遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 西広島駅から田部あつみの眠る教専寺のある草津駅までは広電に乗り換えて向かいました。
梅林は地元ではウメヤマといったが、ウメヤマの山すそにある教専寺は、草津で一番大きな寺である。能美からきた島吉とシナは、教専寺のすぐ前で花屋を開いた。あつみの三人の姉たちは、みんなこの草津で生れている。』(太宰治 七里ヶ浜心中
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 駅に降り立つと、とても長閑な印象を受けました。ここから教専寺までは徒歩1,2分と近く、方向音痴の私でもすぐに発見できました。周辺に地図看板があったので一応載せます。
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 教専寺に行く途中で花屋があったので、花と線香を買い求めると店の女性が、「どちらの寺まで?」と尋ねるので、「すぐそこの教専寺です」と答えると「じゃあ、線香に火をつけていったほうが早いわね」と言い、線香に火をつけました。私も、まあいいかと、この時は田部あつみのお墓が必ずあるものだと思っていたので、なんの疑問も抱かずに寺へ向かったのですが……。
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薄幸な女性田部あつみの遺骨は、広島市郊外の菩提寺に埋葬された。墓碑には田部シメ子の俗名も戒名も刻まれていないが、菩提寺の過去帳には、「昭和五年十一月二十八日、釈妙晃信女、島吉ノ子、田部シメ子、十九歳」とある。十九歳というのは数え年であるから、今の満年齢なら十七歳である。あと五日経てば、満十八歳の誕生日を祝える直前であった。あつみの遺骨が埋葬されるとき、順三の要望もあって、遺骨を半分に分け、順三が自分の故郷に持ち帰って納骨したという。』(太宰治 七里ヶ浜心中

あつみの亡骸は検死ののち、高面順三が立ち会って荼毘に付し、数日後、順三が遺骨を広島へ持ち帰って、草津の教専寺に埋葬した。』(太宰治文学アルバム 女性編

 教専寺へ到着し、さっそく墓所へ向かったのですが、いくら探しても見当たりません。うろうろと墓所を2周、3周といくら探してみても、まったくないのです。そうしているうちに、線香はどんどんボロボロと崩れて手に落ちては、「あちちっ、あちちっ」と一人で阿保なことをしています。生憎まわりに人が居なかったので良かったですが、花と火のついた線香を持って「あちちっ」と言いながら墓所を歩き回る姿は傍から見たら滑稽だったと思います。
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 仕方がなく、私はお寺の人に尋ねることにし、線香は止むを得ず何もない地面に仮置きし、花だけ持って本堂の表の方へ行き、寺の関係者らしき女性がいたので事情を説明し田部あつみのお墓参りにきた旨を伝えると、「あ、田部家のお墓ですね。申し訳ございませんが、お墓は親族が別のお寺に移してしまって、ここ(教専寺)にはもう無いんです。」と言われました。ショックで私は数秒間、返答できませんでした。せっかくここまで来たのに、線香に火をつけて墓所を右往左往した自分が馬鹿である。本物の馬鹿である。女性に「じゃあ、その移動先のお寺はどこですか、どこなのですか?」とまるで縋りつくかのような勢いで尋ねると、「いやあ、移したお寺までは分かりません」
 私はただ小声で「あ、そうなのですか…」と答えるのがやっとでした。その時、手に花を持っていたことに自分で気づき、「あ、すみません、この花…どうしたらいいでしょうか」と言うと、じゃあ折角なのでこちらで頂きますよと言ってくれたので、私もお願いします、忙しいところすみませんでした、ありがとうございましたとお礼を言い、その場を去りました。
 また墓所へ向かい、先ほど地面に仮置きしていた線香を「これ、どうしよう」と茫然と眺めていましたが、まさか先ほどの女性に火のついた線香を「これもお願いします」と言うのも、なんだか恥ずかしかったので、周りを見渡し、無礼を承知で近くにあった大きな立派なお墓にお線香を立てました。
 手を合わせ、心の中で「名も知らなければ、何の縁もございませんが、安らかに眠ってください」と。

