遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 前回は、太宰治と小山初代の逢瀬の場となっていた『おもたか』跡を載せましたが、小山初代が母と共に住み込みで働いていた『野沢家』跡は、『おもたか』跡から僅か1分も掛からない場所にあります。
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 写真の左奥に向かう方に、大阪屋と書かれた看板がありますが、そのすぐ右隣りの駐車場が前回紹介した『おもたか』跡になります。そして、中央の『G21』と書かれた建物のすぐ右隣り付近に、『野沢家』がありました。
 小山初代は、大鰐町で生まれ、小学校を卒業するとすぐに青森に出て浜町の芸妓置屋『野沢家』に住み込みで芸妓修行につとめました。

青森市浜町の野沢家は、常時十名前後の芸妓を抱えるかなりの芸妓置屋で、仕立物の上手な小山キミ(初代の母)は、通いの裁縫師として野沢家で働いていた。小学校を卒業したばかりの初代が、芸妓見習いとして母キミと共に住込みで勤めるようになったのは、おそらく大正十三年春のことであったろう。野沢家の主人が新しく料亭玉家を開店したのは、昭和二年のことであり、その時でも初代は野沢家に籍を置いていたのであるから、料亭玉家の芸妓であったわけではない。また、狼と仇名されたほどの母親ゆずりの勝気な娘であったが、稽古事にはとても熱心で、半玉試験には一回で合格している。』(太宰治文学アルバム 女性編

 熱心で半玉試験に1回で合格してはいたが、まだまだ一流とは言えず、きままな振る舞いなどが多かったようです。しかし、だからこそ太宰はこの勝気で、自由奔放な振る舞いを見せる初代に、魅せられ、好意を感じていったのではないでしょうか。
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 写真は『野沢家』跡があったと思われる近辺です。すぐ左横が、1枚目の写真にあった『G21』です。ここで当時、一流の芸妓になるために女性たちが日々稽古に明け暮れ、町の男たちは娯楽のために通ったのでしょうね。しかし、そんな活気はもうありません。ここで太宰と初代が出会ったことなど、太宰ファンでなければしらないと思います。

太宰は、月々、百円の仕送りを文治からうけていた。当時、小学校教員の初任給がおよそ五十五円。その二倍近い金額を、高校生の太宰は一人で使っていた。
 ちなみに、昭和4年、東京白山で芸者をひとり座敷によんで二円、映画のチケット代は四十銭、天丼が三十銭である。百円の仕送りがある太宰は、遊興費に不自由しなかった。
』(太宰治の愛と文学をたずねて 松本侑子

 仕送りが約100円から最高で約120円。東京白山の芸者が1人2円。単純計算で、芸者50人~60人と遊べますね。すごい!!金銭感覚が麻痺しても仕方がない。そもそもそんな高額な仕送りをする兄・文治にも責任があるのではないでしょうか。太宰も含めて津島家に生まれた兄・文二もまた、金銭感覚が常人とかけ離れていたのだ。

 次回は、『玉家』跡を書きます。

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by dazaiosamuh | 2015-08-28 10:53 | 太宰治 | Comments(2)
 昭和2年4月に弘前高校に入学した太宰は、芥川龍之介の自殺に衝撃を受けたり、義太夫を習い初め、芸妓買いなどをしていた。この時、出会ったのが紅子こと小山初代である。当時太宰19歳、紅子16歳である。
 紅子は小学校を卒業すると、青森の置屋『野沢家』に住み込みで芸妓として働いた。太宰の長兄・文治も花柳界で遊んでおり、その野沢家と姻戚関係がある料亭『玉家』を贔屓しており、太宰は長兄・文治と会わないように、小さな料亭『おもたか』に幾度も紅子を呼び、2人は少しずつ親しい仲となっていき、次第にこの『おもたか』が逢瀬の場となっていった。
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 前回の桟橋跡から真直ぐ歩き、交差点を渡ってすぐの場所、写真の駐車場になっている場所が、当時料亭『おもたか』があった場所です。言うまでもなく面影はありません。
太宰は週末には弘前から青森へでかけ、青森中学校時代の下宿先の豊田太左衛門宅で学生服を結城紬と角帯に着替えて、料亭「おもたか」へ行き、昼は中村ソメ師匠から義太夫を習い夕方には紅子を呼び寄せた。
 紅子は半玉から芸者になりたてで「小柄で眼のぱっちりした豊頬で、赤い襟や赤い鼻緒の下駄の似合う人」だった
』(新編 太宰治と青森のまち

