遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 前回、田部あつみと高面順三が観劇した市村座跡を載せた。市村座のあった場所は、もはや何ら面影を残さない、ビルばかりが立ち並ぶ地と変貌していた。しかし、その裏手にはひそかに同じ時代を共にし、しかも焼失を免れた稲荷社が再建されていた。
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 裏手に回ると、じめじめとした人気のない路地があった。その片隅にひっそりと小さな稲荷社があった。訪れるまではまったく知らなかったが、市村座跡の説明版に、『明治二十七年再建の劇場は煉瓦作造り三階建てで、その舞台では、六世尾上菊五郎・初代中村吉右衛門らの人気役者が上演した。いわゆる菊五郎・吉右衛門の二長町時代を現出し、満都の人気を集めた。しかし、その面影を伝えるものはほとんどなく、この裏手に菊五郎・吉右衛門が信仰したという、千代田稲荷社が現存する程度である。』と記載され、これによって裏手に稲荷社があることを知ったのであった。
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 千代田稲荷社の歴史は古く、はじまりは長禄元年(1457年)で、碑の後半部分だけ引き抜くが、『明治二十五年、最後まで猿若町に留っていた市村座が下谷二長町に移転、二十七年近代建築に再建され、千代田稲荷も座の守護神として正面表口に祀られた。以後、市村座と興亡を共にしたが、昭和七年市村座の焼失時に奇しくも類焼をまぬがれたため、千代田会有志により現在地に再建され今日に至った。』とある。
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 市村座で人気を博した菊五郎・吉右衛門が信仰したこの千代田稲荷社だけが、唯一、本当に当時ここに市村座があったことを物語っているようだ。そして、後ろから市村座跡をそっと見守っているかのように見える。

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by dazaiosamuh | 2016-10-30 19:24 | 太宰治 | Comments(0)
 上京した高面順三と田部あつみ。順三は演劇への熱意のある勢いのまま、あつみとさらに別の舞台を観に行く。

二日後、順三とあつみは、劇団築地小劇場の公演『勇敢なる兵卒シュベイクの冒険』を市村座の舞台で観た。』(太宰治 七里ヶ浜心中)
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 写真は台東区浅草6丁目。始まりは、1634年(寛永11年)に村山又三郎が興した村山座で、1652年(承応元年)に市村羽左衛門が興行権を買い取り、市村座としたのであった。当初は、日本橋葦屋町(現・日本橋人形町3丁目)にあった。しかし、1842年(天保13年)に、前年の火災と天保の改革の一環により浅草猿若町(写真にある現在の台東区浅草6-18-13)へと移転した。
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 周りはただの住宅地となっており、石碑が唯一当時を偲ばせている。観光客の多く訪れる雷門周辺からは徒歩で25分(探した時間も含めて)近く歩いたような気がする。そのため、私のように目的があって自分から探さない限り、普通の人が目にすることはないようだ。
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 写真は台東区台東1丁目にある市村座の石碑。
 順三とあつみが観た場所は浅草6丁目にあった市村座ではなく、さらにその後移転した場所(写真の台東区台東1丁目)となる。維新後の1872年(明治5年)、14代羽左衛門のとき、負債のために村山座とまた改称し、のち再び市村座に変名している。1892年(明治25年)、猿若町から下谷二長町に移転した。

