遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 今月、会社の同僚たちに連れられてNゲージを走らせに行った。といっても私は鉄道好きでもなければNゲージがそれほど好きというほどでもない。以前、高尾に行きC51を走らせた記事を書いたが、太宰が生きていた当時走っていたSLに興味を持ったのがきっかけで買ったのであった。今回はC51は持って行かず、代わりについ最近勢いで買ったNゲージ(三陸鉄道)を持参した。
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 写真は同僚が持って来たNゲージで、リゾートしらかみの青池であった。ここ最近出たばかりらしい。リゾートしらかみは秋田駅~弘前駅・青森駅間を走っている。この青池のNゲージを見て、そういえば、まだ木造りや深浦方面には行っていない、まだまだ太宰のゆかりの地を周らなければならない箇所が沢山あると焦りが出てしまった。先月か今月にでも青森に旅に出ようと考えていたのだが、なかなか休みが取れなかったり、自分が体調を悪くしたりなど都合がつかず、行けないままとなっていた。
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 来年は必ずこのリゾートしらかみに乗って深浦方面まで行こうと思います。それ以外にも小泊や蟹田、竜飛などにもまだ行けていない。友人の『リゾートしらかみ 青池』を見て、来年こそはと目標を立てたのであった。

 ついでに私が買ったNゲージ(三陸鉄道)も載せます。
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 すべて三陸鉄道です。私の故郷にこんなにバリエーション豊かな三鉄が走っているとは知りませんでした。Nゲージをきっかけに知りました。写真以外にも色、柄ちがいの三鉄があります。鉄道好きの同僚も、「三鉄に赤色とかあるんだ。へええ」と言っていました。わたしも初めてNゲージで知った時、「へええ、こんな色あったんだ。」と驚きました。でも気に入っているのは、桜の模様が入った三鉄です。かわいいですね。
 会社では、いつの間にか私がNゲージが大好きでハマっていると噂されている。私は断固否定していますが。

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by dazaiosamuh | 2016-12-28 11:13 | 太宰治 | Comments(0)
 あつみと順三が東京へ来てまもなく、広島にいる次兄・武雄から上京するという知らせがあつみの許へ届いた。
跳びあがってよろこんだあつみは、さっそく歓迎のプランをあれこれと考えた。思いがけず、もうすぐ兄に逢えると思うと、嬉しくて眠れぬほどであった。翌る日、美容院によって髪をセットしてもらい、それから銀座のスタジオで、新しくこしらえた縞柄の着物で半身像の写真を撮った。』(太宰治 七里ヶ浜心中)

 東京駅で武雄を出迎えたあつみは、すぐに駈け寄り抱きついた。大粒の涙を流していた。よほど嬉しかったのだ。そしてあつみと順三はさっそく武雄をタクシーに乗せ、丸山定夫の芝居を観に市村座へ案内したのであった。観に行ったのはそのとき市村座で公演していた新築地劇団第十七回公演の『反響』であった。

 芝居を観たあとは銀座に出て、『銀座から新橋、田村町と来て右に折れ、日比谷図書館の脇を通って、露地を入った三軒目に、順三たちが間借りしている鈴村の二階家がある。ふたりはその二階を又借りしているわけだが、武雄には広島の家の造りとくらべて、なんだか屋根裏みたいに思えてならなかった。
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 屋根裏みたい…とはどんな部屋だったのでしょうか。やはり場所が場所だけに家賃も高く、相応の物件だったのでしょうか。写真は日比谷図書文化館です。