 当時の旧制高校では、花柳界や遊郭で遊ぶことは普通に近く、太宰に限ったことではなかった。弘前高校、東大時代を一緒に過ごした大高勝次郎は、『津島の芸妓買いを私が知ったのは二年生になってから間もなくのことであった。』と自身の著書『太宰治の思い出』に記している。
 太宰は、一つ年上の同級生から、『君は毎週青森に来て、鼻に白粉をつけて遊んでいるそうじゃないか、え、へ、へ…』とにやにやしながら言われ、『彼はいたたまれぬように面を伏せて、蹌踉とあたりを歩き廻った。
 大高は、こんな太宰の姿を『私はかつて、そんなに恥じた津島を見たことがなかった。』と書いている。

 太宰は弘高時代は弘前に下宿していたのですが、仕送りが多少ばらつきはあると思いますが、毎月120円だったとか。現在の金額にすると何と、約50万円ほどと言われています。
 普通の人からすると考えられないですし、羨ましいですね。毎月自由に使えるお金がそんなにあったら、夢が広がりますね。
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 写真の右を真直ぐ行くと、桟橋跡になります。
 この『おもたか』跡は、書籍等に詳しく載っているので、簡単に見つけられると思います。
弘前高校時代に芸妓・紅子こと小山初代(太宰の最初の妻)と逢瀬を重ねた料亭「おもたか」は、市内の浜町(現・本町二丁目)にあったが、今では建物は失われ、駐車場になっていた。』(太宰治と旅する津軽 新潮社
 また、『新編 太宰治と青森のまち』にも、手書き風のイラストで地図(70、71P)が載っていますので、本を片手に芸妓買いをしていた頃のゆかりの地をまわるのも面白いかもしれまん。


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by dazaiosamuh | 2015-08-22 14:24 | 太宰治 | Comments(2)
『思い出』めぐりの№2で、連絡船と赤い糸の話を書きましたが、太宰と弟の礼治が赤い糸の話を語った桟橋跡は下の写真付近になります。
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 今では全く面影を残していません。
秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の桟橋へ出て、海峡を渡ってくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話合った。
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 何もないため、別段、何の感慨もありませんでした。海から吹く寂しい風が体にあたり、ここにはもう何も残っていないよ、と言っているようでした。
 この写真のすぐ後ろの通りを真直ぐに進むと十字路の交差点があり、その付近には、太宰が通った料亭『おもたか』跡があります。
 太宰が弘高時代に一生懸命に通った、後に妻となる、紅子こと小山初代との逢瀬の場です。
 次回は『おもたか跡』を書きます。

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by dazaiosamuh | 2015-08-16 21:18 | 太宰治 | Comments(2)
 太宰治は学生時代から創作活動を行ってきた。そんな太宰が本屋に足を運ばないわけはない。『思い出』にも本屋へ行ったときのことも書かれてある。今も残っていないか関連書籍を読み漁っていたところ、『太宰治と青森のまち』に太宰が通ったのは『今泉書店』であることが分かった。

休暇が終わりになると私は悲しくなった。(略)そんな寂しい場合には、本屋へ行くことにしていた。そのときも私は近くの本屋へ走った。そこに並べられたかずかずの刊行物の背を見ただけでも、私の憂愁は不思議に消えるのだ。その本屋の隅の書棚には、私の欲しくても買えない本が五六冊あって、私はときどき、その前へ何気なさそうに立ち止まっては膝をふるわせながらその本の頁を盗み見たものだけれど、しかし私が本屋へ行くのは、なにもそんな医学じみた記事を読むためばかりではなかったのである。その当時私にとって、どんな本でも休養と慰安であったからである。』(思い出

 その『太宰治と青森のまち』には、『今泉書店』の写真も載っていた。本には、現在も営業中の今泉書店…と書かれてはいたが、何せ昭和63年に出版された本で、27年も前なので、たぶん現在は無いだろうなと思いつつ書かれた文と写真を頼りに探しました。
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 やはり無いです。写真中央の駐車場が、太宰が通った『今泉書店』跡になります。本に載っている写真と見比べると、両隣の建物が一致するのでここで間違いありません。
その本屋というのは下宿していた寺町の豊田ふとん店から北に五十メートルばかりの処にある今泉書店に違いないだろう。(略)古い青森を知る手掛かりとなる淡谷悠蔵著「なつかしの青森」には《雪がとけはじめて(中略)町中の小川があらわれ、橋がかわき、子供たちはまた新しい喜びを胸いっぱいにして、今泉の本屋に新しい教科書を買いに行く》とある。当時の子供たちは読書以前の、教科書を買いに行くということで今泉書店とつき合いを初めていたわけだ。』(太宰治と青森のまち

 実を言うと、『今泉書店』跡を探すのに結構手間取ってしまった。本に載っている写真の写りが鮮明でないため、目を凝らして探したのだ。左の建物の特徴と文字が一致したため判断することができた。
 私がもっと早く生まれ、そうしてもっと早く太宰のファンになっていれば実際に見ることができたかもしれない。今現在、太宰が実際に訪れたことのある建物はほとんど残っていない。ただただ跡地を眺めるだけなのだ。(この土地をこの空間を太宰は歩いていたのだな、としみじみ思うことはできるが)

