遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 太宰治の着物とインバネスコートを着た姿を真似た写真をいつか撮ろうと思い、今年の1月から準備を始めた。荻窪の碧雲荘の解体の話が出始めたときから、碧雲荘の前で着物を着た姿で記念写真を撮ろうと友人と共に話あっていたのだが、ずるずると時間が経ち、今年に入りようやく危機感を覚えて急いで着物とインバネスコートを探し始めたのであった。
 着物を安く中古で購入しようと思い、浅草の中古の着物屋さんを訪れると、ちょうどよく自分の身丈にあった着物があり、迷わず購入した。手頃な薄紺色で5千円で買えたのでラッキーであった。ついでに雪駄や角帯、羽織、腰紐、襦袢、足袋…さらに着物ハンガーも購入した。もともと予算は5,6万円で着物一式を揃えれることができればいいと思っていたので、これらの合計で2万7千円ほどで揃えることができ大変満足であった(相場はよく分かりませんが)。
 しかし、太宰治と同じタイプのインバネスコートは、私が浅草で探した限りでは安くても5,6万円でしかもちょうどよいサイズが無かった。店によっては、「大きめのサイズでも違和感のないコートなので大丈夫ですよ」と言ってくれるスタッフもいたが、やはり値段も値段なので失敗したくなく、ずっと着られるものが欲しかったので、止むを得ずネットで探し、購入に踏み切りました。
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 こちらが私がネットで購入した、『インバネスコート』です。別名『二重回し』『とんびコート』などと言われていますが、定義はあいまいのようです。
 それぞれの違いをwikipediaから参考にさせてもらいます。
一般に「インバネスコート」は袖があるもの、二重回しは袖が無くてケープの下はベスト状でケープが肩を覆っている。トンビはケープは背中に達しておらず背中の部分にケープが無いものを言う事が多い。着丈は二重回しもトンビも膝下まで達する。これらの呼称は混乱しており、さまざまな定義が成されているが、歴史的にどれかが正しいと言える物ではない。

 ・「インバネスコート」…袖のあるケープ付きの外套
 ・「二重回し」「二重マント」…袖の無いケープ付きの外套
 ・「とんび」…袖が無く、ケープの背中部分がコートの背中部分と一体化している外套

 このインバネスコートは明治20年(1887)ごろに伝わり、大正から昭和初期にかけて流行した。インバネスコートのデザインは和服の大きな袖が邪魔にならず、防寒着としての機能も非常に高く、レトロで上品な雰囲気を持っていたため、当時流行した一因とされている。
 浅草を歩き回った際、インバネスコートを取り扱うお店は多数ありましたが、品数は少なかったです。店員に尋ねると、買うなら遅くても年が明ける前の方が良いと言っていました。
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 袖を広げると、なるほど、『とんびコート』と言われる所以もよく分かりますね。着物ハンガーを買っておいて良かったです。
 私が購入したコートが、太宰と同じタイプのインバネスになります。種類が沢山あるようで、襟元が違うタイプや、袖のあるものないもの、ケープの背中部分の造りが違うものなどがあるので、太宰と同じタイプのインバネスコートの購入を考えている人は注意が必要です。
 ちなみにネットで新品で約2万円ちょっとで購入しました。冬場にたまにしか着ないので十分ですね。造りも思っていた以上だったので、着物と同じく大満足です。浅草で5,6万で購入しなくて良かったです。
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 着物を購入したお店の女性スタッフから着こなしを教わったのですが、復習も兼ねて本を買ったり、ネットを駆使して自宅で練習しました。
 これで準備万端です。そのあと友人と日程を合わせ、撮影に臨みました。撮影は今年の2月の後半に行いました。

