遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 実は去年の12月末、写真家の森山大道の写真展「Dazai」を観に行った。森山大道の写真には、普段、別段興味はないが、「太宰治をオマージュした写真展」と聞き、入場は無料だったこともあり、暇つぶしに行ってみたのだ。
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 期間は、2014年12月20日から2015年2月23日まで。会場は、原宿・神宮前アートスペースAM、時間は13時から19時までとなっている。休みは月曜日と火曜日。

 ネット上で、少し説明が書かれていたので、引用させてもらいます。
『森山大道も、太宰文学に魅せられた一人だ。本展では、70年代から現在に至るモノクローム作品を約50点を紹介。展示される作品は、太宰作品に初めて触れた中学時代から青春期にかけて、森山に影響を与えた作品へのオマージュである。』
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 その太宰をオマージュした写真展を観た私の率直な感想は、いまいちよく分からなかった、です。森山大道が太宰の作品から何かを感じ取り、それを自身の写真にイメージとして撮ったのだと思いますが、「太宰治へのオマージュ」、と言われなければ、ただのモノクロ写真にしか見えませんでした。素人の私には、写真を見る目はありませんので、特に何か議論するとか、詳しく感想を述べる、というようなポジティブな熱を持っていません。2月23日まで開いているので、興味のある方は、観てみるのもいいかもしれません。

 ちなみに、オマージュの意味を調べてみると、『芸術や文学においては、尊敬する作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事。また作品のモチーフを過去作品に求めることも指す。しばしば「リスペクト」(尊敬、敬意)と同義に用いられる。ただしフランス語として使う場合は他の単語と組み合わせて「尊敬を込めた作品」の意味で使われることが多く、hommageだけでは「尊敬、敬意」の意味だけになる。』とのこと。

 小説もそうですが、写真で何かを表現したり、相手に何かを伝えるというのはなかなか難しいことだと思いました。私自身、もっと多くの本を読んだり、芸術に触れて、目や感性を養いたいと、純粋に思いました。

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by dazaiosamuh | 2015-01-31 21:21 | 太宰治 | Comments(0)
旅館たにがわ』に一泊した私は翌朝、旅館のスタッフにお願いして、文学碑に積もった雪を除雪してもらいました。
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 冷たく固まった雪になっていたため、大変だったと思います。ありがとうございました。
 文学碑には、右側に太宰が好きだった伊藤左千夫の歌が書かれており、左には、
太宰治「姥捨」の宿」として
 この時の滞在先は当時の書簡に「群馬県水上村谷川温泉川久保方」を記載してあるので、同村大字谷川五二二番地の川久保屋がこれに該当するが、この建物をのちに増改築したのが谷川本館(旅館たにがわ)であり、現在の駐車場がその跡地にあたる。「人間失格」事件の因となった「創生記」は谷川温泉で執筆した問題作、名作「姥捨」は川久保屋の老夫婦と水上温泉郷を舞台とした作品である。
 昭和六十三年六月佳日 長篠康一郎

と記されている。
 長篠康一郎は、確かな調査結果のもと、ここに太宰治が宿泊した『川久保屋』があったことを示す文学碑を建てたのですね。太宰が宿泊した場所を改めて確認し、すっきりしました。やはり、自分の目で確かめないと気が済まないですね。

 また話が前後して、『姥捨』に戻ります。
主人がいなくなってから、嘉七は、
「あの辺かな?」と、濃い朝霧がゆっくり流れている白い山腹を顎でしゃくってみせた。
「でも、雪が深くて、のぼれないでしょう?」
「もっと下流がいいかな。水上の駅のほうには、雪がそんなになかったからね」
 死ぬる場所を語り合っていた。

