遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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用事の無い旅行はするものではない。この相川で一泊する事にきめた。ここでは浜野屋という宿屋が、上等だと新潟の生徒から聞いて来た。せめて宿屋だけでも綺麗なところへ泊まりたい。

 昭和15年11月18日、相川で太宰が宿泊した『佐渡』に登場する『浜野屋とは、『高田屋旅館』のことである。こちらも既に太宰治研究家の長篠康一郎によって判明しています。
相川で太宰治が宿泊した「浜野屋」は、現在の佐州ホテルの前身、高田屋である。高田屋は明治二十年の創業で、皇族を迎えたこともある由緒ある格式の旅館であった。』(太宰治 文学アルバム
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 写真はその『高田屋』があった場所で、現在は『佐州おーやり館』になっています。長篠康一郎が訪れたときは佐州ホテルとして営業していたようですが、後に廃業し、佐渡会館内にあった佐渡観光協会相川支部が、2012年4月1日から耐震化のための改装修理が完了した佐州館(現在のおーやり館)に移転したとのこと。

 館内に入り、スタッフに「太宰が昭和15年に宿泊したことがあると聞いてきました。」と言い、中を見学させてもらうことができました。この時、「佐州ホテルの特徴」と書かれた1枚の資料を貰ったので、少し引用させてもらいます。

本館は明治35年に建設され、平成23年度に建物全体の耐震補強及び修繕工事を行った。現在、2階及び3階は内装や天井の仕上げを行わず、当時の躯体や明治期の建物の耐震補強工夫が見学できるようになっている。』とあり、『太宰治が宿泊したころは、「ハマダヤ」とも言っていた。』と記載されていた。
 太宰は『佐渡』の文中で『高田屋』のことを『浜野屋』と変名していますが、、『ハマダヤ』とも呼ばれていたことから、『浜野屋』と書いたのかもしれません。
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 スタッフの説明を受けながら、2階から3階と見学させてもらいました。見にくいですが、階段の木造の手摺は太宰が宿泊した当時からのものらしいです。もしかしたら、太宰もこの手摺につかまりながら階段を上がったかもしれません。そう思ったら、居ても立っても居られず私はベタベタと手摺を触ってしまいました。
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浜野屋は、すぐに見つかった。かなり大きい宿屋である。やはり、がらんとしていた。私は、三階の部屋に通された。障子をあけると、日本海が見える。少し水が濁っていた。
 写真は、三階の日本海が見える部屋になります。この部屋に太宰は泊まったのかもしれません。何も無いため、がらんとしていた。現在、近隣に高い建物などが建つようになったせいで、海だけを綺麗に眺めることはできない。(太宰が本当に三階の日本海が見える部屋に泊まったのかは分かりません。創作のために、表現上、海の見える最上階を書いたのかもしれません)。

 太宰が泊まった後、昭和20年代に裏手に、大広間や宿泊室などを増築した。佐州ホテルが営業していた当時の写真の載った資料も貰ったのですが、白黒で見にくいため、記事に載せないことにしました。しかし、見学ができますので、太宰が触れたであろう木の手摺や、泊まったと思われる三階の海の見える部屋を見たい方は、是非、自分で訪れて見学してみるのもいいかもしれません。

 次回は、佐渡金山の記事を載せます。


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by dazaiosamuh | 2015-06-30 22:00 | 太宰治 | Comments(0)
 久しぶりの佐渡の記事になります。
 太宰は両津からバスで相川まで向かい、そうしてやはり、『佐渡』に対して失望と空虚を味わうことになる。

二時間ちかくバスにゆられて、相川に着いた。ここも、やはり房州あたりの漁村の感じである。道が白っぽく乾いている。そうして、素知らぬ振りして生活を営んでいる。少しも旅行者を迎えてくれない。鞄をかかえて、うろうろしているのが恥ずかしいくらいである。なぜ、佐渡へなど来たのだろう。その疑問が、再び胸に浮ぶ。
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 写真は黄昏時の相川と相川から見た夕陽です。
 太宰は、『見物』の心理について述べている。
見物というのは、之は、どういう心理なのだろう。先日読んだワッサーマンの「四十の男」という小説の中に、「(中略)兎も角それは内心の衝動だったのだ。彼は、その衝動を抑制して旅に出なかった時には、自己に忠実でなかったように思う。自己を欺いたように思う。見なかった美しい山水や、失われた可能と希望との思いが彼を悩ます。よし現存の幸福が如何に大きくとも、この償い難き喪失の感情は彼に永遠の不安を与える」というような文章があったけれども、そのしなかった悔いを噛みたくないばかりに、のこのこ佐渡まで出かけて来たというわけのものかも知れぬ。(中略)来て見ないうちは、気がかりなのだ。見物の心理とは、そんなものではなかろうか。

