遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 太宰治と織田作之助、坂口安吾が銀座のバー・ルパンで写っている写真は有名だが、太宰と織田作之助は交流自体はほとんど無かった。太宰は『もの思う葦』に織田作之助と会ったのは二度、と書いている。それも死ぬ一箇月前に初めて出会った。
 しかし、バー・ルパンで当時、写真家の林忠彦は織田作之助をメインに撮っていた。それどころか太宰治のことなど知らず、太宰から「織田作ばっかり撮らないで、俺も撮れよ」と言われ、そばにいた編集者から、今評判が上ってきている作家・太宰治だ、と言われ、残り一回分しか撮れないカメラのシャッターをおろしたのだ。
 つまり、織田作之助がいたおかげでルパンでの有名な太宰の写真が生まれたということだ。
 私は大阪を訪れたことがなく、いつか一人旅に出たいと思っていたので、そんな理由もあり、今回は太宰、安吾と共に「無頼派」と呼ばれた織田作之助、通称「オダサク」のゆかりの地を少しではあるが歩いてみることにした。
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 お腹が空いていたので、難波にあるオダサクが好んで食べた名物カレーのお店『自由軒』に来ました。開店前になると行列ができていたので驚きました。いかにこのお店が大阪の人々から愛されているかが分かります。席に着き、早速『名物カレー』を注文しました。
千日前の愛進館で京山小円の浪花節を聴いたが、一人では面白いとも思えず、出ると、この二、三日飯も咽喉へ通らなかったこととて急に空腹を感じ、楽天地横の自由軒で玉子入りのライスカレーを食べた。「自由軒のラ、ラ、ライスカレーは御飯にあんじょうま、ま、ま、まむしてあるよって、うまい」と嘗て柳吉が言った言葉を想い出しながら、カレーのあとのコーヒーを飲んでいると、いきなり甘い気持が胸に湧いた。』(夫婦善哉
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 こちらが自由軒の『名物カレー』です。最初に写真を撮るのを忘れていました。玉子の黄身をわりソースをかけてしまってから、写真を撮っていなかったことに気づき急いで撮った写真です。見苦しくてすみません。
 私はカレーに玉子を混ぜて食べたことが無かったので、どきどきしましたが、とても相性がよく美味しかったです。
 店名の『自由軒』は、自由民権運動に因んだ屋号とのこと。
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 店内にはオダサクの写真が飾ってありました。
トラは死んで皮をのこす 織田作死んでカレーライスをのこす
 名言ですね。『自由軒』は初代吉田四一が屋台で洋食屋を初め、明治43年(1910)に楽天地横で開店しました。店内に飾られてあるオダサクの写真は、二代目の店主が貰い受けたものです。

 名物カレーはシンプルでとても美味しかったです。大阪に行ったことはあっても『自由軒』に行ったことがない方は立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
 当分の間、オダサクの記事が続きます。

