遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 豊田家跡、正覚寺を通り、私は合浦公園方面へと向かったのですが、『太宰治と青森のまち』に、青森市中央市民センターの敷地内に太宰治の碑があると記載されていたため、ついでに立ち寄ることにしました。
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 写真が青森市中央市民センターで、平和公園の近くにあります。元々、記念碑を作るきっかけとなったのは、青森県PTA連合会が昭和55年に30周年記念事業の一つとして記念碑の建立を決定したことが発端です。子供たちの将来と教育に寄せる熱い願いを後世に伝えようという想いからだそうです。
 その際、郷土出身の作家・太宰治の作品が望ましいとして、『何よりも純粋な友情の尊さを謳歌した作品であり、作者自身の、天に轟くばかりの美談を書きたいという念願が結晶したもので、読む者を感動の世界にひき入れる力のこもったものであること、そして挫折に打ち拉がれ、失意に落ちこもうとする青少年の心に勇気を甦らせ鼓舞して、目的達成のために、これを奮い起こせる作品である』(太宰治と青森のまち)という理由から、『走れメロス』の作品に決定し、この小説の主題にちなみ、碑を『友情の碑』とした。
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 こちらが『友情の碑』です。見づらくて申し訳ありません。『友情の碑』、と力強くしるされ、『走れメロス』から一節が書かれています。
斜陽は赤い光を、樹々の葉に没し、葉も枝も燃えるばかりに輝いてゐる。日没までには、まだ間がある。
 私を、待ってゐる人があるのだ。少しも疑はず、静かに期待してくれてゐる人があるのだ。私は、信じられてゐる。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫びなどと氣のいい事は言つて居られぬ。私は、信賴に報いなければならぬ。
 いまはただその一事だ。走れ!メロス。


 著者生前の意図を重んずるために「初版」に依拠し、原文のまま書かれている。碑石に刻む文章として、何を典拠とするかについては、太宰の妻である津島美知子夫人の助言と、小野正文の意見を求めて決定された。
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 碑石の後ろには小野正文の太宰と『走れメロス』についての説明が刻まれている。
太宰治本名津島修治は明治四十二年六月十九日本県金木町に生れ大正十二年四月から昭和二年三月までの四年間県立青森中学校に通い朝夕八甲田山を仰いで勉学にいそしみながら将来の作家としての資質を培った。
「走れメロス」は昭和十五年の作で純粹な友情の美しさを謳い上げたすぐれた小説であり文体もよどみなくリズミカルな躍動感に溢れ読む者に清らかな感動を与える。


 現在、小中学校のほとんどの国語もしくは道徳の教科書に『走れメロス』が載っているようなので、小学校から中学卒業までに殆どの人が『走れメロス』を全文ではないにしても読んでいることになる。それだけ太宰の書いた『走れメロス』が、青少年における友情、挫折、希望が凝縮した理想の青少年像だということなのだ。大人になったいまでも『走れメロス』を読むと、決してあきらめずに何度でもたちあがらなくてはいけないんだ、と勇気づけられる。

 時計を見ると、すでに午後3時を過ぎている。実はレンタル自転車で市内を巡っているのだが、返却時間は夕方5時なのだ。まだまわっていないゆかりの場所、関連場所が残っている。自転車に変速機能はついていない。
 いそがねば!走れ!黒森富治大!!

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by dazaiosamuh | 2015-09-24 13:09 | 太宰治 | Comments(0)
私はそこへ百米の直線コオスを作り、ひとりまじめに走った。』(思い出

 №8の常光寺の記事で、『思い出』で太宰がひとりでダッシュの練習をしたときのことを書きましたが、実は太宰は友人達と一緒に、別の場所でタイムを競い合っていたのだ。

当時、学校から帰って来ると、よく正覚寺の横を走ったものでした。寺町の道路からまっ直ぐ正覚寺の本堂にぶつかって左へ曲り、更に右に曲った所の右側に板べいが続いていて、そこが百十五メートル位の直線コースになっている小路でした。津島が高等学校へ入って青森からいなくなるまでの二年間、よく一緒に走ったものです。』(太宰治と青森のまち 坂井昌二
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 写真が、『正覚寺』です。現在の『正覚寺』の周りは、右周辺が駐車場、左は道路になっています。当時はちょうどいい具合の練習場所があったようですね。
 
 さて、肝心の太宰のタイムはというと、タイトルにもありますが……、
津島がスパイク買って、みんなもそうしたものですから、貧乏人の私もスパイクを買いました。津島がストップウォッチを買って来て、交代でタイムキーパーやったものです。走ったメンバーは、修治(太宰治)、礼治(太宰の弟)、中貞さん、私(坂井昌二)の四人でした。私はどんなに走っても十四秒一を切れませんでしたが、津島修治は十三秒二くらいで走りました。上背も五尺五、六寸ありましたし、素人目にも陸上競技のタイプでした。』(太宰治と青森のまち 坂井昌二

