遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 太宰治は、京都に住んだこともなければ、訪れたこともない。絶対とも言えないが、太宰の人跡を調べたり、妻の津島美知子夫人の証言、太宰治研究家たちの関連書籍を読んでも、やはり、太宰は京都へは訪れたこともないと思われます。
 しかし、太宰は生前、京都に移住したいと考えていたことはたしかです。友人に送った手紙の中や、美知子夫人の『回想の太宰治』の中にも載っていたので、引用させていただきます。

昭和二十一年一月二十五日青森県金木町津島文治方より京都市左京区聖護院東町十五番地三森方堤重久宛
 拝復、とにかく御無事の御様子、何よりです。こちらは浪々転々し、たうとう生れた家へ来ましたが、今年の夏までには、小田原、三島、または京都、なんて考へてゐる。東京には家が無いだらうから、東京から汽車で二、三時間といふところ、そのへんに落ちつく事になるだらうと思つてゐる。
 天皇が京都へ行くと言つたら、私も行きます。このごろの心境如何。心細くなつてゐると思ふ。苦しくなるとたよりを寄こす人だからね。

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 太宰は京都のほかにも小田原や三島も候補にあげていますね。堤重久というのは、太宰の一番弟子で、『太宰治との七年間』を書いており、太宰との思い出等が綴られている。

 太宰は京都を訪れたことはない、というのが、どちらかと言ったら可能性としては有力であるが、しかし、太宰は京都のある喫茶店に来たことがあるという情報がある。京都にある老舗の『フランソア喫茶』である。上記で述べてきた通りの私にとっては、疑問視せざるを得ない。
 フランソア喫茶をWikipediaで調べると、『…藤田嗣治や太宰治、吉村公三郎らも通った。』とはっきりと記載されていた。果たしてそうなのか。しかも、「通った」という言い方だと、まるで1回だけでなく、何度も来たかのような印象を受ける。念のため私は、その京都にある『フランソア喫茶』へ向かいました。
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『フランソア喫茶』は、阪急河原町駅の南木屋出口徒歩1分のところにある。京阪祇園四条駅からも徒歩5分ほどで着ける。
 私が訪れたときは、外までお客さんが並んでいた。折角来たので私も並び、店内へと入ると思っていたほど狭くはなかった。人どおりの多い四条通りから僅か数十秒の場所であるが、店内はレトロで落ち着いた雰囲気であった。お茶を終えたおばちゃんグループが、「さすが老舗ねえ」と言いながらお店を出ていった。
 私はとりあえず、お店で1番人気のある「洋梨のタルトケーキ」とコーヒーを注文し、運ばれてきた時にすかさず、Wikipediaのコピーを見せながら(事前に準備していた)、「ここに太宰治も通った、とWikipediaに書かれているのですが、太宰は訪れたことがあるのですか」と聞いてみると、やや困惑した表情になり、「どうなんでしょう。色々な文豪の方が来た、とは聞いています。」との返事であった。
 ある程度返事は予想していましたが、追求したところで無駄だと思い、そのままのんびりケーキを頬張り、店を後にしました。会計のとき、フランソア喫茶のクッキーを買ったのですが、店を出た直後に地面に落とし、砕けてしまいました。後日、そのクッキーを友人Sさんにお土産として渡しましたが、苦笑していました。

 フランソア喫茶に太宰が来たかどうかについてですが、あくまで私としては、訪れていない、と思います。最初に述べた通り、私も京都に来ていないほうに1票を入れます。たぶん、文豪たちが多く訪れたことで、話がしだいに大きくなり、太宰治も来た、と噂されるようになってしまったのだと思います。
 これが一応の私の見解になります。次回は、短編『列車』に登場するC51蒸気機関車について載せます。