 つまり、太宰は『死ぬほど淋しい』と聞いていた『佐渡』に対する言い知れぬ期待感ともう一つ、行ってみたいのに『そのしなかった悔い』を味わいたくなかったために、内心の衝動を抑制などせず、自己に忠実に、ここ『佐渡』へとやって来たというわけですね。
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 相川には、まだまだ木造の家屋が多く残っている。これから先、どんどん減っていくはずなので貴重な光景ですね。

大袈裟に飛躍すれば、この人生でさえも、そんなものだと言えるかも知れない。見てしまった空虚、見なかった焦燥不安、それだけの連続で、三十歳四十歳五十歳と、精一ぱいあくせく暮して、死ぬるのではなかろうか。私は、もうそろそろ佐渡をあきらめた。明朝、出帆の船で帰ろうと思った。あれこれ考えながら、白く乾いた相川のまちを鞄かかえて歩いていたが、どうも我ながら形がつかぬ。白昼の相川のまちは、人ひとり通らぬ。まちは知らぬ振りをしている。何しに来た、という顔をしている。ひっそりという感じでもない。がらんとしている。ここは見物に来るところでない。まちは私に見むきもせず、自分だけの生活をさっさとしている。私は、のそのそ歩いている自分を、いよいよ恥ずかしく思った。

 先ほど書いた通り、太宰は、『そのしなかった悔いを噛みたくないばかり』に『佐渡』へ来たはずであったが、しかし、『佐渡』は旅行者太宰に対して、『何しに来た』という態度であった。結果的に、『そのしなかった悔い』は、『見てしまった空虚』に変わってしまったのである。
 もしこれが、「佐渡で美味しいお酒を飲み歩きたい」「佐渡の歴史を調べたい」といった理由であったら、『佐渡』にこれほど失望することはなかったはずである。
 『佐渡』に対する太宰の期待感と、現実の『佐渡』はまるで違っていたのだ。

 太宰は相川でも1泊していて、一応建物が残っています。次回はその記事を載せたいと思います。

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by dazaiosamuh | 2015-06-25 13:55 | 太宰治 | Comments(0)
 今日、6月19日は太宰治の生誕祭『桜桃忌』である。太宰は6月13日に三鷹玉川上水で山崎富栄と入水自殺し、遺体が発見されたのが、太宰治の誕生日である6月19日なのです。桜桃忌の説明等は、去年の桜桃忌の記事で書いているので省かせていただきます。

 さて、今回私は三鷹ではなく、水上へ行ってきました。水上は『姥捨』の舞台にもなった場所で、太宰治の文学碑、歌碑が2カ所あります。私は去年の12月大雪の降るなかを訪れたのですが、あいにく碑は雪に埋もれて写真を撮るどころか、見ることすらできませんでした。それもあって、水上でも6月19日は生誕祭が行われると聞き、せっかくなら桜桃忌の日に碑を見に行こうと思い立ったわけなのでした。
 今回も天気に恵まれず雨でしたが、雪よりは、やはり歩きやすかったです。
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『姥捨』の碑を見るのは初めてです。作品の内容の一節が書かれています。献花などはまだありませんでした。私はこの時、桜桃忌は午後おこなわれるとばかり思っていたのですが、後で、愚かな早合点であったことを思い知らされます。