 次回から撮影した写真を載せていこうと思います。


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by dazaiosamuh | 2016-04-28 20:53 | 太宰治 | Comments(2)
 太宰治が住んだ碧雲荘は解体が終了し空き地になったと聞き、今日、その空き地を見に行った。
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 本当にきれいさっぱり、無くなっている。2年程前、初めてここを訪れ、碧雲荘をこの目で見た時は非常に感激した思い出がある。太宰がここで、小山初代と生活し『HUMANLOST』を執筆していたのかと思うと、ドライアイの私が瞬きすることも忘れて太宰が住んだ2階の角部屋をじーっと眺めたものだ。気がつけば無心にカメラを持っている自分がいた。
 しかし、今日は2年前と違い、寂しい気持で1枚撮っては眺め、また1枚撮っては眺めを繰り返した(デジカメをうっかり忘れて、やむをえず携帯で撮りました)
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 今まで太宰のゆかりの地を色々と歩いてきたが、『現存する場所』から『跡地』に変わる姿を目の当たりにするのは、今回が初めてであった。ゆかりの地を周ると、大抵、『あるか』『ないか』のどちらかであった。
 碧雲荘に住んだことのある方々、碧雲荘に友人、知人がいて遊びに行った思い出のある方々は、さぞ寂しい思いに駆られることだろう。せめて人々から忘れられないよう、石碑を必ず建ててもらいたい。

 太宰は昭和11年11月15日、照山荘アパートから杉並区天沼1丁目238番地碧雲荘へ移りました。ここで有名な『人間失格』の原型となる『HUMANLOST』などを執筆。
 昭和12年3月、小山初代とともに水上村谷川温泉川久保屋に1泊。翌日、谷川岳山麓でカルモチン心中を図るも未遂に終わったとされている。6月上旬から中旬に小山初代と離別。同年6月21日、杉並区天沼1丁目213番地鎌滝富方に単身移転。
 太宰が住んだ期間は僅か8ヶ月間程であったが、日本国民の殆んどの人が題名だけは聞いた事のあるであろう『人間失格』の原型となる作品『HUMANLOST』を執筆した貴重な場所だ。
 無くなって寂しいが、大分県でどのように生まれ変わるのか、楽しみでもある。
 今後は『碧雲荘』から『碧雲荘跡』と呼ぶことになるが、致し方ない。

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by dazaiosamuh | 2016-04-23 18:31 | 太宰治 | Comments(0)
 昨日、仕事帰りに久しぶりにloftへ寄って、店内をぶらぶらと見て歩いていたら、ブックカバーのコーナーに、どこかで見覚えのある顔がプリントされたブックカバーが目に留まった。
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 これはもしや!!
 去年買った太宰の顔がプリントされたトートバックと同じ絵柄ではないか!! まさかブックカバーまでも販売されているとは思っていなかった。私は何の躊躇もなく購入を決めた。案の定、夏目漱石などもあったが、新たな人物がシリーズの仲間に加わっており、しかもその人がまさか太宰や夏目漱石、川端康成と肩を並べて一緒にシリーズ化されているとは思っていなかったため驚いた。
 その人物は、去年芥川賞を受賞し太宰好きでも知られている、お笑い芸人のピース・又吉直樹であった。又吉の絵柄も例によって太宰と同じ画風であった。
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 後ろにはちょっとしたポケットが付いている。ペンなどが入れられそうだが、そんなに実用性はないと思われる。
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 カバーを付けた感想は、まあ普通です。実用性より『遊び』重視の感じがします。トートバックのように手提げ風になっているので、見た目はとてもお洒落だ。せっかくなので、前に購入したトートバックと一緒に並べてみました。
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 二つを並べて見ると、良い感じですね。トートバックの方は地味な配色ですが、ブックカバーは新たに配色を一新。オレンジ色と水色で明るくなり、持ち歩くのも楽しくなりそうです。トートバックは人目につきやすく少し照れくさいが、ブックカバーなら誰でも場所を選ばず使えそうです。
 トートバックの記事は、2015年7月25日の記事で書いているので興味のある方はこの機会にぜひ。


