疎開により取り壊されて、戦後は現在SL前、LABI新橋デジタル館の正面口のところに移転しました。平成9年5月新橋駅前再開発に協力するため現在の場所に移転
 大和田の前まで来て、お腹も空いていたのでお店に入ろうとしたら、かなり混んでいたので辞めました。鰻重は大好きですが、並んでまで食事をすることに対して億劫がる質なのです。うなぎと言えば、国分寺の太宰ゆかりの若松屋を思い出します。最近訪れていないので新年も迎えたことだしそろそろ行こうと思っています。
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大和田„の裏の鳥森神社の静寂な境内を通り抜けて、老舗”にん仙„のすぐ近くの喫茶店にはいった。席に座っても修治はまだ黙したまま。あつみもなかなか要件を切り出せない。(中略)ふと歌舞伎座へ行ってみたくなって、修治を誘った。兄の武雄が出発の間ぎわまで、観劇したばかりの菊五郎や羽左衛門の話に夢中だったのを、そのとき思い出したからである。

 鳥森神社は現在も場所は変わっていないようです。こちらもホームページから抜粋させてもらう。
平安時代の天慶3年(940年)に、東国で平将門が乱を起こした時、むかで退治で有名な鎮守将軍藤原秀郷(俵藤太)が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐がやってきて白羽の矢を与えた。その矢を持ってすみやかに東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐が現れて、神鳥の群がる所が霊地だと告げた。そこで桜田村の森まできたところ、夢想のごとく烏が群がっていたので、そこに社頭を造営した。それが、烏森稲荷の起こりである。
 鳥森神社は、明治6年までは鳥森稲荷社であったが、以後現在の鳥森神社と社名を改名している。

 訪れたときは静寂どころか賑わっていました。手を合わせる人だけでなくくじ引きする人も多くいました。私もついでに手を合わせて、『偉くなれますように』と身勝手なお願い事をひそかに念じました。東京はその立地からビルなどに囲まれた場所に寺や神社がポツンとありますが、上京してきたばかりの頃は、違和感がとてもありました。最近はそのような光景を見ても違和感は多少なりとも感じても気にはならなくなりました。
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 『老舗”にん仙„』というのは煙草屋のことだと思います。私が訪れたときは定休日でした。それにしても変な名前ですね。名前だけ聞くと何のことやら。その老舗”にん仙„のすぐ近くの喫茶店というのは現在では分かりません。

 この訪れた日は7月末で非常に暑く、歩くのが嫌になってさっさと家に帰った記憶があります。それ以来一度も新橋へ行っていないので、今年こそは大和田へ鰻重を食べに行こうと思います。


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by dazaiosamuh | 2017-01-03 21:23 | 太宰治 | Comments(4)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)