 115mとは中途半端ですが、タイムの結果が本当なら115mを13秒2というのは、かなり速いほうではないでしょうか。現在の中高生の50m走のタイムの平均は約7秒1,2から7秒7,8位のようですから、単純計算で100mだと約13秒後半から14秒半ば位になるので、太宰の115m13秒2というのは、かなり速いと思います。50mで考えると6秒台後半ですね。仮に、100m13秒2だったとしても、速いほうだと思います。『素人目にも陸上競技のタイプでした。』とあるので、太宰は走ることが得意だったようです。晩年の太宰からは想像できないですね。

 ちなみに、私の学生時代(17歳)のタイムは、50m7秒4でしたので、もし学生時代の太宰と走ったら、100%負けますね。
 作家としてではなく、一人の中学生として見ると、極めて真面目で優等生な一面がうかがえる。太宰の思わぬ特技が発見できて楽しいですね。恐るべし太宰治!!

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by dazaiosamuh | 2015-09-20 20:40 | 太宰治 | Comments(2)
 一昨日9月14日(月)、『荻窪の歴史文化を育てる会』が主催した太宰サミット第二回、『太宰に会う、又吉に会う』に参加してきました。会場は杉並公会堂大ホール、18時30分開演。
 ゲストには、『火花』で芥川賞を受賞したお笑い芸人ピースの又吉直樹さん、作家・翻訳家の松本侑子さん、朗読家の原きよさん、他にも東京大学文学部・大学院人文社会系研究科教授の安藤宏さん、建築史家の松本裕介さんらがステージに登場しました。自分も含めて、なんと1000人以上が集まりました。
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 原きよさんは、太宰の代表作『富嶽百景』を朗読。初めて聞きましたが、かなり上手でした。他の作品も聞いてみたいです。『富嶽百景』には、碧雲荘のトイレの窓の金網越しから富士山を眺める様子が書かれています。
 しかし、一番気になったのは、やはり、建築史家の松本裕介さんの碧雲荘の特徴の説明です。

碧雲荘特徴
 ・和風の2階建て
 ・大家と下宿屋が屋根の下に収まっている
 ・賄い付きであった。家事もできるように共用ガスコンロがあった
 ・廊下、洗面所、便所はすべて共用
 ・風呂は付いていない。そのため銭湯を利用
 ・屋内に共用階段、共用廊下
 ・各部屋には、ドア(洋風)、もしくは引戸(和風)があった
 ・畳の部屋には押入れが付いてた

 急いで走り書きでメモしたので、間違っている部分もあるかもしれませんが、こんな感じでした。他にも、色々と特徴を説明していたのですが、メモできませんでした。当時、下宿屋というのはどれも、碧雲荘のような特徴だったようです。下宿屋によっては、玄関に受付が付いてるところもあったようですが、碧雲荘には付いていません。碧雲荘の詳しい調査はまだまだ途中のようで、図面や造りなどもまだ調査中とのこと。碧雲荘の内部の写真はほとんど公開する許可がおりないようで、内部の写真はあまりみることができませんでした。
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 写真は当日貰ったパンフレットです。ピース又吉が登場するのは後半だったため、いざ登場となったとき、一段と大きな拍手が沸き起こりました。テレビで見る以上に迫力を感じました。
『火花』の後半で、主人公の先輩芸人がなぜか豊胸手術をする描写がありますが、松本侑子さんとの対談で、その部分を突っ込まれ、『又吉さんは、巨乳がお好きなのですか』などと訊かれ、『そうですねぇ』と返したりして、場内も含め、可笑しくて私も思わず笑ってしまいました。

 現在の碧雲荘の状況としては、厳しい状態のようです。しかし、今後も著名運動や呼びかけをどんどん続けていくとのことでした。残せるといいですね。

 ちなみ、会場で松本侑子さんが出している本『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』『太宰治の愛と文学をたずねて』を販売していてサインも貰えるとのことで、私もサインをいただきました。
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 私のブログの名刺を渡したところ、『黒森富治大様のために』とペンネームも入れてくれました。松本侑子さん、ありがとうございました。
 太宰ファン、みんなで碧雲荘を守っていきたいですね。このとき、他のグッズも色々買ったので、後で載せたいと思います。