 周辺も昼間だというのに人通りがなく寂しい印象を受けました。太宰がいたころは活気があったのでしょうね。

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by dazaiosamuh | 2015-08-09 21:00 | 太宰治 | Comments(2)
 青森駅に到着した私は、近い場所から順にゆかりの地をまわりました。まず最初は『思い出』に登場する連絡船です。青森駅から徒歩3,4分で着けます。

秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の桟橋へと出て、海峡を渡ってくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話合った。それはいつか学校の国語の教師が授業中に生徒へ語って聞かせたことであって、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれていて、それがするすると長く伸びて一方の端がきっと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられているのである、ふたりがどんなに離れていてもその糸は切れない、どんなに近づいても、たとい往来で逢っても、その糸はこんぐらかることがない、そうして私たちはその女の子を嫁にもらうことにきまっているのである。
 私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ帰ってからもすぐに物語ってやったほどであった。
』(思い出)
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 太宰が弟の礼治と一緒に来た港の桟橋は、今はまったく面影を残していない。写真は、実際に使われた青函連絡船・八甲田丸で、現在は連絡船は動いてはいませんが船内を見学することができます。(有料です)
 八甲田丸は、1964年(昭和39年)8月に就航しましたが、青函トンネルなど時代の流れにより、1988年3月13日に青函連絡船すべての運行が終了しました。

私たちはその夜も、波の音や、かもめの声に耳傾けつつ、その話をした。お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は桟橋のらんかんを二三度両手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり悪げに言った。大きい庭下駄をはいて、団扇をもって、月見草を眺めている少女は、いかにも弟と似つかわしく思われた。私のを語る番であったが、私は真暗い海に眼をやったまま、赤い帯しめての、とだけ言って口を噤んだ。海峡を渡って来る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮んで出た。』(思い出)
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 太宰は、故郷で小柄な小間使の『みよ』という少女に、淡い恋心を抱いており、『赤い糸と言えば、みよのすがたが胸に浮んだ。』のだ。
 太宰は弟・礼治と共に、港の夜景の中で幻想的に浮かぶ連絡船を眺めながら、いつか結ばれるであろう運命の少女の話を語り合ったのだ。
 この『運命の赤い糸』は、誰もが小学生時代にまわりから話を聞くことではないだろうか。そういう私も、赤い糸には何度も興奮し、頭を悩ませたものだ。ただ、私の場合は足ではなく手の小指でしたが、皆さんはどうでしょうか。絶対に小指だけでも大切にしなきゃ、と思った時期もあったほどです。今思えば照れ臭いですね。
 こういった話は、初恋を迎える、切なくも淡い青春時代へと入っていくための第一歩でもあり、しかも、いつの時代も不変なのだ。

 ちなみに、八甲田丸は大人500円で見学できます。『思い出』は、太宰の処女作品『晩年』に入っていますので、本を片手にぶらっと連絡船のまわりを歩くのもいいかもしれません。


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by dazaiosamuh | 2015-08-05 21:49 | 太宰治 | Comments(0)
 5月に太宰治が過ごした青森市内、弘前を回った。太宰の処女作品、『晩年』には『思い出』という短編があり、青森市内などの思い出が綴られている。太宰に関わる場所も含めて、その『思い出』に登場するゆかりの地を歩いてみました。

 朝、新幹線で東京駅を出て新青森に到着した私は、青森行きの電車の時刻まで時間があったので、駅地下へ降りてみると、『太宰らうめんと津軽のめしや 「めぇ」』というお店がありました。ちょうどお腹が空いていたので、青森へ行く前に腹ごしらえをすることにしました。
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 メニューを開くと、『太宰の朝めし』『太宰の昼めし』『太宰の晩酌の肴』『太宰丼』『太宰らうめん』など他にも津軽の名物を使った料理が載っていました。私は時間的にも妥当な『太宰の昼めし』を頼みました。
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 こちらが『太宰の昼めし』になります。内容は、若おいのおにぎり、すじこ納豆ごはん、津軽日替わり小鉢、ほたての貝焼きみそ、桜鍋小鉢、津軽のけの汁、梅干の紫蘇巻です。どれも美味しかったのですが、私は、ほたての貝焼きみそを初めて食べて、その美味しさの虜になってしまいました。
『太宰の昼めし』でお腹を満たしたら、何だか頗る体力がみなぎってきたかのように思われ、これなら元気に太宰の『思い出』めぐりができるぞと意気込み、丁度時間が来たので、青森駅へと向かいました。

 次回から『思い出』の地、青森の記事になります。

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by dazaiosamuh | 2015-08-01 12:33 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)