遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 私は以前、荻窪の記事で太宰が住んだことのある建物『碧雲荘』について書いたことがあった。その記事の中で、建物が古いため近いうちに取り壊されるかもしれない、といった内容を書いた。その時は、半ば冗談、半ば本気のような気持ちで書いたのであったが、ある親切な方が、私のブログにコメントを書いてくれて、そのコメントは写真付きで、私に衝撃を与えた。

移築希望の方、連絡下さい。

 写真を拝見させてもらうと、上記の文字が目に飛び込んできた。そんな、まさか、自分の記事で近いうちに取り壊されるかもしれません、などと書いてしまったが、こんな日が来てしまうとは思ってもみなかった。
 『碧雲荘』は、太宰が昭和11年15日頃から昭和12年6月頃までの間、小山初代と生活した場所だ。僅か8ヶ月ほどではあるが、太宰が住んだことのあるゆかりの場所は、ほとんど残っていない。そのため、僅か8ヶ月だけとはいえ、この『碧雲荘』は日本を代表する文豪・太宰治が住んだ場所として、非常に価値がある建物と言える。5年前の2009年には、太宰治生誕100年、そして、今年の2014年は生誕105年を迎え、『人間失格』『斜陽』などの太宰作品の映像化や展示会なども開かれ、昭和の時代を生きた作家・太宰治の人気は、今では現代の多くの若者にも認知、支持されるようになった。そんな中でのこともあり、私にとって、今年1番のショックかもしれない。
 私は居ても立っても居られず、コメントが来て数日後に荻窪へと飛んだ。
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 写真の通り、確かに看板が置いてあった。『太宰治さんに部屋を貸していたこともあります。』とも書かれていますね。
 どうしても事情を伺いたくて、記載された電話番号へ掛けてみた。すると、『日本民家再生協会』が出た。事情を訊いてみると、『碧雲荘』のオーナーがやむを得ぬ事情があり、土地を手放したいとのこと。しかし、土地は手放したいが、この『碧雲荘』には思い出等があり、壊したくないらしい。そのため、建物の移築希望を募集しているということである。
 とはいえ、現段階では詳しい話は進んでいないみたいで、何時ごろまでにどうこうしたいというのは、オーナーの方でも全く決めていないとのこと。一応、オーナーと『日本民家再生協会』との間では、移築希望の方のために、『碧雲荘』の中の見学会の開催案など、色々と話が出ているようですが、具体的な話には至っていないようです。もしそういう見学会等があった場合、ホームページに載せるようです。
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『碧雲荘』はどうなってしまうのでしょうか。『日本民家再生協会』のHPをこまめにチェックする必要があります。もしかしたら、突然取り壊しになるなんてことも……、全くないとも言い切れない。
 今後の動向に注意が必要ですね。

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by dazaiosamuh | 2014-12-29 19:29 | 太宰治 | Comments(4)
 新潟『みみずく通信』の記事で、『イタリア軒』を書きましたが、実は『イタリア軒』はレトルト食品も出していました。
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 レトルト食品は3種類あり、ビーフカレー、ミートソース、ハッシュドビーフの3つになります。私は写真の通り、ビーフカレーとミートソースしか買いませんでした(荷物が増えるのが嫌だったのと、お土産にレトルト食品というのも何だか抵抗があったので)。
 パッケージの裏には、創始者ピエトロ・ミリオーレの簡単な説明書きや、明治14年、大正12年、昭和6年、そして現在の建物が造られた昭和51年の白黒写真が小さく載っていました。
 ミートソースは、パッケージにも写っている通り、ゴハンでも美味しく食べられるみたいですが、『イタリア軒』でビーフカレーを食べたのもあり、やはり、パスタで食べることにしました。
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 盛り付け方やサラダが地味ですみません。一応、雰囲気を出してみました。肝心の味の方はというと、濃すぎず、さっぱりとした印象です。誰にでも食べやすいと思いました。そういえば、『イタリア軒』でビーフカレーを食べている時に、スタッフに、太宰治はここで何を食べたのかを訊いたのですが、『ミートソースとかを食べられたと思います…』という、なんとも曖昧な返答でした。なので、実際にここで太宰は何を食べたかはよく分かりません。当時のことなので、ビーフカレーかミートソースは食べているのではないかと思います。

