遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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昭和五年四月、田部あつみは突然平和ホームを辞めて、東新天地の喫茶店「チロル」へ移った。その喫茶店チロルの経営者は、高面順三で、明治四十年生まれの武雄と同じ歳であった。
 高面順三は、山口県出身で、幼い時期に父母と別れ、祖母に引き取られて生活した。祖母に大事に育てられた順三は、大変な読書家、勉強家であった。順三が喫茶店チロルを開いたのは、昭和3年の春で21歳の時である。
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 写真は流川通り。順三とあつみが働いた喫茶店チロルの詳しい場所は分かっていません。東新天地にあったというので、堀川、流川、薬研掘付近にあったのだと思います。
 喫茶店平和ホームから東新天地チロルへ移ったあつみであったが、すぐにその噂は広がった。
東新天地のチロルでは、美貌のあつみが現われたとあって、未来の芸術家の卵を気取る若者たちが、ますます足繁く通って来ていた。彼らは、中央の芸術家や演劇人が広島に来たとき、なるべくチロルへも立ち寄るよう誘ったりしていた。文学青年である順三が、文化人や殊に演劇関係者の来店を好んだせいもあるが、若い彼らには広島美人を一目でも見せて自慢したい下心と、お金に乏しい連中にもツケがきくという、もう一つの大きな利点があったからでもある。
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 写真は薬研掘周辺。この界隈は風俗店などが非常に多い印象を受けました。それだけ需要もあるということですか。あぶなく誘惑に負けそうになる。
 高面順三はもともと役者に対する強い憧れを抱いていた。ある日、順三の親しい友人が東京から広島へもどってきた。その友人は左翼劇場に所属していたのだが、東京での劇団の話を聞くうちに、順三は自分も東京に出て役者を目指したいという思いが強くなった。伯父の強い反対もあって踏み切れないでいたのだが、友人から新劇界に関する話をされ、我慢できなくなった順三は、いよいよ決意を固めることにしたのであった。

東新天地にエンゼルという洋画専門の一流館があって、その真向いに植木や盆栽を商う店があった。店といっても露店みたいなものだったが、そこから三軒目が喫茶店チロルで、何々賞をとって鼻高々の作家や詩人、画家なども多く集まった。むしろ彼らの溜り場といったほうが適切であったろう。それゆえ、喫茶店チロルには、つねづね芸術的な雰囲気が漂っていた。
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 エンゼル小路というのが目に入った。エンゼルという洋画館が当時どこにあったのかが分かれば、チロルの大体の場所も目星がつくのだが、そのエンゼルという洋画館はいくらネット、書籍等で調べても見つけることはできなかった(見落としているかもしれませんが…)
 しかし、『エンゼル小路』というのはどこからきた名前でしょうか。もしかしたら洋画館エンゼルの名残なのではないでしょうか。近くで掃き掃除をしているお兄さんに話を伺ったところ、『天使館が昔あったと聞いた事がある』と言っていました。
 やはり違うのか。偶然なのでしょうか。

 順三が決意を固めたころ、あつみは突然寝込んでしまった。順三と二人だけで働いていたため、無理が重なってのことであったが、あつみの兄・武雄の妻アキノが毎日看病に来てくれたおかげで、十日ほどであつみは元気になった。東京行きは、はじめは気乗りしなかったあつみだが、実は松旭齋天勝から東京、日比谷の住所を教えてもらっていたこともあり、心が揺れ動き、あつみもまた決意を固めるのであった。
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 写真はエンゼル小路の通りです。奥のほうへ進んで行くと中央通りやパルコ、アリスガーデンの方面へ出ます。
 田部あつみの両親は、可愛い末娘を手放したくなかったが、二人の決意は固かった。
東新天地のチロルの店は、伯父の処分に任せることにした。そしてまた東京での生活は、福山の素封家へ養子にゆく話がきまった鈴木の世話で、東京の劇団関係の会社に就職の紹介をしてくれる手筈が、いちおう整っていたのである。順三は働きながら新劇を学び、鈴木が果たせなかった夢を、自分が代わって全うしようとの、若者らしい激しい意欲を燃えたぎらせていた。
 広島での最後の夜、チロルに伯父やあつみの兄武雄たちが集まって、盛大な送別の宴をひらいてくれた。送別会のあと、みんなで記念写真を撮ることになり、伯父を中心にして右側に順三、左にあつみが並んで座った。
 これが広島での最後の写真であった。