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by dazaiosamuh | 2015-09-16 21:28 | 太宰治 | Comments(2)
いい成績ではなかったが、私はその春、中学校へ受験して合格をした。私は、新しい袴と黒い沓下とあみあげの靴をはき、いままでの毛布をよして羅紗のマントを洒落者らしくボタンをかけずに前をあけたまま羽織って、その海のある小都会へ出た。そして私のうちと遠い親戚にあたるそのまちの呉服店で旅装を解いた。入口にちぎれた古いのれんをさげてあるその家へ、私はずっと世話になることになっていたのである。』(思い出

 上記にある『遠い親戚にあたるそのまちの呉服店』というが、前回書いた常光寺に隣接し、中学時代の太宰の下宿地である豊田太左衛門家である。
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 写真が豊田家のあった場所です。現在は駐車場になっています。よく見ると常光寺が隣接しているのが分かると思います。太宰は中学時代、ここから学校に通いました。
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 歩道には中学時代に下宿場所であったことを示すプレートがあります。中学時代、賢明に勉強に励んだとの内容が書かれていました。
津軽』にも中学時代、豊田家にお世話になった話が少し出てきます。
私の世話になった呉服店というのは、寺町の豊田家である。二十代ちかく続いた青森屈指の老舗である。ここのお父さんは先年なくなられたが、私はこのお父さんに実の子以上に大事にされた。忘れる事が出来ない。この二、三年来、私は青森市へ二、三度行ったが、その度毎に、このお父さんのお墓へおまいりして、そうして必ず豊田家に宿泊させてもらうならわしである。』(津軽

『実の子以上に大事にされた』からこそ、真面目に勉学に励んだり、100m走の練習にも取り組むことができたのかもしれませんね。
 さらに、『太宰治と青森のまち』に、豊田太左衛門の孫・鈴木正子さんが、祖父から聞いた話や小さい頃の太宰との思い出を載せています。
ここに出てくるお父さんとは私の祖父、豊田太左衛門のことである。祖父はこの遠縁にあたる金木の津島家から預かった太宰をことのほか可愛がったということである。(中略)戦災前、寺町の家の座敷には、四号くらいのひまわり二輪をえがいた油絵がかかっていた。それは、太宰が祖父にプレゼントした棟方志功の絵で、焼けていなければ、きっとわが家の宝物のひとつになっていたに違いない。

 そして、太宰は中学時代どんな子だったのかというと、
真面目でよく勉強したこと、青春のシンボルには悩まされ、ニキビとり美顔水を愛用して部屋には空ビンが一杯並べてあった』らしい。
 誰でもニキビには悩まされると思いますが、人一倍、他人の目を気にする太宰には耐え難いことだったことでしょうね。私も10代の頃は、せっせと化粧水をつけたり、ニキビ専用のクリームなどを丹念に塗り込んだものです。

 鈴木正子さんは、自身の太宰治との思い出で、
また「津軽」の取材で来青した時なのだろうが、その時は太宰一人であった。夕食後、夜行で発ったのだが駅まで送っていった。太宰はカーキ色の国民服にゲートルをつけていたように思う。燈火管制の暗い新町通りを「空襲警報きこえてきたら……」と歌いながら帰ってきたのを妙にはっきりと覚えている。』と書いていました。
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 太宰の生れた金木町と同じく、青森市も太宰の思い出が沢山残っていますが、このプレートの前で足を止める人はどれくらいいるのでしょうか。たぶんここが、太宰が中学時代に下宿した豊田家があった場所だと知る者はあまりいないのではと思います。

 長いですが、『思い出』めぐり編はまだまだつづきます。

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by dazaiosamuh | 2015-09-14 12:23 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治は中学時代、1年の1学期には走り込みや柔道に励んだ。その頃、遠縁にあたる青森市寺町十四番地の「山太呉服店」豊田太左衛門方に下宿していた。豊田太左衛門は、叔母キエの2度目の夫・常吉の実家の当主で、中畑慶吉の舅にあたる。
 その豊田太左衛門方のすぐ横に常光寺というお寺があり、太宰はそこで100mの直線を走り込んで、体力づくりに励んだのだ。

私のいたうちの裏がひろい墓地だったので、私はそこへ百米(100m)の直線コオスを作り、ひとりでまじめに走った。その墓地はたかいポプラの繁みで囲まれていて、はしり疲れると私はそこの卒塔婆の文字などを読み読みしながらぶらついた。月穿潭底(げつせんたんてい)とか、三界唯一心とかの句をいまでも忘れずにいる。ある日私は、銭苔のいっぱい生えている黒くしめった墓石に、寂性清寥居士という名前を見つけてかなり心を騒がせ、その墓のまえに新しく飾られてあった紙の蓮華の白い葉に、おれはいま土のしたで蛆虫とあそんでいる、と或る仏蘭西の詩人から暗示された言葉を、泥を含ませた私の人指ゆびでもって、さも幽霊が記したかのようにほそぼそとなすり書いて置いた。』(思い出
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 写真が常光寺です。太宰はここでまじめに練習したのだ。しかも、『スパイクシューズまで買ってきて、ダッシュをくりかえし、熱心にランニングの練習をした』(「青森時代の太宰治」 中村貞次郎)