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 普通、死に場所を顎でしゃくって指す人がいますか?さすが太宰治ですよね。そんな人、世界でも類を見ないと思います。
 嘉七とかず枝は、手頃な場所を見つけ、催眠剤を用いて心中を図ったが、2人とも無事に生き延びた。
二度目にめがさめたときには、傍のかず枝は、ぐうぐう大きな鼾をかいていた。嘉七は、それを聞いていながら、恥ずかしいほどであった。丈夫なやつだ。
「おい、かず枝。しっかりしろ。生きちゃった。ふたりとも、生きちゃった」苦笑しながら、かず枝の肩をゆすぶった。
 かず枝は、安楽そうに眠りこけていた。深夜の山の杉の木は、にょきにょき黙ってつっ立って、尖った針の梢には、冷たい半月がかかっていた。なぜか、涙が出た。しくしく嗚咽をはじめた。
 おれは、まだまだ子供だ。子供が、なんでこんな苦労をしなければならぬのか。


 ところで、太宰治自身は『姥捨』(うばすて)をどう読んでいたのだろう。
 太宰が書いた『懶惰の歌留多』で『い、ろ、は、に、ほ、へ、と、ち、り、ぬ、る、を、わ、か、よ』の中の、『を』の行では、『を 姥捨山(をばすてやま)のみねの松風』と書いている。たまたまこの『懶惰の歌留多』で『姥捨(をばすて)』と書いただけかもしれない。
 長篠康一郎は『作者太宰治の意図するところは、「を・ば・す・て」にあったものと考えて誤りではないだろう。「う・ば・す・て」と読まれがちであるが、いちおうは心得ておいたほうがよい。』(太宰治水上心中)としている。『うばすて』と読んでも問題ないでしょう。
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 太宰治の『姥捨』と関連した水上心中において、長篠康一郎は、『小山初代離別の動機と、小説「姥捨」に描かれた水上心中の物語は一応切り離して考察するべきで、「姥捨」の心中場面は、あくまで創作(フィクション)として鑑賞したほうが無難であろう、というのが、人間失格事件の謎を追求してきた私なりの見解であり、いちおうの結論とするところでもある。』(太宰治水上心中)としている。
 人間失格事件の項目など、飛ばして書いた部分も多くありますが、水上心中についてとても詳細に記載されていますので、興味のある方は、是非『太宰治水上心中』を手にとって読んでもらいたいです。

 これで太宰治と水上の記事は終りになります。
 次に来るときは、雪のない時期にゆっくりと散策したいと思います。
 





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by dazaiosamuh | 2015-01-28 13:50 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治は、『姥捨』で『川久保屋』のことを、『ほとんど素人下宿のような宿で、部屋も三つしかなかったし、内湯も無くて…(中略)夜なら提燈かはだか蠟燭もって、したの谷川まで降りていって川原の小さい野天風呂にひたらなければならなかった。』と書いているが、それもそのはず、長篠康一郎の調査によると『川久保屋』の正式な名は、『川久保屋料理店』であったらしい。素人下宿でないことは当たり前である。
 そのため、『金盛館に沿って谷川に降りたところが共同野天風呂で、内湯を持たない「川久保」の人たちは、この共同野天風呂か下の野天風呂のいずれかに通っていた』(太宰治水上心中)とのこと。
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 上の写真が、前身が太宰の宿泊した『川久保屋』の『旅館たにがわ』です。旅館のスタッフはとても親切で、しかも、靴下洗濯サービスというのがありビックリしました。
 私がこの日履いてきた靴下は、100均で買ったものだったので、部屋に案内され、目の前で靴下を脱ぎ、手渡す時の私のこの何とも言えない照れくささと言ったら、思い出すだけで赤面してしまいます。これならもっと上等な靴下を履いてくれば良かったと思いましたが、せめてもの救いは、靴下に穴が空いていなかったことですね。

