遠い空の向こうへ

tushima.exblog.jp

太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

ブログトップ

<   2016年 08月 ( 7 )   > この月の画像一覧

大正十四年四月、田部あつみは女学生として、広島市立第一高等女学校の門をくぐった。優れた先生が多く集まっていて、女学生に対する躾けも実にきびしく、学生が新天地に出入りすることなど、絶対に許されなかった時代である。日清、日露の戦役における靖国の母、軍神乃木大将の妻に範をとり、良妻賢母の大和撫子の訓育を主眼として子女を教導した。』(太宰治 七里ヶ浜心中
c0316988_12224376.jpg
 かつて、あつみの通った広島市立第一高等女学校は現在、広島市立舟入高等学校となっている。1921年に広島市立第一高等女学校として設立されたが、1945年8月、原爆により教師・生徒あわせて676名が亡くなっている。これは市内の学校の中では最多の犠牲者である。
 その後、1948年、学制改革により広島市立二葉高等学校に改組、1949年に学校再編成により、広島県広島舟入高等学校になり、この時から男女共学になった。現在の広島市立舟入高等学校に改称したのは1980年である。
『優れた先生が多く集まっていて、女学生に対する躾けも実にきびしく…』とあるように、当時から今も変わらず罰則は厳しいようで、『2007年に携帯電話の持ち込みが許可された。しかし電源を切ることが条件であり、見つかった場合の罰則は厳しくなっている。』(Wikipediaより)また、『遅刻に対しては月に規定回数を超えると反省文を求めるなど厳しい指導が行われており、遅刻者がいなかった場合にはアルルの女が校舎で流されるなど、特徴的な運動を行っている。』(Wikipediaより)
 私が通った学校とは大違い……。携帯電話の着信がなっても一言注意を受けるのみ、なかには別に注意しない教師もいるほど……。厳しく窮屈そうで、私にも無理かも。
c0316988_12230192.jpg
 現在の広島市立舟入高等学校。あつみの通った女学校から変わらず名門校として有名である。校章は、他の市内6校が校樹をモチーフにしているのに対して、舟入高校は「舟」をモチーフにしているらしい。
その頃、広島第一高等女学校三年の田部あつみは、ときどき学校を欠席することが次第に多くなっていた。次兄の影響をつよく受けて、迅くから自由の身についたあつみには、厳格な校風が合わなかったし、女学校を出てもただお嫁にゆくだけなら、あまり意味がないように思えてきた。家族にも内緒で、大胆にも髪を半分切ってしまったのである。
 父は激怒したが、既にあとの祭りで姉たちが何とかとりなしてくれた。それでも父の怒りは中々おさまらなかったが、あつみのほうも、その点では驚くほど強情であった。髪を切った件がどうやら落ち着いたころ、こんどは、洋服を作りたいと言い出した。
 その時代に、一般の女性が洋服を着て街を歩くなどは、広島ではまさに破天荒なことであったのである。もちろん父が許すはずがなかった。それでもあつみは、臙脂の襟のついた真紅の洋服をこしらえてしまった。当時、二円だった女学校の月謝を流用したのでなければ、兄が父に内緒で仕立代を出してくれたのかも知れない。』(太宰治 七里ヶ浜心中

 時代や風潮に逆らい、自由に生きようとする田辺あつみ。あつみは常に周りに惑わされず時代の先端を行こうとしていたのではないか。それでもやはり、家族はあつみに頭を抱え何かと苦労したことを思えば、親不孝でもあったか。せっかく成績優秀で女学校に入学したのに、のちにあつみは女学校を中退することになる。もったいないですね。

 高等女学校原爆慰霊碑は、1948年8月6日に母校で建立されましたが、その後、1957年に平和公園寄りの平和大橋のすぐ近くに移されました。後ほど載せたいと思います。