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by dazaiosamuh | 2016-04-21 10:39 | 太宰治 | Comments(2)
 太宰治は弘高時代、英作文が非常に得意で外国人教師からも高い評価を受けている。
二年のときの英人教師はロンドン大学(?)出のブルールという人で、いろいろな題を出して、生徒に作文を書かせたが、津島が「戦争の真の原因は何か」という題について書いたものはその教師に激賞された。ブルール教師は、津島の文章を最優秀と評したばかりでなく、もしその文章が作者の創作であるならば、それは大きい(発展の)見込を示すだけでなく、その陰にある頭脳をも示していると評した。津島は「猿面冠者」の中でこのことを昂然と書いている。ただし彼は最優秀と評された作品の題を「真の幸福とは何か」(優秀と評された作品)にし、葛西善蔵の説を引用して書いたように変えている。ブルール教師去った後三年生を担当したケンブリッジ大学出のロシター教師の課した作文においても津島は最高点をとった。』(「太宰治の思い出」大高勝次郎)

 教師が変わっても最高点を取るということは、やはり英作文の才能があったのですね。作家としての才能は英語の授業でも発揮されていた。
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 こちらは太宰が弘高時代に書いた英作文の一部。お題は『KIMONO』でブルウルが評価を付けている。
"KIMONO"
Do you know why japanese costume has two big "SODE”.
Perhaps, you do not know.
This "Sode" has an interesting story.
I will tell it to you.

Long long years ago, there was a very very fair woman.
She was so tender and fair many men of that day wrote to her many love-lettres.
It she took a walk, men flung their letters into her pocket.
At last, she had no space to receive their letters on her person.
And then that very clever woman made "SODE" in her costume.

Is this story not interesting, Sir?

All japanese wish to have love-letters flung to them.
』 Good

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 昭和42年6月に審美社から出された『太宰治研究』の第8号に、和訳がありました。
着物
 日本の衣裳が何故二つの大きな「袖」(ソデ)を持っているか知っていますか?(訳者註、二つの大きな袂(タモト)と言うべきではなかったろうか)
 恐らく、あなたは御存じないでしょう。
 この「袖」については、面白い話がありますので、それをお話ししましょう。
 むかしむかし、非常に非常に綺麗な女のひとが居ました。非常にやさしく綺麗だったので、当時の多くの男達は、彼女に、沢山の恋文を書いて送りました。
 その女(ひと)が散歩に出ると、男たちは、彼女の物入れ(ポケット)に手紙を投げ入れました。
 さいごには、彼女のからだのどこにも、男達の手紙を入れて置く場所がなくなってしまいました。
 そこで、その非常に利口な女の人は、彼女の着物に「袖」をつくったのです。
 先生、この話、面白いと思いませんか?
 すべての日本人は、恋文を貰いたいと思っているのです。

 (訳者註、この行は教師が太宰のはじめの英文の表現に手を入れて直したあとと、一行あけて、教師自身の表現を示してあり、評価はgoodとあるが、外人教師は概して甘いのが普通であるから、後年の太宰のフィクションへの才能の片鱗を思わせるような点が、ややうかがわれる。

 私のように英語が苦手で、辛うじて1行書けるかどうかの人間からすると、やはり太宰は秀才だったのだなと改めて実感させられます。
 英作文は他にも、「真の幸福とは何か?」「戦争の真の原因」「酒やアルコール飲料の販売は制限されるべきか?」などが残っており、その和訳はすべて前述で書いた、審美社が出した『太宰治研究』第8号に載っています。(すべて石沢深美訳)
 ちなみに、「The Real Cause of War」(戦争の真の原因)は、Most Excellentの評価で、『この文章は、完全に君自身が考えたものか? 若しそうなら大変有望であるばかりでなく、背後に、ある才能のひらめきを感ずる』と外国人教師を驚かせている。
 訳者はしかし、『太宰少年の言おうとしていることは大体分るが、決してお世辞にも達意の文章とは言えない。』と書いている。

