遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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源聖寺坂や口縄坂を緑の色で覆うていた木々であったり、…』(木の都

 オダサクにとって、『私の幼時の記憶は不思議に木と結びついている』こと以外にも、小さい頃から駆け上がった源聖寺坂や口縄坂がなつかしい思い出となっている。
 天王寺七坂と呼ばれる坂の一つである源聖寺坂(げんしょうじざか)は、オダサクにとって口縄坂の次に愛着のある坂だったのではないだろうか。
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節分の日、もうその歳ではいくらか気がさす桃割れに結って、源聖寺坂の上を、初枝が近所の桶屋の職人の新太郎というのと、肩を並べて歩いている姿が、他吉は見つけた。』(わが町
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 源聖寺坂は、ゆるやかなカーブを描く段差の低い階段の坂であった。お年寄りなどにはやさしい造りですが、正直、私は昔からこの段差の低いタイプの階段は苦手であった。階段を上がる際、歩幅、歩数が上手く合わなくて歩きにくいのだ。(走るとなぜか丁度良い)
 坂の頂上から見下ろすと、高い場所ではないためビルばかりで遠くは望めない。しかし、オダサクがいた当時などは、今よりは見晴らしがよく、黄昏時には夕陽に照らされながら街を眺めることができたのではないでしょうか。
 現代は高層ビルなどが建ち並び、その技術は大いに素晴らしいことであるが、便利さやその土地を有効活用するために高さを上げ、それと引き換えに、風景、景観が失われた場所も少なからずあることは事実で、実にさみしいことでもある。

 次回は、オダサクが最もなつかしく愛着を持っていた口縄坂(くちなわざか)を書きます。



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by dazaiosamuh | 2015-11-29 19:34 | 太宰治 | Comments(0)
 大阪最古と言われる神社・生国魂神社は、大阪人から通称・生玉(いくたま)さんと呼ばれている。オダサクはこのすぐ近くの生玉前町に生れた。家業は「魚鶴」という鮮魚店兼仕出屋だった。オダサクにとって最も身近にあった神社であったと言える。
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それは、生国魂神社の境内の、巳さんが棲んでいるといわれて怖くて近寄れなかった樟の老木であったり、北向八幡の境内の蓮池に落(はま)った時に濡れた着物を干した銀杏の木であったり、中寺町のお寺の境内の蟬の色を隠した松の老木であったり、源聖寺坂や口縄坂を緑の色で覆うていた木々であったり、…私はけっして木のない都で育ったわけではなかった。大阪はすくなくとも私にとっては木のない都ではなかったのである。』(木の都

 神社境内の神社裏には、『巳さんの御神木』と言われる木があるのですが、写真を撮るのを忘れていました。書いてある通り、オダサクは幼少時から木を見て、触れて、そうして木の温もりを感じて育ったのだ。『木の都』とするくらいだから、オダサクの思い出に、いかに木が身近で印象的だったかが分かる。
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 もっと狭いのかと思っていましたがとても広い神社でした。暑い季節にはここで夏祭りなどもあるみたいで、参道には沢山の露店が並ぶらしい。大阪の夏祭りは楽しそうですね。一度来てみたいです。
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 こちらがオダサクの銅像です。見て分かると思いますが、等身大ではありません。てっきり私は等身大だとばかり思っていましたので、ちょっと残念でした。青森の芦野公園にある太宰治の像は立派な渋い表情でなかなか良かったので、このオダサクの像も、もう少し大きさや色合いを気障にできないものかと思ってしまいました。どうやらオダサク倶楽部が平成25年10月26日に建てたようです。まだ作られて2年程しか経っていないため、大阪の人でも見たことのない人は沢山いると思いますので、この大阪最古と言われる生国魂神社にあるオダサクの像を一度見てみるのもいいかもしれません。

 ただ、せっかくなら等身大で像を造っていれば満点だったと思います。オダサク本人はカッコいいですが、像はかわいいです(かわいいと言ったら失礼だったかな)

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by dazaiosamuh | 2015-11-24 21:57 | 太宰治 | Comments(0)
 オダサクが27歳の時に書いた出世作『夫婦善哉』(昭和15年)で、柳吉と蝶子が所帯を持ったのが、黒門市場だ。亭主を立派にしてあげたい蝶子とだらしのない柳吉の物語。