 長篠康一郎の著書、『太宰治 七里ヶ浜心中』『太宰治文学アルバム』『太宰治文学アルバム 女性編』に、田部あつみの墓が草津の教専寺にあることが写真付きで記載されている。その3冊は昭和56年から57年にかけて出版されたもので、相当古い情報で、この情報を鵜呑みにしてしまった私もいけなかったが、如何せんそれ以外に情報がないのである。田部家の墓がいつ頃に別のお寺へ移されたのかを、私はあの時ショックのあまり女性に訊きそびれてしまった。
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 残念であった。是非とも田部あつみにご挨拶してからゆかりの地を歩きたかったが、仕方が無い。ちなみに、この教専寺は原爆を耐えぬいたようです。すごいですね。
 次回へ続きます。
 

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by dazaiosamuh | 2016-07-28 16:23 | 太宰治 | Comments(2)
 先月6月19日の太宰生誕日の6日前、13日は太宰治の命日である。私は13、14日と、あえて太宰のゆかりの地ではなく、昭和5年に太宰と鎌倉で心中し命を落とした、田部あつみの故郷である広島を歩いてみた。広島を訪れるのは初めてである。
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 田部あつみ(たなべあつみ)の本名は田部シメ子。大正元年(1912)12月2日、広島県安佐郡字小河内で、父・田部島吉、妻・田部シナの四女として生れた。
 長男・達吉、次男・武雄、三男・正美、長女・ハツヨ、次女・玉代、三女・ナルミがおり、あつみは7番目の子である。三男の正美は、風邪が原因により、1年たらずで亡くなってしまったが、ほかはみなすくすくと育った。
島吉とシナのふたりは、ともに能美島の出身で、その先祖は平家に仕えた武士の末裔だと伝えられる。島吉は、シナと結婚して数年ののち、能美から広島郊外の草津に移った。
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 写真は現在の西広島駅で、あつみがいた当時は己斐駅という名であった。昭和44年(1969)10月1日に己斐駅から西広島駅へ改称している。
 田部あつみについての情報は、書籍等含めて非常に乏しく、唯一、あつみについて多く書かれているのが長篠康一郎著『太宰治 七里ヶ浜心中』(広論社)で、今回の広島探索はなかなか難儀であった。しかし、長篠康一郎の時間と金を惜しまぬ情熱的な踏査による研究は素晴らしく、脱帽である。私はその長篠康一郎の力をお借りし、『太宰治 七里ヶ浜心中』をもとにあつみの広島を歩いてみました。
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 駅近くには当時、己斐駅であったことを示すプレートがあった。
己斐駅(現・国鉄西広島駅 爆心地から2,400メートル)
 1945年(昭和20年)、8月6日、午前8時15分、原爆により駅舎の大部分が一瞬にして倒壊した。しかし、その時は、上・下列車が出た後で、待合室の客は少数であったので人的被害は少なかった。
 この駅は広島の西玄関口であり、近郊へ避難する無数の被災者が殺到した。

 あつみの本名である、シメ子の由来は、『シナにとっては七人目の子であった。自分たちの子供は、もうこれでおしまいにしたいとのねがいから、これが最後の子という意味で、生れたその子に、シメ子と名付けた。

 父・島吉と母・シナが能美から移り住んだ草津へは、現在、西広島駅から宮島線で10分もかからない。明治44年に三男・正美が亡くなったとき、島吉は、故郷の能美にある先祖代々の墓とは別に、草津の教専寺に新しいお墓を建てた。

 そして、田部あつみもまた、草津の教専寺で同じお墓で眠っている……。私はまず最初に田部あつみのお墓へ挨拶をしに行こうと草津の教専寺へ向かったが、この時はまだ、ショックなことが起きるとは思ってませんでした…。
 次回へ続きます。


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by dazaiosamuh | 2016-07-24 13:42 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治生誕祭の前日に、青森市を少し訪れ太宰のゆかりの地を巡ったので載せておきます。