 太宰の『俗天使』でも、水上は登場する。
水上でも、病気をなおすことができず、私は、夏のおわり、水上の宿を引きあげた。宿を出て、バスに乗り、振り向くと、娘さんが、少し笑って私を見送り急にぐしゃと泣いた。娘さんは、隣りの宿屋に、病身らしい小学校二、三年生くらいの弟と一緒に湯治しているのである。(中略)バスに乗って、ふりむくと、娘さんは隣りの宿の門口に首筋ちぢめて立っていたが、そのときはじめて私に笑いかけ、そのまま泣いた。だんだんお客たち、帰ってしまう。という抽象的な悲しみに、急激に襲われたためだと思う。特に私を選んで泣いたのでは無いと、わかっていながら、それでも、強く私は胸を突かれた。も少し、親しくして置けばよかったと思った。

 この水上のことだけでも、3つ、4つくらい作品に登場する。病気も治らず、第3回芥川賞にも落ち、太宰にとってはある意味強く印象に残ってしまったのだろう。
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 旅館内には、マッサージチェアーなどのある部屋や太宰治のミニギャラリーもあり、存分に満喫することができる。さらに、夕食の際、太宰治の作品にちなんだ名前がつけられたお酒を頼む事できる。旅館ないにはバーもあり、食事時間外でも飲めるようです。
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 確か私が頼んだのは、カクテル『人間失格』だったと思います。これの前にビールも飲んで少しほろ酔いだっため、勢いで頼んだ記憶があります。他にも『斜陽』や『ヴィヨンの妻』など色々あったと思いますが、覚えていません。
 しかし、料理も美味しく、お風呂もゆっくりできて大満足でした。
 太宰治が好き人はもちろん、そうでない人も満足できると思いますので、この寒い時期にゆっくり温泉で心と身体を温め、太宰治ミニギャラリーで純文学に浸るのもいいかもしれません。

 水上の記事は、次回で終わりになります。


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by dazaiosamuh | 2015-01-23 21:36 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰が宿泊した宿はどこだったのか。
 実は、太宰は宿泊した宿から手紙を友人に向けて送っており、その書簡集として小山清著太宰治の手紙』に載っている。
昭和十一年八月十二日群馬県水上村谷川温泉川久保方より青森市浪打六百二十番地小舘善四郎宛
 謹啓。
 七日から、ことらへ来てゐます。丈夫にならうと存じ、苦しく、それでも、人類最高の苦しみ、くぐり抜けて、肺病もとにかく、おさへて、それから下山するつもりです。一日一円なにがし、半ば自炊、まづしく不自由、蚤がもつとも、苦しく存じます。中毒も、一日一日苦痛うすらぎ、山の険しい電気に打たれて、蜻蛉すら、かげうすく、はらはら幽霊みたいに飛んでゐます。芥川賞の打撃、わけわからず、間ひ合せ中でございます。かんにんならぬものございます。女のくさったやうな文壇人、いやになります。
「創生記」愛は惜しみなく奪ふ。世界文学に不抜孤高の古典ひとつ加へ得る信念ございます。
 貞一兄、京姉、母上、によろしく。
』(太宰治の手紙

 手紙の内容から分かるように、太宰は第3回目の芥川賞にも落ちてしまった。パビナールも治らず、芥川賞にも落選。太宰は極度の不安と焦燥に、尚更神経をすり減らしていった。
 そして、肝心の手紙の住所はというと、『川久保方』と記載されています。やはり、『金盛館』ではないようです。こちらも長篠康一郎が事実を突き止めています。
 説明するとなると、あまりに長くなるので先に結論を書かせてもらい、長篠康一郎著『太宰治水上心中』から一部を引用させてもらいます。
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 写真の右側の建物が『旅館たにがわ』で、前身が太宰治の宿泊した『川久保屋』になり、左側は現在駐車場になっているのですが、この駐車場が、当時『川久保屋』のあった場所になります。