市村座は上等の席で一円四十九銭だったが、客の入りはかならずしも多いとはいえなかった。次の日、順三は一人で市村座へ向かったが、こんどは一円の席にはいり、その次の日は五十銭の席から熱心に観劇した。
 ヤロスラフ・ハーシュクの『勇敢なる兵卒シュベイクの冒険』は、辻恒彦が翻訳して人気の出た読物で、市村座の舞台で使用した台本は、アレキサンドリンスキ劇場上演の時のものを、八住利雄が訳編したもので、演出は北村喜八であった。』(太宰治 七里ヶ浜心中)
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 市村座は猿若町から下谷二長町(現在の台東区台東1-5)へ移転したが、この台東区台東1丁目にあった市村座で、順三とあつみは『勇敢なる兵卒シュベイクの冒険』を観劇した。順三に至っては合計3回も熱心に観劇している。
 市村座は1923年(大正12年)9月の関東大震災で焼け、再興したが、1932年(昭和7年)5月に楽屋からの自火焼失し再建されることはなく消滅し、これにより市村座の長い歴史はここで終わりを遂げた。
 長い歴史のわりに、ポツンと碑が建てられているだけであった。実にあっさりしている。おかげで探すのに苦労した(相変わらず方向音痴なだけだが)。
 しかし、市村座跡周辺をぼーっと眺めていたら、田部あつみと順三が二人仲良く市村座へと入っていく姿が眼前に展開され、おもわず微笑んでしまった。

 2人の人生、特にあつみは短い生涯であったが、こうして足跡をたどり、人へ伝えることで、あつみの人生は人々の記憶へ残る。少しでも報われればと思う。

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by dazaiosamuh | 2016-10-26 20:07 | 太宰治 | Comments(0)
上京当初、順三の最大の関心事は、なんといっても築地小劇場にあった。順三があつみを伴って、上京後最初に観た舞台は、築地小劇場から分裂した劇団新東京の旗揚げ公演であった。』(太宰治 七里ヶ浜心中
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 築地小劇場跡は、東京メトロ日比谷線築地駅から徒歩で3,4分のところ(出口にもよるが)で、当時を偲ばせる記念碑もありました。
 1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災の報を聞き、演劇研究のためドイツに留学していた土方与志は予定より早く帰国し、震災復興のため一時的に建築規制が緩められたことを機に、仮設のバラック劇場の建設を思いつき、年が明けると小山内薫を訪ねて構想を固め、劇場建設と劇団の育成に取りかかった。そして半年ほどで建設し、1924年(大正13年)6月13日に開設することができた。
 第1回公演は土方が演出を行い、ラインハルト・ゲーリングの「海戦」、チェーホフの「白鳥の歌」などを公演したが、以後は小山内薫の演出のもと、チェーホフやゴーリキーなどの海外演劇(翻訳劇)を中心に運営していった。
 しかし、1928年(昭和3年)12月に小山内薫が急逝した後、内部で様々な派閥や分裂騒動があり、翌年(昭和4年)には土方与志らは新築地劇団を結成。同年5月には築地小劇場で第1回公演を開催している。土方の在籍する新築地劇団は1931年(昭和6年)に日本プロレタリア演劇同盟に加盟し、プロレタリア演劇運動を展開した。
 分裂の際に築地小劇場に残ったメンバーは、1930年(昭和5年)8月に解散し、劇団新東京になった。順三とあつみが上京後最初に観たのが、この劇団新東京の旗揚げ公演になる。しかし、わずか2年後の1932年(昭和7年)に解散し、その後、友田恭助、田村秋子が築地座を結成した。
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 当時の築地小劇場の建物がレリーフとなっている。写真をパシャパシャ撮っていると通行人が訝し気に見てくる。ここに劇場があったことを知る者は今は少ないということだろう。余談になるが、築地警察署で特別高等警察の拷問により死亡した小林多喜二の労農葬が、1933年(昭和8年)3月15日、この築地小劇場で執り行われたとのことだ。

順三たちは一番いい席で二円五十銭だったが、順三にとっては舞台のひとつひとつが感激の連続であった。これまで書物の中でしか知らなかった本式の舞台、スタニスラスキーの演技術を骨子とする写実的な演技および演出、舞台装置や舞台照明、音響効果の斬新さに目を奪われ、観劇しながら基本から勉強する必要を痛切に感じていた。』(太宰治 七里ヶ浜心中

 前述で順三が驚いたのも無理もなく、築地小劇場は電気を用いた世界初の照明室を備えていた。高度な照明設備と優れた舞台を備えていたため、演劇の実験室としての役割を果たした。面積は100坪弱、平屋建て、客席は400~500席。