[PR]
by dazaiosamuh | 2016-08-30 17:35 | 太宰治 | Comments(0)
 大正8年4月、あつみは天満尋常小学校に入学した。あつみの兄、姉たちも学校の成績は良かったが、『シメ子も小学校時代の成績は抜群によかった』そうだ。そして長男の達吉は、園芸用の如雨露の口に小さい穴をあける特殊な機械を発明したりなどしていた。さらに、そのほかにも『動力を用いないで船を動かす珍しい装置とか、いろいろな新案特許を幾つも取得したのだが、スポンサーがつかないから、残念ながら実現はしなかった。
c0316988_11131916.jpg
c0316988_11133277.jpg
 天満宮の裏手側から見た現在の広島市立天満小学校。とても広々とした子供たちの遊びやすそうな校庭ですね。創業は明治6年と歴史がありますが、原爆投下のあった昭和20年8月6日の午前8時15分、校舎は全壊し、職員13名・児童280名が即死した。
 その後、校舎の焼け跡に青空教室を設けて授業を再開し、バラック教室などを造ったりなどして少しづつ大きくしていった。

父の許を離れた武雄は理髪業で身を立てようと、知り合いを頼って弟子入りし修行に励んでいた。あつみは事あるたびに武雄のところまで相談にきた。休日になると、兄は妹を連れて新天地の泰平館へ活動写真を見にいった。泰平館はもとの映画俱楽部で、大正十三年に名を変えていたが、西洋の活動写真(洋画)を上映していることが多かった。こうして、迅くから西洋の雰囲気に浸っていたことが、のちのあつみを進歩的なモダンな女性に変身させた大きな要因の一つになっている。』(太宰治 七里ヶ浜心中
c0316988_11134008.jpg
 小学校卒業も近くなり、成績抜群であったあつみは女学校の入学試験を受けることになった。当時、女性が学問をすることなどもってのほか、という風潮があったため、あつみは特別な扱いであった。女学校の入試に備えて毎週手習にも欠かさず通った。
女学校の入学試験の日は、担任の先生が付き添ってくれた。合格発表の時、彼女の名前は、かなり上位にランクされていて、心配して発表を見にきた両親の島吉やシナをよろこばせた。
 あつみにとっても生涯で最良の晴れがましい日であったが、いま想えば、これが最後で唯一の親孝行であったかも知れない。』(太宰治 七里ヶ浜心中

 あつみがいた当時、まだ川添川があったころ、あつみは小さい時から姉たちと一緒に川に入って遊んだ。小学校時代、『選手にえらばれるほど、シメ子は水泳が得意』であった。
幼い頃から、踊りをはじめ芸事はひととおり習っていたので、小学校の学芸会では、いつも主要な役を演じるのが常だったが、シメ子が自分の名前を極端に嫌うようになったのも、そのころからである。シメ子は、すぐ上の兄の武雄に相談したりして、いろいろ思案の末に、「あつみ」という名が気に入ってしまい、それ以後はシメ子の名前をいっさい使わず、田部あつみで押しとおしていた。それゆえに、通称となっている田部あつみという名前でないと、広島の旧い友だちにさえ分からない。おそらく彼女自身は、嫁ぐまえには戸籍名のほうも、「田部あつみ」と改名するつもりであったろう。』(太宰治 七里ヶ浜心中

 両親が一生懸命に考えてつけてくれた名前であろう、親不孝であったと私は思う。しかし、広島市内に新天地が出現し、映画俱楽部や活動写真館(洋画)、カフェー、バー、レストラン、撞球場などができ、幼いときから西洋の世界に触れるようになり、『進歩的でモダンな女性』へと変わっていったあつみにとって、『シメ子』という名は、自分に合わないと思うようになったのかもしれません。


[PR]
by dazaiosamuh | 2016-08-26 12:16 | 太宰治 | Comments(2)
大正八年四月、シメ子は天満尋常小学校に入った。小学校へは、西松原から川添川に架る福島橋を渡り、天満町の東端にちかい天神社の脇を抜けて通ったのだが、現在は川添川(福島川)そのものが埋め立てられてしまったので、今の地図では西松原を探すことさえも困難である。』(太宰治 七里ヶ浜心中