 太宰についてあまり詳しく知らない人は、酒、煙草、女好きで、自殺癖がある、という不摂生で暗いイメージしかもっていない人がほとんどかもしれない。しかし、青春時代、太宰にもこういった健気に運動に打ち込む時期があったのだ。むしろ私は、学校の体育の授業や部活動以外で、家に帰ってから1人で短距離の自主練などしたことなどない。太宰は100mを何秒で走り切ったのでしょうか。
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 写真は常光寺内にある石仏群。太宰がいた当時からあったものだと思います。太宰も少なからず目にしていたはず。

そのあくる日の夕方、私は運動にとりかかる前に、先ずきのうの墓標へお参りしたら、朝の驟雨で亡魂の文字はその近親の誰をも泣かせぬうちに跡かたもなく洗いさらわれて、蓮華の白い葉もところどころ破れていた。
 私はそんな事をして遊んでいたのであったが、走る事も大変巧くなったのである。両脚の筋肉もくりくりと丸くふくれて来た。けれども顔色は、やっぱりよくならなかったのだ。黒い表皮の底には、濁った蒼い色が気持悪くよどんでいた。
』(思い出

 酒や煙草を控え、大人になってからも少しくらい体力作りをしていれば、健康でもう少し長生きできたかもしれまんせね。

 次回は、常光寺のすぐ隣にあった豊田家跡を書きます。

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by dazaiosamuh | 2015-09-09 11:13 | 太宰治 | Comments(2)
 紅子こと小山初代が住み込みで働いていた『野沢家』と姻戚関係のある料亭『玉家』は、『野沢家跡』から数軒隣にあった。『玉家』を経営していたのは野沢家の長男・野沢謙三で、『太宰治と青森のまち』に、謙三の息子である野沢晃が、父が太宰について語った内容が書かれている。

父の知る太宰治は、まだ無名の津島修治である。父はごく普通の調子で「修さん」という。
 父の経営する料亭”玉家„から四、五軒東隣りの塩谷旅館を常宿としていた北津軽郡金木町出身の県議会議員津島文治(後の青森県知事)氏の弟であり、その頃旧制弘前高等学校の学生であった太宰治は、いつも友人と一緒に、半玉(玉代が芸妓の半額の者をいう)として新浜町二丁目(現在本町三丁目)の父の母、野沢たまが経営する野沢家に籍を置いていた紅子こと小山初代をひいきにし、連れ歩いていた。「まだ学生の津島のおんちゃまが、よく紅子をひいきにし、そちこちへ連れて歩いているのを知っていたが、兄の文治先生のこともあるので見ても見ぬふりをしていた」と父は当時の複雑だった気持を語る。

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 写真の通りの奥へ進むと青森駅方面です。この駐車場付近に『玉家』があったようです。
 紅子は、太宰と出会ってからあまり時間がかからずに半玉から芸妓になりました。文だけだと簡単になれるかのような印象を受けますが、『紅子の出た大正の末頃はおよそ三百人近い芸妓と半玉が居り、芸の修業はそれだけになかなかきびしい』時代だったようです。

紅子が野沢家に籍を置き、また料亭”玉家„は野沢家の長男である父が経営していること、津島文治氏が玉家をひいきにしていたことから気まずいのか、太宰治は、玉家に上ることはなく、同じ浜町二丁目であっても角を一つ曲がった料亭”おもだか„にもっぱら通っていた。

 兄・文治の通っていた『玉家』に上ることはなかったといっても、『おもたか』から『玉家』まで徒歩1分もあれば着く距離ではあるので、文治がまったく気づかなかったわけはないはず。そして、もし『玉家』経営者の野沢謙三が『見ても見ぬふり』をせず、何かしらのアクションを起こしていれば、太宰と初代の関係は、また違ったものになっていたかもしれません。
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 駐車場付近に『玉家』があり、左に進むと『野沢家』跡、角を右に曲がってすぐに『おもたか』跡があります。

 ちなみに、紅子こと小山初代は、昭和19年7月23日に中華民国の青島(チンタオ)で病没している。享年33歳。詳しくは、後で書きたいと思います。

『思い出』めぐり、の記事はまだまだ続きます。

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by dazaiosamuh | 2015-09-03 13:54 | 太宰治 | Comments(4)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)