 築地小劇場はその後、さらに劇団の分裂、土地の買収、改築工事などを経て、1940年(昭和15年)11月1日、第二次世界大戦の激化に伴い統制が強まり、国民新劇場に改称され、文学座が主に使用するようになった。
 その後、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲により、建物は焼失した。
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 ここで田部あつみは夫・順三と一緒に観劇に訪れたのかと思うと、感慨深いものがある。もともと観劇などが好きであったあつみは、順三と観に来たとき、松旭齋天勝のもとに弟子入りすることができていたら、と思う自分がいたはずだ。

 こういう時でないと築地に足を運ぶことはないので、いい機会でした。


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by dazaiosamuh | 2016-10-23 18:01 | 太宰治 | Comments(0)
憧れの東京駅に降り立った高面順三と田部あつみの二人に、鈴村が奥さんと一緒に出迎えてくれた。鈴村とは、あつみも広島で一度顔見知りであったが、奥さんとは初対面であった。』(太宰治 七里ヶ浜心中)
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 現在の東京駅です。東京の玄関口と言われるだけあって、私が写真を撮りに来た時は多くの観光客が記念撮影をしていました。人が通らないタイミングを計って撮るのが結構難しかったです。
 東京駅は、日清戦争とその後の日露戦争が終わった1908年(明治41年)から建設工事が本格化し、1914年(大正3年)12月20日に開業しました。1919年(大正8年)3月1日・中央本線、1925年(大正14年)11月1日・東北本線が乗り入れ、1929年(昭和4年)12月16日に東側八重洲口が開設するなど、東京駅はどんどん発展していきました。
 その後、1945年(昭和20年)5月25日のアメリカ軍による東京大空襲などで焼夷弾により大火災を起こし、大きな被害を受けたが、幾多の困難を乗り越え、修復、構造の変更、元の形、デザインの復元を繰り返し、長い歳月を経て、1999年(平成11年)から2000年(平成12年)にかけて東京駅の建て替え計画・創建当初の形態に復元する方針がまとめられ、復元工事は2007年(平成19年)5月30日に起工され、2012年(平成24年)10月1日に完成することができました。
 竣工当時の東京駅とほぼ同じなので、太宰治や田部あつみと同じ想いで眺めることができ、感無量です。いつ見ても、立派な駅だなあと思ってしまいます。
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鈴村の家は日比谷公園のすぐ脇の内幸町にあって、借家ではあるけれども二階つきの家だった。屋根裏みたないな感じの二階の部屋だが、それでも八畳ほどの広さがあり、ふたりは当分のあいだその二階に落ち着くことになって、東京駅から荷物を運んだ。』(太宰治 七里ヶ浜心中)
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 現在の内幸町はビルばかりが立ち並び、あつみが上京した昭和5年とは当然ですがまったく違います。
 高面順三と田部あつみは大きな希望を胸に上京した。順三は、立派な役者になるんだという夢を叶えるため、あつみはそんな夫を支えつつ、もしかしたら所在の書いた紙を渡してくれた松旭齋天勝に東京で会えるかもしれないという期待などがあった。しかし、上京して1カ月もしないうちに次第に生活は窮することとなっていく。それにともない、あつみと太宰が出会う運命も次第に近づいてくるのであった。