 どちらにしても私のような凡人から見れば、秀才にちがいないが。
 太宰治の英作文について書きましたが、太宰治と弘前の記事はこれで最後になります。

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by dazaiosamuh | 2016-04-17 12:59 | 太宰治 | Comments(2)
 太宰治は小説『津軽』で、弘前のシンボルとして弘前城、そして最勝院の五重塔を挙げている。
弘前市。現在の戸数は一万、人口は五万余。弘前城と、最勝院の五重塔とは、国宝に指定せられている。
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 私が訪れた日はとても天気が良く、まるで五重塔が空まで突き抜けていくかのように、堂々と建っているように見えました。そんな五重塔は、寛文7年(1667)に津軽藩3代藩主津軽信義、4代津軽信政の寄進により、前後10年以上の歳月をかけて建立されました。国の重要文化財の五重塔としては日本最北端に位置している。造りについてwikipediaから一部引用します。
心柱は角柱で、初層天井から立つ。江戸時代建立の塔であるが古式を残し、軸部の逓減率が高く、バランスの取れた優美な塔である。初層は正面のみを連子窓、他3面を丸窓とし、2層以上は窓や構造材の意匠に変化を持たせている。
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 市民からは「五重塔の寺」として親しまれている金剛山光明寺最勝院。脇に鐘があったので思わず、ゴーンと鐘を撞いてしまいました。私以外だれも居らず、静かな境内で鐘の音だけが響きました。

 弘前で青春を送り、『津軽』にも弘前の代表的な存在として紹介しているので、太宰も少なからずここを訪れ、きっと五重塔を見上げたことでしょう。
 私は以前、京都の記事で長篠康一郎が太宰治文学アルバムに『太宰治の死で、憧れの京都移住は実現しなかったが、もし望み叶えられていたなら、その永住予定地は、おそらく醍醐寺の近辺であったと推定できる。』と書いてあったことを載せたが、その京都の醍醐寺には三宝院五重大塔がある。
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 こちらが、京都の醍醐寺にある三宝院五重大塔です。
 故郷に似た建造物があることから、太宰研究に半生を捧げた長篠は、こういった理由なども含めた上で、もし太宰が京都に住むのなら、『醍醐寺の近辺』と推定したのかもしれません。


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by dazaiosamuh | 2016-04-10 13:13 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治は生涯で5度、自殺や心中を試みている。その最初の自殺を図ったのがこの藤田家の部屋になる。だが、実はその前に町の女と心中を図ったという説もあり、年譜などにも曖昧に記載されている。
 昭和4年11月頃、町の娘と郊外の原っぱで、カルモチン心中を図って未遂に終わったと伝えられている、と書かれた年譜があるが、目撃証言もなく信憑性にはかなり欠けるため、太宰の虚言だと思われる。石上玄一郎も、
年譜によればこの年の自殺未遂は十一月某日と十二月十日の二度にわたって行われたことになっているが、最初の「町のメッチェンとの心中未遂」の方は誰もその相手を見ておらず、あるいは太宰が、ある実在の女を心中の相手に想定して行った。「独り芝居」ではなかったかとさえ思われるのである。』と書いているが、実際はどうだったのでしょう。私もこれは「独り芝居」だと思っています。
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 こちらが藤田家で太宰が使用した部屋です。部屋は2階の六畳間で押入れと縁側付きです。手前は八畳間の部屋で、藤田家の長男・本太郎が使っていた。太宰は特に縁側を気に入っていたそうです。大高勝次郎と石上玄一郎は2人とも太宰の下宿先を訪れたことがあるようですが、石上の方が部屋の印象を強く覚えていました。
その部屋は先年訪れたときもそのまま残っていて、六畳間だと分かったが、記憶の中ではそれよりはるかに広く、そして明るい部屋のような気がした。部屋の中央には大きな机があり、その前に敷かれた緋縮緬(ひちりめん)の座布団がなまめしかった。あたりの壁には歌舞伎の隈絵が二、三点飾ってあり、太棹の三味線もかけてあった。何かいきなり女形の楽屋にでもとび込んだような異様な感じだった。

 太宰がいかに歌舞伎、義太夫などに凝っていたかが分かります。そして太宰が自殺を図ったのは昭和4年12月10日の深夜。多量のカルモチンを嚥下して昏睡状態に陥った。自殺の動機は定かではない。藤田家の者が理由を尋ねると、ただへらへらして理由を答えなかったらしいが、それも一種の虚飾のようなものだったのだろう。このことを太宰は『苦悩の年鑑』で触れている。
プロレタリア独裁。
 それには、たしかに、新しい感覚があった。協調ではないのである。独裁である。相手を例外なくたたきつけるのである。金持は皆わるい。貴族は皆わるい。金の無い一賤民だけが正しい。私は武装蜂起に賛成した。ギロチンの無い革命は意味が無い。
 しかし、私は賤民でなかった。ギロチンにかかる役のほうであった。私は十九歳の、高等学校の生徒であった。クラスでは私ひとり、目立って華美な服装をしていた。いよいよこれは死ぬより他は無いと思った。
 私はカルモチンをたくさん嚥下したが、死ななかった。


