遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 三鷹に太宰治文学館ができるとの情報をネットで知った。太宰治は1939年から亡くなるまでを三鷹で過ごした。三鷹には太宰治文学サロンがあるため、太宰治文学館はできないのだろうと思っていたが、どうやら都立井の頭公園に建設することが発表されたようだ。完成は2019年の予定で、名称は『三鷹市立太宰治文学館』を今のところ仮称としている。

 2019年は、太宰治生誕110年となるので、これに合わせた計画なのではないかと推測している。再び太宰治ブームの到来(私の中では常に太宰ブームが巻き起こっているが)を期待しているのは、私だけであろうか。非常に楽しみである。

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by dazaiosamuh | 2016-11-29 16:07 | 太宰治 | Comments(0)
 順三とあつみは慣れぬ東京で戸惑い、この先どうなるのだろうかと不安を抱きつつも、ここが踏ん張りどころだと互いに心の中で気持ちを落ち着かせて生活をしていた。
 そんな生活でも息抜きは大切だ。順三とあつみはある日浅草へと出掛ける。
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ホリウッドへ働きに出てから初めての休日に、あつみは順三と共に浅草へ出掛けた。雷門から仲見世の賑いを見物しながら瓢箪池に出る。池の周辺をめぐって花屋敷へはいった。』(太宰治 七里ヶ浜心中)
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 写真は現在の『ウインズ浅草』でこの一帯に瓢箪池があったようです。瓢箪池は空襲で被害を受けた浅草五重塔の再建資金を捻出するために、昭和26年に埋め立てられ、その土地を売却したという経緯があります。またその跡地には、1959年(昭和34年)、楽天地の遊園地の東急グループの複合娯楽施設「新世界」が立ち、また、奥山から新世界までの間が西参道商店街として整備されました。
『ウインズ浅草』のすぐそばに、かつてこの付近に瓢箪池があったことを示す看板も設置されていたので、一部抜粋します。
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瓢箪池、この池は浅草場外発売所や東宝映画などの建ち並んでいる所にあった。明治十七年(一八八四)に浅草寺境内にあった奥山の見世物小屋などを現在の六区に移転させる計画のもとに、浅草田圃(この辺一帯)の一部を掘って池をつくり、その土で六区を造成した。大池が正式の名であるが瓢箪池の愛称で呼ばれ親しまれていた。池の広さは千八百二十余坪あり、池の中央に中の島があって藤棚や茶店が憩いの場となり東西を橋でつないであった。夜ともなれば池面に興行街を彩るイルミネーションが浅草の灯をうつして美観を呈した。
 当時の浅草公園にはあらゆる階級の人間が集まり、人間の生の息吹が渦巻いていた。瓢箪池は青春の思い出であり、人生哀歓のオアシスであり、夢の泉でもあった。

 瓢箪池は『青春の思い出であり、人生哀歓のオアシスであり、夢の泉でもあった』とある。あつみと順三もここを青春の思い出として心に刻んだことであろう、心中などしなければ、生きて何度もここへ足を運んでもっと沢山の思い出をつくることができたはずだ。そんな『夢の泉』は戦争の影響で終戦後に埋め立てられてしまった。

 田舎から出てきた私からすると、現在の浅草は十分賑わっているようにみえるが、瓢箪池があった当時は、さらにそうとうに殷賑を極めた賑いぶりを見せていたらしい。
 瓢箪池は噴水もあったそうだ。もし現在、浅草に瓢箪池があったら恋人のデートスポットは間違いなく、もっと多くの人々を呼び寄せていたのではないだろうか。


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by dazaiosamuh | 2016-11-28 14:46 | 太宰治 | Comments(0)
 今月は仕事等いそがしく記事がなかなか進めないでいます(もともと体力がなく、生まれつき睡眠が浅いくせに、毎日酒を飲んでは、仕事から帰宅するなり床でバタンキューです)