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by dazaiosamuh | 2016-10-19 19:45 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治の作品を、学校の教科書で読んだことは別として、自分で本を買って読み、太宰を好きになったのは21,22歳を過ぎてからのことでした。最初に読んだのは『人間失格』。初めて読んだ時、『電気ブラン』というのが何なのかよく分からなかった。調べてみると、東京浅草にある神谷バーの創業者である神谷伝兵衛が作ったブランデーが混合されたお酒であることが分かった。
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 東日本大震災の後、仕事を探しに上京した私は会社の同僚から太宰の聖地めぐりを勧められ、ゆかりの地を歩くようになったのですが、何だかんだつい最近まで神谷バーには行ったことがありませんでした。しかし、2カ月くらい前、浅草で太宰ゆかりの地を歩き、パシャパシャと写真を撮っている時に偶然、会社の同僚とばったり会ってしまい、立ち話しも何だしと思い、辺りを見回すとすぐ目と鼻の先に神谷バーがありました。前々から神谷バーに行こうと思ってはいたが、1人で入る勇気がなかったので、これは良い機会だと思い、その同僚(女性)を誘ったのでした。
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 電気ブランは、どうやら度数により『電気ブラン(30)』と『電気ブランオールド(40度)』の2種類がありましたが、お互い初めてということもあって、30度の電気ブランにしました。
 店内は想像していたのとは違いました。店名に「バー」とあるので、本当にバーのようなところをイメージしていたのですが、同僚曰く、「大衆酒場」みたいな店内で、思っていた以上に広く、そして多くの客でがやがやと賑わっていました。店内の様子をきょろきょろと見ているうちに、ボーイが電気ブランを運んできました。
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酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証し…』(人間失格
 少しどきどきしながら飲んでみると、まったりとした甘いお酒でした。同僚はお酒はあまり飲まない人なので、一口二口味見をしてすぐに私に残りを寄こしました。酒に弱い私でも、30度の電気ブラン2杯は普通に飲めたのですが、発売当初の度数は、45度と高かったようなので、太宰もこれぐらいの度数のときに飲んでいたのだと思います。

 電気ブランの由来は、前述の通り、度数が45度と高く、口の中がしびれる状態と電気でしびれるイメージとが一致していたため、ハイカラな飲み物として人気を博した。しかし、発売元の合同酒精は名前の由来を『電気との言葉がひどくモダンで新鮮に響いたから』とし、「口の中がしびれるため」という説は否定しているとのこと。

 太宰気分を味わうためにも、次回訪れるときは40度の電気ブランオールドを註文しようと思います。


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by dazaiosamuh | 2016-10-14 12:39 | 太宰治 | Comments(2)
 荻窪の碧雲荘跡の様子を見にいった日に、私は三鷹も訪れていました。友人が太宰ゆかりの珈琲店がある、と教えてくれていたからでした。そこはなんでも、前身が酒・煙草店で、当時太宰がこの附近を歩いて酒や煙草をよく買っていたらしいのです。
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 そのお店は珈琲松井商店といい、JR三鷹駅南口からバスで5分の下連雀通り沿いで、『スーパーあまいけ』の目の前にあります。一見入口が分かり難いですが、左下付近にお店の入り口があり、階段を上った2階にあります。
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 ホームページに『前身の松井商店(酒・たばこ店)には太宰もよく買い物に来ていたそうですよ。太宰の生きた時代をイメージしたDazai COFFEEは厳選した豆を最新式の自家焙煎機でブレンドしました。深くビターな味わいをお楽しみください』とありました。是非とも店主に話を伺おうと思い、お店に入りました。店内は内装が綺麗でとても気持ちの落着く雰囲気でした。ただ、少し狭いです。4人席のテーブル2つ(4人連れの客が2組だったので、テーブルをくっ付けただけかもしれません)と2人席のテーブル1つ、そしてカウンターが5,6席ほどで、間隔が結構狭い。