あの、少々うかがいますが、金盛館の御主人は川久保さんでしょうか?
いいえ、金盛館は須藤さんです
 こうして長篠康一郎は、一軒々々、聞き込みを行った。そして様々な情報を元に、ついに太宰の泊まった『川久保屋』の場所を突き止めることができた。
谷川温泉の野天風呂は谷川溪谷の中に湧出しており、御裳の湯(みもすその湯)と呼ばれ、婦人病に特効ありとして有名である。けれども、太宰治が、婦人病を治すために谷川温泉までやって来るはずもあるまい。遠く山の中の谷川温泉を選んで、一カ月ちかくも湯治に滞在したのであれば、それなりの目的、理由がなければどうにも納得しがたいように思われた。
 婦人病のほかにどんな病気に効くか。久保さんの調査が、いつか野天風呂の効用調査に発展し、それなら青柳さんに訊ねて聞いてみればよく判ると教えられ、深い雪の中をただちに青柳家に向かった。青柳家は谷川本館のすぐ隣りで、御主人は八十歳(調査当時)だそうだが六十歳位にしかみえない。
 青柳老人の話で、むかしは御裳の湯のほかに、眼の湯といわれる野天風呂があり、あらゆる眼病に特効があって、ずいぶん遠方から湯治客がやって来たものだという。一般的には、創傷や肺病などにも効果があるそうだが、眼の湯はその後の湧出がとまってしまい、いまの若い人たちは殆んど知らないそうである。
 太宰治の滞在先が判明したのは、青柳老人の眼の湯、眼の神さまや温泉の神さま(栃ノ木薬師)の話を交わした直後のことであった。青柳老人の奥さんが、「川久保」を憶い出してくれたのである。青柳さんで教えてくれた当時の「川久保」の跡は、なんと隣りの谷川本館であった。
』(太宰治水上心中

 聞き込みの結果、なぜここまでの話に行き着いたかは、『太宰治水上心中』を読んでもらいたい。
 『川久保屋』『谷川本館』『旅館たにがわ』と、ややこしいが、『川久保屋』のあった場所に、経営者が変わり『谷川本館』が建てられ、そこを取り壊し駐車場にし、道路を挟んで反対側に新たに、現在の『旅館たにがわ』ができました。
 なので、場所や建物自体は変わっていますが、今回私が宿泊した『旅館たにがわ』は、前身は太宰治が宿泊した『川久保屋』になります。
 そして長篠康一郎は、『川久保屋』のあった場所に、記念として太宰治文学碑を建てています。
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 申し訳ございません。。見て分かる通り、残念ながら雪で殆どが隠れています。何と書かれているのか、まるで分かりません。旅館に泊まった翌朝、スタッフの人にお願いをして雪を除けてもらったので、後ほど、改めて載せたいと思います。期待させてしまって申し訳ないです。

 太宰の手紙には、他にも『昭和11年8月23日群馬県水上村谷川温泉川久保方より青森市浪打620番地 小舘善四郎宛』の手紙があります。小山清の『太宰治の手紙』には、他にも色々と書かれていますので、読んでいて面白いです。太宰ファンにはおすすめです。

 次回は、太宰が宿泊した『川久保屋』が前身で、私が泊まった『旅館たにがわ』の記事を書きます。





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by dazaiosamuh | 2015-01-19 19:44 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰の文学歌碑、心中場所付近を通り、ひたすら真直ぐ歩いていると、次第にお腹が空いてきたのでとりあえず目に付いたお店に入ることにした。今回宿泊することになっている『旅館たにがわ』のすぐ傍まで来ていることは分かっていたが、チェックインには1時間も早かったためだ。
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小さなレストラン 彩絵』という本格イタリアンのお店に入った。写真がそのお店で、中はアットホームな造りになっており、空腹だったことと、外が非常に寒かったため暖房のきいた店内に入ったときは、思わず安堵の声が漏れてしまった。
 私はリゾットグラタンを頼み、食べていると、すでにご高齢の女性が「これから上毛高原に行かれるのですか」と訊いてきたので、「いえ、太宰ゆかりの宿に泊まるためだけに来ました。」というと、一瞬、驚いた様子を見せたがすぐに、「あ、そうですか」と言い、今年は雪が降るのが早いですねえ、などとありふれた、言わば初対面に対して言う恒例の世間話をした。店内には昭和初期から中期にかけての谷川の写真が掲載された本があり、太宰が訪れた当時の風景写真などもあり、また、どこそこの道路の開通を祝う写真、ベーゴマ、ゴム飛びで遊ぶ子供の写真もあり、移り行く時代の流れを、今の私に感じさせた。
 空腹も満たされ、身体も心も温かくなった私はお礼を言い、お店を後にした。