 この東京行きが、あつみにとっての人生の岐路だったのでしょうか。松旭齋天勝へ弟子入りしていれば、もしくは東京で太宰と出会っていなければ…。どこであつみの人生の歯車は狂い始めてしまったのでしょうか。

 これで田部あつみと広島の記事は終了になります。


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by dazaiosamuh | 2016-09-29 21:06 | 太宰治 | Comments(2)
 
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 広島市中区本通りに廣文館という書店があります。ここは大正4年(1915年)11月1日創業の老舗で、創業から100年が過ぎている。
 田部あつみの生れは大正元年(1912年)12月2日。新天地界隈を闊歩していたあつみなら、必ず訪れたことがあるはずだ。兄の武雄は大変な読書好きで、『読書と芝居が何よりの趣味の武雄の所へ来ると、たくさん並べてある書棚から、どれでも自由に貸して貰えたからである。幼い頃からのあつみは、もともと本が大好きであった。泉境花、夏目漱石、芥川龍之介、谷崎潤一郎、それに近松門左衛門や井原西鶴などを、武雄の本棚から自由に持出した。』(太宰治 七里ヶ浜心中)
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 本が大好きならばなおさら、この廣文館を訪れたことがあるはず。もしかしたら兄と一緒に芝居を観に来たときに立寄ったり、喫茶店で働いていたときなども気晴らしに立寄ったことがあるかもしれません。
 写真は広島市中区本通りの廣文館金座街本店。パルコのすぐ近くにあります。私がたまたま立ち寄ったときに、店内にポスターがあり、それで創業から100年を迎えた老舗だと気が附きました。

 他にも探せば田部あつみが訪れたことのある場所等、色々見つけることができるかもしれませんね。

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by dazaiosamuh | 2016-09-25 19:50 | 太宰治 | Comments(0)
 あつみ目当で平和ホームへ通うようになった順三はあつみと次第に距離を縮めていき、二人で出かけるようにもなった。
あつみは順三と連れだって福屋で買物したり、比治山の夜桜見物にも一緒に出掛けた。前の年に広島に初めて百貨店福屋が開業したが、誰でもタダで乗れるエレベーターが珍しく、三階まで上下するエレベーターの順番を待つのに、店内に長い行列ができるほど繁盛していた。あつみの乙女ごころに重大な転機がおとずれつつあったのは、順三と花見に行ったその頃からである。』(太宰治 七里ヶ浜心中)
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 写真は比治山公園入口です。以下括弧書きWikipedia抜粋。
比治山(ひじやま)は、広島県広島市南区に位置する標高約70mの小高い丘である。
 旅行先ではレンタサイクルで駆けずり回って聖地巡りをしているのですが、比治山公園、『公園』と聞き、まさかなかなかの坂道があるとは思っていなかったので、気温が30℃を越えるなか、息も絶え絶えのぼる羽目になるとは思ってもみませんでした。
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 比治山公園の案内図がありました。昔から桜の名所だったようです。比治山の名前の由来には、諸説があり、『比治某という人物が住んでいたためとも、山の姿が肘を横にした形に似ているからとも言われている。
 市民の憩いの場の一つにもなっている比治山公園は、『市内有数の桜の花見のスポットとして開花時期には多くの人で賑わい、ぼんぼりが飾られ夜桜を見ることもできる』とあり、そこまで有名ならば順三とあつみがデートでくることも自然の流れと納得。
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 天気が良く気持がいい。汗だくになって自転車でここまできた私には、なおさらこの青空と清々しい風が体に心地よさ、リラクゼーションを与えてくれる。先ほどの案内図の赤丸の印が桜の木(ソメイヨシノ)のある個所です。
 この比治山公園はあつみが生まれる4,5年まえにできました。
1908年(明治41年)から広島市が公園として整備しだした。戦前から市内有数の桜の名所であった。また、当時はツツジの名所でもあった。1909年(明治42年)に御便殿が移設。陸軍基地と御便殿は2大名所となった。

 また市中心部では黄金山とともに自然豊かな場所で、『中世から渡り鳥の休憩地として著名で、江戸時代にはソデグロヅルが飛来していた。現在鶴見橋がある付近に広島藩による鶴の飼育場が設けられていて、これが鶴見橋の名前の由来となっている。現在は鶴は見られないが、マミチャジナイやキビタキの渡り鳥が確認されている。