内幸町というところは、日比谷公会堂や図書館がすぐ隣にあるので、なにかと便利で好都合であった。朝食をすませたあと、順三に案内されて、新聞を読みに図書館へ出掛けた。その日の東京の各新聞のほかに、発行日はすこし古いが全国の地方新聞が取り揃えてあって、それらに眼を通すだけでも興味がつきない。図書館に隣接している日比谷公会堂では、時局講演会やらさまざまな催し物が、昼の部と夜の部に分かれて毎日催されていた。
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 現在、テレビやネットの普及により活字を読む機会が非常に減っている。そういったものが無かった当時は情報を手に入れるうえでも非常に重要であった。私も普段、ネットに頼ってばかりだ。活字に少しでも触れるようにしたいが甘えてしまう。
 日比谷図書文化館は、1908年(明治41年)に東京市立日比谷図書館として開館しました。1923年(大正12年)の関東大震災では倒壊は免れるが、1945年(昭和20年)5月25日の空襲で全焼している。その後、別の場所にて再開し、1957年(昭和32年)に現在の施設が完成した。当初は3階建てであったが、1961年(昭和36年)に4階部分を増築した。
 さらにその後、千代田区への移管問題などや改修工事を経て、2011年に新名称『日比谷図書文化館』として開館した。

二十四日、武雄にとっての東京最後の日である。きょう一日を有効に使いたい、そう思った武雄は、歌舞伎座で忠臣蔵を昼夜通しで見物することを考えていた。朝食後支度を整えていると、あつみが急に思い出したように、「兄さんに渡しておきたいものがある」そう言ったか言わないうちに、表へ飛び出していった。まもなく戻ってきたが、銀座までタクシーで往復してきたのだという。妹がどうしても兄に手渡しておきたかったもの、それは、銀座の写真館で撮影した和服姿のあつみ自身の肖像であった。

 東京に出て苦労し、なかなか着飾ることもままならなかったあつみは、兄の武雄に少しでも良い思い出に残ってもらいたくて、和服姿で着飾った姿を写真にし、自分のことを思い出してほしいと、女心に思ったのかもしれない。

 そしていよいよ武雄の帰る時刻がせまったとき、あつみは握った手をなかなか離そうとせず、『お母さんにお土産の一つも買ってあげられなくて…。月末まで兄さんが居てくれたら、お店で立替えているお金もはいるし、お母さんに何でも買ってあげられたのに…』と言って別れを惜しんだそうだ。このときのあつみの印象が武雄にひどく記憶に残る。

 その翌日、順三が広島に帰りたいと言い出したことをきっかけに口論となり、順三は家を出て行ってしまう。そして夜も帰って来ることはなかった。あつみは一人、寂しい思いをして夜を過ごした。

『太宰治 七里ヶ浜心中』著書の長篠康一郎は、あつみの兄・武雄を直接取材している。あつみが広島に居たときや上京しあつみの様子を見た時の印象をもとに書かれているのであろう、非常に説得力がある。しかし、読んでいて胸が苦しくなることがある。あつみの死が太宰の人生、文学に大きな影響を与えたことは確かだが、太宰と出会わなければ良かったのにと思ってしまう。あつみの両親、兄弟の気持を考えれば、あつみの肩を持ちたくなる。太宰の小説が好きなだけに複雑な気持ちになる。

 今日はクリスマスイブだ。空の上でおいしいケーキでも食べているかもしれない。

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by dazaiosamuh | 2016-12-24 15:41 | 太宰治 | Comments(0)
ホリウッドのツネ子(田部あつみ)が、地方の金持ちの坊っちゃん学生(津島修治)と、再び芝居を観に行ったのは、彼女にとっては二度目であったが、日比谷公会堂で上演された『西部戦線異状なし』の公演である。帰途、修治は、このつぎには小林多喜二の『不在地主』を初日に観に行こう、とあつみに約束した。左翼劇場の第十七回公演が市村座で上演される予定になっていて、その公演のチラシを手渡されていたからである。』(太宰治 七里ヶ浜心中)
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 写真・日比谷公会堂
 太宰とあつみも訪れた日比谷公会堂は1929年に竣工、開館しました。現在は東京都が施設の老朽化、耐震化を理由に2016年から大規模改修工事を実施、そのため休館となっている。
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 小林多喜二『不在地主』を観る約束をしたものの、太宰は現れなかった。そしてようやく会えたかと思えば、太宰は憔悴した様子であった。この時期、太宰は青森から呼び寄せた小山初代との問題などを抱えていた。太宰があつみと出会ったのは昭和5年の8月~9頃(出会った日時は分かっていない)で、同年4月、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科へ入学した太宰は、『武装蜂起、と聞き、小さいナイフを買い(いま思えば、それは鉛筆をけずるにも足りない、きゃしゃなナイフでした)それを、レンコオトのポケットにいれ、あちこち飛び廻って、所謂「聯絡」をつけるのでした』と『人間失格』にあるように左翼活動に身を投じていった。6月には尊敬していた三兄・圭治が肺結核兼尿路結核症により逝去した。享年28歳であった。
 小山初代を東京へ呼んだことが発覚し、長兄・文治が上京し、会談の末、生家からの分家除籍を条件として初代との結婚を承諾した。分家に際し、財産分与はせず大学卒業まで毎月百二十円の生活費を仕送りすると決め、仮証文の覚書に署名させ、初代落籍のため彼女を同伴して帰郷したのであった。自分の身から起きたことだとしても、やはり精神的にも憔悴してしまった。そんな時にホリウッドで思いがけず一緒にいて心休まる相手ができ、将来に不安を感じていたあつみもまた、太宰に惹かれていった。