 太宰治が初めてこの水上を訪れたのは、昭和11年8月7日、当時28歳。パビナール中毒と肺病を癒そうとして、一人で群馬県谷川温泉を訪れた。なぜ谷川温泉なのかと言うと、作家であり、芥川賞審査員でもある川端康成の勧めで、この土地へと療養も兼ねてやってきたのだ。『姥捨』から。
自動車を棄てて、嘉七もかず枝も足袋を脱ぎ、宿まで半丁ほどを歩いた。路面の雪は溶けかけたままあやうく薄く積っていて、ふたりの下駄をびしょ濡れにした。宿の戸を叩こうとすると、すこしおくれて歩いて来たかず枝はすっと駈け寄り、
「あたしに叩かせて。あたしが、おばさんを起こすのよ」手柄を争う子供に似ていた。
 宿の老夫婦は、おどろいた。謂わば、静かにあわてていた。
 嘉七は、ひとりさっさと二階にあがって、まえのとしの夏に暮らした部屋にはいり、電燈のスイッチをひねった…


『まえのとしの夏に暮らした部屋にはいり…』というのは、太宰が初めて訪れた昭和11年8月のことでしょう。実は、太宰が訪れた水上での宿泊先はどこなのか、曖昧な部分が多くあった。太宰は、初めて訪れた昭和11年8月に、宿泊した宿で『創生記』を書いている。その『創生記』の中の『山上通信』には、自分の苛立ちの感情をぶちまけような、乱れた文章で、そこで突然旅館名が登場する。
いやだ。いやだ。こんな奴が、「芥川賞楽屋噺」など、面白くない原稿かいて、実話雑誌や、菊池寛のところへ、持ち込み、殴られて、つまみ出されて、それでも、全部見抜いてしまってあるようなべっとり油くさいニヤニヤ笑いやめない汚れものになるのであろうと思いました。今から、また、また、二十人に余るご迷惑おかけして居る恩人たちへお詫びのお手紙、一方、あらたに借銭たのむ誠実吐露の長い文、もう、いやだ。勝手にしろ。誰でもよい、ここへお金を送って下さい、私は、肺病をなおしたいのだ。(群馬県谷川温泉金盛館)ゆうべ、コップでお酒を呑んだ。誰も知らない。
 八月十一日。ま白き驟雨。

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 突然『金盛館』という旅館名が登場しますね。こちらが現在の『金盛館せせらぎ』になります。太宰死後、昭和時代に出された書籍の年譜には、「金盛館に宿泊」などと記載されていた本もあったようです。小説を鵜呑みにしたためでしょう。
 では、太宰は本当に『金盛館』に宿泊したのか、それとも別の旅館だったのでしょうか。
『姥捨』には、『ほとんど素人下宿のような宿で、部屋も三つしかなかったし、内湯も無くて、すぐ隣りの大きい旅館にお湯をもらいに行くか、雨降ってるときには傘をさし、夜なら提燈かはだか蝋燭もって、したの谷川まで降りていって川原の小さい野天風呂にひたらなければならなかった。』と書いている。
 しかし、長篠康一郎は『太宰治水上心中』に、『…谷川温泉の金盛館といえば、古くから名の知られている有名な旅館である。谷川温泉なら金盛館、東京ならさしずめ帝国ホテルというところか。(中略)そのような立派な旅館に、内湯も無いというのは、ちと頷けない話に思われる。』と疑問視している。