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by dazaiosamuh | 2015-03-30 21:48 | 太宰治 | Comments(0)
 1940年(昭和15年)、10月。太宰治は、旧制東京商科大学で「近代の病」と題して講演を行っている。東京商大は、現在の一橋大学の前身にあたる。設立当時は、日本最初の官立単科大学であった。沿革は長くなるので省かせていただきます。下の写真は、一橋大学の本館になります。
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 一橋大学の門を通りすぐの守衛所にて、知っているはずもないが、太宰が昭和15年にここで講演をしに来たことを話し、そのため外観等の写真を撮りに訪れた、といった内容を言ったところ、最初は、昭和の時代からある建物などを教えてくれたりしたのだが、次第にカメラの話になり、どうやらこの年配の警備員は、カメラで野鳥を撮るのが趣味みたいなようで、いつのまにかその話ばかりになってしまい、私は苦笑しながらも、時たま相槌を打ってあげたりして何だかんだ20分近く話し込んでしまった。
 とりあえず区切りの良いタイミングで話題を転じて、一応一橋大学のパンフレットをもらい、警備員が教えてくれた古い建物を見に行った。
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 木造の建物で、『職員集会所』と書かれていました。写真では分かりにくいですが、古いです。大学敷地内には、木造の建物は数カ所しかありません。その警備員は、1940年ごろにはもうあったのではないか、と話していたので、もしかしたら、講演に訪れた太宰は、目にしたことがあるかもしれません。
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 こちらも古い木造の建築物です。門を通ってすぐの場所にありました。
 新潟の記事でも書きましたが、あの太宰がどのような感じで講演をおこなったのか、太宰好きなら興味が湧くはず。しかし、新潟高校での講演にしても、東京商大にしても、どちらも詳しい記録が残っていません。新潟高校での講演は、『みみずく通信』の中で、紀行文のような形で書かれていますが、東京商大での「近代の病」についての講演は、詳細は分かりません。どんな内容で話をしたのか、まさか、酒好きだからアル中について話をしたなんてことはないと思いますが。やはり、その当時の流行病などでしょうか。

 東京商大での講演の詳細は分かりませんが、机上に両手を付いて講演をする太宰の写真が、1枚だけあり、書籍等で確認できるので、興味のある方は本やネットなどで調べればすぐに見つかります。
 私には、とても堂々と講演を行っているように見えました。太宰の講演を受けてみたかったです。

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by dazaiosamuh | 2015-03-24 20:04 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治が好きな人で田中英光を知らない人はいないはず。何と言っても太宰のお墓前で自殺を図り死んだのだ。といっても、田中英光は本当に死にたかったのかどうかは明かされていない。書籍関係やネットでは、あくまで『自殺』とされている。
 田中英光は、大正13年(1913年)1月10日に生まれ、亡くなったのは、昭和24年(1949年)の11月3日。太宰の亡くなったのは、昭和23年(1948年)6月13日。太宰の死から、僅か1年後に亡くなっている。英光は、太宰を師とし、非常に敬愛していた。太宰の死は英光に強い衝撃を与え、それ以降、睡眠薬中毒になり、無頼に走るようになったとされている。

 田中英光が眠るのは、広大な面積を誇る青山霊園だ。広くて迷いやすいので、お目当ての有名人のお墓参りに行く時は、事前に調べておくことが懸命。
 そう言いつつも、私は40分以上探し回った。西地区や東地区、立山地区などエリアが分れているため、探すのに骨が折れる。辿り着いた時には、まだ気温が寒いというのに、汗だくになっていた。おかげでこの後、観に行こうと思っていた映画の時間に間に合わなかった。
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 田中英光のお墓は、青山霊園の『立山地区』のエリアにある。下り坂の途中にあった。英光の死について、太宰の短編『メリイクリスマス』のモデルになった林聖子さんは、『風紋50年』の中で、医療ミスによるものでは? と書いている。