『不在地主』を観劇し、一層二人の距離は縮んだが、お金がない太宰はなかなかホリウッドにこれない。そこであつみが会計を立て替えるようになると、また太宰は姿を見せるようになったが、立て替えた分を返済してくれるわけでもない。『やむなく支配人に頼み込んで、修治の会計を特別にツケ(売掛金)にしてもらうことにしたのだが、期日は修治の言葉を信じて二十日迄とし、保証人は彼女自身ということにした。ツケが利くことに安心したのか、それからの修治は、まるであつみの胸にのめり込むように、毎晩のごとく通ってきていた。

 太宰にとってのあつみ、またはあつみにとっての太宰は、どういう存在であったのでしょうか。


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by dazaiosamuh | 2016-12-19 13:06 | 太宰治 | Comments(0)
 数日前、上野公園にある東京都美術館へ行ってきた。『ゴッホとゴーギャン展』を観るためである。期間が10月8日から始まっていたが、今月12月18日までということで、本当はもっと早く行きたかったがなんだかんだと時間が過ぎて行き、急いで観に行ったのであった。
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 私がゴッホに興味をもったのは、私自身が絵画鑑賞に興味があったのと、太宰が小さい頃から絵画に親しみ、そして太宰を好きになったきっかけである『人間失格』の中にも登場するからである。
 そんな時、東京都美術館で『ゴッホとゴーギャン展』が催されることになり、つい先日行ったのでした。

お化けの絵だよ」
 いつか竹一が、自分の二階へ遊びに来た時、ご持参の、一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。
 おや? と思いました。その瞬間、自分の落ち行く道が決定せられたように、後年に到って、そんな気がしてなりません。自分は、知っていました。それは、ゴッホの例の自画像に過ぎないのを知っていました。自分たちの少年の頃には、日本ではフランスの所謂印象派の画が大流行していて、洋画鑑賞の第一歩を、たいていこのあたりからはじめたもので、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルナアルなどというひとの絵は、田舎の中学生でも、たいていその写真版を見て知っていたのでした。
 自分なども、ゴッホの原色版をかなりたくさん見て、タッチの面白さ、色彩の鮮やかさに興趣を覚えてはいたのですが、しかし、お化けの絵、だとは、いちども考えた事が無かったのでした。』(人間失格)
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 それにしても館内は非常に混雑していました。行列でした。ゆっくり眺めるということができませんでした。立ち止まって見入っていると、館内が薄暗いこともあって何度か後ろからぶつかられました。
 私は中学生時代に教科書に載っていた写真をみたことがあるだけであって、ゴッホ、ゴーギャンの実物の絵画を観るのは初めてのことでした。そしてゴッホが日本に強い憧れをもっていたなんて、まったく知りませんでした。公式図録から一部抜粋します。
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1886年から2年間のパリ滞在中、ファン・ゴッホは日本美術と出会い、浮世絵を収集し始める。それらのコレクションを通して、日本美術の特徴を学び、そして遠い国日本をユートピアとみなして憧れを抱くようになる。ついにはアルルに日本を重ね、「この冬、パリからアルルに向かう旅行中に抱いた感情を、ぼくはまだ記憶している。「ここはもうそれだけで日本のようだ」と目を見張った」と、アルルにやってくる決意をしたゴーギャンに語るほどであった。
 テオ宛の手紙の中でファン・ゴッホは「日本の美術を研究すると、明らかに賢く哲学的で、知的な人物に出会う。その人は何をして時を過ごしているのだろうか。(中略)その人はただ1本の草の芽を研究しているのだ。しかし、この草の芽がやがて彼にあらゆる植物を、ついて四季を、自然の大景観を、最後の動物、そして人物像を描かせるようになる」と述べているように、日本美術を通して学んだ、小さな自然の断片に真理を見出そうとする姿勢が本作にも通底している。