日本橋の古着屋で半年余り辛抱が続いた。冬の朝、黒門市場への買出しに廻り道して古着屋の前を通り掛った種吉は、店先を掃除している蝶子の手が赤ぎれて血がにじんでいるのを見て、そのままはいって掛け合い、連れ戻した。そして所望されるままに曾根崎新地のお茶屋へおちょぼ(芸者の下地ッ子)にやった。』(夫婦善哉)
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 写真が黒門市場になります。関西ではフグを「テッポウ(鉄砲)」、「テツ」と呼ぶらしい。理由は、「フグを食べて当たれば死ぬ」から。黒門市場は現在、生鮮食品を中心に約150店舗が集まり多くの客で賑わっており、外国人も多く見受けられた。一日ではゆっくりまわりきれない。雑貨店などもあるため、ここでほほ全ての買い物が済むと思います。
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 この黒門市場で柳吉と蝶子は部屋を借りて暮し始めるも生活はたちまち窮してしまう。
二、三日、狭苦しい種吉の家でごろごろしていたが、やがて、黒門市場の中の路地裏に二階借りして、遠慮気兼ねのない世帯を張った。階下は弁当や寿司につかう折箱の職人で、二階の六畳はもっぱら折箱の置場にしてあったのを、月7円の前払いで借りたのだ。たちまち、暮らしに困った。
 柳吉に働きがないから、自然蝶子が稼ぐ順序で、さて二度の勤めに出る気もないとすれば、結局稼ぐ道はヤトナ芸者と相場が決まっていた。
』(夫婦善哉)

 だらしない亭主の為に働く蝶子。こういった夫婦の形、姿は太宰の作品にも登場するので、少し同じ匂いがして(オダサクファンの方、失礼があったらすみません)私は好きです。
 時間が無かったためゆっくり市場を見てまわることができなかったので、次回来たときはのんびり見物してみたいと思います。

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by dazaiosamuh | 2015-11-19 11:40 | 太宰治 | Comments(2)
行き暮れて ここが思案の 善哉かな』(作之助
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 オダサクがよく歩いた法善寺横丁に、オダサクの文学碑があるのをご存じだろうか。
 上の写真から法善寺横丁に入って数メートル歩いたところに、『行き暮れて ここが思案の 善哉かな』と書かれた碑がある。正弁丹吾亭店先にあるのですが、さりげなく建てられてあるので、昼間でもよく見ながら歩かないと見落とします。
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 写真は見づらいので、一応、文学碑の説明を載せます。
小説家織田作之助は、大正二年十月、生国魂神社の近くで生れた。彼は郷土大阪をこよなく愛し、終生大阪を離れず、出世作「夫婦善哉」をはじめ、大阪の市井人情を描いた名作を多く残したが、昭和二十二年一月、讀賣新聞に「土曜夫人」を連載中、胸患のため惜しくも三十四歳の若さで世を去った、その命日が十日戎の日に当るのも彼らしいと言うべきか』(昭和三十八年秋友人藤澤桓夫識
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 写真は夜の法善寺横丁です。やはり夜のほうがムードがありしっくりきますね。
弁天座、朝日座、角座……。そしてもう少し行くと、中座、浪花座と東より順に五座の、当時はゆっくりと仰ぎ見てたのしんだ程看板が見られた訳だったが、浜子は角座の隣の果物屋の角を急に千日前の方へ折れて、眼鏡屋の鏡の前で、浴衣の襟を直しました。浜子は蛇ノ目傘の模様のついた浴衣を、裾短く着ていました。そのためか、私は今でも蛇ノ目傘を見ると、この継母を想い出して、なつかしくなる。それともうひとつ想い出すのは、浜子が法善寺の小路の前を通る時、ちょっと覗きこんで、お父つぁんの出たはるのはあの寄席やと花月の方を指しながら、私たちに言って、急にペロリと舌を出したあの仕草です。』(アド・バルーン

『アド・バルーン』は戦後に発表された作品だが、昭和20年3月の大空襲で大阪が焼かれた後の戦時下に書かれた。町の名、売り物などが多く出て来るが、戦争でいつどうなるか分からないからこそ、自分の好きな大阪を書き残しておこうというオダサクの大阪に対する大阪愛がちらと垣間見える。
 戦時、戦後などは太宰や当時の作家たちにしてもそうですが、取り巻く環境やその時の自身の心情が大きく振り子のように揺れ動き、それが作品に躊躇に反映してしまうものだと思います。「どういう思いで戦争中にこの作品を書いたのだろうか」と、考えてしまいますね。