 昭和2年5月21日、改造社主催の『現代日本文学全集』刊行記念講演映画大会のため、秋田雨雀と片岡鉄兵とが青森市を訪れた。その時、北海道での講演を終え次の新潟での講演に向かうため、青森に立寄った芥川龍之介は、列車の発車までの時間を市公会堂で過ごすことにしたのだが、そのとき出演を急遽依頼され登壇。約30分ほど話をした。
 当時、旧制弘前高校1年生であった太宰治は、憧れの芥川龍之介の講演を拝聴し大いに感動した。
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 現在は青森市福祉増進センター・しあわせプラザとなっています。
竹内俊吉挨拶のあと、秋田雨雀、片岡鉄兵、それに芥川龍之介が講師で、浜町海岸の公会堂(現しあわせプラザ)は大変な盛会だったが、三ヶ月後、芥川が自殺……心酔していた太宰はこれを契機に、女師匠に義太夫を習う一方、泉鏡花作品などの影響もあって、浜町の花柳界へ出入りするようになった。』(新編 太宰治と青森のまち

 『将来に対する唯ぼんやりとした不安』を動機に、講演から僅か2カ月後に芥川は自殺、この自殺が当時の太宰に影響を及ぼすことになる。
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 建物の前には石碑があり、その説明書きに太宰治が芥川の講演を聴いた旨の内容が記載されていた。
大正天皇のご結婚を祝い、その記念事業として建築された。全市民待望の落成式は、明治34年(1901)10月30日挙行。その後、大正14年(1925)、青い海原を背景に近代的な鉄筋三階建て(延面積2,250㎥約680坪)に増改築した。青森市史(年表編)には「10月31日青森市新公会堂竣工、同年11月30日落成式挙行、建築工費184,500円」と記載されている。東北、北海道を代表する施設であったという。
(中略)
 昭和初期……改造社主催による文芸・特別講演会に、当時、官立弘高生であった太宰治が、私淑していた芥川龍之介などの講演を聞くために弘前から駆けつけたという。
 講演会は、2,000名近い聴衆で身動きできないほどの盛会であったといわれている。
 また、ヘレン・ケラー女史が来青したときも超満員で、演壇へ進んだ女史が「ここは快い潮……磯の香りがしますね。青森は海辺のすんだ空気の街であることが、膚に伝わってきます。」と冒頭に青森の印象を話したことが、市民に強い感動を与えたという。
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 この建物は空襲の戦禍にも焼け残り、その後スポーツ施設などとして親しまれたが、平成8年に道路の拡幅工事に伴い、取り壊されました。しかし、平成9年3月、跡地に青森市福祉増進センターが完成し、正面外観は太宰が芥川の講演を聴いた当時の建物のデザインが採用されています。
 太宰は当時、友人中村貞次郎、葛西信造、弟の礼治、津島逸郎たちと講演にきて聴いたともいわれていますが、確証はなく、誰と訪れたのかは分かっていません。もしくは一人で来たのかもしれませんね。

 

