遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 ここ福井ふるさと文学館には、ここだけにしかない高見順の詩をモチーフにした『おそろしいものが』の自動で動く人形劇がありますが、なかなか凝った作りで見応えがありました。わかりやすくて、何気に一番印象に残っています。
 高見順は、明治から続く自然主義の文学表現に疑問を呈し、「饒舌体」とよばれる独自の文体で創作を続け、晩年は日本近代文学館の設立に尽瘁し、昭和40年(1965)に亡くなりました。
 さて、前回の続きでふるさと文学館の一番奥にある映像コーナーが、見覚えのある場所に変わっていたのですが、何と東京銀座にある、バー・ルパンがパネルにより再現されていました。
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 横にはバー・ルパンで撮られた太宰治の大きな写真のパネルがあります。そしてパネルにより再現されたルパンの手前には、ポーズを取れ、と言わんばかりの簡易なイスが3つ置かれていますね。
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 さりげなく看板も再現されていますね。太宰とルパンのパネルについつい目がいってしまうため、看板に気づいたのは写真を撮り終えてからでした。
 訪れた時、客は私一人しか居らず、ほぼ貸し切りのような状態でした。暇を持て余していたのか、スタッフの女性が「よかったら写真をお撮りしましょうか」と声を掛けてくれたので、それに甘えて記念に写真を撮りました。
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 ちょっと地味でパッとしませんね。前にバー・ルパンでモノマネした写真を載せた記事を書いていますので(2014年6月28日の記事)、見比べてみてください。

 福井県ふるさと文学館は、当然ですが主に福井にゆかりのある作家がメインに展示してあり、福井と太宰は直接の関係はないのですが、なぜ太宰のバー・ルパンでの再現されたコーナーがあったのでしょうか、特に意味はないのでしょうか。もしかしたら館長が太宰好きなのかもしれませんね。
 さっとではありましたが福井の記事はこれで終わりです。それでは皆様、良いお年を!!

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by dazaiosamuh | 2015-12-31 20:57 | 太宰治 | Comments(0)
 高見順は明治40年(1907)に福井県で生れた。太宰治の2つ年上だ。昭和10年(1935)の7月末、第1回芥川龍之介賞候補に5名が選ばれた。石川達三『蒼氓』、外村繁『草筏』、高見順『故旧忘れ得べき』、衣巻省三『けしかけられた男』、太宰治『逆行』の5名になる。このとき選ばれたのは、石川達三の『蒼氓』であった。
 これにより高見順は文壇デビューをし、『如何なる星の下に』『いやな感じ』、また詩集『死の淵より』等を残した。
 そして今年は高見順の没後50年特別展が、福井県ふるさと文学館で開かれた。展示物には、太宰治からの手紙なども展示してあると聞き、私は先月、その福井県にあるふるさと文学館へ行ってきました。
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 誰だお前は!?
 初めての福井県に到着すると、ホーム上のベンチに白衣を着た恐竜がいました。実は私は恐竜が大好きで、恐竜博物館に行きたかっただけだったのですが、それだと記事にならないので、まあついでのようなかたちでふるさと文学館に行って来たのでした。
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 駅の外には福井県で発見された、フクイティタン、フクイサウルス、フクイラプトルの動く精巧な造りのロボットがありました(夜はちょっと怖いかもしれません)
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 恐竜博物館の方は大満足でした。恐竜の骨に囲まれると幸せな気分になりますね。ちなみに写真はフクイラプトルです。
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 さて、ふるさと文学館ですが、太宰治の展示物はあまりありませんでした。太宰治から高見順へ宛てた手紙など数点だけでした。
 しかし、他にも高見順と交流のあった川端康成などの展示物も多数あったので貴重なことには変わりありません。