 日本をユートピアとみなし憧れを抱いていたファン・ゴッホ。なぜだか急にゴッホに親近感と愛着が湧いてしまったのは私だけだろうか。ぜひ日本に来て絵を描いてもらいたかったですね。

 主人公の葉蔵は、竹一に裸婦の像の画集を見せる。竹一はそれを『地獄の馬みたい』と感嘆する。
あまりに人間を恐怖している人たちは、かえって、もっともっと、おそろしい妖怪を確実にこの眼で見たいと願望するに至る心理、神経質な、ものにおびえ易い人ほど、暴風雨の更に強からん事を祈る心理、ああ、この一群の画家たちは、人間という化け物に傷めつけられ、おびやかされた揚句の果、ついに幻影を信じ、白昼の自然の中に、ありありと妖怪を見たのだ、しかも彼等は、それを道化などでごまかさず、見えたままの表現に努力したのだ、竹一の言うように、敢然と「お化けの絵」をかいてしまったのだ、ここに将来の自分の、仲間がいる、と自分は、涙が出たほどに興奮し、
「僕も画くよ。お化けの絵を画くよ。地獄の馬を、画くよ」
 と、なぜだか、ひどく声をひそめて、竹一に言ったのでした。』(人間失格)

 ゴッホやゴーギャンなどの画家たちの絵を小さい頃から見てきた、太宰なりの見解なのでしょうか。太宰自身も1947年(昭和22年)頃に桜井浜江のアトリエで自画像を描いている。とても上手で私のような素人には真似できません。太宰の自画像は書籍などにも載っているのでみることができます。
 芸術的な観点からすれば、太宰はゴッホやゴーギャンなどに相通ずる部分があったのかもしれませんね。

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by dazaiosamuh | 2016-12-16 13:23 | 太宰治 | Comments(2)
田部あつみが、新築地劇団の「ゴー・ストップ」を、津島修治と一緒に市村座へ観に行ったのは、ホリウッドに勤めに出てから約一カ月の後であった。修治と親しくなったきっかけは、彼が二度目に、ひとりでホリウッドへ現われたときである。』(太宰治 七里ヶ浜心中)

 太宰はこの時、口数が少なく、ただビールを飲んでいるだけであった。あつみはただビールを注ぐだけであったが、他の客が壁に掛けてある絵画について別の女給に訊き、その女給があつみに助けを求め、あつみがその絵画についてすらりと答えると、幼少の頃から絵画に親しんできた太宰が興味を示し、そこから自然に話題が生れ、あつみと太宰は親しくなっていった。
 あつみはホリウッドで『ツネ子』の名で働いていた。なぜ『ツネ子』かというと、『以前に客に人気のあった女給の源氏名を、あつみが入店した翌日から踏襲していたのである。

