遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 2年程前、会社の同僚の女性から太宰治の顔がプリントされたお皿を頂いた。そのお皿は新潮文庫、『Yonda?club』の景品で貰ったものらしいが、太宰の他に日本の文豪(太宰のお皿が貰えた喜びで他の文豪のお皿は誰だったか覚えてません)のお皿が数枚セットだったらしい。しかし、その中になぜかフランツ・カフカも含まれており、譲ってくれた女性は「なんで1枚だけ海外の、カフカが含まれているのか不思議」と言っていたのが印象的だった。その時わたしは太宰治のお皿があるなど思っていなかったので、ただもう嬉しくて、「へえ、そうなんだ、なんでだろね」と言っただけであったが、今、こうやって記事を書いていて、ふと私も、「なぜ1枚だけカフカ?」と今更ながら思っている。
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 シールを集めて、またはポイントをためて応募し景品をGET。というのが、私は昔から面倒くさくてやらない質で、たとえ「応募すると必ず貰える」ものであっても、やはり応募しないのである。つまり、こういった景品でしか手に入らない代物、所謂「非売品」を手に入れる機会がないだけでなく、あること自体知らないで終わることが多い。ネットなどで知ったときには、時すでに遅し。ああ、こんなのがあったなんて、欲しかったなあ、と指を銜えているだけだ。しかし、それもその時だけで、よくよく考えれば、自分はどうせ応募しないから結局同じか、じゃあ別にいいや、と開き直る。ちなみに、新潮文庫『Yonda?club』はすでに終了しているようです。今後、太宰関係の景品などがあったら、私も頑張って応募してみようと思います。

 お皿は言うまでもなく、勿体無くて使えない。太宰の顔に料理を載せるなんて私にはできない。かといって飾っておくにも、落ちて割れたらどうしよう、と考えただけでも忍びない。折角引っ張り出してきたが、プチプチ君に包んで、結局また衣装ケースに戻すのであった。
 だから2年間も忘れていたのだ!!

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by dazaiosamuh | 2016-03-26 12:02 | 太宰治 | Comments(0)
 昭和2年8月頃から芸妓あがりの竹本咲栄(本名・中村ソメ)という女師匠のもとへ通いだした太宰治。『津軽』の中で太宰は弘前のことを『義太夫が、不思議にさかんなまちなのである』と書いているが、なぜ数ある中から、中村ソメを選び、足繁く通ったのかははっきりと分かっていない。太宰研究者の間でも、偶然なのか、中村ソメとどこかで知り合ったからではないか、など意見が出されている。
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 写真は1階中央にある、通り土間。太宰は弘高時代、外出する際「行ってきます」など言いながらここを通ったりしたのだろうか。
 同級の大高勝次郎によると、義太夫を習い、芸妓買いに耽り、服装などに凝っては通人を気取る太宰であったが、Kという生徒が教室でそれを暴露し、太宰に向かって『君は毎週青森に来て、鼻に白粉つけて遊んでいるそうじゃないか、え、へ、へ』と言われ、太宰は見る見る顔を真っ赤にし、顔を伏せて、蹌踉とあたりを歩き廻ったそうだ。
 しかし、太宰もそのまま黙ってはおらず、Kに対して不潔なゴシップを撒き散らし仕返しをした。Kも芸妓買いなどしていたようだから、どっちもどっちに思われる。
 生徒中には、『とかく芸妓買いに走って、中には芸妓に子を産ませたり、女房にしたりする者もあった。』(太宰治の思い出)とあり、今の時代ではあまり考えられませんね。
 大高勝次郎の他に、石上玄一郎という同じく太宰と弘高時代を過ごした友人がいる。石上は太宰と同じ弘高新聞雑誌部のメンバーで、先輩の送別会の時、太宰の発案で芸妓を呼んだのだが、その時の太宰のはしゃぎぶりに驚いたのであった。