 順々に見て進んで行くと、奥の映像コーナーの部屋が見覚えのある場所になっていました!!
 続きは次回になります。


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by dazaiosamuh | 2015-12-30 21:30 | 太宰治 | Comments(0)
 初めて語り芝居というものを見て来ました。しかも太宰治の作品で劇を見ることも初めてです。
 『語り芝居 太宰治特集
 この企画はJ-THEATERが、太宰治朗読家の第一人者である原きよさんと協力して作り、稽古を積み重ねて完成させた太宰作品の語り芝居です。
 作品は、『失敗園』『尼』『貨幣』『清貧譚』の4つで、私が観た日の演目はその内の3つの『失敗園』『尼』『貨幣』です。12月21日~23日の3日間でした。
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 場所は東京都世田谷区北沢にある小劇場『楽園』で、小田急線・京王井の頭線『下北沢駅』の南口から徒歩で約3分の場所にあります。私は下北沢を訪れること自体が初めてで、劇場の多さに驚きました。
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 さて、実際にその語り芝居を見たのですが、自分で読むのとは違って、太宰の作品の中にいるような臨場感がありました。『失敗園』は、愚妻によって植えられた庭で、愚痴り、蔑み、また自己憐憫に浸る植物たちの様子が描かれている。
 例えば、にんじん
どうにも、こうにも、話にならねえ。ゴミじゃ無え。こう見えたって、にんじんの芽だ。一箇月前から、一分も伸びねえ。このまんまであった。永遠に、わしゃ、こうだろう。みっともなくていけねえ。誰か、わしを抜いてくれないか。やけくそだよ。あははは。馬鹿笑いが出ちゃった。

 自分で読んでも面白いが、いざ芝居を見ると、これがまた面白い。周りの人たちは真剣に見ていたが、声を抑えて笑うのに苦心しました。他にも、だいこん、とうもろこし、トマト、へちま、薔薇などが思いを吐き出す姿を役者が自身の個性を出しながら演じる姿は面白くて素晴らしかったです。個人的に、へちまが一番好きです。
『尼』は『陰火』の中の一篇で、『エロチシズムが幻想化された作品』と言われているみたいですが、太宰はどういう思いで書いたのでしょうか。突然現れた尼、その尼とのやり取り、蟹のお話…。尼の眠りとともに如来様が…。最後は小さな人形になって…。
『貨幣』は百円紙幣が語り手となって、戦前から戦後にかけて人から人へと渡り、その当時の有様、人々の生活が、百円紙幣を通して私たちに訴えるかのように伝わってきます。私も何度か、自分の使ったお金が今どこへ、誰の手に渡っているのかと考えたことがありますが、太宰は百円紙幣を握り、見つめながら当時の人々の生活の営みに何かを感じて書いたのでしょうか、風刺的に書かれていますね。

 パンフレットに衣装について興味深いことが記載されていました。
この舞台には、太宰に縁のある衣装が数点登場いたします。彼の写真として有名な、スツールに胡座で座る一葉は銀座のバー「ルパン」でのもの。その初代オーナー高崎雪子さんの着物を、タケ、尼、百円札が着用しています。また太宰が通った三鷹のうなぎ屋台「若松屋」の女将小川恵子さんの羽織を『貨幣』の酌婦が召します。いずれも原きよが遺族の方から受けた宝物。太宰が目にしたかもしれない着物を、彼の遺した言葉とともにお届けします。

 なるほど、当時もしかしたら太宰が実際に目にしたかもしれない着物、羽織だったのですね。芝居が始まる前にちゃんとパンフレットを読んでおけばよかった。

 今回初めて太宰の作品を芝居を通して見ましたが、当り前かもしれませんが芝居の方がイメージも湧きやすく入り込みやすかったです。それにこういった機会がないと、太宰が見たかもしれない着物、羽織にお目に掛かることもありませんので(もっとちゃんと見ておけばよかった)、とても貴重な体験ができて良かったです。

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by dazaiosamuh | 2015-12-26 14:41 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治のペンケースを発見した!!
 某通販サイトで、偶然太宰のペンケースを発見しました。ペンケースには、『津軽』の最後に書かれた言葉、『元気で行こう。絶望するな。では、失敬。』の台詞が書いてある、太宰らしさのあるペンケースだ。
 サンスターから出された文具のようで、他には宮沢賢治などもあるみたいです。たいていこういう商品は作りが脆かったりするのですが、実際に手に取った感想は、『普通』です。
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 写真を見て分かる通り、あまり入りません。ペンを3本入れたらぴったりな感じです。消しゴムを入れたいなら2本がいいと思います。しかし、台詞が台詞なだけに、学校の試験や資格取得試験、昇進試験のときにこれを使えば、大いに励みになり、頑張れるのではないでしょうか。仮に試験に落ちたとしても、前向きになれることは間違いないでしょう。
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 タグには台詞の説明が記載されていました。
『この言葉は一九四四(昭和十九)年発表『津軽』の最後の一文。『津軽』は太宰が三週間かけて津軽地方を一周し、その記録を元にした故郷再発見の書である。「さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。」この最後の一文は絶望の淵に立っていた自分自身に対する励ましの言葉だったと想像できる。
 ※上記内容は諸説をまとめたものです。』