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by dazaiosamuh | 2015-10-29 14:04 | 太宰治 | Comments(2)
 太宰治が浅草の有名喫茶店『アンヂェラスに来たことがある、という情報が入った。それを教えてくれたのは、銀座のバー・ルパンで太宰治のモノマネ写真を撮ってくれた友人Sさんだ。Sさんの話だと、『アンヂェラス』の店前で人力車夫が人力車を利用したお客様に「このアンヂェラスという喫茶店には、池波正太郎や手塚治、太宰治が通っていました』という説明をしていたのを偶然近くで耳にし、それをすぐメールで私に知らせてくれたのでした。
 しかし、私はすぐに不審に思いました。今まで散々太宰関係の書籍等を読み漁り、ネットなどでも調べて来たのに、一度もその名を聞いた事がありません。ネットで調べてみると、『アンヂェラス』を利用した方々が口コミやブログで、「ここは池波正太郎や太宰治などの文豪が通ったお店です」「池波正太郎や手塚治、太宰治が訪れた超有名店」などと書かれていました。しかしながら、これ以外の情報が全くなく、甚だ疑問で強い不信感が募りました。私の今までの経験上、ここに太宰は来ていないなと直感しましたが、ここはやはり直接聞いてみるしかないと思い、『アンヂェラス』に向かいました。
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 ここが『アンヂェラス』です。東京メトロ銀座線浅草駅から徒歩4,5分で到着。とてもレトロな雰囲気を出しています。創業は昭和21年ということで、太宰が亡くなったのは昭和23年なので年代的にはクリアですね。
 そして店内に入ると、平日にも関わらず込んでおり空いている二階席に腰を下ろし、とりあえず有名な苦みの少ない水出しコーヒー『ダッチコーヒー』と店名にもなっている、チョコレートでコーティングした細く上品でかわいいロールケーキ『アンヂェラス』をオーダー。
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 こちらが『ダッチコーヒー』とロールケーキ『アンヂェラス』です。『アンヂェラス』はチョコレートとホワイトチョコレートの二種類があります。席に運ばれてきた時、すかさず「太宰治が昔来たことがあると噂を聞いてここに来ましたが本当ですか」と訊くと、店の者に聞いてきますと言い、その場を一旦立ち去りました。恐らく「来たかどうか分かりません」「耳にしたことはありますが、詳しくは分かりません」という返事を予想していたが、店員の女性が戻ってくると、「太宰治は来ておりません」とはっきり言われ、逆に「どこからその情報を聞いたのですか?」と言われてしまい、友人Sさんがたまたま人力車夫がお客様に説明しているのを耳にしたことと、ブログや口コミで『太宰治が来た』と書いているのを発見したことを言うと驚いた様子でした。
 店員さんと話しているうちに、どうやら文豪が来たという話が次第に大きくなり、噂が流れるにしたがって尾ひれがついたり、誇張されるようになったことが原因だと判明しました。
 人力車夫はちゃんと自分で調べもしないで噂話をそのまま人力車を利用したお客様に説明しているようです。しかも口コミ等に載せている人も、その人力車夫の話を鵜呑みにし、そのまま口コミやブログに書いているようなので困ったものです。ただ、池波正太郎と手塚治虫が来たことは確かで店内にはサインなども残っています。
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 真実を知った私は気持がすっきりし、ダッチコーヒーとロールケーキ『アンヂェラス』をゆっくり美味しくいただきました。
 一応結論を書いておきます。太宰治は浅草の喫茶店『アンヂェラス』には来ていません。店員さんの口から直接聞いたので間違いありません。
 もし太宰治が来たとの噂を聞いたことがある人は注意してください。

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by dazaiosamuh | 2015-10-25 22:07 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰は『津軽』の中でも合浦公園に就いて思い出を書いている。
この中学校は、いまも昔と変らず青森市の東端にある。ひらたい公園というのは、合浦公園のことである。そうしてこの公園は、ほとんど中学校の裏庭と言ってもいいほど、中学校と密着していた。私は冬の吹雪の時以外は、学校の行き帰り、この公園を通り抜け、海岸づたいに歩いた。謂わば裏路である。あまり生徒が歩いていない。私には、この裏路が、すがすがしく思われた。初夏の朝は、殊によかった。』(津軽
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 こちらが現在の合浦公園です。木の葉で『合浦公園』の名前が隠れてしまっています。家族連れやお年寄りなど老若男女が散歩に訪れ、公園内をゆっくりまわり、海を眺めてはまたゆっくり公園をまわる姿が見受けられました。
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 公園には池もありました。木造の橋もあり、どこか東京の吉祥寺と三鷹を結ぶ井之頭公園を思わせるような印象を受けました。当時からこの池はあったのでしょうか。だとしたら、太宰は井之頭公園をあるいた際、もしかしたら青春時代によく歩いたこの合浦公園を思い出すことも少なからずあったと思います。
 中学四年生の時、太宰こと津島修治と教室を共にした赤坂友雄があるエピソードを『新編 太宰治と青森のまち』に残している。