こういう場面になると、にわかにはしゃぎ出し、芸妓相手に洒落は言う、冗談はとばすで、その弾んだ言葉のやりとりは、まさにひとかどの遊び人であった。』(石上玄一郎「太宰治と私」)
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 写真は台所と土間・井戸跡です。そういえばこの藤田家でどんな料理を食べていたのでしょうか。

 当時の太宰の仕送りは月々、70円~100円、多いときは150円などであったと言われているが、その当時のサラリーマンの初任給は20円~25円、課長クラスでやっと7、80円というのが相場だったというから、石上曰く『彼女らを相手にその通人ぶりを誇示しているような津島をみると、私はやはり彼が私とは異邦人であることを切実に感ぜずにはいられなかった。

 太宰はその遊蕩をかくして青森の料亭『おもたか』などに足を運んでいた。その理由は、下宿させてもらっている藤田家への配慮、左翼関係の学生に知られることへの危惧、実家がその青森の料亭、旅館を贔屓にしており、いつでもツケが利いたことなどがあげられている。

 太宰研究者の間では、なぜここまで太宰が芸妓買いなどに熱中したのか、この時期の太宰について色々と議論されてきたが、大高勝次郎は太宰にこんなことを聞いた。
君はどうして、芸妓などに熱中するのかね。君の身分なら、どんな立派な女をも、選ぶことが出来るはずなのに」私はいった。
「頼って来る気持がいじらしくて、しようがなくなるのだよ」津島は答えた。
』(太宰治の思い出)
 研究者の間でも色々議論されている通り、複雑な内面的事情が太宰の中にあったのだと思うが、この発言も本音だと思います。この弘高時代に、後に初妻となる小山初代と出会い、逢瀬を重ねていくことになります。


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by dazaiosamuh | 2016-03-24 15:31 | 太宰治 | Comments(0)
 今月神保町を訪れた際、太宰治の顔がプリントされた『スーパー源氏』の看板の記事を載せたが、同じ日に、太宰治が訪れたと言われる洋菓子店『柏水堂』が閉店していたことを知った。
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 私は過去に、2014年1月30日の記事で、その『柏水堂』の記事を載せたが、『柏水堂』はすでに去年の2015年3月31日に閉店していた。昭和4年創業の老舗の洋菓子店で、86年間の幕を閉じた。
 ネットには、太宰治が訪れ、ケーキを食べたと載せているブログなどがあったが、本当に訪れたのかもしれないが、『確実な証拠』はない。メディアにも取り上げられ、店内はお客さんで満席のような印象を持っていたため、まさか閉店していたとは思わず、驚きであった。
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 写真はすべて、仕事帰りに本日撮影した写真です。流石に1年が経っているので、閉店の張り紙などはありませんでしたが、約1年、閉店に気づかなかったとは迂闊でした。ましてや道路を挟んですぐに、けやき書店があり、私はたまに訪れていたのに。
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 シャッターは下ろされ、看板もないように見えますが、頭を上げると、まだ屋上に設置された『柏水堂』の看板はまだ見える。

 結局、本当に太宰が訪れたのかは皆目分からなくなってしまったし、実は私はこのお店で何も注文したことがなかった。せめて一度でも何か食べておけばよかったです。

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by dazaiosamuh | 2016-03-22 20:23 | 太宰治 | Comments(0)
 たまに新聞に太宰治の記事が載る。故郷である津軽を舞台に、作品やエピソードを交えた記事になることが多い。
 一昨日の19日の朝日新聞『be』という広告(新聞は普段読まないのでよく分からないが)に太宰の記事が載っていた。会社の同僚が新聞を持ってきてくれたのだ。
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 新聞には大きく『東京に戻さねばよがった』というタイトルが飛び込んできた。読むまでもなく、太宰の幼少時、子守をしていたタケの台詞だということはすぐに分かった。タケは13歳で津島家に奉公にきて、太宰が2歳から8歳までの6年間を太宰の教育係、子守として務めた。

 新聞には太宰とタケの銅像の写真が掲載されている。小説『津軽』でのタケとの感動的な場面が、そのまま銅像として再現されている。タケの話を、一部新聞から抜粋させてもらう。