 田部あつみが銀座で働いていたカフェー・ホリウッドは、当時それほど有名ではなく探すのが大変でした。

順三の承諾を得て、あつみは銀座のホリウッドへ勤めに出た。着物と帯は、鈴村の妻よし子からの借着であったが、風呂敷に包んで持って行き、控室で着替えた。着替えるといっても、お召の着物に帯は太鼓結びであったから、着付けにかなりの手間がかかった。お店は想像していたより広く、それぞれのテーブルのまわりに肘掛椅子が三脚ずつ置いてあり、ふっくらした背もたれには、白いクロースが上のほうにだけ掛けてあって、見るからに清潔な感じであった。
 さまざまな洋酒を棚に並べたカウンターの中に、蝶ネクタイのバーテンが二、三人。壁ぎわの椅子に数人の女給が、腕に白いナプキンを掛けて座っていた。この店の古参らしい綿紗の着物の女給が立っていって、カウンター脇の蓄音器をかけた。たちまち、かん高い佐藤千夜子の唄声が響き渡り、店内はいっぺんに賑やかな雰囲気を醸し出した。』(太宰治 七里ヶ浜心中
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 銀座十字屋の裏手側の通りでカフェー・ホリウッドのあった付近の写真です。現在はビルが建ち並んでいる。付近にはキャバレー『白いばら』がある。ホリウッドは銀座の「十字屋の裏手の向かい側」にあった。
 外観からして昭和の雰囲気を醸し出している『白いばら』は昭和6年創業の老舗です。太宰ももしかしたら訪れたことがあるかもしれませんね。私もあとで行ってみようと思います。
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 反対側からみた写真です。
その夜、あつみがはじめて受け持ったテーブルは、学生をまじえたグループの客であった。なかでも眼鏡をかけた長身の若い男が、この仲間の親分格とみえて、「若様!」なんて呼ばれているのが、あつみには可笑しくてならなかった。いまどき「若様」なんてないもんだ。だいたいが気障なうえにひどい訛りのある方言で、お互い同志だとなにを話しているのか皆目ききとれない。チロルなら、こんな感じの悪い泥臭い客は一人もいなかった、と心のうちにあつみはそう思いつつビールを注いだ。

 この眼鏡をかけた長身の若い親分格にみえた「若様」が太宰治である。当時、津島修治22歳、田部シメ子19歳であった。

閉店時になって、裏の出入口のところに順三が迎えに来ていた。銀座の表通りには軒並みネオンがまばゆく輝き、まるで不夜城の観を呈しているなかを、銀ぶらとしゃれて歩いて帰った。そのころの銀座は、あつみが広島にいたときによく見ていた外国の映画女優、ポーラ・ネグリーそのままのスタイルをした女性が、それぞれハンドバッグを小脇にはさんで颯爽と歩いていた。

 当時、モボ(モダンボーイ)、モガ(モダンガール)などと呼ばれる若い人たちが颯爽と歩いていたらしい。広島では一際周りから目を引いたあつみも、東京に出てみると洒落た都会人の中に埋もれてしまった。なにより生活費を稼がなくてはならない、着飾る余裕などはないのであった。

 ちなみに『人間失格』に登場するツネ子は、あつみがモデルとされており、広島出身の2つ年上として描かれている。そのツネ子の主人は、『まともな仕事をせずそのうちに詐欺罪に問われ、刑務所にいる』と書かれている。
 なぜ太宰はツネ子の主人を犯罪者のような扱いにしたのだろうか。あくまで創作上、面白くするためと言われればそれまでだが、少し扱いが酷いような気もする。


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by dazaiosamuh | 2016-11-21 19:13 | 太宰治 | Comments(0)
鈴村の妻よし子は、銀座のカフェー・ホリウッドに勤めていた。日本一の銀座だけに、カフェーといってもさまざまだが、よし子の話からも、ホリウッドは品の悪い店だはなさそうであった。順三たちの事情を知っているよし子は、あつみにも銀座で働いてみたらどうかと、熱心に勧めてくれた。』(太宰治 七里ヶ浜心中)