六月に入って、廊下越しにポプラ並木の葉が光り、学校と垣一つ隔てた合浦公園にはハマナスが美しく咲く初夏、生徒達は睡気がさす季節である。授業が始まって間もなく、津島君が立って教室を出ようとしたら阿部君も立ち上がった。驚いた先生(国語の丸山教師)が君達どうしたのだ、と問うと津島君が、”先生の授業が面白くないから公園へ行って寝て来ます„と言ったものである。先生ばかりか、教室の一同呆気にとられている間に二人は出て行ってしまった。三時間も経ったろうか、二人は帰って来て、また授業に出た。だが出席簿には二人の空白があり、当然のことながら先生はこれをただすと、二人は公園で昼寝をしたと言う。こいつら先生をなめてる、とでも思ったか、先生は色々と問題を二人に当てるが何れも明快に答えた。二人にとって学校の授業なんか分かりきって面白くなかったのだろう。先生との受け応えを聞きながら、こんな連中を秀才というのだろうと思ったのものだ。

 学校の授業というのはいつの時代もつまらないものだと思いますが、それでも勝手に教室を出ていくというのは、あまりいないと思います。しかも、授業を放棄しておきながら先生の問いに明快に受け応えるとは、ある意味質が悪い。しかし、このエピソードを読んだだけでも、やはり太宰治は秀才だったのだなとつくづく思いました。
 ちなみに、『阿部君』というのは後に画家になる阿部合成のことです。
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 木々が生い茂り、歩いていて気持がいい。たぶんこの合浦公園は当時からそれほど変わっていないのではないでしょうか。中学時代の坊主頭の太宰治が歩く姿が目に映ります。

中学校にはいるようになってから、私はスポオツに依っていい顔色を得ようと思いたって、暑いじぶんには、学校の帰りしなに必ず海へはいって泳いだ。私は胸泳といって雨蛙のように両脚をひらいて泳ぐ方法を好んだ。頭を水から真直に出して泳ぐのだから、波の起伏のこまかい縞目も、岸の青葉も、流れる雲も、みんな泳ぎながらに眺められるのだ。私は亀のように頭をすっとできるだけ高くのばして泳いだ。すこしでも顔を太陽に近寄せて、早く日焼けがしたいからであった。』(思い出
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 この海で太宰は泳いだのですね。実は太宰はカナヅチだったという話もあるため、どの程度泳げたのかは定かではありません。もしかしたら、平泳ぎしかできなかったのかもしれませんね。そういう私は泳ぐのは得意ではなく、平泳ぎもできません。犬かきが楽で好きです。
 訪れた時は青空で、とてもすがすがしく気持が良かった。太宰が中学時代、この海岸づたいを歩いて登下校した気持がよく分かります。連絡船が見えることもあったのでしょうか。
 いつかここで海水浴を楽しんでみたいですね。

 長くなってしまいましたが、『思い出』めぐり編はこれで終了になります。

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by dazaiosamuh | 2015-10-20 12:04 | 太宰治 | Comments(0)
校舎は、まちの端れにあって、しろいペンキで塗られ、すぐ裏は海峡に面したひらたい公園で、浪の音や松のざわめきが授業中でも聞こえて来て、廊下も広く教室の天井も高くて、私はすべてにいい感じを受けたのだが、そこにいる教師たちは私をひどく迫害したのである。
(中略)
 私は散りかけている花弁であった。すこしの風にもふるえおののいた。人からどんな些細なさげすみを受けても死なん哉と悶えた。私は、自分を今にきっとえらくなるものと思っていたし、英雄としての名誉をまもって、たとい大人の侮りにでも容赦できなかったのであるから、この落第という不名誉も、それだけ致命的であったのである。
(中略)
 しかし私の第一学期の成績はクラスの三番であった。操行も甲であった。落第の懸念に苦しまされていた私は、その通告簿を片手に握って、もう一方の手で靴を吊り下げたまま、裏の海岸まではだしで走った。嬉しかったのである。
』(思い出