太宰の情死は、新聞で知った。
「あんまりたまげて涙もなんも出なくてあった。(東京に)戻さねばよがった」
 そう、もらしたという。


 まるで自分の子供のように可愛がり、懸命に子守をした子供が、自分より早く、しかも情死などしたら、さぞ辛かったでしょう。
 太宰とタケの銅像は小泊にある。太宰の妻だった津島美知子の了解を得て、89年にブロンズ像が建てられた。
 まだ私は太宰とタケの銅像を見に訪れたことがない。それどころかまだまだ太宰の故郷を練り歩かねばならない場所は沢山ある。時間はかかるが少しずつ巡って行こうと思います。

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by dazaiosamuh | 2016-03-21 21:07 | 太宰治 | Comments(2)
 先週、神保町に行った際、久しぶりに『スーパー源氏』に寄ろうと思ってお店のある方へ向かった。この『スーパー源氏』にはあまり行ったことがなかったが、看板に太宰治の顔が使用されているため、何となく(看板に対して)愛着があった。お店にはあまり行ったことがなかったが、神保町に行くたびにその看板に無意識に目がいったものだ。
 そんな『スーパー源氏』に久しぶりに行こうと思っていたところ、看板に何か張り紙があり、近寄って頭上を見上げ読んでみると、どうやら閉店していたらしい。
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 閉店させて頂きました、と書かれているその横で、太宰があの有名な頬杖ポーズをしている。より一層、太宰の顔が切なく見えるのは私だけでしょうか。太宰も溜息をついているようです。

 閉店したのは、2015年6月30日とのことです。つまり私は約8ヶ月間も気づかなかったということですね。その間、何回か神保町は訪れたのですが、『スーパー源氏』には行かなかったので、今まで気づきませんでした。

 あの看板だけでもあのまま残しておいてほしいものです。

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by dazaiosamuh | 2016-03-20 21:39 | 太宰治 | Comments(0)

碧雲荘の解体途中経過

 今月16日に、西荻窪『アロマフレッシュ』『風紋』に行ってきたが、途中、碧雲荘の様子をついでに見て来た。解体はどうやら順調に進んでいるようで、ほぼ9割は解体され、碧雲荘の面影はすでに皆無となっている。
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 ほぼ解体され積み上がった材木。工事現場の作業員は、ひたすら淡々、無心に碧雲荘を解体するのみ。(平成28年3月16日の時点)
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 解体された柱など、建物の大事な要となる材木は丁寧に保存され、丁重に扱われ、大分県にお引越しとなる。新たな場所で、文学館として生まれ変わるのだ。
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 もしや、この階段は碧雲荘の2階へ通じる階段ではないでしょうか。太宰が上り下りしたかもしれない貴重な階段だ。大分でこの階段を上り下りできる日が待ち遠しい。

 16日の時点でほぼ解体は終了間際であったので、今は大分県へ向けてのお引越しにかかると思います。更地となったら、区は何かしらの石碑を建ててくれるのでしょうか。
 碧雲荘を見に訪れるたびに、寂しい気持になりますね。