 広島では喫茶店のウェイトレスをしていただけであったあつみは、多少の不安を抱いていた。それにともない、日に日に減っていく貯金、そして夫・順三の職が中々決まらない不安も増していく一方だったあつみは、鈴村の妻よし子を頼りに、銀座のカフェーで働く決心をした。困窮する生活の手前、無論、順三に反対する理由はあるはずも無いのであった。

ホリウッドの女給として働く決心をしたすこしまえ、あつみは日比谷の水明館に松旭齋天勝を訪ねて行った。天勝師匠が広島でなぜ水明館の住所を書いて渡したのか、これがどうもよく判らないのだが、一時的に水明館の一室を借り受けて、臨時の事務所として使った時期があったのかも知れない。このとき、あつみは天勝師匠に会えなかった。のち天勝が水明館の館主になるのだが、それはさらに五年の後のことになる。

 あつみはこの時どういった理由で天勝を訪れたのだろうか。まさか住所を教えてもらったという理由だけで訪ねたわけではあるまい。もしかしたら、困窮する生活から脱するためだけではなく、断固反対した父・島吉に内緒で、天勝に弟子入りし、自分のやりたかったことにチャレンジするとともに、夫・順三を支えようと考えていたのではないだろうか。

水明館については、伊坂梅雪の一文に「先々代水明館は元木挽町亀井橋に居て常に大阪俳優の常宿であり、殊に隣りには菊五郎の愛妾辻井お梅さんが居たので若女将のお栄さんも心易ければ養子の湊氏とも親しく某湊氏は栄子夫人と別れて磯子園と称する料理旅館を営んでいる。二代目の水明館主人は元葭町の名妓よし子さんで俳優片岡市蔵丈の妻となったが、片岡氏の没後も養子を守り立てて旅館水明館を経営して居られた」と記してある。
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 写真は現在の木挽町にある亀井橋。非常に交通量が多く、訪れた時間帯が昼頃だったこともあり、サラリーマンなどが休憩に入っていた。
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 亀井橋上には小さな公園がある。サラリーマンなどが談話に耽っていた。青空の下、浮浪者が公園のゴミ入れを漁り、飲み残しのジュースをおいしそうにゴクゴクと飲んでいた。
 現在、水明館という旅館はない。この付近にあったのだろうか。もし田部あつみが水明館を訪れたとき、天勝と再会することができていたら、銀座のカフェー・ホリウッドで働くことはなく、また違った人生になっていたかもしれない。そうすれば太宰と出会うことはなかった。
 私は田部あつみを調べるうちに、少なからず情が湧き、太宰と出会わなければ良かったのに、と思うことが少なからずある。しかし、田部あつみとの出会いがその後の太宰の人間関係、哲学、文学、人生に影響を与えたことは言うまでもないが…。


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by dazaiosamuh | 2016-11-14 18:44 | 太宰治 | Comments(0)
上京してから三週間が瞬く間に過ぎた。順三の就職口もなかなか見つからない。広島の鈴木が紹介してくれる筈だった友人が、順三の上京直前に検束されて、未だに帰宅を許されていないのだ。あるいは釈放されたのち、再逮捕をおそれて行方をくらましたのかも知れない。すでにその友人をあてにできなかった。』(太宰治 七里ヶ浜心中)
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 上京して1カ月も経たないうちに、順三とあつみの生活に暗雲が覆いつくそうとしていた。演劇界は不況に陥り、演劇関係への就職が困難となっており、生活のためにも何か別の仕事を探さなくてはならない状況になっていた。職業紹介所などにも行くが、『そんなある日、悪いことは重なるもので、劇団新東京の探偵喜劇『ルールシーヌ街の惨劇』を歌舞伎座で観ての帰り途、銀座の雑踏の中で順三は財布を掏摸とられてしまった。
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 この銀座の雑踏で財布を掏摸とられ、所持金の大半を失ってしまったらしいのだが、生活が苦しくなるほどの金額を順三は持ち歩いていたということだろうか。順三は財布を掏摸取られただけでなく、勢い勇んで演劇の世界へ飛び込もうとしていた矢先に、友人の伝手を失い、また演劇界の未曾有の不況により進路が断たれ、それにより完全に精神的に萎縮し、情熱はみるみると薄れていくのであった。そんな順三に対して田部あつみは懸命に励ましつづけ、どうにか立ち直らせようと献身的に努力した。
広島へ帰京するにしても、せめて一年は頑張らないと、恥ずかしくて帰れたものでない。「私が働きます」とそう言ってから、あつみは本当に自分が勤めに出るほかないと思った。