 使うのがもったいない。なので、あとからもう1つ購入し、保管用と分けました。ちなみに800円しました。2つで1600円。無駄遣いですね。
 出かける際に持ち歩こうと思います。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。

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by dazaiosamuh | 2015-12-22 22:39 | 太宰治 | Comments(2)
 高校を退学後、オダサクは作品を書きつつ昭和14年(1939)、宮田一枝と結婚。日本工業新聞社に入社するも翌年には辞職。その後、昭和19年(1944)に最愛の妻・一枝が子宮がんで亡くなってしまう。昭和21年(1946)に声楽家笹田和子と結婚し笹田家に同居したが、10日ばかりで義兄竹中方に帰る。この年の11月に、東京銀座のバー・ルパンで太宰、安吾らと座談会で知り合うが、12月に結核による大量の喀血を起こし、東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)に入院する。
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 オダサクの眠る楞厳寺は、高津高校から徒歩で僅か数分の場所にあった。私が訪れたときは、人通りも少なくお寺もがらんとしていた。
 オダサクの病状は一進一退を繰り返すが、徐々に悪化し、年が明けて昭和22年1月10日、午後7時10分に永眠。楞厳寺で告別式をおこない、同寺に葬られた。
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 立派なお墓ですね。ここでオダサクは最愛の妻・一枝と共に眠っています。なぜか私はお墓の前に立つと緊張してしまいます。オダサクなら「よう来たな」と言ってくれるでしょうか。

 太宰治は『織田君の死』というタイトルで文を昭和22年1月13日に東京新聞に寄せている。
織田君は死ぬ気でいたのである。私は織田君の短編小説を二つ通読した事があるきりで、また、逢ったのも、二度、それもつい一箇月ほど前に、はじめて逢ったばかりで、かくべつ深い附合いがあったわけではない。
 しかし、織田君の哀しさを、私はたいていの人よりも、はるかに深く感知していたつもりであった。
 はじめて彼と銀座で逢い、「なんてまあ哀しい男だろう」と思い、私も、つらくてかなわなかった。彼の行く手には、死の壁以外に何も無いのが、ありありと見える心地がしたからだ。
 こいつは、死ぬ気だ。しかし、おれには、どう仕様もない。先輩らしい忠告なんて、いやらしい偽善だ。ただ、見ているより外は無い。(中略)
 彼のことたびの急逝は、彼の哀しい最後の抗議の詩であった。
 織田君! 君は、よくやった。


 太宰が『死の壁以外に何も無いのが、ありありと見える心地がした』と思ったのも無理もない。なぜなら、ルパンでの座談会で写真家の林忠彦も『チラッチラッと気になって見ていると、やたらに咳き込む。ハンカチにパッと咳き込んで痰をだすと、血痰が出ているように見えたんですね。あっこれはいけねぇな、と思いました。この作家は、あんまり長くないから撮っておかなければ、と思いました。』(文士の時代)と死の近いことを感じとっていたのだ。
 太宰の言うとおり、この時点ですでにオダサクの病状はどうしようもない状態まで来ていたのだと思います。
 もともと林忠彦はオダサクを撮るために来ていた。たまたま太宰が「俺も撮れよ」なんて言い、この場で初めて、最近流行の太宰治だと聞き、最後の1枚を太宰に使ったのだ。オダサクのおかげで太宰のルパンでの有名な写真が生まれたのだ。オダサクには感謝しています。

 もしかしたら、空の上で太宰、オダサク、安吾の3人でたまには座談会でもやっているかもしれませんね。
 オダサクの大阪は、これで終了になります。


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by dazaiosamuh | 2015-12-19 09:32 | 太宰治 | Comments(0)
 前回載せた高津宮からオダサクが通った旧制高津中学校は徒歩で10分以内と近い。裏長屋の賃借人の倅は小学校を出たら奉公に出るのが当り前だった時代に、高津中に合格したことに、周囲は驚きを隠せなかった。
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 現在は大阪府立高津高等学校になっていますが、ここがオダサクの通った旧制高津中学校になります。
 オダサクはここに大正15年・昭和元年(1926)に入学した。ここでオダサクは吉井栄治や中谷栄一らと出会った。翌年、長姉タツの婚家が日本橋二丁目に店を持ったため、オダサクはそこでほとんどを寝起きした。そして、長姉タツの嫁ぎ先の電気屋・竹中商店を自分の家だと嘘をついていたらしい。下寺町には、次姉の千代が芸者を辞めて駆け落ちした末、ぐうたら亭主と苦労して出したサロンもあった。
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 オダサクは中学校だけでなく、その後、昭和6年(1931)に猛勉強の末、第三高等学校(後の京都大学教養部)に合格し、文科甲類に入学する。周囲は中学だけでなく高校にも合格したオダサクに騒いだのであった。しかし、学業に身が入らず落第を繰り返し、この高校時代に肺を悪くし肺結核を発病。
 昭和9年(1934)卒業試験の最中に下宿で喀血。酒場『ハイデルベルヒ』に勤める宮田一枝と出会い同棲を始める。その後、昭和11年(1936)に高校を退学することになる。