 太宰が通った青森中学校は、合浦公園のすぐ横で、海も近く、曰く『波の音や松のざわめき』が聞こえてくる心落ちつく学校であった。現在は青森市営野球場となっているが、学校の正門の名残が残っている。
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 写真は太宰が通った青森県立青森中学校の正門跡です。若干カーブした塀の跡が分かると思います。唯一残っている中学校跡です。ここを太宰が毎日通ったのかと思うと、感慨深いものがあります。
 また『人間失格』の第二の手記の冒頭では『海の、波打際、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に…(中略)…やがて、花吹雪の時には、花びらがおびただしく海に散り込み、海面を鏤めて漂い、波に乗せられ再び波打際に打ちかえされる、その桜の砂浜が、そのまま校庭として使用せられている東北の或る中学校に、自分は受験勉強もろくにしなかったのに、どうやら無事に入学できました。』とあります。
 はじめて『人間失格』を読んだときは、この描写にわくわくし、何て素敵な学校なのだろうと想像を膨らませた思い出があります。
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 写真は現在の青森市営野球場です。太宰の通った青森県立青森中学校がありました。
 昭和21年2月6日、太宰は母校である青森中学校に講演で訪れている。演題は『真の教養と日本の独立』である。その時に在学中で、太宰の講演を聴いた人たちの太宰に対するそれぞれの印象が『太宰治と青森のまち』に書かれているので、抜粋させてもらいます。
着物を着ていた。袴をつけていたように思うがさだかではない。ともかく、その長髪をかき上げるしぐさと着物に、ぐいと魂をつかまれていた。やはり、作家とは別の世界の人なのだ』(小寺隆韶
太宰は髪を前に垂らすほどではないが、ややうつ向きかげんに喋り、その話し振りは非常に物静かで、優しい中年のおじさんの声の落着いた風情で、しかし、相手がどのような人たちであろうと、ただ喋りたいことだけを喋ればよいといった具合の話し方で、それはまさに、真に自分の心の核になりきっているものを坦々と吐露しているだけなのであり、話が聴衆にどのような効果を与えるかということには一向に無頓着な、淡々とした表情を見せていた』(小野誠二
和服の似合う人だと思った。蓬髪だったと思う。当時、雑誌などでみかける小説家のイメージにぴったりであった。そして白い長い指が印象的であった』(星野富一郎

 ただ思ったことをひたすら喋る太宰が想像できる気がします。こういった講演などは苦手だったのではないでしょうか。そしてやはり、和服の似合う人だったのですね。『長髪をかき上げるしぐさ』は、さすがナルシストだと思います。私も太宰の講演を聴いてみたかったです。


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by dazaiosamuh | 2015-10-15 17:21 | 太宰治 | Comments(2)
すなおで  かみさまのような  いいこ