 Dazai COFFEEを註文しつつスタッフに話を伺うと、ちょうど私が訪れた日はお店を経営しているご夫婦がお休みとのことで、詳しい話を聞く事ができませんでした。ただ太宰は当時、この界隈をよく歩き、前身の松井商店(酒・煙草店)によく来たとのことでした。なのでご夫婦がいるときに日を改めて訪ねようと思います。
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 こちらがDazai COFFEEです。コーヒーは好きですが、味の違いの分からない男なので、素直に、「美味しい!!」としか感想を述べることができません。ただ少し苦みが強いような…。それにしても、店の雰囲気が私はとても気に入りました。落ち着きます。
 お店を出る時にスタッフが、「是非また来て、お店のご夫婦と太宰について語り合ってください」と言ってくれたのが嬉しかったです。会計の時に、ここを教えてくれた友人(珈琲好き)と自分にお土産を買って店を出ました。
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 Dazaiのドリップコーヒー(3つ入り)と小さなハンドバッグを購入しました。バックは、仕事に行くときのお弁当入れにいいかもしれません。財布やスマホを入れて、ちょっとそこまで買い出しにいくのにも手頃な感じです。
 お店のスタッフがいうには、太宰ファンにもあまり知られていないそうなので、穴場かもしれません。主にこの近辺に住むお客さんたちの憩いの場になっているようです。珈琲好きなら一度訪れてみてはいかがでしょうか。



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by dazaiosamuh | 2016-10-10 11:17 | 太宰治 | Comments(0)
 久しぶりに荻窪を訪れた。碧雲荘が取り壊されて以来、足を運ばなくなっていた。それは、言うまでもないが、私にとって太宰治が住んだことのある碧雲荘があったからこそ荻窪に足繁く通ったのであって、碧雲荘がない荻窪は私には訪れる動機が殆んどないようなものであった。しかし、その荻窪に碧雲荘があった頃まで私は幾度となく訪れたが、訪れる度に立寄る喫茶店(軽食屋?)があった。今日は碧雲荘跡がどうなっているのかその様子をちょっと見ておきたかったのと、その馴染みの喫茶店のマスターに久しぶりに会って、まあちょっとした世間話というのか、雑談をしたかったこともあり荻窪を訪れたのでした。
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 写真中央に碧雲荘があったのですが、現在は工事中となり囲われています。碧雲荘があったころ、毎回わくわくしながら訪れたことが懐かしく感じられます。私にとって太宰治が実際に住んだ建物が、取り壊しの危機に晒され、そして実際に取り壊され、跡地へと移り変わる様子を目の当たりにするのは、碧雲荘が初めてでもあり、初めて見た感動、取り壊しの危機を知った時の動揺、不安、そして無くなってしまった際の空虚、寂しさは何とも言えず、無念としか言いようがない。いつかここに碑が建てられるのでしょうか。
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 写真のゴミ収集車のすぐ真横(左側)の道に入ると碧雲荘跡があり、写真の右側に、荻窪を訪れる度によった喫茶店があります。しかし、来て見ると店のシャッターがおりており、嫌な予感がしつつ近づいてシャッターに貼られた紙を見ると、そこには閉店の知らせが書かれていました。
 どうやら先月9月20日をもって閉店したようです。ちょうど店の前に近づいた時、近所に住む住人がいて、「ここは閉店したよ。もしかして親戚かなんかか?」と話かけて来たので、「いえ、ここの常連でした。どうして閉店したのでしょうか?」と尋ねると、「この前たまたま見かけけど、すっかりやせ細っていたね。体調が悪かったんじゃないか」と言っていました。この店には碧雲荘が取り壊されて以来、ずっと来ていなかった。もう少し早く来ておけばよかった。碧雲荘だけでなく、馴染みの店も失ってしまった。寂しい限りだ。今後ますます荻窪は訪れる機会は減っていきそうです。