 私は『イタリア軒』で購入しましたが、新潟駅のお土産屋さんでも売っていました。たぶん新潟以外では売っていないのではないでしょうか。
 お土産として相手に渡す際、「『イタリア軒』は文豪・太宰治も来たことがあるんだよ」と言えば、「へえ、そうなんだ。じゃ、家で食べてみようかな」と思うことは間違いありません。たぶん。

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by dazaiosamuh | 2014-12-25 20:11 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰は、『イタリア軒』での食事を終えたあと、ある旅館に宿泊したとされている。一応、年譜等にも書かれているその旅館は、古町通りにある『大野屋旅館』と言われている。
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 年譜の通りだと、古町通りの『大野屋旅館』はこの一軒だけになります。なかなかの老舗だと思われます。ホームページ等は無いため、詳しい話は実際に旅館を訪ねなければ分かりません。しかし、本当は『大野屋旅館』に宿泊したかったのですが、生憎、私が指定した日は営業をしていないと言われてしまい、仕方がなく『イタリア軒』に泊まりました(それはそれで『イタリア軒』に泊まれて良かったですが)。

生徒たちと、わかれてから、私は、ほんの少し酒を飲みに、或る家へはいりました。そこの女のひとが私の姿を見て、
「あなた、剣道の先生でしょう?」と無心に言いました。
 剣道の先生は、真面目な顔をして、ただいま宿へ帰り、袴を脱ぎ、すぐ机に向って、この手紙に取りかかりました。雨が降って来ました。あしたお天気だったら、佐渡ヶ島へ行ってみるつもりです。佐渡へは前から行ってみたいと思っていました。こんど新潟高校から招待せられ、出かけて来たのも、実は、佐渡へ、ついでに立ち寄ってみたい下心があったからでした。講演は、あまり修行にもなりません。剣道の先生も、一日限りでたくさん也。みみずくの、ひとり笑いや秋の暮。其角だったと思います。十一月十六日夜半。
』(みみずく通信
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『みみずく通信』の通り、太宰は昭和15年11月16日、新潟高等学校で講演をし、生徒たちと寄居浜で日本海を見て、その後『イタリア軒』で食事をし、『大野屋旅館』に宿泊した。そして翌日、実際に佐渡ヶ島へと渡っている。
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 写真は新潟の街と萬代橋の夜景です。3本あるうちの真ん中のオレンジ色に光っている橋が、萬代橋になります。私が新潟を訪ねたときは、天気が良くなかったため、佐渡島は見えませんでした。春を迎えたら、今度は佐渡島へ渡ってみたいと思います。
 新潟『みみずく通信』の記事は、これで終わりになります。

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by dazaiosamuh | 2014-12-21 18:41 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰は日本海を見た後、新潟の街をぶらぶらと歩き、生徒たちと一緒に『イタリア軒』という洋食屋で御飯を食べました。
イタリヤ軒に着きました。ここは有名なところらしいのです。君も或いは、名前だけは聞いた事があるかも知れませんが、明治初年に何とかいうイタリヤ人が創った店なのだそうです。二階のホオルに、そのイタリヤ人が日本の紋服を着て収まった大きな写真が飾られてあります。モラエスさんに似ています。なんでも、外国のサアカスの一団員として日本に来て、そのサアカスから捨てられ、発奮して新潟で洋食屋を開き大成功したのだとかいう話でした。』(みみずく通信
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 ホテルのラウンジにある柱には、ミリオーレの写真が飾られてありました。確かに紋服です。太宰が見た写真と同じでしょうか。太宰は『イタリヤ軒』と書いていますが、『イタリア軒』が正しい名前です。そして、そのイタリア人というのが、創設者のピエトロ・ミリオーレです。明治7年に、フランスの曲馬団がやってきました。その時のひとりのイタリア人青年コックが、ミリオーレでした。しかし、大けがを負ってしまい、ミリオーレだけが新潟に残されてしまったのですが、まわりの人々の助けや協力を得て、最初に牛鍋屋を出し大繁盛。ミリオーレは、その紅毛の異人から「ミオラ」の愛称で親しまれました。その時に、親身になってくれた、おすい、という女性と結ばれて夫婦になりました。
 ところが明治13年の大火で店は焼失。それでも周囲の人達の励ましで、現在の場所に、おすいの発案で「イタリア軒」として、時代の最先端をゆく西洋レストランになっていきました。
 その後、ミオラも在日30余年、単身故国イタリアへ帰り、大正9年11月、郷里のチュリン市で波乱の生涯を終えました。
 そして現在…、今ではホテルとして生まれ変わりましたが、レストランには、ミオラが周りの人々から貰った暖かい情熱を持って創り上げた「イタリア軒の味」が今でも生き続いているのです。
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 どうりでホテルにしては変わった名前だなと思いました。新潟に置き去りにされた1人のイタリア人から、このような歴史が生まれるとは、これも新潟の暖かい人々のおかげですね。