 『太宰治 七里ヶ浜心中』に記載されている通り、福島川は埋め立てられているので、探すことは困難ですが、そのかつて福島川に架っていた福島橋は、現在の都町交差点付近にあったようです。
c0316988_15501462.jpg
 現在の都町です。この周辺をかつて福島川(旧名・川添川)が流れていました。もともと福島町は川添村と呼ばれており、そこを流れる川添川に架る橋を川添橋と呼んでいた。1919年(大正8年)の市内全域で起きた洪水の被害により落橋し、鋼橋に架け直されたとするものもあるが、1945年の被爆時点では木橋であったそうだ。
 あつみが渡っていた当時、昭和初期ごろまで市内でもっとも長い橋であった。そのため渡るのに時間がかかり、冬場になると寒さで耳が切れるように痛むことから、別名『耳切り橋』とも言われていた。
c0316988_15500367.jpg
 太田川放水路工事に伴い、福島川が埋め立てられることになり福島橋の廃橋が決定したのは1927年(昭和2年)だが、太平洋戦争や用地買収に伴い工期は戦後に伸びており、結果、太田川放水路整備に伴い取り壊し、付近の福島川の埋め立ては1945年(昭和20年)の原子爆弾投下の後になっている。
c0316988_15495053.jpg
 あつみが小学校に通う際に、『天満町の東端にちかい天神社の脇を抜けて通った』とされる、その天神社とはこの天満宮のことです。この天満宮のすぐ裏手に天満小学校があります。場所も天満町の東端に位置している。この天満宮は、文政5年(1822年)に尾張天満宮を分霊しこの地に勧請したものである。
c0316988_15493597.jpg
 天満宮の裏手の写真です。『天神社の脇を抜けて通った…』とあるように、脇道があります。
『通りゃんせ通りゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ どうぞ通して下しゃんせ ご用のないもの通しゃせぬ この子の七つのお祝いにお札を納めにまいります』

 何となく私はもこの脇道を通ってみましたが距離も短く、別段思うこともありませんでした。あつみが居た当時とは周りの景色、雰囲気も全く違うと思うので比べようがありませんが。
c0316988_15502852.jpg
天満町の東端に天満橋があり、橋の向側は堺町。堺町の北側に榎町、新地座、新市場、大工町、猫屋町、その先が左官町、十日町であった。堺町の南側は小網町、西新町、河原町、さらにその先がシメ子の生まれた小河内となる。小網町は西遊郭のあったところで、当時の花代(料金)は上等で七十銭、中等が五十銭、下等は三十銭で時間は五十分だったそうである。天満橋は木造であったが、シメ子が小学校に入学した年の夏、豪雨で橋が二つに折れ、濁流に吸い込まれてしまった。天満橋が鉄の端に造りかえられたのは、それ以後のことになる。』(太宰治 七里ヶ浜心中

 橋を渡り進むと、右手に天満宮があります。当時、あつみも市内に行くときにこの橋を渡ったのだと思います。
c0316988_15503857.jpg
 奥に見える橋は、広電の通る天満橋です。橋の上から川を眺めるのはどうして気持ちが落ち着くのでしょうか。草津梅林の後は、広島駅の近くのトヨタレンタカーで自転車をレンタルし、走りまわり汗だくになっていたのですが、少し体も落ち着きました。
 天満橋に就いて詳しい架橋年度は不明となっていますが、安土桃山時代からあるようです。天明7年(1787年)にはすでに「天満橋」と名が付けられています。実は歴史のある橋だったのですね。
 現在のこの天満橋は1950年(昭和25年)に再架橋されたものです。

 次回は小学校を載せます。


[PR]
by dazaiosamuh | 2016-08-22 15:56 | 太宰治 | Comments(0)
 田部あつみが生まれる前、父・島吉と母・シナは教専寺の前に住み、そののち子どもたちを連れて能美島へ帰り、その後、また船で広島へ渡り、広島市内の西松原の近くに住居を構えた。その頃、シナのお腹に生を受けたのがあつみであった。そしてさらに数年後、夫婦は舟入町川口に転居した。
c0316988_18401081.jpg
数年後、島吉夫婦は、舟入町川口に転居し、さらに己斐ちかくの福島町に移った。川添川(又は福島川)のほとりで、見事な街道松の名所として有名であったが、このあたり一帯は広島駅付近の東松原(いろは松原)に対して、西松原と呼ばれたところである。』(太宰治 七里ヶ浜心中