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by dazaiosamuh | 2016-07-19 09:53 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治生誕祭を終え、ぶらぶらと自転車で寄り道しながら来た道を戻り、斜陽館に到着すると、大会時間の15分まえであった。館内に入ると私が一番乗りで、スタッフに出場者は何名くらいか尋ねると、「今回は8人です」。
 8人、少ない!! てっきり数十人の参加者を予想していただけに少し拍子抜けしてしまいました。待っているとぞくぞくと参加者が集まり、中には母と娘の参加もいました。東京からは私1人で、後は全員県内からの参加になります。
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 うわあ、いきなりトーナメントだ。人数が少ないからしょうがないか。スタッフが試合について色々と説明し、「本格的な歌留多と違って、アットホームな感じなので楽しんでください」と言い、言葉通りアットホームなムードで戦いの幕が切って落とされた。私の1回戦目の相手は、娘と参加した母親でした。
 他の人の試合を横から見ていると、「(あ、あそこにある。すぐそこだよ)」と冷静に見れるのに、いざ相手と対峙すると何故か急に周りがはっきり見えなくなり、「どこどこ、あれ、ないっ」となって慌ててしまう。それでもどうにか勝つことができたのでしたが(本当に僅差)、次ではあっさり負けてしまいました。
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 写真は、3位決定戦か敗者復活戦だったと思いますが、記憶が曖昧で定かではありません。何回目かの試合の時に、1回戦目で戦った母親が名指しで「○○君頑張って」と応援してくれて、何としても勝とうと思ったのですが、力及ばず負けてしまいました。
 それでも私は3位を取ることができたので、まあ初参加の素人にしては上出来だったのかなと思います。ちなみに、試合の途中で分かったことですが、実は今大会の優勝者の女性は、百人一首歌留多の経験者で、準優勝した男性は、第1回目の大会の優勝者でした(そりゃないよ、勝てるわけがない) しかし、そんななかで3位が取れたのは幸運でしたし、以前記事で書いた、1回戦敗退どころか1枚も取れないんじゃないかという不安も杞憂に終わることができた。ちなみに以前、太宰歌留多を紹介する記事で私にコメントを書き、この大会があることを教えてくれた方は、今大会の準優勝の男性で大会を通じて初めてお会いすることができました。次戦う時が来たら、その時は私が勝ちたいです。

 参加者には全員に参加賞としてお菓子が貰え、もちろん1位から3位には豪華な賞品がプレゼントされました。(3位はお菓子の詰め合わせでした。1位、2位は分かりません)
 最初のうちはみんな遠慮した戦いだったのですが、そのうち全員熱が入り、掛け声があったり、華麗な手さばきを見せる人もいて、とても楽しかったです。良い思い出になりました。またこのメンバーで戦いたいですね。(そういえば、生誕祭で出会って歌留多を見学すると言っていたおじさんは、最初のうちは見学していたのですが、試合が終了したときにはすでに姿が見えなくなっていました。飽きて帰ったのかな。)
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 生誕祭も終わり歌留多で燃え尽きた私は金木駅で帰りの電車を待っていると、「あらあなたも同じ時間だったのね」と聞き覚えのある声がし振り向くと、五所川原で私に太宰検定を勧めた女性とその検定を受けた友人の女性がおり、五所川原駅まで一緒に帰ることになりました。
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 車内で検定のことや生誕祭の話で盛り上がり、ふと、「あ、そういえば東奥日報に検定のことが書いてあったわ」と相手の女性が新聞を私に寄越した。検定受験者の中には、テキストと小説を数カ月読み込んで勉強した人もいるらしい。知っていれば私も勉強したのに…。検定を受験したその友人の女性が写真に写っており、3人で笑ってその写真をさらによく見ると、小さく、私も写っていた。
 五所川原で「また来年の生誕祭で会いましょうね」と言われ、私も「是非」と答えて互いに元気に別れた。

 今回の生誕祭は前日も含めてとても有意義で得難い日であった。この2日間を一言で言うならば「出会い」であろうか。18日に出会った、検定を受けにきた太宰ファンの女性2人、中畑けいさんや津島廉造さん、19日に初めて目にした太宰の長女・園子さん、そして歌留多大会のメンバーなど、「出会い」は聖地めぐりの醍醐味でもある。
 「出会い」が人生を豊かにしてくれるのだとつくづく実感しました。こういった「出会い」をこれからも大切にしていこうと思います。