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by dazaiosamuh | 2015-11-13 09:38 | 太宰治 | Comments(2)
法善寺境内の「めおとぜんざい」へ行った。道頓堀からの通路と千日前からの通路の角に当っているところに古びた阿多福人形が据えられ、その前に「めおとぜんざい」と書いた赤い大提燈がぶら下がっているのを見ると、しみじみと夫婦で行く店らしかった。』(夫婦善哉
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 オダサクの書いた作品『夫婦善哉』のお店は作中にあるように法善寺境内にある。残念ながら阿多福(おたふく)人形はなく、富山の百河豚(いっぷく)美術館に保存されているらしい。オダサクファンならば一見の価値はあると思います。
 作中では赤い提燈に平仮名で「めおとぜんざい」と書いてあったみたいだが、現在は漢字で「夫婦善哉」と書かれている。私は甘いものに目が無いのですが、どうにも入口に大きく書かれた「夫婦善哉」の文字が、男一人である私を入り難くしている。これだから小心者は困る。法善寺の周りを少しうろうろして、折角来たのだからと、意を決して入ると、2人組の若い女性が談話を楽しみながらくつろいでおり、それを見て1人ほっとして空席に座り定番の夫婦善哉を注文しました。

おまけに、ぜんざいを註文すると、女夫の意味で一人に二杯ずつ持って来た。』(夫婦善哉
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 美味しそうですね。見ているだけでよだれが出てきます。2つのお椀に白玉が1つずつ入っています。

こ、こ、ここの善哉はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか太夫ちゅう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛にするより、ちょっとずつ二杯にする方が沢山はいっているように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」蝶子は「一人より女夫の方が良えいうことでっしゃろ」ぽんと襟を突き上げると肩が大きく揺れた。蝶子はめっきり肥えて、そこの座蒲団が尻にかくれるくらいであった。』(夫婦善哉

 確かに2杯あると沢山はいっているような贅沢な気分になります。肝心の味はというと、甘すぎず老若男女関係なく食べられる上品な甘さです。後から年配のご夫婦が来て仲良さそうに一緒に善哉を食べる姿に少ししみじみとしました。
 口直しの塩昆布も相性が良かったのですが、塩昆布を食べたら、また善哉をおかわりしたくなってしまい困りました。しかしそれを懸命に堪えてお店を出ました。

 明治16年(1883)に文楽の竹本琴太夫が出した「お福」という甘味処が始まりとのこと。店内には映画「夫婦善哉」に関係したポスターなどの展示や有名人のサイン色紙なども飾ってありました。興味のある方は是非訪れてみてはいかがでしょうか。


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by dazaiosamuh | 2015-11-06 12:24 | 太宰治 | Comments(2)
 千日前南海通りにはオダサクがよく訪れた本屋がある。波屋書房という本屋で、名物カレー『自由軒』から僅か徒歩2,3分の場所だ。
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 波屋書房は食関係の本を重点的に取り揃えていて、近隣には黒門市場などがあることから、料理人などがよく訪れるらしい。如何にも昔から地域に親しまれてきた雰囲気がある。創業は大正八年(1919年)、創業者は宇崎純一・洋二。
 オダサクがよく通ったそうだが、しかし、専らツケで購入し、支払はオダサクの姉であったそうだ。
 太宰治が訪れた本屋などは残っていないが、オダサクの通った本屋はしっかり続いている。少し羨ましい気持だ。早速お店へ入ると店員が3名おり、オダサクのゆかりの地を歩いていると説明し、「オダサクが何度も訪れたことがあると聞いたのですが、本当でしょうか?」と尋ねると、「はい、オダサクが何度も通ったと聞いていますよ」と言い、「お姉さんがツケを支払っていたようです。」とも言っていたので、やはりオダサクが実際にここへ足を運び、そうしてやはりツケで本を購入していたようだ。
 オダサクの長姉タツが『何でも作ちゃんの欲しい言う本持たしてやって下さい。わてが清算に来ますよって』と言いにたびたび波屋書房を訪れたそうである。
 太宰も飲み代などをツケで支払っていたので、似たところなどもあったのかもしれません。それともこの時代はツケというのは日常茶飯事だったのでしょうか。
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 この波屋書房にオダサクがよく通っていたことなど、大阪・難波周辺の人たちは知っているのでしょうか。そして大阪の人たちにとってオダサクの認知度はどれくらいなのでしょうか。気になります。

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by dazaiosamuh | 2015-11-02 20:17 | 太宰治 | Comments(2)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)