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by dazaiosamuh | 2016-03-19 19:24 | 太宰治 | Comments(0)
 一昨日は林聖子さんの誕生日であったが、昼間、私は友人を無理矢理同行させ西荻窪のある店へと向かった。
 実は、西荻窪にコーヒー豆の輸入自家焙煎店『アロマフレッシュ』を経営している安藤久蔵さんという方がいて、安藤さんがその昔、太宰治と会ったことがあるという情報が入り、その話を伺いに向かったのであった。
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 西荻窪駅北口から友人と雑談しながら進むこと約10分、ちょっと道に迷いつつも辿り着きました。
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『アロマフレッシュ』は、日・水・金曜日のみの営業で、しかも12時から18時までしかお店を開いておらず、店主・安藤さんは自ら自転車で宅配などを行うらしく、お店を空けていることもしばしばということで、お店が開いているか不安な面持ちで友人と向かったのですが、営業していました。一先ず安心して入口を開けると、誰もおらず、テーブルの上に設置された呼鈴のスイッチを押すも反応はなく、友人と二人で顔を合わせては訝しんでいると、お店の人らしい年配の女性が来たので、コーヒーの豆のことや太宰治について、安藤久蔵さんと話がしたく来店した旨を伝えると、「今年のお正月に心筋梗塞にかかってしまった」と打ち明けられました。
 その女性は、安藤さんとどういった関係なのか聞くのを忘れていましたが、たぶん、身内だと思います。無念です。もう少し早く情報を入手し、すぐに伺っていれば、会えたはず。しかも、安藤さんは今まで殆んど病気という病気には罹ったことがない、とその店番の女性が驚きとともに話をしていました。
 安藤さんは、近々リハビリを始めるとのことで、少しでも早く良くなって、元気にまたお店に復帰してもらいたいです。

 一応、ネットで安藤さんと太宰治について載せている情報が少しあったので、載せておきます。
 ・昭和の初めにカフェを知り、通い、そこで太宰治と知り合う。
 ・太宰治の下宿を訪れたことがある。また、彼女と会ったこともある。

 これらについて安藤さんに話を伺いたかったのだ。カフェとはどこのカフェか、荻窪だったのか?銀座か?
 下宿はやはり碧雲荘であろう。とすると彼女とは小山初代のことか。昭和何年頃に出会ったのか?
 他にも聞きたいことは山ほどあったのだが、致し方ない。

 この日は、せっかくなので友人と一緒に生豆を購入し、荻窪の碧雲荘の様子を見て(ほぼ9割無くなっていました)、手頃な喫茶で休み、酒を飲み歩きながら友人は帰途につき、私はその後風紋へと向かったのでした。

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by dazaiosamuh | 2016-03-18 20:01 | 太宰治 | Comments(0)
 今日は林聖子さんの誕生日。なんと米寿を迎えられました。厚かましくも私も風紋へお邪魔させてもらいました。
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 聖子さんは昭和3年(1928)生まれで、母は太宰治と親交のあった富子さん。今さら説明する必要などないが、聖子さんは少女時代に太宰の小説『メリイクリスマス』のモデルとなった、今では太宰にお会いしたことのある数少ない貴重な人物。
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 この日は誕生日とあって、色々な方が集まり、米寿をお祝いしました。写真は訪れた方々がお祝いに持参したケーキと薔薇です。他にもお赤飯や甘ーいお菓子など…、食べきれないほどでした!!
 少し照れ臭そうにしていた聖子さんですが、数日前、自宅の風呂場で貧血で転倒し、右目の周りが少しあざのようになっていました。それでも来てくれた方々と楽しく笑顔でおしゃべりを楽しんで、普段どおり元気で良かったです。

 無理をなさらず、いつまでもお元気でみんなを楽しませてください。今日はありがとうございました。

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by dazaiosamuh | 2016-03-16 23:46 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰は病弱を理由に入寮せず、遠縁にあたる藤田家に下宿したが、実はその『旧藤田家住宅』が弘前に現存している。
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 太宰治が弘前高校時代に下宿先として生活したこの旧藤田家は、平成18年(2006)3月に、現在の場所に弘前市指定有形文化財として再建された。実は太宰が住んでいた当時は、ここより北西100mの場所にあった。道路の拡張工事が原因で、移築・再建され一般公開されている。大正時代の「中廊下型平面」住宅様式として非常に貴重であるとのこと。
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 昭和2年4月に旧制官立弘前高等学校に入学した太宰は、最初の内は比較的健全な生活を送っていたかに見えたが、7月、芥川龍之介の自殺に激しい衝撃を受けた。この芥川の自殺とどのような関連があったかまでは推し難く、何か心境の変化があったのか、翌月、8月に入り突如、芸妓あがりの女師匠・竹本咲栄(本名 中村ソメ、36歳)のもとへ通い始め、義太夫を習い始めた。しだいに友人らを誘い、週末になると青森市にまで足をのばし芸妓と遊ぶようになっていくのであった。