 太宰好きでこの言葉を聞いたらぴんとくるはず。あっ、人間失格の台詞だな、でもちょっとアレンジされているな、と。
 この『すなおで かみさまのような いいこ』という台詞は、青森市にある合浦小学校に文学碑として作られました。実際の『人間失格』の台詞は、『私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした』である。それを簡単に小学生にも分かりやすいようにアレンジした台詞である。合浦小学校に文学碑があると本に記載されていたため、ついでに見に行くことにしたのでした。
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 こちらが現在の合浦小学校になります。子供たちの元気な声を聞きながら敷地内を見てまわりますが、どこにも見当たりません。書籍等には正門脇の敷地内にあると書かれており、しかも写真付きのため、絶対どこかにあるはず。しかし、校庭や学校の周りを一周、二周しても発見できません。まさか撤去したのか。いや、そんなはずはない。だが見当たらない。学校の敷地内をウロウロ、キョロキョロしていると、4,5人の合浦小学校の子供たち男女が私を見て、「不審者じゃない!?」「そうだ、何か怪しい、不審者だ!」と、ひそひそ話しているのが聞こえてきました。ちがう、私は断じて不審者ではない。ただ純粋に太宰の文学碑を見に来ただけなのだ。実に心外だ。
 しかし、いい大人が小学校をウロウロしていては疑われても仕方が無い。このままでは警察を呼ばれてしまうかもしれない、そう思った私は、やむを得ずインターホンで学校の職員を呼び、太宰治の文学碑を見に来たが、どこにあるのかと聞いてみました。すると、なんと文学碑は場所を変え、校舎内に設置したとのこと。理由を尋ねると、校舎の増設に伴い、校舎のすぐ近くにあった太宰の文学碑をどうしてもどかさなくてはならなくなり、しかたなく文字の書かれたプレートだけを校舎内(廊下)に設置したとのことでした。
 どうりでいくら探しても発見できなかったわけです。事情が分かった所で、職員の方から文学碑のある校舎の中へ案内してもらいました。
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 こちらが文学碑になります。たしか二階の廊下だったと思います。さりげなく置かれていました。筆をとったのは関俊雄という方で、昭和29年に新設合浦小学校の二代目校長として赴任し、5年間在任しました。この方が合浦小学校の後輩のためにも、よいしるべとなるものが無いだろうかと思案にくれ、『あれこれ思考をめぐらしているうちに、突然!石碑をたてよう。それも、太宰の作品の中から、言葉を選ぶことにしよう』と思いついたのがきっかけでした。
すなおで、かみさまのような、いいこ」につきましては、勝手にこうアレンジしていいものだろうかと、私の気持ちにひっかかっていましたが、小野正文先生が、上京の折、太宰さんの奥さんにご了解いただきましたら、ご寛容下され、「かえって、その方が上品でいいですわ」と笑ってお許しいただいたとのことでした。』(太宰治と青森のまち

 子どもたちの素直な成長を願って作られた素晴らしい文学碑ですね。
 文学碑は、『太宰治と青森のまち』と『新編 太宰治と青森のまち』が出版された後に場所が変わってしまったので、注意が必要です。どうしても見たい人は、学校職員を呼び、許可を得て校内を案内してもらわなければなりませんので、手間がかかります。

すなおで かみさまのような いいこ
 分かりやすくていいですね。私も子どもたちの素直な成長を心から願っています。

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by dazaiosamuh | 2015-10-10 19:34 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治が渡った『旭橋』を越え、堤川沿いを歩いていくと、松園橋付近に着きます。そこからすぐの場所に、『文芸のこみち』という遊歩道があります。この遊歩道『文芸のこみち』は平成6年秋につくられました。
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『文芸のこみち』と書かれた石碑があり、樹々に囲まれた中を進んで行くと、青森市ゆかりの人物の石碑が出迎えます。全部で14基あるみたいです。

野内川まで約四・五キロの遊歩道は樹々につつまれ、春の新緑、夏の濃い緑と緑陰、秋の紅葉、また落葉後の風情も捨てがたい。
 特に文芸のこみちの場所は、国道商店街からわずかに百メートル足らずの距離、いわば街の中にもかかわらず、閑静な雰囲気につつまれた別天地。そして現在、平和公園界隈から合浦公園にかけての文芸散歩の中心として、訪れる人も多い。
』(新編 太宰治と青森のまち

『文芸散歩の中心として、訪れる人も多い。』とは書かれていますが、あまり人の通りもなく、青森市の人でもここを知らない人はいるのではと思います。だからこそ緑の樹々に囲まれた閑静な雰囲気で、ホッと心休まるのも事実。
 一つ一つ確認しながら進んで行くと、ようやく太宰の石碑を発見しました。
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 太宰の石碑には、『津軽』の最後に書かれた名台詞が目に飛び込んできました。
さらば読者よ
 命あらばまた他日
 元気で行こう
 絶望するな
 では、失敬
       「津軽」より 太宰治


 太宰らしくて大好きな台詞です。ここに来た時は時間があまり無かったため、他の碑をじっくり見る事ができなかったので、またいつか来たときに一つ一つゆっくり見たいと思います。
 長いですが、もう少し続きます。

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by dazaiosamuh | 2015-10-05 19:10 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治は毎日、豊田家から堤川に架かる橋を渡り中学校に通った。しかし、現在はその堤川に5本の橋が架かっているが、はたして太宰はどの橋を主に渡ったのでしょうか。