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by dazaiosamuh | 2016-07-14 21:37 | 太宰治 | Comments(4)
 2016年6月19日、いよいよ太宰治の生誕祭の日だ。6月19日に金木の芦野公園にて太宰の生誕祭に参加するのは今回が初めてです。時間は確か10時半だったと思います。ほぼちょうどの時間に到着すると、多くの人たち(太宰ファンや招かれた地元の学生、太宰ゆかりの関係者など)がすでに着席して、始まるのを今か今かと待っている様子でした。私はこの時初めて知ったのですが、予約ができ、予約すれば必ずプログラムが記載されたパンフレットが貰えるらしかったのですが、私は知らなかったので、部数も余っていなかったみたいでパンフレットは貰えませんでした。
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 厳粛な生誕祭だと思ってませんでした。もっと軽い感じかと勝手に安易に想像していました。最初にやはり、太宰治の長女である津島園子さんの挨拶から始まりました。
 園子さんは、「現在、紙の本が消えつつある。これをどのように残していくか、新しいアイデアが何かないか」と訴えていました。今日、パソコンやスマホなどネットが普及している現代では、否応がなしに活字離れが進んでいます。これは出版業界等に於いて、死活問題であり、まさか将来、本が無くなり全てネットでの閲覧になったりはしないだろうかと私も常日頃、不安を感じています。
 また園子さんは、奥津軽トレイルについて紹介し、太宰治のゆかりの地をまわるコースがあり、距離は10km、湯の沢から藤の滝などを通るコースで太宰の小説『魚服記』の舞台となった場所もあり、それ以上に金木にこんな大変素晴らし自然があることに感激したと述べ、太宰ファンのみならず、全国の人にこの金木の自然豊かな風景を知ってもらいたい、と強調して話していました。
 私はまだその『魚服記』の舞台となった場所へは行ったことがないので、ぜひこの機会に近々訪れてみようと思っています。
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 園子さんの挨拶が終わると、来賓の挨拶や地元の金木高校の生徒による太宰の作品の感想発表などがあり、最後に参加した全員の献花をもって終了しました。もちろん私もしみじみと感慨深げに花を捧げました。

 園子さんに直接話しかけたかったのですが、常に家族や太宰関係者などが傍らにおり、話せる雰囲気ではありませんでした(私が気後れしていたことも事実)
 しかし、これはきっと、まだ私は園子さんと話す時ではないのだ、きっといつか話を伺う縁が訪れるはずだと自分で納得しました。もっと太宰について色々と研究しなくてはならない。会う機会はまたきっと訪れるはずだと言い聞かせました。
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 私がパシャパシャと写真を撮っていると、肩を突かれ振り向くと、前日、太宰検定を勧めて来た年配の女性とその友人がおり、「昨日はごめんね。無理矢理検定受けさせて」と言ってきました。やはり、生誕祭に出席していたようです。その2人が太宰治の像で写真を撮ろうとしていたので、写真を撮ってあげました。すると今度は、後ろから、カメラを2台首から提げたおじさんが、俺も撮ってくれないかと言ったので撮ってあげました。身なりを見ると、相当熱烈な太宰ファンに違いないと思い、私が「いやあ、長女の園子さんを見たのは初めてで嬉しかったですよ」と言うと、「え? 長女? へええ…」というので、「太宰ファンではないのですか」と尋ねると、「いや、ただの通りすがり。関東に住んでるんだけど夏は暑いからこの時期はこっちに住んでいるんだ。」と言う。
 なんだ、ただの通りすがりか。その割に熱心にカメラのシャッターを切っていた。どうやら定年を過ぎて年金暮らしのようなのですが、毎年6月~8月を優雅に東北のしかも自然豊かな青森で過ごしているみたいで、なんとも羨ましい。
 私が午後13時から斜陽館で歌留多大会に出場すると言うと、「じゃ、おれも行く。見てみたい」というので(見たいのかよ)、この時互いに交通手段が違かったので(私はレンタサイクル、おじさんは自家用車)、現地でまた顔を合わせることにし、斜陽館へと向かいました。

 園子さは、太宰治生誕祭を通して太宰の小説を読むきっかけになってほしい、と心から話していました。
 さて、最後はどうやら太宰歌留多大会で締める事になりそうです。最後は思いっきり(ぶっつけ本番だが)、燃え尽きようと思います!!