『苦悩の年鑑』を読むと、大地主に生れたことに対しての理由になっているように思われるが、様々な要因が推察されている。高額な仕送りを遊蕩費に費やし、紅子こと小山初代とは結婚の話までするほどの仲になっていることや、左翼活動、議員である兄を思わせる『地主一代』を書いたことや、他にも可愛がっていた弟・礼治の死も、心に心的ショックを与えていたことから、複雑な要因が重なったのかもしれない。しかし、この自殺未遂事件は第2学期試験のはじまる前夜だったことと、この時の太宰は成績があまり芳しくなかったことから、生家の手前、試験の結果を危惧しての打算的な狂言自殺だったのではないかとも言われている。
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 写真は太宰が特に気にいっていた縁側。ここで学校の勉強などをしていたのだろう。この六畳間の部屋で、芥川龍之介のポーズを真似る写真がいくつも残っている。
 太宰は処女短編集『晩年』の『』に、
また兄は、自殺をいい気なものとして嫌った。けれども私は、自殺を処世術みたいな打算的なものとして考えていた矢先であったから、兄のこの言葉を以外に感じた。』と書いている。これが太宰の本音だとすれば、やはり、藤田家でのカルモチン嚥下は狂言自殺だったものと思われる。

 太宰の自殺未遂に驚いた藤田家は、弘前市元長町の斎藤内科医院に急報し、津島家へすぐに打電した。
 津島家からは『急遽次兄の英治がやってきて看護にあたったが、翌十一日の夕刻になってしだいに昏睡状態からさめ、自殺をはかった者とは思われぬほどの明るい表情を取り戻したという。』(太宰治と私
 そして4、5日のうち、金木から母・たねが来て、翌日、たねに伴われて弘前郊外の大鰐町大鰐温泉のヤマニ温泉客舎に行き、冬休み最後の日まで静養した。その時、温泉客舎の2階の二間を占有し、身の回りの一切の世話を、母・たねが受け持ったとのことであったが、幼少時、本当の母の愛情を受けなかったため、子守のタケを本当の母親だと勘違いし、母の愛に飢えていたと言われており、小説等にはこの時の体験は書かれていないようだが、この時の母・たねの世話を、太宰はどう思っていたのだろうか。
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 写真は太宰が愛用した机で、実際に太宰が使用したものだ。年季が入っており、この机を太宰が使っていたのかと思うと、なかなか感慨深いものがあります。思わず手でさすったり、頬杖をついてみたり、また自分の顔を横にして机にくっつけては……。やりすぎですね。

 昭和5年3月13日~15日、東京帝国大学の入学選抜試験を受ける。同じく3月15日、文科甲類一組二組併せた生徒71名中、第46席の成績で、官立弘前高等学校を第7回卒業生として卒業した。23日、帝国大学文学部の入学者氏名が発表され、4月17日、東京帝国大学文学部新学年が開始。

 今日の学生からみれば、太宰の高校時代は甚だ異様だが、しかし、それでいてとても魅力にあふれてもいる。あくまで私見で、私のような平凡な学生時代を送った者からしたら嫉妬に近いものも、正直、少なからずある。自由に遊蕩に使える金もなければ、歌舞伎や義太夫、芸妓などにも興味などなかったし、無論、高い矜持など持ってなどいなかった。
 太宰のことは好きだが、作品を読むと共感できる部分もあれば、彼の人となりを知る程、嫉妬や僻みも生まれる。まだまだできた人間ではないので、しょうがない、と自分に言い聞かせる。