 果たして、太宰が本当に泊まった旅館はどこなのでしょうか。次回に続きます。

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by dazaiosamuh | 2015-01-14 13:47 | 太宰治 | Comments(0)
接吻して、ふたりならんで寝ころんで、
「じゃあ、おわかれだ。生き残ったやつは、つよく生きるんだぞ」
 嘉七は、催眠剤だけでは、なかなか死ねないことを知っていた。そっと自分のからだを崖のふちまで移動させて、兵古帯をほどき、首に巻きつけ、その端を桑に似た幹にしばり、眠ると同時に崖から滑り落ちて、そうしてくびれて死ぬる、そんな仕掛けにして置いた。まえから、そのために崖のうえのこの草原を、とくに選定したのである。眠った。ずるずる滑っているのをかすかに意識した。
』(姥捨

 水上駅を発った私は、雪の降りしきる中を、途中、屋根のある場所で休憩しながら進んでいった。時折り、突然風が強くなったり、木に積もった雪がドバっと、よりによって自分の頭上に落ちてきたりなど、幾度も駅に引き返そうか、タクシーを拾おうか、などと考えたが、やはり自分の足でその土地を歩き、ゆかりの地をまわりたかったので、「雪にも負けず、風にも負けず…」と替え歌で自らを励ましながら進んで行くと、真白な視界のなかに木の案内板が見えてきた。
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 案内板のすぐ左からは、本来、山々を望むことができるみたいですが、雪による視界不良で何が何やらわかりませんでした。案内板で現在地を確認すると、現在地から道路を挟んで反対側に太宰の『姥捨』の歌碑があることがわかりました。
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 歌碑があることを示す看板もありました。太宰は初代との心中を『姥捨』以外にも書いています。
Hは、もう、死ぬるつもりでいるらしかった。どうにも、やり切れなくなった時に、私も死ぬ事を考える。二人で一緒に死のう。神さまだって、ゆるしてくれる。私たちは、仲の良い兄妹のように、旅に出た。水上温泉。その夜、二人は山で自殺を行った。Hを死なせては、ならぬと思った。私は、その事に努力した。Hは、生きた。私も見事に失敗した。薬品を用いたのである。
 私たちは、とうとう別れた。Hを此の上ひきとめる勇気が私に無かった。捨てたと言われてもよい。人道主義とやらの虚勢で、我慢を装ってみても、その後の日々の醜悪な地獄が明確に見えているような気がした。Hは、ひとりで田舎の母親の許へ帰って行った。
』(東京八景

 Hというのは、勿論、小山初代のことですね。しかし、№1で書いた通り、昭和12年3月における積雪量などから、自殺は不可能だったのではと言われています。
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 写真の左に歌碑を示す看板がありますが、歌碑は写真の中央から少し右側辺りにあるようです。やはり雪に埋もれて見ることができませんでした。もしかしたら、歌碑のある場所だけでも雪を除雪してくれているのではないかと、内心期待していたのですが、やはりダメでした。
 この歌碑には、私が№1で書いた『姥捨』の一節、『水上駅に到着したのは、朝の四時である…(中略)…真白に雪に覆われているのがわかって来た。』が書かれているらしい。