 2人が観た「ゴー・ストップ」は貴司山治の作品で、『階級的大衆小説の新提示として評判になっていた』らしい。

芝居を観てのかえり、修治は、あつみを家まで送って行くという。車を拾わないで神田から日本橋、銀座尾張町から並木通り、みゆき通り、数寄屋橋とそぞろ歩いてお壕端の日比谷公園にはいる。きれいな照明に浮かぶ花壇の中を抜けて、大噴水のある広場へ出ると、眼の前に日比谷公会堂の建物が黒々と影を落して大きく迫ってきた。静寂につつまれた広場から眺めると、銀座方面の夜空はまるで燃えているようにみえた。
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 写真は数寄屋橋跡とかつて数寄屋橋が存在したことを示す碑。数寄屋橋は1629年(寛永6年)、江戸城外濠に架けられた橋で、1929年(昭和4年)には石造の二連アーチの橋に変わりました。現在の晴海通りにあったが、1958年(昭和33年)、外掘が東京高速道路の建設により埋め立てられ、それにより消滅しました。現在は数寄屋橋公園として待ち合わせや憩いの場として利用されています。数寄屋橋交差点や建物の名など、名残をいくつか残してます。
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 日比谷公園の花壇で、今年の8月に訪れた際に撮った写真です。蒸し暑い中で青空の下、風に揺られる綺麗な花をみていたら少し汗が引いたような気がしました。
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 噴水の向こうには、ぼんやりと日比谷公会堂が見えます。この日はとにかく暑くてたまらなかった。サラリーマンなどが日陰のベンチなどでゆっくり休んでいました。もう少し気温が低ければゆったりのびのびと散策できたのにと思いました。

芝居の余韻のまださめやらぬ星空の下で、もしも修治が、大学を卒えたら結婚してね、と囁いたとしたら、おそらく、この夜の出来事ではなかったろうか。青春の夢多き若い二人であってみれば、たとえそうあったとしても、誰も責められまい。あつみは、順三と一緒の生活を、まだ修治にひとことも話していなかった。むしろ、話せなくなっていたと言ったほうが、当っているかも知れない。

 実際は太宰があつみにどんなことを話しながら歩いたのかは分からないが、それにしても、あつみはいつの時点で太宰に、亭主がいることなどを話したのだろうか、そして太宰も自身のことをどこまで話したのだろうか。


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by dazaiosamuh | 2016-12-12 11:37 | 太宰治 | Comments(0)
 1923年に大阪を始めとし、次々と松竹座は数を増やしていった。1928年には浅草にも開業し、映画、実演、演劇興行など様々行ったが、1963年には廃座となっている。その後、様々な入れ替えや建て壊しの末、現在の浅草ROXに落ち着いている。
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 こちらは現在の浅草ROX。外国の観光客なども多く、とても賑いを見せている。ここにかつて松竹座があったことなどを知る者はほとんどいない。
午後、浅草映画街の松竹座で、劇団築地小劇場の上演する『西部戦線異状なし』と、併映されている映画『闇の港』と『七ツの鍵』を観る。意外と低料金だったが、当時の新聞によると、「演劇界も殺人的不景気の影響を受けて、昨今各劇場は観覧料の値下を断行し、客の吸収につとめているが、入場者は依然減少する一方で云々」と、演劇界全体が深刻な状況に直面していることを報じている。』(太宰治 七里ヶ浜心中)
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 こんな早くからすでに演劇界は不景気を迎えていたのですね、知らなかったです。
これは都新聞の記事なのだが、第一次世界大戦中に水ぶくれした日本の産業は、世界的不況の波のなかで整理期へと追いこまれていた。合理化の名のもとに中小企業の倒産が相つぎ、ちまたには失業者があふれ出ていた。

 戦時中ということもあり社会はなかなか安定してくれません。その影響が多岐にわたっていました。あつみと順三は生活は苦しいが、不景気の影響を受けた劇場界が値下をしたおかげで観る事ができたとも言える。

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by dazaiosamuh | 2016-12-07 17:36 | 太宰治 | Comments(0)
 数日前、久しぶりに太宰治が愛煙していたゴールデンバットを吸おうと思い購入した。(前にも書きましたが、私は普段煙草は全く吸いません。太宰の真似です)
 