私が三年生になって、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかって、私はしばらくぼんやりしていた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れていた。全くぼんやりしている経験など、それまでの私にはなかったのである。』(思い出

 現在の5本の橋というのは、『石森橋』『青柳橋』『旭橋』『うとう橋』『堤橋』の5本である。
 さて、『朱で染めた橋のまるい欄干』というのは、どの橋なのでしょうか。実際に5本の橋を見てみると、現在、まるい欄干で朱で染めた橋はありません。
 しかし、『太宰治と青森のまち』に『青森中学時代、寺町の豊田のふとんやに下宿しながら、朝晩堤川にかかる旭橋(俗称、弁慶橋)を渡って通学した筈である。
 旭橋は、京都五条大橋を模して作られた、擬宝珠つき朱塗りのしゃれた橋であった。俗に弁慶橋といって子供たちは、牛若丸と弁慶の一騎討ちがこの橋で行われたという話を本気で信じこんでいたのである。
』とあり、『新編 太宰治と青森のまち』にも『太宰が通学によく通った旭橋や青柳橋、古茶屋町の通り…中でも弁慶橋ともよんでいた旭橋は、朱塗りの欄干と擬宝珠がトレードマークでもあった。』と書かれていたので、『思い出』に登場する『朱で染めた橋のまるい欄干』というのは、『旭橋』で間違いないようです。
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 こちらが現在の『旭橋』です。頑丈な橋に変わってはいるものの、川を眺めて黄昏るような橋ではなく、特になんの感慨もありませんでした。
 一番多く利用し思い出に残っているのが『旭橋』だったようですが、太宰は同級生たちと一緒に『青柳橋』も渡っていた。
中学一・二年生の頃、彼はよく家族のことを私に話した。遠く郷里を離れて懐しかったのだろう。私は駅前の親類にいたので、私達は学校の裏通りを編上げ靴にマント姿で、松並木をぬけ、相馬町、青柳橋を渡って帰った。』(新編 太宰治と青森のまち 坪田淳)
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 こちらは『青柳橋』です。あまり写真を撮らなかったのでいい写真がありませんでした。
 なぜ太宰にとって『旭橋』が『思い出』の一部として印象に残っているかというと、ただ単にまるい欄干に朱で染めた洒落た橋だからではない。太宰はこの時ひそかに、作家になることを決意していたのだ。その時の橋がまるい欄干で朱でそめた『旭橋』なのだ。
橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思い出し、また夢想した。そして、おしまいに溜息ついてこう考えた。えらくなれるかしら。(中略)そしてとうとう私は或るわびしいはけ口を見つけたのだ。創作であった。ここにはたくさんの同類がいて、みんな私と同じように此のわけのわからぬおののきを見つめているように思われたのである。
 作家になろう、作家になろう、と私はひそかに願望した。
』(思い出

 ここから太宰の創作活動がスタートするのである。『思い出』は昭和8年、同人雑誌『海豹』に発表されましたが、それからおよそ11年後の昭和19年に書いた『津軽』の冒頭部分に『思い出』を書いた時のことが書かれています。
隅田川に似た広い川というのは、青森市の東部を流れる堤川の事である。すぐに青森湾に注ぐ。川というものは、海に流れ込む直前の一箇所で、奇妙に躊躇して逆流するかのように流れが鈍くなるものである。私はその鈍い流れを眺めて放心した。きざな譬え方をすれば、私の青春も川から海へ流れ込む直前であったのであろう。青森に於ける四年間は、その故に、私にとって忘れがたい期間であったとも言えるであろう。』(津軽

 現在の『旭橋』はなんの名残も残っていませんが、『思い出』『津軽』にもあるように、のちの日本の昭和の文豪と呼ばれる一人の作家が、青春時代、作家になろう、作家になろう、と決意した大事な場面、ゆかりの地なのだ。
 いつかここに文学碑を作ってもらいたいですね。


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by dazaiosamuh | 2015-10-01 12:15 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)