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by dazaiosamuh | 2016-10-06 19:13 | Comments(2)
 先月の中旬、私は会社のNゲージの大好きな同僚たちと高尾駅から僅か徒歩1,2分の場所に位置する、『八王子N広場』へ行ってきました。
 そこはNゲージを走らせる場所としては最大規模を誇り、直線区間15m、1周40~60mにもおよび、Nゲージにそこまで熱を入れていない私にとっても思わず興奮してしまうほどの世界が広がっていました。私はもともとNゲージに興味はなかったのですが、太宰の短編『列車』にC51が登場し、そのNゲージがあることを知って購入し、会社のNゲージが好きな同僚たちについてきたということだったのです。たしか10、11人ぐらい(女性の同僚も数人)で貸し切って利用したのですが、同僚のなかには、大きなキャリーバックにNゲージを詰め込んできた者もいて、「海外旅行にでも行くつもり?」とまわりから冷やかされていました。
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一九二五年に梅鉢工場という所でこしらえられたC五一型のその機関車は、同じ工場で同じころ製作された三等客車三輌と、食堂車、二等客車、二等寝台車、各々一輌ずつと、ほかに郵便やら荷物やらの貨車三輌と、都合九つの箱に、ざっと二百名からの旅客と十万を越える通信とそれにまつわる幾多の胸痛む物語とを載せ、雨の日も風の日も午後の二時半になれば、ピストンをはためかせて上野から青森へ向けて走った。時に依って万歳の叫喚で送られたり、手巾で名残を惜まれたり、または嗚咽でもって不吉な餞を受けるのである。列車番号は一○三。番号からして気持が悪い。一九二五年からいままで、八年も経っているが、その間にこの列車は幾万人の愛情を引き裂いたことか。』(列車)

 上野14時半発青森6時20分着となったのは1930年(昭和5年)で、4年後の1934年(昭和9年)には103列車は、上野10時発で青森23時着となっており、太宰が『列車』を書いたのは昭和8年で103列車が上野14時半発車の青森行であったから、その当時の時刻のまま書いたのが分かりますね。
 C51形蒸気機関車は1919年から1928年の間に、合計289両が製造された。製造場所は、鉄道院(省)浜松工場、汽車製造(大阪)、三菱造船所(神戸)である。
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 私が購入したのは、マイクロエースの『C51-276 お召仕様』です。お召列車ではないのが欲しかったのですが、私がまわったお店では売っていなかったのと、あまりお金をかけたくなかったので、こちらを購入しました。走らせるのは今回でまだ2度目で、ここに来る前に試運転させておこうと思い、同僚と秋葉原で1度走らせてあります。
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 C51は性能に於いて、従来と比較して飛躍的な性能向上を実現した機関車で、牽引力、高速性能、信頼性において高い水準であった。当初は18900形と称していたが、1928年6月にC51形と改称された。愛称はシゴイチとのこと。
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 橋を渡るC51。客車ですが、その走った年代に合わせた客車(食堂車なども)を連結させようと思ったのですが、金がかかるのと面倒だったのでそれらしく見える客車をつなげました。
一○三号のその列車は、つめたい雨の中で黒煙を吐きつつ発車の時刻を待っていた。私たちは列車の窓をひとつひとつたんねんに捜して歩いた。…(中略)…私は、まのわるい思いがして、なんの符号であろうか客車の横腹へしろいペンキで小さく書かれてあるスハフ134273という文字のあたりをこつこつと洋傘の柄でたたいたものだ。』(列車)
 ちなみに私がC51に連結させている客車は、順不同でスハ32形3輌、マニ36形(スハ32改造車)2輌、スハフ32形1輌です。マニ36形は1輌だけKATO製品で、他TOMIX製品です。時間とお金があるときに、ちゃんと時代に合わせた客車等を購入し連結させたいと思います。
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 ターンテーブルもありました。同僚たちは沢山の種類のNゲージを持参し思い思いに走らせていましたが、私はこれ(C51)しか持っていないので、6時間ひたすらC51を走らせていました。しかし、ターンテーブルを動かすのが面白くてずーっと回してみたり、動かしながら動画を撮影したりなど、6時間もあっという間でした。
 それにしても、蒸気機関車は車輪の数が圧倒的に多いのでレールにのせにくいし、車輪が脱線することも何度も…。私ののせかたが下手なだけだと思いますが。

 C51の走っている姿やターンテーブルに載せて動かしている動画を沢山撮ったので、記事に載せようと思っていたのですが、面倒くさくてやめました。
 やってみるとNゲージも楽しいですね、ハマってしまいそうです。


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by dazaiosamuh | 2016-10-03 19:36 | 太宰治 | Comments(2)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)