 肺結核を患いながらも煙草は最後まで辞めなかった。亡くなる約1カ月半前の銀座バー・ルパンでの太宰、安吾との座談会では煙草を指に笑顔で写るオダサクの写真が残っている。
 肺を悪くした時点で煙草を辞めていれば、もっと長生きしたのではあるまいか。

 オダサクの大阪は、次回で最後になります。

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by dazaiosamuh | 2015-12-15 19:47 | 太宰治 | Comments(0)
 オダサクの『アド・バルーン』に登場する高津宮は、『仁徳天皇を祀る神社で、かつて大阪城附近にあり、昭和20年3月の大阪大空襲で全焼した。現在の社殿は戦後に再建された』ものらしい。
 オダサクゆかりの生魂小学校を探すのも少し迷ったが、高津宮も見つけるのに時間が掛かってしまった。今に始まったことではないが、私は地図を見て、地形、距離を目測することが苦手なのだ。現在地と照らし合わせるために、地図を逆さまにしたりすると、文字が逆になるため、頭が混乱するときがたまにある。方向音痴というのは治せないものかしら。
 道行く人に尋ねると、あっさり発見することができた。
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 こちらが高津宮の入り口です。こんな立派な鳥居を自力で発見できないなんて…。

高津神社の裏門をくぐると、すぐ梅ノ木橋という橋があります。といっても子供の足で二足か三足、大阪で一番短いというその橋を渡って、すぐ掛りの小綺麗なしもたやが今日から暮す家だと、おきみ婆さんに教えられた時は胸がおどったが、しかし、そこには既に浜子という継母がいた。』(アド・バルーン
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『アド・バルーン』では『梅ノ木橋』と書いてありますが、実際は『梅の橋』というみたいです。本当に数歩歩いただけで渡り切ってしまう小さな橋です。シャッターを切った瞬間、黒猫が写ってしまいました。この橋の下の川は流れていないようですが、かつては道頓堀川へと流れていたようです。

私を送って行った足で上りこむなり、もう嫌味たっぷりに、――高津神社の境内にある安井稲荷は安井さん(安い産)といって、お産の神さんだのに、この子の母親は安井さんのすぐ傍で生みながら、産の病で死んでしまったとは、何と因果なことか……と、わざとらしく私の生みの母親のことをもちだしたりなどして、浜子の気持を悪くした。』(アド・バルーン
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 梅の橋のすぐ横の岩の上で、先ほどの黒猫が、流れていない川跡を眺めて黄昏ていた。もしかしたらと思い、黒猫に『おまえもオダサクのゆかりの地をまわっているのか』と聞いてみたが、無視されてしまった。そこで今度はカメラを構えてみるが、全く私に興味のかけらも示さず、結局一度も私のほうを振り向いてくれはしなかった。その時に撮ったのが上の写真です。
 黒猫というのは少しミステリアスなところがあるような、ないような…。

『アド・バルーン』を書いたのは昭和20年、オダサクが32歳で亡くなる2年前に執筆された。この時点ではまだ太宰治とは出会っていない。出会うのは翌年の昭和21年11月25日の銀座バー・ルパンである。出会ってから、僅か1カ月半後にオダサクは亡くなりました。

 もっと長生きしていれば、太宰と長く交流する間柄になっていたはず。早世が惜しまれますね。

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by dazaiosamuh | 2015-12-11 09:42 | 太宰治 | Comments(2)
 大正9年(1920)、オダサクが7歳の時に入学した大阪市立東平野第一尋常高等小学校は、現在の大阪市立生魂小学校にあたる。
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 こちらが現在の生魂小学校です。オダサクはどんな子供でどんな小学校生活を送ったのでしょうか。オダサクが小学校に入学した大正9年は、太宰は12歳で、『五年になって以後、高等科1年までの小学校3年間、無欠席で通した。5年になって、担任訓導川口豊三郎に、「将来の希望」というアンケートを与えられて、「文学」と回答した、と伝えられる。』と年譜に記載されています。オダサクより五つ上の太宰は、12歳ですでに文学を意識していたのだ。すごいですね。