 夢を追う者によくあることで、情熱の炎を燃え上がらせ、いざ勇んで上京してみるも、現実の厳しさに直面、圧倒され、そのまま心身ともに折れてあっけなく夢破れて帰郷する若者というのはいつの時代も不変で、順三も例に漏れずその1人であったのだ。それと同じく、男性よりも冷静に現実をみつめる女性は田部あつみのように、懸命に相手を励まし、自分も一緒に背負うから、と言い必死に支えようとするが、大抵、ここで男はそれを励みに立ち直るか、落ちるとこまで落ちるかのどちらかのようである。
 そして順三は、どちらかというと再び立ち直ることのできる男であると私は勝手に推測しているが、不幸といったら同じ太宰ファンに失礼かもしれないが、田部あつみが太宰と出会ってしまったことで、それぞれ順三、あつみ、太宰の不幸な結末は、ここで決定づけられてしまったのではないかと思われてならない。


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by dazaiosamuh | 2016-11-09 22:07 | 太宰治 | Comments(0)
 『高面順三が勉強のつもりで三回も観にいったこの芝居は、やはり反戦的大戦ものなのだが、前年に劇団築地小劇場が本郷座で上演した『西部戦線異状なし』などよりは、ずっと気楽に観ておれた。』(太宰治 七里ヶ浜心中)
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 劇団築地小劇場が『西部戦線異状なし』を上演したその本郷座は、現在の東京都文京区本郷3丁目にあった。場所は実に分かりやすい所だったのですが、いつものように迷い、通行人に尋ねて、どうやら道を1本だけ間違えているだけでした。
 
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 本郷座は明治初期から戦前昭和までありました。明治6年(1873年)、本郷在住の地主奥田氏が奥田座としたのが始まりで、後、地名を取って春木座としました。九代目市川團十郎などが主演して活況を呈したりなどしたが、度重なる類焼にあう。
 
帰宅してから、鈴村と夜更けまで演劇論をたたかわしたが、順三はこれまでの自分の考えの甘さを、それこそイヤというほど思い知らされる羽目になった。その頃の鈴村は、左翼劇場から分離したばかりのプロレタリア演芸団に所属していたようで、主に移動演劇の活動に従事していたらしいのだが、事情あって劇団を辞め、保険関係の仕事に転職したばかりであった。そんなわけで、家計のほうは、鈴村の妻よし子が女給として働きながら一家を支えていたのである。

 明治35年(1902年)には区名から本郷座と改称。以後は新派の川上音二郎一座の『ハムレット』などが盛況を極めるが、大正12年(1923年)の関東大震災で全焼した。翌年、バラックで再建され、二代目市川左團次一座がここを拠点にし好評を博したが、左團次により明治座が再建されると次第に廃れていき、昭和5年(1930年)からは松竹の映画館となり、第二次世界大戦中の東京大空襲により跡形も無くなり、消滅した。

 演劇文化が栄えた時代でもあり、貴重な史跡だ。戦時下ということもあり、この時代の演劇場は空襲や震災での焼失が甚だしい。跡形もなくなったが、明治後期の賑わいをみせる本郷座の写真が残されている。ちなみに史跡は文京区本郷3-14にあります。


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by dazaiosamuh | 2016-11-05 12:49 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)