 当然、当時の面影など皆無である。原爆さえなければ、色々と資料が残っていただろうに、原爆投下でほとんどが失われた。あつみのゆかりの地を歩くのはなかなか難しい。
c0316988_18402392.jpg
c0316988_18403670.jpg
小学校にあがる前のシメ子は、一番末の娘でもあったし、父母や兄姉たちの寵愛を一身にうけ、それこそ腫れ物にさわるように大事に育てられた。踊りは四歳のときから習わせられたし、姉たちが競って稽古事を教えたりしたので、幼い時から町内の祭りや催し物があると、かならず引っ張り出されていた。髪飾りをつけて可愛らしいシメ子は、すでにその頃から、”西松原の器量好し„と福島町界隈で評判であった。』(太宰治 七里ヶ浜心中

 住居を転々とした理由はよく分からない。いや、特に理由などなかったのかもしれない。ただ、住所は『二、三度転居しているが、戸籍上は福島町十九番地のままとなってい』(※)たらしい。
 ※(太宰治文学アルバム 女性編

 たかが1泊2日程度で田部あつみのゆかりの地を踏査し尽すことなどできないと改めて痛感した。もっと膨大な時間をかけ、何度も足を運ばなくてはならない。それを考えれば、『太宰治 七里ヶ浜心中』や『太宰治文学アルバム』等の著者である長篠康一郎には脱帽します。
 『田部あつみと広島』は私なりの記事を引き続き書いていこうと思います。


[PR]
by dazaiosamuh | 2016-08-19 18:42 | 太宰治 | Comments(2)
 田部あつみ(本名・田部シメ子)は大正元年12月2日に生れたが、ちょうどその年の11月、広島城の外堀が埋め立てられ、翌年1912年から1918年にかけて道路(相生通りや鯉城通り)や軌道が整備された。

この年、広島城の外堀を埋めて軌道を敷き、はじめて広島に市内電車が開通。翌年には、繁華街八丁堀の千日前に、西部の中島の世界館につぐ二番目の常設映画館が造られた。千日前の食堂でウドンが一杯二銭だったが、市内電車は五銭、映画館は十銭から二十銭、高いときで三十銭という時代である。シメ子が物ごころつく頃まで育った舟入町の生家は、戦争末期の広島に原子爆弾が投下され、いまは、跡方もない。』(太宰治 七里ヶ浜心中
c0316988_11484225.jpg
 写真は相生通りと鯉城通りの交わる交差点で、奥へ進むと広島城がある。この周辺が全部埋め立てられたということか。埋め立て理由は、日清戦争、日露戦争以降、市内は爆発的に人口が増加していき、ゴミ等の量も増え、広島城の堀の悪臭が目立つようになったからであった。そこで明治40年代になると市により外堀や城下町時代に運河として使われていた西塔川や平田屋川の埋め立てが始まった。都市開発により広島城周辺は城跡の面影がまったくない。
c0316988_11495324.jpg
c0316988_11491489.jpg
c0316988_11485873.jpg
 広島城は、別名『鯉城(りじょう)』とも言われているらしい。私は初めて知りました。由来は様々で、広島城があった一体は昔『己斐浦(こいのうら)』と呼ばれ、広島市西区己斐の地名は延喜式で嘉字地名とされる前は、『鯉』であったと言われていることからや、その他の一説には、堀にたくさんの鯉がいたからなど、様々である。

 広島城は軍の敷地であったことから立ち入り禁止であったが、1928年(昭和3年)に天守の一般開放がされている。田部あつみが高面順三とともに広島を発ち、東京へ向かったのは昭和5年であるから、もしかしたら、あつみも見学に足を運んだこともあるかもしれない。