 話が変わりますが、オダサクはお酒は殆ど飲めなかったようですがそのかわり、コーヒーが非常に大好きであったらしい。しかし、残念ながらオダサクがいた当時の喫茶店などはほとんどが無くなっています。そんな中、オダサクがいた当時から今も残っている喫茶店があります。
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 写真の丸福珈琲店は、創業昭和9年に大阪・千日前にできました。昭和9年だとオダサクが21歳の時にすでに建てられているので、コーヒー好きのオダサクならきっと何度も訪れたことに違いないと思います。この丸福珈琲店は、昔から多くの文化人や芸人、建築家などジャンルを問わず色々な方から愛されてきたようです。
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 私も折角なので、コーヒーとケーキ(名前は忘れてしまいました)を頂きましたが、さすが老舗、とても美味しかったです。夫婦善哉もそうですが、甘い物が大好きな私には至福のひとときでした。創業が昭和9年と古いですが、オダサクが訪れたことがあるかどうか、有力な情報がないことはちょっと残念です。
 ケーキを頬張りつつコーヒーを飲み、つくづく、こう思いました。
「美味い、こんなコーヒーの美味い店にオダサクが来ないはずはない。」ということで、一応、オダサクが来たであろう、ということにしておきましょう!


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by dazaiosamuh | 2015-12-07 18:34 | 太宰治 | Comments(0)
路地の多い……というのはつまりは貧乏人の多い町であった。同時に坂の多い町であった。高台の町として当然のことである。「下へ行く」というのは、坂を西に降りて行くということなのである。数多い坂の中で、地蔵坂、源聖寺坂、愛染坂、口縄坂……と、坂の名を誌すだけでも私の想いはなつかしさにしびれるが、とりわけなつかしいのは口縄坂である。』(木の都
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 『木の都』で口縄坂(くちなわざか)やその近辺でのエピソードが、オダサクの懐かしい思い出として綴られている。口縄坂はたびたび登場するのですが、実は私はこの口縄坂をなかなか発見することができなかった。というのも、源聖寺坂を上り、ついでにそのまま口縄坂を見つけて下ろうと思っていたのですが、なぜか発見できず源聖寺坂附近に居た近所の高齢の女性に尋ねると、下から行った方が分かりやすい、どこどこを目安に見ていけば云々…と教えてもらい源聖寺坂をまた下り、下から口縄坂を、まだかな、まだ先なのかな、と焦燥しながら探すと、ようやく口縄坂の入り口を見つけることができました。口縄坂は源聖寺坂から思っていた以上の距離があり、もっと近くにあるものとばかり勘違いしていた私の安易な憶測が原因でした(本当に思っていた以上の距離を歩き疲れました)
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口縄(くちなわ)とは大阪で蛇のことである。といえば、はや察せられるように、口縄坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。蛇坂といってしまえば打ちこわしになるところを、くちなわ坂とよんだところに情調もおかし味もうかがわれ、この名のゆえに大阪では一番さきに頭に泛ぶ坂なのだが、しかし年少の頃の私は口縄坂という名称のもつ趣きには注意が向かず、むしろその坂を登り詰めた高台が夕陽丘とよばれ、その界隈の町が夕陽丘であることの方に、淡い青春の想いが傾いた。』(木の都

 オダサクの『木の都』には『蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である』とありますが、現在のような直線の道ではなかったということでしょうか。入口の立て札には、『坂の下から眺めると、道の起伏がくちなわ(蛇)に似ているところから、この名が付けられたという。』と書いてありましたが、道の起伏も蛇に似ているとは思えませんでした。それとも歩行しやすいように整備し現在の坂にしたということなのでしょうか。
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 口縄坂を登り切ると、オダサクの碑がありました。そこには『木の都』の最後の段落が刻まれていました。
口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思った。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直って来たように思われた。風は木の梢にはげしく突っ掛っていた。

 青春を胸に前へ進もうとする淡い気持が読み取れる。この『木の都』を読んだ後は、オダサクを詳しく知らない私でも、口縄坂といったらオダサク、と思ってしまうほど印象的な作品でした。

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by dazaiosamuh | 2015-12-03 10:52 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)