 そういえば、訪れたときに、散歩をしている人のなかにはバードウォッチングをしている人や、何やら木を観察している人も多く見受けられた。
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 ついでに『ムーアの広場』にも立ち寄りました。この広場にも原爆の悲惨さを伝える碑があり、そこには焦土と化した当時の風景が描かれており、同じ角度で現在の町並みを見下ろすことができる。
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 当時、爆心地側である西側は壊滅的な被害を受けたが、この比治山のあったおかげで東側は爆風を遮ることができ影響が少なく火災も広がらなかったという。どこで生死を分けるか分からないものだ。
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 ムーアの広場の入り口付近で1匹の猫が近寄ってきて、ごろりとくつろぎ始めた。人慣れしているのか近づいてカメラを向けるも無視される。自分の身体の手入れに夢中で私のことなどお構いなし。自分の住む近所の猫には興味も湧かないのに、なぜか旅行先ではかまってしまう。何ででしょう。癒されますね。

 比治山公園は桜が咲く季節になると平和公園などとともに花見のスポットして多くの人で賑わう。あつみと順三は、自分たちの将来に想いを馳せながら夜桜を眺めたのでしょうか。

 広島編はもう少しだけ続きます。



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by dazaiosamuh | 2016-09-23 18:22 | 太宰治 | Comments(0)
昭和五年三月、新天地の新天座の横をすこし入ったところに、喫茶店平和ホームが開店した。テーブルも椅子も真新しく、内装も凝っていて開店早々にしては客の入りはいいほうだった。平和ホームのあつみは、いまでいえばウェイトレスだが、客のなかにはそのあでやかなあつみを目当に通うものが少なくなかったのである。高面順三もその一人であった。』(太宰治 七里ヶ浜心中)
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 新天地の新天座は調べた結果、ちょうど現在の中央通りの場所に位置していたようです。古地図で確かめました。写真の中央通り付近だと思います。
 あつみが平和ホームで働くことになったきっかけは、西松原の田部家の近所に住むお妾さんが、スポンサーに金を出させて新天地に喫茶店を出すことになったのだが、自分の姪と一緒に、あつみさんにも喫茶店を手伝ってほしい、と田部家に依頼があったからであった。その頃のあつみは、女学校を中退し、家の家事をしながら毎日華道や茶道の稽古に明け暮れていのであった。その喫茶店の話が持ち出されたとき、新天地の中心地で働けるということに魅力を感じ、心が動いたあつみは、開店と同時に働くことになったのであった。
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新天地の新天座の横をすこし入ったところ』とあるので、このすぐ付近に喫茶店『平和ホーム』があったのだと思います。偏見かもしれませんが、正直『平和ホーム』という店名は、介護施設や老人ホームのような印象を受けます。『平和ホーム』とだけ聞くと、まさか喫茶店だとは思いつかないです。

順三は、日課のように平和ホームに通った。一日に二度も三度も現われることもあって、その熱心さは大勢のあつみファンのなかで格別だった。
 熱心に通う順三に対してあつみも次第に惹かれていき、二人で一緒に出掛けたりなど、距離を縮めていくのであった。

 次回はあつみと順三が行った比治山を書きます。

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by dazaiosamuh | 2016-09-19 12:16 | 太宰治 | Comments(0)
 大正14年の12月に『八丁堀千日前の旧福屋の東隣りの空地に、新しく歌舞伎座が開場』した。
千日前には帝国館、日本館、太陽館と活動写真の常設館が立ち並び、千日前広場に小屋掛けの見せ物も多く賑やかで、大道芸人もたくさん集まっていた。歌舞伎座のこけら落しには先代中村雁治郎が出演。あつみも兄の武雄に伴われて一緒に観劇に行ったが、舞台の世界につよい魅力を感じはじめたのも、多分その頃からであったろう。』(太宰治 七里ヶ浜心中)
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 写真は八丁堀の交差点で、中央の建物付近が旧福屋跡になり、当時、隣りに空地がありそこに歌舞伎座ができたようです。当時、八丁堀電停は現在より一つ西側の筋にありました。現在の福屋を背後に写真を撮りました。歌舞伎座も当然現在はありません。
 その歌舞伎座に、昭和3年早春、松旭齋天勝(しょうきょくさいてんかつ)一座が来演したのだが、例によって兄の武雄と一緒に観劇に訪れたあつみは、その艶やかな舞台姿に魅せられ、何度も足を運び、なんとある日、天勝の楽屋を訪ねて弟子にして欲しいと頼み込んだのであった。
内弟子志願の田部あつみに、天勝は芸道の道は生やさしいものでないこと、苦労を知らないあつみのような娘に、とても辛抱できる筈のないことを話して、きっぱり断念するよう説得して帰そうとつとめた。
 だがあつみは諦めないで、翌日も、またその翌日も天勝の楽屋をたずねて来た。とうとう根負けした天勝は、小柄だけども可憐なあつみにその素質を認め、両親の内諾を得るために、西松原の田部島吉の許へ、天勝が自ら挨拶に行った。』(太宰治 七里ヶ浜心中)