たぶん、誰かと会いたかったのね。田中さんは太宰さんのお墓の前で、アドルム(催眠剤)をおつまみに、お酒を飲み始めて。
 そのうち田中さんが暴れ出したって、野平さんのところに連絡が行ったの。とにかく手がつけられないから、私のうちが一番近いというので、和尚さんが「林聖子ちゃんのところに連絡しろ」って言ったら、田中さん、まだ意識があって、「林聖子は留守だぞ」って言ったそうなの。あとから、野平さんに聞いたんだけど。
 何しろ、田中さんが暴れるから、手足をタヌキみたいに結わいて、リヤカーに載せて、武蔵野病院に連れていったの。その日は、祭日で、先生方がいなくて、インターンの方しかいなかったのね。それで、胃洗浄するのに、どうも舌を巻き込んじゃったようなの。今で言えば、医療ミス。胃洗浄なんて、慣れた人なら簡単なんですって。だから、私と野平さんは、「本当に田中さんは死ぬつもりだったのか」って、言っていたの。ただ、田中さんは太宰さんが亡くなって、ショックだったみたいだから。
 田中さんは筑摩書房の前の電信柱に体当たりして、それが曲がったって、井上さんや石井さんが言っていたわね(笑)。それぐらい体格のいい人だった。
』(風紋50年

 もしかしたら、英光は、太宰の墓前で自棄酒でもしていたのではないでしょうか。催眠剤などにアルコールは危険でしょう。胃洗浄が上手くいっていれば、助かったかもしれませんね。
 自分の墓前で弟子に自殺をされるとは、太宰も苦笑したことでしょう。

 田中英光は、『オリンポスの果実』などが有名です。
 また、太宰治の『お伽草子』にある『カチカチ山』に出てくるタヌキは、田中英光がモデルではないかと言われている。



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by dazaiosamuh | 2015-03-18 11:02 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治は、昭和8年1月に青森検事局に出頭し、左翼運動との絶縁を契約したり、2月には荻窪の天沼三丁目、5月には天沼一丁目に移転などしている。井伏鱒二が荻窪に住んでいることもあり、親交が多くなっていく。
 
 井伏鱒二は、昭和57年11月に荻窪の思い出などを書いた『荻窪風土記』を出している。その中には、太宰が蕎麦屋で酒をちびちび飲みながら蕎麦を食べていたといった内容も記載されている。写真は、太宰や井伏が通った蕎麦屋『稲葉屋』があった通りです。
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よく私は一人で駅の附近を散歩してゐて、南口の稲葉屋で太宰が笊蕎麦を前に、日本酒をちびりちびり飲んでゐるのを見ることがあつた。学校へ行くやうに人には見せて、自分の部屋で習作をするか、ぶらぶら歩くかして日を送る。一人で飲むときには、たいてい同じ店に行つてゐたやうだ。稲葉屋の長つぽそい土間と、古めかしい上り框は好きらしい。片膝を長く上り框に載せ、片足は土間に立ててゐる。または上り框に胡座をかいてゐることがある。私がそれを見て、「どうしたんだ」と訊くと、「天神をきめこんでゐるところです。お蕎麦で一本、立ててゐるんです」と半ばふざけて言つたことがある。こんな冗談を口にすることに興味を持つてゐたやうだ。』(荻窪風土記

 太宰は座るときなど、よく片膝を立てる癖がある。原稿を書くときは、片膝を立て、その膝の上に腕を載せて書くこと癖があったようだ。
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 この通りを歩いていると、『プラザ いなば』と書かれた文字を発見した。どうやら、蕎麦屋自体はないが、『稲葉』という名だけは残っている。
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 『プラザ いなば』として、ビルにその名を留めているみたいです。
 以前に、御嶽の玉川屋という蕎麦屋の記事を書きましたが、太宰は蕎麦が好きだったようでね。私も蕎麦は大好物です。太宰と一緒に日本酒を飲みながら蕎麦を食べてみたかったです。