 昨日の夜、ベランダに出て、まず1本、煙草の免疫がないのでパイプを付けて吸った。咽た。二度、咽た。とりあえず頑張って最後まで吸い、一緒に持ってきていたコーヒーをゆっくり飲んだ。口の中、特に喉の方に煙草の苦々しさが残って嫌な感じだったが、コーヒーを飲んでいるうちに落ちついてきた。コーヒーはブラックだが、バットの前では甘く感じられた。夜道の中、自宅へ帰る通行人を見やりながら、夜空を見上げたり、ぼーっとして、もう1本吸ったら風呂にでも入ろうと思い、バットを1本持ち、パイプを付けようとしたところ、なぜか違和感を感じた。

『あれ、何これ? フィルター!? フィルターが付いてる!!』
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 ゴールデンバットにフィルターが付いていたのだ。てっきり勘違いして違う煙草でも買ったのかと思ったが、パッケージはまぎれもなくバット、煙草1本1本にもちゃんとゴールデンバットと書かれている。全く気が附かなかった。フィルターが付いていることに気が付かないまま、パイプを付けて吸っていた。阿保だと思った。衝撃を受けながら、とりあえずパイプを付ける意味がなくなったので、そのまま吸ってみた。やはり咽た。そりゃ当然だ、フィルター付きの煙草にパイプを付けて吸っても咽るのに、そのままで咽ない筈はない。
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 部屋に戻り、早速ネットで調べてみたところ、どうやら今年(2016年)の6月からゴールデンバットはフィルター付きで販売されているようだ。今年でバットは110周年を迎え、それらの理由(煙草業界の事情は分かりませんが)もあり、改良したようです。パッケージを見ると、タール15mg、ニコチン1.0mgとなっていました。私は過去、2014年5月25日の記事でゴールデンバットを載せました。改めて読み返すと、タールは18mg、ニコチンは1.1mgでした。どうやらフィルター付きに伴い、タール、ニコチンも下げたようです。(それともフィルターが付いたからそうなるのか、私にはよくわかりませんが)

 普段煙草を吸わない私が偉そうなことを言うようですが、ゴールデンバットはフィルターのないのが特徴的で、それがチャームポイントというのか、バットの良さだったような気もします。しかし、煙草が好きな人からしたら買い求めやすい煙草になったのではないでしょうか。値段は前はたしか210円だったような…。現在は260円となっています。

 太宰は『女生徒』に『両切の煙草でないと、なんだか、不潔な感じがする。煙草は、両切に限る。敷島なぞを吸っていると、そのひとの人格までが、疑わしくなるのだ。』と書いている。
 ゴールデンバットが大好きだった太宰は、空の上からどう思っているのでしょうね。


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by dazaiosamuh | 2016-12-05 12:40 | 太宰治 | Comments(0)
 
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 田部あつみと順三は、花屋敷に入って何を楽しんだのでしょうか。私は震災後、東京に上京して5年経ちますが、まだ花屋敷に入ったことがありません。写真を撮りに訪れた時は、なかなか賑わっていました。

花屋敷のとなりに「びっくりぜんざい」という店がある。ゆであずきがあつみの大好物だったが、ここは分量が多くて安いので評判の食堂だった。』(太宰治 七里ヶ浜心中
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 写真の周辺にあつみと順三がゆであずきを食べた店「びっくりぜんざい」がありました。「びっくりぜんざい」があった昭和の時代の古地図があるので載せておきます。
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「びっくりぜんざい」のすぐ下が瓢箪池でした。
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「びっくりぜんざい」のお店があった付近には、よくよく見ると「びっくり食堂」というお店がありました。もしかしたら「びっくりぜんざい」が前身のお店かもしれませんが、お店の人に確認していないので分かりません。後で時間があるときに訪ねて訊いてみようと思っています。
 あつみは確か広島にいたときも、新天地界隈のゆであずきのお店に行っていたはずです。
新天座で観劇したり、新着の活動写真を映画倶楽部で見たかえりには、本通り入口の革屋町の喫茶店にはいった。注文は、たいていあつみの好きなゆであずきである。その頃でかき氷が三銭、ゆであずき五銭、氷ぜんざいは七銭であった。

 本当にあつみはゆであずきが大好物のようですね。私も好きな方なので、味の好みがもしかしたら一緒かもしれません。

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by dazaiosamuh | 2016-12-03 18:59 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)