[PR]
by dazaiosamuh | 2016-08-12 11:52 | 太宰治 | Comments(0)
 田部あつみについて調べるまで、草津が梅林の名所だとは知らなかった。いや「名所だった」が正しいか。現在は石碑が寂しく建てられているぐらいのようだ。
c0316988_10571806.jpg
 草津駅から広電でわずか3分(歩いても良かったな…)、商工センター入口駅に降りた。ここから石碑のある場所まで400mほどらしい。どうやら草津病院の北入口付近にあるみたいだ。地形などをみて、たぶん私は迷うだろうなと思ったので、近くにいた女性に尋ねると、「えっ、草津梅林跡…名所だったのですか」と草津病院はすぐに分かっても草津梅林が名所であったことは知らなかったようだ。特に若い人は草津が梅林の名所だったことを知らない人は多い。

 太宰の命日である6月13日に訪れたのだが、この日はたしか30℃まで気温があがった。時折、小雨がパラパラと降ったりしたがすぐに晴れたのでよかった。汗だくになりながら上り坂を進み、迷いながら草津病院の北入口に到着。
c0316988_10573391.jpg
 ぽつんと建てられている。名所・草津梅林として謳われた面影は感じられず、ただ静かに石碑が建てられている感じであった。

草津村は、広島西部の己斐駅から南へ一里半のところで、梅林の名所として有名だったが、当時は宮島線もまだなかった頃であり、乗合馬車が唯一の交通機関であった。その頃春先の花見といえば、桜よりも草津の梅林のほうがずっと人気があったのである。比治山や長寿山にもまだ桜のなかったころで、草津は広島近郊随一の行楽地であった。』(太宰治 七里ヶ浜心中
c0316988_10574346.jpg
 草津梅林は、江戸時代から名所として有名であったそうだ。瀬戸内海を望む高台にあり、多くの人で賑わった。
 田部あつみも、もしかしたら桜より梅の木に親しみがあり、見に来ることもあったかもしれません。
c0316988_10575347.jpg
 梅林は高台にあり、多くの人が訪れたというだけあって、見晴らしもいいですね。梅の時期には、弁当を提げて梅の木の下で食べながら、景色を堪能したのでしょう。
c0316988_10580285.jpg
『草津梅が台』として地名に名残をとどめているが、どうにか梅を植えて、昔のように草津梅林を復活させることはできないのでしょうか。初めて訪れた土地でしたが、少し寂しい気持になってしまいました。


[PR]
by dazaiosamuh | 2016-08-08 19:40 | 太宰治 | Comments(0)
 田部あつみの父・島吉と母・シナは能美島の出身で、結婚後にこの草津へ移った。
 その時移り住んだ場所は、前回記事に載せた教専寺の前であった。
c0316988_09485143.jpg
 教専寺の前の路地です。周りの住宅は真新しい新築も多くありましたが、なかには昭和の中頃から残っているであろう家屋も見受けられました。

能美からきた島吉とシナは、教専寺のすぐ前で花屋を開いた。あつみの三人の姉たちは、みんなこの草津で生まれている。』(太宰治 七里ヶ浜心中

『教専寺のすぐ前で…』とあるので、この周辺にあつみの両親、島吉とシナは住んでいたのでしょう。仲睦まじく花屋で働く夫婦が想像されます。
c0316988_09490385.jpg
 この草津の教専寺前に住んでいたころはまだあつみは生れていなかった。
明治四十四年に三男の正美が亡くなったとき、島吉は、故郷の能美にある先祖代々の墓とは別に、教専寺の墓地に新しい墓を建てた。そののち、島吉は子供たちを連れて能美島へ帰っていたが、翌る年の春、ふたたび船で広島に渡り、こんどは広島市内の西松原の近くに住居を構えた。その頃、シナのお腹にいたのだ、あつみだったのである。』(太宰治 七里ヶ浜心中
c0316988_09491513.jpg
 別の角度からの教専寺です。周辺の路地は車がやっと1台通れるくらいの幅です。
c0316988_09492452.jpg
念佛の道は、おかげさまと生かされ、ありがとうと生き抜く道です。(浄土真宗教専寺)』
 なるほど、その通りだ。生きていることに感謝し、人生を全うするのだ。田部あつみは19歳でこの世を去った。いくらでもやり直す事はできたであろう。馬鹿なことをしたものだ。

 次回は草津の梅林について書きます。


[PR]
by dazaiosamuh | 2016-08-05 09:52 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)