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by dazaiosamuh | 2015-03-11 21:26 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治の師が井伏鱒二と知っている人は多いかもしれないが、その師である井伏鱒二のお墓がどこに眠っているかを知っている太宰ファンは、あまりいないのではないでしょうか。そういう私も、場所は知っていたが、実は、つい先日初めて訪れた。
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 井伏鱒二のお墓は、メトロ銀座線外苑前駅を降りて、私の足で徒歩5、6分の場所にある、『持法寺』というお寺に眠っている。
 井伏鱒二は1898年(明治31年)に広島県で次男として誕生した。本名は、満寿二。釣り好きだったため、鱒二にしたとされている。学生時代、画家を志したが、長兄の勧めで文学に方向転換し、1917年早大予科に進む。
 その後、1929年「山椒魚」等で文壇に登場し、「ジョン万次郎漂流記」や「黒い雨」など、多数受賞する。
 1993年(平成5年)7月10日、荻窪にある東京衛生病院にて逝去。12日、天沼教会にて密葬が執り行われた。
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 井伏の墓所は、本堂のすぐ真後ろにあるため、非常にわかりやすかった。もっとも、「井伏」という苗字は普段あまり聞かないため、探すのに苦労しなかった。
 なんて挨拶すればいいのか、緊張し私はすこし躊躇ってしまった。とりあえず、「はじめまして…」などと、硬い挨拶をした。
 しかし、自然に心の中で、「太宰さんは井伏さんから見て、どんな方だったのですか?」「ふたりで、どんな会話をしましたか?」などと質問をする自分がいた。色々聞きたいことが沢山あったが、見ず知らずの赤の他人の私に質問攻めにされても迷惑なだけであろうと思い、お辞儀をして立ち去った。

 井伏鱒二は、95年間を生き抜いた。その95年間を、雲の上で太宰に聞かせてあげたりしているのでしょうか。
 きっと、一緒にお酒を酌み交わしているのでしょうね。

 

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by dazaiosamuh | 2015-03-06 23:10 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰版『カチカチ山』で、少し話が脱線して、太宰は煙草の『敷島』について触れている。煙草『敷島』のモデルになった場所があるようだ。

鸕鷀島(うがしま)の松林は夕陽を浴びて火事のようだ。ここでちょっと作者は物識り振るが、この島の松林を写生して図案化したのが、煙草の「敷島」の箱に描かれてある、あれだという話だ。たしかな人から聞いたのだから、読者も信じて損は無かろう。もっとも、いまはもう「敷島」なんて煙草は無くなっているから、若い読者には何の興味も無い話である。つまらない知識を振りまわしたものだ。とかく識ったかぶりは、このような馬鹿らしい結果に終わる。まあ、生れて三十何年以上にもなる読者だけが、ああ、あの松か、と芸者遊びの記憶なんかと一緒にぼんやり思い出して、つまらなそうな顔をするくらいが関の山であろうか。』(カチカチ山
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 河口湖沿いのバス停には、『敷島の松』という名前のバス停がありました。そのすぐ近くには、松林が続いています。ここが煙草『敷島の松』のモデルになった場所ということでしょうか。
 煙草『敷島』は、1904年6月29日から販売され、1943年12月下旬に終了している。当初は国産の高級煙草であったらしい。フィルターは、現在のものとは異なり、紙巻煙草に「口紙」と呼ばれるやや厚い円筒形の吸い口を着けたもので、喫煙時に吸いやすいようにつぶして吸ったものである。1920年3月19日に、両切りタイプも発売されたが、その月の30日に、つまり、僅か10日たらずで販売が終了した。日本一販売期間の短い煙草とされている。
 太宰が亡くなったのは1948年なので、太宰が33、34歳ぐらいの時には既に販売は終了していたことになる。
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 ちなみに、『女生徒』のなかでは主人公はこんなことを言っていた。
きょうのお客様は、ことにも憂うつ。大森の今井田さん御夫婦に、ことし七つの良夫さん。今井田さんは、もう四十ちかいのに、好男子みたいに色が白く、いやらしい。なぜ、敷島なぞを吸うのだろう。両切の煙草でないと、なんだか、不潔な感じがする。煙草は、両切に限る。敷島なぞを吸っていると、そのひとの人格までが、疑わしくなるのだ。いちいち天井を向いて煙を吐いて、はあ、はあ、なるほど、なんて言っている。

煙草は、両切に限る。敷島なぞを吸っていると、そのひとの人格までが、疑わしくなるのだ。』と断言している。そして、太宰がよく吸っていた煙草は、『ゴールデンバット』『ピース』などで、どちらも両切りタイプだ。
 これをみて分かる通り、太宰はやはり、両切りタイプの煙草が好きだったようだ。
 しかし、一度でいいから、太宰吸ったことのある『敷島』も吸ってみたかったです。

 これにて、お伽草紙『カチカチ山』の記事は終了です。

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by dazaiosamuh | 2015-03-01 20:41 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)