 私は途中、先に昼食を済ませようと前回も訪れたレストラン『彩絵』で1時間ほどかけてゆっくりと空腹を満たし、それからもう1カ所の碑と『旅館たにがわ』の方へと向かったのですが。
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 おや、こちらはすでに献花が置かれています。私は嫌な予感がしました。桜桃忌は何時から行われるのか、『旅館たにがわ』へと急いで向かいました。
 館内で仲居さんに尋ねると、なんとちょうど行事が終わったところですと言われました。やってしまった。てっきり私は、三鷹の桜桃忌と同じで午後に行われると早とちりしていたのだ。せっかくわざわざここまで来たのに馬鹿である。
 しかし、悪いのは自分なのに仲居さんがとても申し訳なさそうに私に頭を下げていた。悪いのは事前に調べておかなかった私なのだ。しかも、どうぞ太宰治ミニギャラリーを見て行ってくださいと言い、ハーブティーも頂きました。折角なので、のんびりハーブティーを飲みながら資料などを読みあさり、甘えさせてもらいました。
 ここ『旅館たにがわ』には去年の12月に1回泊まっただけだったのですが、仲居さんが、うっすらではありますが覚えていてくれたのが嬉しかったです。とても笑顔の可愛い女性でした。
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 帰る途中、さきほどの『姥捨』の碑の前を通ると、献花がありました。ということは、つまり私がレストラン『彩絵』で1時間ほどのんびりしている間に行事が終わってしまったということだったのです。ちょうどすれ違いだったようです。

 今回は私がちゃんと事前に調べておかなかったが故に、なんとも虚しい桜桃忌に終わってしまいましたが、『旅館たにがわ』の仲居さんの笑顔が可愛かったので、これはこれで良い思い出になりました。
 またいつか泊りに行きたいと思います。

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by dazaiosamuh | 2015-06-19 19:59 | 太宰治 | Comments(0)
 今日、6月13日は太宰治の命日になります。佐渡ヶ島の記事がまだ途中ですが、太宰の命日なので、載せることにしました。
 太宰は昭和23年6月13日の午後11時過ぎ、山崎富栄と共に三鷹・玉川上水に入水しました。実際の正確な死亡時刻は分かっていませんが、13日の夜半に家を出て玉川上水へと向かっているので、13日に入水したのではと言われているので、一応、6月13日が命日になっています。
 桜桃忌も近いこともあり、それに合わせて本日6月13日(土)から6月28日(日)まで、三鷹市美術ギャラリー第三展示室で「津島家寄託」太宰治資料展が催されています。
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 今日は仕事で疲れていたのですが、何でもない日に行くよりは、やはり、太宰の命日に行かないわけにはいかぬ、と自分に言い聞かせて観に行ってきました。
 展示スペースは思っていたほど広くなく、展示品の数もそれほど多くはありませんでしたし、何度も見たことがあったりなど、それほど目新しいものはありませんでしたが、それでも太宰が実際に使用していたアドレス帳や油絵で描いた自画像などは、何度見ても感慨深いものがありますね。
 開館時間が午前10時から午後18時までなので、大抵の方は仕事帰りに寄るのは大変かもしれません。しかし、一見の価値はあるので太宰好きならば休日を使って見るべきです。

 太宰治資料展を見た後、私はついでに荻窪の碧雲荘の様子を見に行きました。相変わらず昭和初期の雰囲気を醸し出していて、つくづくこの建物は残すべきだと改めて思いました。近くの軽食屋さんに寄ったところ、マスターが「碧雲荘のことが週刊朝日に載っているよ」と見せてくれました。
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 今週6月9日(火)に発売された週刊朝日に、碧雲荘の記事がカラー写真と共に載っていました。内容はあまり濃く書かれてはいませんが、内部の写真が数点あり、初めて見ました。記事の内容を少し抜粋させてもらいます。

太宰治が暮らした東京都杉並区の「碧雲荘」は、名作『人間失格』の原形となった作品を執筆した場所とも言われる。
 昭和初期、所有者の田中利枝子さんの祖父が建てた。だが相続が難しく、来春、敷地は区に引き渡される予定だ。
「今のままでは、家屋は取り壊すしかありません」(田中さん)
 いずれの家も、地元では保存や移築を模索する。佇めば、文豪の息遣いを感じる家。失われてゆくのは、あまりに寂しい。


 保存を呼びかける動きもどんどん出て来てはいるみたいですが、このまま良い案も出なければ、来春には取り壊されてしまうみたいです。
 どうなってしまうのでしょうか。どうにか区の力で保存に向けて話を進めてもらいたいです。ただ黙って見守るしかないのでしょうか。