その頃、私は大いに義太夫に凝っていた。甚だ異様なものであった。学校からの帰りには、義太夫の女師匠の家へ立寄って、さいしょは朝顔日記であったろうか、何が何やら、いまはことごとく忘れてしまったけれども、野崎村、壺坂、それから紙治など一とおり当時は覚え込んでいたのである。』(津軽

 中学時代とは打って変わり、高校時代は波乱の幕開けとなっていく。
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『太宰治まなびの家』は、無料で開放されている。入口を開けると、太宰が目の前に居てビックリしました。藤田家で撮影された太宰の高校生時代の写真がパネルで設置されていました。本当に入口を開けてすぐ目の前にあったので、太宰に出迎えてもらえるのは嬉しいですが、初めて訪れる人は驚くのではないでしょうか。

 太宰が実際に生活した数少ない貴重な建物なので、この『太宰治まなびの家』(旧藤田家住宅)は、複数回に分けて長めに記事を書こうと思っています。

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by dazaiosamuh | 2016-03-14 21:31 | 太宰治 | Comments(0)
 今日で震災からちょうど5年になる。月日の流れは早いものだ。しかし、未だに行方不明者は2500人以上いる。今年1月に故郷(岩手県沿岸部)に帰省したが、復興はまだまだ時間が掛かる。地元の子供の遊び場である、いくつかの公園のど真ん中には、未だに仮設住宅があり、そこでの生活を余儀なくされている被災者もまだまだおり、被災地全体で仮設住宅で暮らす被災者の数は5万8000人もいる。

 実は震災の前後で、私が体験したちょっとしたエピソードを載せたいと思います。太宰治とは直接関係はないが、太宰の関連書籍を買った際のエピソードもあったので、少し不吉なことだとは思いますが、震災から5年ということで載せることにしました。
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 私は震災の1週間ぐらい前に、某通販サイトで中古で猪瀬直樹著『ピカレスク 太宰治伝』を購入しました。その時は、後でゆっくり読めばいいやと思い、震災前はまだ読んでいませんでした。
 そして2011年3月11日、地元を津波が襲いました。水道、電気、ガスは止まり、交通などにも支障が出たりなど大変でしたが、為す術もなく、食料を買いに行ったり、被害を受けた祖父の家の手伝いに行ったりする以外は、家でじっとしていました。その時、気分転換に、中古で買った『ピカレスク 太宰治』を読むことにし、ページを開くとレシートが1枚、カバーと本の間から落ちて来ました。どうやら最初の購入者が買った際のレシートがそのまま挟まったままだったようです。
 しかし、そのレシートを見た私は、俄かに薄気味悪い思いをしました。
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 日付を見ると、西暦は2007年と違うのですが、月日が3月11日でした。考えすぎかもしれませんが、3月11日に未曾有の震災が起きたことから、只事ではないと思いました。
 また余談ですが、震災の数日前、姉さんと一緒に某レンタル店へDVDを借りに行った時、洋画の新作コーナーに韓国が製作した『TSUNAMI』という映画がありました。手に取ってみるものの、どうせくだらないB級映画だろうと思い、棚に戻しました。そしたら数日後、地元を津波が襲いました。
 これもまた不吉な出来事の一つでしたが、何か意味がある出来事だったのでしょうか。震災前後のこの2つの出来事が、私にとって不思議な出来事でした。

 実はレシートは今も『ピカレスク 太宰治伝』に挟んだまま保管してあります。本はその年に読んだが、内容を忘れてしまっているので、久しぶりに読み直してみようと思います。
 太宰治と直接関係のない記事ですみません。

 1人でも早く行方不明者が発見され、少しでも早く故郷が元の姿に戻るよう、応援しています。

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by dazaiosamuh | 2016-03-11 13:00 | 太宰治 | Comments(2)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)