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by dazaiosamuh | 2016-04-06 19:28 | 太宰治 | Comments(0)
 昭和3年(1928)に入り、太宰はメンバーを集め、同人雑誌『細胞文藝』を5月に創刊した。この時、読書会の責任者の三浦正次と共に太宰は石上玄一郎を誘っている。
津島はやがて、私がそれまで「校友会雑誌」に書いていた二、三の作品を読んだと言い、三浦とともに私に「細胞文藝」へ同人として参加することを勧めた。
『細胞文藝』の『細胞』という言葉は、当時、組織の末端を意味する左翼用語として使われていたらしいが、『題名だけはへんに左翼的だが、その内容たるや、北村小松など二、三、著名な人物の名が見えるのと、三浦の諷刺的な随筆が載っている以外には、巷間よくある、ありふれた同人誌にすぎなかった。』(太宰治と私)

 太宰はその『細胞文藝』に辻島衆二の筆名で『無間奈落』などを書いていたが、県会議員をしていた長兄・文治との関わりや地元紙の批評などがあり、後に『細胞文藝』は廃刊となる。しかし、『細胞文藝』は無駄に終わってはいなかった。太宰は『細胞文藝』への原稿依頼を、東京にいる井伏鱒二に依頼したりなどし、師弟関係へと繋がっていく。『細胞文藝』によって文壇界に自分をアピールすることができたのだ。
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 太宰の藤田家での集合写真が残されているが、上の写真の8畳の座敷で藤田家の人々と一緒に撮っている。同人雑誌の創作、義太夫に凝ったり、芸妓買いをしたりなどした太宰であったが、藤田家の前ではどんなふうに振舞っていたのでしょうか。
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 写真は2階へ通じる階段です。当時のままの木の階段で、太宰も上り下りしたと思われます。そう思うと嬉しくて私は何度もこの階段を上がったり下りたり、手でさすってみたりしました。ちょうど私が訪れたときは案内者の方が1人だけだったのでよかったです。

 青森の『おもたか』などに通い、芸妓・紅子こと小山初代としだいに親しくなっていった太宰であるが、弘前の下宿を出るときは制服制帽にマント姿であったが、『おもたか』を出入りするときは和服姿になっていた。当時太宰に同伴して『おもたか』に出入りしていた小舘保や中村貞次郎などの証言によると、実は太宰は、中学時代に下宿していた豊田家で着替えを済ませ、そこで友人たちと待ち合わせをし、そこから『おもたか』へ通っていたのだ。そして弘前で覚えた義太夫で、田舎芸者を相手に道行きや濡れ場を演じては仲間からの喝采を受けた。
 高校を卒業後、太宰が親兄弟の反対をおし切ってでも初代と結婚しようと思ったその背後には、複雑な内面的事情があり『それは贖罪の意識であろう』と石上は書いている。
生来、人並みすぐれて感受性の鋭い彼のことだ、自分の家の富裕と繁栄とが貧しい小作人たちの搾取と収奪の上に築かれたものであることを知ればこそ、彼はそれに、うしろめたさと罪の意識を感じ贖罪の意味で『無間奈落』や『地主一代』を書いたともいえる。しかも遊里で彼の接触する女たちはといえばほとんど例外なしに、そうした貧しい階級の出身なのだった。もしその貧しい階級の女と結婚し、彼女を幸福にしてやることができるなら、それはいわば一家の罪滅しになるとでも考えたのではなかったか。』(太宰治と私)

 果たして当時の太宰がここまでの考えにおよび、そのために芸妓と無理矢理結婚などするのだろうか、甚だ疑問である。また、石上は当時の太宰の遊蕩は『不安によるものと断定していいであろう』とはっきり書いている。
それは芥川のいう「ぼんやりした不安」ではなくて、彼の場合、不安の様相はあるイメージを伴うほどはっきりしていた。
 それはやがて革命が起って家は破壊され、土地は没収され、一族はみなギロチンにかけられるというイメージである


 太宰の作品を読むとたしかに既に十代の頃から不安に苛まれ、いかに感受性が強いかがうかがえる。太宰の不安は破格の生活として表にだされたのだ。

 次回は藤田家での自殺未遂について書きます。

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by dazaiosamuh | 2016-04-01 13:17 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)