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by dazaiosamuh | 2016-07-10 19:31 | 太宰治 | Comments(2)
 中畑家を後にした私は、津島廉造さんに会うためその自宅へ向かおうと思ったのだが、念のため場所を確認するため、途中、蔵のスタッフに聞こうと思い「思い出」の蔵の入口へ行くと、スタッフの女性と目が合い、「廉造さん、こちらにいますよ」と言ったので蔵の中へ入ると、廉造さんは既に椅子に腰かけていた。隣には私のためにもう1つ椅子が用意されており、廉造さんに連絡してくれた男性スタッフといい、この女性スタッフといい、何と親切な人たちなのだ。これが津軽人の人情なのかと驚嘆したほどでした。
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 写真のどこに太宰治、津島廉造さんがいるか分かるでしょうか?
 津島廉造さんは1926年(大正15年)9月22日生まれで今年で91歳になりますが、現在も五所川原の津島歯科医院で院長として現役で働いています。文字通り、太宰治「思い出」の蔵で、当時の思い出を語ってもらいましたので、ここでもほんの少しだけ載せようと思います。

 太宰は昭和20年7月28日に妻子を伴って金木へ疎開し、翌年昭和21年11月12日までの約1年3,4カ月ほどを故郷で過ごしました。その間、太宰は度々、五所川原の叔母キエの家を訪れ、泊まっていきました。廉造さんは叔母キエの長女・リエの息子(四男)で、太宰と五所川原のこの蔵で会った当時は東京日本歯科大学の学生でした。なぜ蔵で生活したかというと、昭和19年に市内の中心部すべてを焼き尽す大火があり、叔母キエ宅も被害を受けたが、蔵だけは奇跡的に助かり、一家はその後住居として蔵で生活するようになったのです。

 廉造さんは小学校から中学校まで、太宰の小説は一度も読んだことがなかったそうです。太宰が作家であったかどうかを知っていたかも定かではないと言っていました。それは、太宰が幾度となく繰り返してきた自殺未遂や心中未遂、借金、薬などにより生家の体面を汚してきたため、同じ身内として太宰の話題を出す事はタブーとされてきたからでした。太宰の名前すら話題に出なかった。
 そして昭和20年から21年にかけて、太宰一家が疎開し、叔母を慕って蔵へ泊まりに来た時に初めて廉造さんは太宰と会い、蔵の中で酒を酌み交わしました。太宰が蔵へ来た回数は記憶が曖昧のようで、5,6回~10回くらいは来たかなと言っていました。

 太宰はマタイ伝を中心に話をしたそうです。他にも自身の作品などを話したそうですが、太宰が話してくれた中で廉造さんが強く印象に残っている話は、
優しさとは、人の辛さに敏感であること。人の辛さに敏感になれる人間になりなさい。これが本当の愛だ。これがないと教養人ではない
 と言っていたそうだ。とても強調して話したそうである。
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 「思い出」の蔵には、写真の人物が誰か分かるように番号と名前が記載されていました。太宰治は⑥番で、津島廉造さんは⑩番で、叔母キエに抱きかかえられています。写真と見比べてみてください。
 廉造さんが教えてくれたのですが、現在、写真の中でご存命の方は、⑩番の廉造さんを含めて3人で、後の2人は⑲番・慶三さん(93歳)、㉑番・光代さん(95歳)だけになります。
 
 当時、蔵には常に一升瓶が用意されていて、太宰は7合飲んだそうです。太宰には適量を飲んだときのある反応があり、一定量を飲むと必ずくしゃみをしたそうです。それが適量である7合なのだろうです。そして必ず少しだけ残していた。廉造さんが言うには、残した分は翌朝飲んでいたのではと、笑いながら言っていました。

 この後、私と廉造さんは外に出て『奥津軽虫と火まつり』の始まる様子を見ていたのですが、私は弘前に宿をとっており時間も既に18時半を過ぎていたため、電車の時間の都合上もあり、廉造さんにお礼を言い、駅へ向かいました。

 祭りの始まる様子を眺めていたとき、廉造さんがボソッと、「太宰は愛に苦悩した人だと思います」と言った言葉が、私にはとても印象に残っています。

 遅くなりましたが、次回にようやく生誕祭を書きます。

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by dazaiosamuh | 2016-07-05 18:15 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)