 あつみの熱意におれて、天勝自ら、あつみの父・島吉の許へ挨拶に行くとは、あつみのその熱意は相当なものだったのでしょう。時代や風潮に逆行して、好きなことに素直に挑戦しようとするあつみの姿は、彼女について調べる私にとっても、とても素敵に見える。

 しかし、天勝がせっかく了解を得に島吉のもとへ訪れるも、結局、あつみの弟子入りは叶わないのであった。
島吉はびっくり仰天した。娘が芸人になるなんて、とんでもない話だった。あつみの根性に惚れこんだ松旭齋天勝の熱心な懇請にもかかわらず、島吉は一歩も退かず頑強に反対しつづけた。そのうち、天勝一座は次の巡業先へ発って行った。』(太宰治 七里ヶ浜心中)
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 写真は現在の福屋です。福屋は1929年(昭和4年)8月に開業し、1938年(昭和13年)に現在の場所へ新店舗として開館しました。本館は1945年(昭和20年)、原爆により被爆しており、現存する被爆建物の一つ。店舗棟は本館・東館・南館からなっているが、東館にある地には、平成20年頃まで100年近くに渡り松竹系の映画館があった。東館8階には、松竹系封切館の『松竹東洋座』と独立系の封切などを主に上映した『広島名画座』があったが、平成20年に閉館している。
 田部あつみが兄・武雄と共にみてまわった『日本館』(1916年に創設)は、『松竹東洋座』の前身にあたる。
 ちなみに閉館後の2010年(平成22年)に映画館『八丁座』に生まれ変わっている。
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 現在の福屋から道路を挟んで反対側の歩道に、福屋が被爆建物であることを示す碑がありました。
福屋百貨店(爆心地から約710メートル)
 鉄骨鉄筋コンクリート造地上8階、地下2階建ての建物は、原爆の炸裂による強烈な爆風と震動を受け、すべての施設、器具類が壊れ吹き飛ばされました。
 また、全館が炎の海と化し、建物の中にいた多くの人が亡くなり、建物は骨組みと外郭を残すだけになりました。

 天勝に弟子入りが叶わなかったあつみは無気力状態になり、学校にもますます身が入らなくなっていった。
あつみは女学校へもあまり登校せずに、家事の手伝いをしていることのほうが多くなり、そのまま学校を中退してしまった。彼女が自分で退学届を学校当局へ提出してしまったのである。
 後年、父の島吉は、もしあの時にあつみの望みを叶えて天勝師匠に任せていたら、あんなこと(津島修治と鎌倉腰越で心中)にはならなかったろうにと、そのことばかりいつまでも悔やんでいたという。

 父・島吉の胸中はさぞ苦しかったことと思います。私ももしあつみの父であったら、芸人など反対しただろうし、逆に、太宰と心中されたら、あの時天勝への弟子入りを許してあげれば良かったと悔やむことだろう。
 どちらにしても、父・島吉は悪くないことはたしかだ。何だかんだ娘と揉めても、大事な末っ子の可愛い娘だ、反対する気持は十分理解できる。
 となれば、あつみも自殺願望があったにせよ、共に心中を図った太宰治はやはり罪である。

 松旭齋天勝については、『田部あつみと広島』の記事が終わってから後で書こうと思っています。



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by dazaiosamuh | 2016-09-15 13:04 | 太宰治 | Comments(0)
 田部あつみの母校・広島市高等女学校が、現在の広島市立舟入高等学校の前身であることは書いたが、実はその多大な被害、犠牲者を出した広島市高等女学校は原爆の被害を受けた後、3年後である1948年8月6日に、母校に原爆慰霊碑が建立され、さらに9年後の1957年に慰霊碑は、平和公園の南側に出た、平和大橋のすぐ近くに移設された。
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 脇には沢山の千羽鶴があった。広島市高等女学校は、市内で最も多い679名の生徒・職員が亡くなった。
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 慰霊碑の中央に、『E₌MC²』と書かれた箱を持った少女がいる。これは、原爆の原理であるアインシュタインの相対性理論の原子力エネルギーの公式で「原爆」」を表している。この碑が建立された1948年、日本は連合軍の占領下にあり、米国の占領政策から原爆に関する報道などの一切は厳しく制限され、慰霊碑に「原爆」の文字を刻むことすら許されなかった。そのため、「原爆」という言葉意外で「原爆」をあらわす方法、「原爆」を戒める文字は何かないかと思案し、考案されたのが、この原子力エネルギーの公式である『E₌MC²』だったのだ。