 推測では、太宰と初代はこの歌碑から少し離れた付近で心中したのではないかと言われている。実は、自らの身体でこの心中が可能か否か、実験をした男がいることをご存じだろうか。
 それは、前回の記事でも登場した、『太宰治水上心中』の著、長篠康一郎です。
昭和四十五年三月、…むかし(昭和十二年)には及ばないが、それでもかなりの積雪で、念願の雪中における睡眠薬自殺未遂を、自分のからだで体験してみるには絶好の機会に思えた…、この日、三月二十五日は午前中は晴、午後から小雪となった。渓谷の故か気象の変化は驚くほど激しい。日中の気温11.5度。午後六時には持参の寒暖計が2.5度に下がった。午後七時、0.1度。七時三十分、マイナス1.5度。八時、マイナス2.5度。八時三十分、マイナス3.5度。…三十分ほど山を下って、芦間の恋沢あたりに到着。太宰治が自殺を図ったとすれば、この附近の山中にある杉林の中でなければならない。しかし雪が深くて、とても杉林の上のほうまでは辿りつけそうもない。なにしろ片足すっぽり雪の中に埋まってしまうのだから、やむなく道端から少し離れた樹陰にはいり、寒暖計を傍に置いて雪の中に横たわった。
 何分ほど経ったか、足の指先から全身が麻痺してくる感じだ。懐中電灯で寒暖計の目盛を読む。マイナス6.5度。このままいたら凍死だ。私の躰では、この実験が到底無理だと判った。
 もしこのとき、睡眠薬カルモチンをのんでいたらどうなるか。太宰治の常用していた睡眠薬カルモチンは、五グラム及至六グラム(五、六〇錠)服用したのであれば、少しぐらい揺り動かしてもなかなか目覚めない程度に熟睡するかも知れぬが、とくに危険視するほどのものではない。カルモチンは心臓そのものに影響することなく、ただ眠っているだけであるが、しかし急激な寒気とか、雨に打たれるかして外界の状況が変化した場合、体温の低下から余病を併発することもあり、発見が遅れれば往々にして死に至ることもあり得る。
』(太宰治水上心中

 すごいですね。付添なしで行ったのでしょうか。昭和12年3月当時とは、天候や環境なども多少違いがあると思いますが、前回の記事で書いた通り、当時も相当な積雪だったようなので、やはり自殺するには厳しい環境だったと思います。
 そして、長篠康一郎も、はっきりと結論付けている。
昭和一二年春三月下旬、太宰治と小山初代の二人が、カルモチンをのんで自殺を図ったという話は、物語としてはおもしろいけれども、現実の自殺未遂事件(カルモチンののんで)は、実行不可能(体内の塩分が不足し、体温を奪われて凍死する)と私は思う。つまり、百パーセント生存はあり得なかったと確信する。』(太宰治水上心中

 長篠康一郎の身体を張った実験には、脱帽です。私も体力のある若いうちに、自らの身体で実験してみようと思います。
 今回はかなり長文になってしまいましたが、まだ水上の記事は続きます。





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by dazaiosamuh | 2015-01-08 14:22 | 太宰治 | Comments(0)
あやまった人を愛撫した妻と、妻をそのような行為にまで追いやるほど、それほど日常の生活を荒廃させてしまった夫と、お互い身の結末を死ぬことに依ってつけようと思った。早春の一日である。』(姥捨

 太宰治の昭和10年7月頃から昭和11年11月頃までは、主に船橋時代と言われている。私もすでに船橋時代について記事に書いている。この時期は、太宰の人生において、とても重要な期間で(どの時期においても重要だとは思うが)、パビナール中毒の疑い、武蔵野病院での1ヶ月間の入院、芥川賞落第、先輩作家達との確執、妻・小山初代の不貞行為など、その後の太宰の人生に大きく影響を与えた時期であった。
 そして、この船橋時代とその後に、調べる限りでは2回、水上を訪ねている。詳しく言うと、1回目は昭和11年8月7日で、パビナール中毒と肺病を癒すために、単身群馬県谷川温泉にある『川久保屋』に宿泊している。そして2回目は、翌年の昭和12年3月20日前後頃、今度は妻・小山初代と共に水上村谷川温泉を再訪、同じく『川久保屋』に投宿し、翌日、初代と谷川岳の山麓でカルモチンによる心中を図るも未遂に終わる。