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by dazaiosamuh | 2015-06-13 23:22 | 太宰治 | Comments(0)
 宿の女中さんから佳い挨拶をを受けた太宰は、見送られながら相川行きのバスに乗り込んだ。
相川行きのバスに乗った。バスの乗客は、ほとんど此の土地の者ばかりであった。皮膚病の人が多かった。漁村には、どうしてだか、皮膚病が多いようである。
 きょうは秋晴れである。窓外の風景は、新潟地方と少しも変わりは無かった。植物の緑は、淡い。山が低い。樹木は小さく、ひねくれている。うすら寒い田舎道。娘さんたちは長い吊鐘マントを着て歩いている。村々は、素知らぬ振りして、ちゃっかり生活を営んでいる。旅行者などを、てんで黙殺している。佐渡は、生活しています。一言にして語ればそれだ。なんの興も無い。

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 皮膚病が多いとは失礼な。写真はバスの車内から撮ったものですが、行きも帰りも、私が乗ったときは、皮膚病の人など1人もいませんでした。佐渡だけに限ったことではないですが、海を渡らないと辿りつけない土地というのは、同じ国でありながら、やはり、どんな生活をしているのだろうかと思うものです。もし欲しいものがあったら? 大きな病気に罹ったら? 1度も島を出たいと思ったことはないのか? 出たことはあるのか? 単純ではありますが、訪れた人間は誰しもその土地の人間に聞いてみたいはず。私もその1人です。しかし、太宰が書いている通り、『旅行者などを、てんで黙殺してい』て、私も素直に、『佐渡は、生活しています。一言にして語ればそれだ』と思いました。
 太宰の紀行文『佐渡』については、和泉書院からでている『太宰治研究』の第7巻で、『佐渡』論が書かれていますので、『佐渡』と併せて読むと中々面白いです。

 次回は相川の記事を載せます。

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by dazaiosamuh | 2015-06-09 21:04 | 太宰治 | Comments(0)
 料亭・「よしつね」から福田旅館に帰って来た太宰は、翌朝、女中さんにその話をする。
ゆうべ、よしつねという料理屋に行ったが、つまらなかった。たてものは大きいが、悪いところだね」
「ええ」女中さんは、くつろいで、「このごろ出来た家ですよ。古くからの寺田屋などは、格式もあって、いいそうです。」
「そうです。格式のある家でなければ、だめです。寺田屋へ行けばよかった」
女中さんは、なぜだか、ひどく笑った。声をたてずに、うつむいて肩に波打たせて笑っているのである。私も、意味がわからなかったけれど、はは、と笑った。


 太宰の『佐渡』に登場する『寺田屋』は現在もあり、こちらも長篠康一郎により特定されています。
宿を出た太宰は街を見物に出掛け、小雨の中を裏町にやって来た。そのころの裏町というのは加茂湖寄りの神明、八郎平の二町をいい、本間旅館から約三百メートル。当時の裏町はにぎやかで、吉田屋(現吉田ホテル)、花月(現花月ホテル)朝日亭、弁慶などの料亭が立ち並んでいた。
「格式のある家」という「寺田屋」は、その吉田屋をさしており、「よしつね」とは弁慶(両津タクシーの裏)のことで、八郎平町にあったが、経営者は終戦後に東京へ帰ってしまった。
』(太宰治 文学アルバム
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 こちらが現在の『寺田屋』こと『吉田ホテル』になります。『吉田ホテル』のすぐ後ろは加茂湖です。静かに波が打ち寄せていました。当時の裏町はにぎやかだったそうですが、現在は、夕方前だからでしょうか、人通りはほとんどありません。それでもスナックや居酒屋などが並んでおり、夜になれば一時のくつろぎを得るために人があつまるのでしょうか。
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 こちらは、、現在の『花月ホテル』です。『吉田ホテル』のすぐ横にあります。やはり周辺は人通りがなく寂しい印象は否めません。

お客さんは、料理屋などおきらいかと思っていました。」
「きらいじゃないさ」私も、もう気取らなくなっていた。宿屋の女中さんが一ばんいいのだと思った。
 お勘定をすまして出発する時も、その女中さんは、「行っていらっしゃい」と言った。佳い挨拶だと思った。


 女中さんの「行っていらっしゃい」の言葉に、太宰は「佳い挨拶だと思った。」と書いていますが、後にも先にも、太宰が佐渡を褒めたのは、この挨拶だけであった。
 太宰はこのあとバスで相川まで行き、そこでまた1泊をします。次回はその記事を書きます。


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by dazaiosamuh | 2015-06-05 10:47 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)