 一瞬にして多くの命を奪った原爆。同じ日本人として、もやもやした気持ちになってしまいます。外国人観光客も多く訪れていましたが、どういう想いで平和公園を見てまわっていたのでしょうか。
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 自ら命を絶った田部あつみ。自分の命のみならず、母校などの思い出の場所も一瞬にして消されてしまった。
 死後、あつみもまさか故郷がこんな目に遭うなど思ってもいなかったはず。天国からどのような気持で故郷を見守っているのでしょうか。

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by dazaiosamuh | 2016-09-09 21:53 | 太宰治 | Comments(0)
あつみが小学校三年生のころ、八丁堀の南の堀川町に、新しい歓楽街新天地が出現した。もと中央勧商場のあったところである。新天地の東隣りにつづく東新天地を含めると、中央の広場を中心に新天座、日進館、映画俱楽部などの大きな劇場が立ちならび、カフェー、バー、レストラン、小料理屋、撞球場などが周辺にひしめいて、新天地は、広島の盛り場の代名詞になった。』(太宰治 七里ヶ浜心中
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 夜のアリスガーデン。新天地ができたのは大正10年ごろ、あつみが小学3年生くらいのころだが、新天地という正式の町名ができたのは戦後のことになる。父や兄が芝居が大好きだったので、新天地が出現すると、あつみはよく新天地界隈に連れて行かれ、大いに楽しんだ。

 そして高等女学校に入ると、あつみはますます大胆になり、髪をバッサリ切ったり、当時はありえない、洋服で街中を闊歩するようになる。
八丁堀千日前、本通り、新天地界隈を闊歩するあつみの可憐な洋服姿は、道行く人々の注目を一身にあつめた。たちまち評判になったあつみに、噂をきいた写真館からモデルの依頼がきた。新天地のワンダス写真館は、新天座や泰平館(のちの帝国劇場)の前にあって、そのころの広島で一番大きな写真館であった。モダンな洋服姿のあつみの写真は、大きく引伸ばされて、写真館のショウ・ウィンドウに長いあいだ飾られて、道行く人々の注目を惹いたという。この時代に一般家庭の娘で、そのような洋装スタイルで市内を闊歩した娘は、おそらく、田部あつみが初めてのことではなかったろうか。』(太宰治 七里ヶ浜心中
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 写真は中央がワシントンホテル、右がパルコで、あつみがいた当時、新天地にあった新天座、泰平館はこのワシントンホテル、パルコ付近にあった。
新天地の中核をなしていたのは、広場の西側の新天座であった。その巨大な小屋組千鳥破風造りの豪壮な構えは、京大阪へ出しても充分に通用するほど立派だったのである。新天座で観劇したり、新着の活動写真を映画俱楽部で見たかえりには、本通り入口の革屋町の喫茶店にはいった。』(太宰治 七里ヶ浜心中

 パルコのすぐ近辺に、『永井紙店』があるが、そこの現在の社長である永井健二氏の祖父・永井林太郎が新天座や泰平館を経営した。ちなみに泰平館はもとは映画館「映画俱楽部」で、大正13年に泰平館になり、昭和5年に帝国座、昭和15年に帝国劇場と名を変えました。
 ワンダス写真館は新天座、泰平館の前にあったということなので、同じく写真の近辺に当時あったようですね。今では当たり前ですが、洋服を着慣れない時代に洋装スタイルで颯爽と歩くあつみの姿は、ひときわ人目を惹きつけたことでしょうね。
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 ちなみにこちらが、永井紙店で社長の永井健二氏からお話しを伺うことができ、永井紙店の背負ってきたものや原爆の話など、色々と貴重な話を聞くことができて良い体験になりました。永井氏は「人はみな互いに手をとりあって、助け合って生きていかねばならない」という言葉を何度も強調し話され、被爆二世であることもあり非常に説得力があり、とても印象に残っています。貴重な話、ありがとうございました。

※9月19日、追記
 ・さらに調べたところ、新天座は現在の中央通りにあったようです。


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by dazaiosamuh | 2016-09-04 15:04 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)