『「死のうか。一緒に死のう。神さまだってゆるして呉れる。」』

 太宰は谷川岳山麓での小山初代との心中未遂を題材に、『姥捨』を書いてる。
「水上に行こう、ね」その前のとしのひと夏を、水上駅から徒歩で一時間ほど登って行き着ける谷川温泉という、山の中の温泉場で過ごした。真実くるし過ぎた一夏ではあったが、くるしすぎて、いまでは濃い色彩の着いた絵葉書のように甘美な思い出にさえなっていた。白い夕立の降りかかる山、川、かなしく死ねるように思われた。水上、と聞いて、かず枝のからだは急に生き生きして来た。』(姥捨
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 こちらが、現在の水上駅になります。文字が金色でビックリしました。私が訪れたのは、先月半ば過ぎで、例年より雪の降る日が早く、しかも大雪であった。写真の通り吹雪いていたが、そのためも相俟って、金色の水上駅の文字が輝いて見えた。
水上駅に到着したのは、朝の四時である。まだ、暗かった。心配していた雪もたいてい消えていて、駅のもの陰に薄鼠いろして静かにのこっているだけで、このぶんならば山上の谷川温泉まで歩いて行けるかも知れないと思ったが、それでも大事をとって嘉七は駅前の自動車屋を叩き起こした。
 自動車がくねくね電光型に曲折しながら山をのぼるにつれて、野山が闇の空を明るくするほど真白に雪に覆われているのがわかって来た。
』(姥捨

 私はこの日、宿泊する旅館から、電話を掛ければ迎えに行きます、と言われていたのですが、どうしても途中の太宰と初代が心中した地点と、そこにある太宰の文学歌碑を見たかったので、激しく吹雪いていましたが、私も雪の降る東北出身ということもあり、意を決して、自分の足で谷川方面を目指すことにしました。
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 この太宰と初代の心中事件にまつわる事柄等に疑問を投げかけ、徹底的に調査、研究した長篠康一郎は、後に『太宰治水上心中』という本を出している。この本が、今回の太宰ゆかりの地巡りに非常に役に立った。ちなみに、太宰が宿泊した場所は、谷川温泉で、水上温泉ではない。この水上温泉と谷川温泉は非常にまぎらわしいが、この2つは元々別の温泉郷であって、水上駅付近を水上温泉といい、水上温泉から谷川に沿って1時間ばかり登った山間の温泉郷を谷川温泉というらしい。

 長篠康一郎著『太宰治水上心中』よると、昭和12年3月における天候について、湯原観測所によれば、この年の3月から4月にかけて、相当な積雪量のあったことが記録されていて、少なく見積もっても水上側で4、50㎝、恋沢側で7、80㎝以上であったらしい。さらに、当時谷川地区では、毎年、『区長の引渡し式』が行われる4月まで、積雪のために車は一切通れないとのこと。『区長の引渡し式』とは、村の長(おさ)が交代する儀式のことで、その日には村民総出で除雪作業に従事し、車馬の通行可能な状態にして次の新しい区長と交代する習わしをいう。
 そして、長篠康一郎は『以上のように、「姥捨」の作者は、昭和十二年春三月の谷川温泉に関しては、現実の認識に欠けており、昭和十一年八月のひと夏を過ごしたさいの思い出(昭和十二年五月以降に初代と最後の記念の旅行をしたのでなければ)のほかは、すべて想像によって書きあげた心中物語の輪郭が、しだいに鮮明になってこよう。』と書いている。

 太宰はよく自分を題材にした小説を書くため、それが事実そのままなのか、疑問に問われることが多くある。挙句の果てに、太宰の年譜には、小説を鵜呑みにし、そのままを事実として年譜に記載されている書籍も非常に多くあるため、非常にまぎらわしい。太宰治ほど、小説と事実について論争が起こる作家も珍しいのではないでしょうか。
 

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by dazaiosamuh | 2015-01-04 17:02 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)