生徒が十五、六人、それに先生が二人、一緒に晩ごはんを食べました。生徒たちも、だんだんわがままな事を言うようになりました。
「太宰さんを、もっと変わった人かと思っていました。案外、常識家ですね。」
「生活は、常識的にしようと心掛けているんだ。青白い憂鬱なんてのは、かえって通俗なものだからね。」
「自分ひとり作家づらをして生きている事は、悪い事だと思いませんか。作家になりたくっても、がまんして他の仕事に埋れて行く人もあると思いますが。」
「それは逆だ。他に何をしても駄目だったから、作家になったとも言える。」
(中略)
 晩ごはんが済んで、私は生徒たちと、おわかれしました。
「大学へはいって、くるしい事が起ったら相談に来給え。作家は、無用の長物かも知れんが、そんな時には、ほんの少しだろうが有りがたいところもあるものだよ。勉強し給え。おわかれに当って言いたいのは、それだけだ。諸君、勉強し給え、だ。」
』(みみずく通信

 生徒たちも結構ひどいことを言いますね。「案外、常識家ですね。」「自分ひとり作家づらをして…」など。しかし、その後新潟高校の生徒たちの間では、太宰の人気は上昇したらしいので、小説からのイメージをそのまま鵜呑みにすることは軽率で、さらには他作家たちや評論家からの風評も、そのまま人間太宰治にあてはめることは、言語道断だろう。
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 私もミオラの味を受け継ぐ料理を食べてみました。私が頼んだのは、ビーフカレーなのですが、写真を見て分かる通り、ルーがこぼれ落ちそうです。ルーをかけるのを失敗しました。折角のミオラの味が伝わりそうもありません。しかし、やはり味は美味しかったので、新潟に行く予定のある方は是非食べてみて下さい。見苦しくて本当にすみません。

 太宰は、『イタリア軒』の後、古町通りの『大野屋旅館』に泊まったとされています。
 次回は、『大野屋旅館』を書きます。



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by dazaiosamuh | 2014-12-17 23:09 | 太宰治 | Comments(0)
海を見に行こう。

 太宰は新潟高等学校での講演を終え、生徒数名を誘い、高校裏手の寄居浜まで歩いていった。太宰は青森で生まれ、日本海にも親しんでいた。新潟高等学校は日本海に近く、幼い日を懐かしく思い、浜辺へと足を運んだのかもしれない。そしてもうひとつ、太宰はこの時、佐渡へと渡ってみたい気持ちも持っていた。

日本海。君は、日本海を見た事がありますか。黒い水。固い浪。佐渡が、臥牛のようにゆったり水平線に横わって居ります。空も低い。風の無い静かな夕暮れでありましたが、空には、きれぎれの真黒い雲が泳いでいて、陰鬱でありました。荒海や佐渡に、と口ずさんだ芭蕉の傷心もわかるような気が致しましたが、あのじいさん案外ずるい人だから、宿で寝ころんで気楽に歌っていたのかも知れない。うっかり信じられません。夕日が沈みかけています。』(みみずく通信
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 私は初めて日本海を見ました。『黒い水。固い浪。』と太宰が書いていた通りの印象を、私も素直に感じました。天候があまり良くなかったこともありますが、黒く、そして激しく固い浪でした。波にさらわれたらひとたまりもない。風も非常に強く、道路を歩ていても、ぴちぴちと、日本海の水滴が飛んできて、まるで私にこっちに来るなと威嚇しているかのようでした。写真を撮るのも一苦労で、飛んでくる水滴がレンズに入ってくるため、何枚も写真が撮れませんでした。

砂丘が少しずつ暗くなりました。遠くに点々と、散歩者の姿も見えます。人の姿のようでは無く、鳥の姿のようでした。この砂丘は、年々すこしずつ海に呑まれて、後退しているのだそうです。滅亡の風景であります。
「これあいい。忘れ得ぬ思い出の一つだ。」私は、きざな事を言いました。
 私たちは海と別れて、新潟のまちのほうへ歩いて行きました。いつのまにやら、背後に生徒が十人以上になっていました。
』(みみずく通信
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 太平洋とはまるで違う海に、私はただじっと眺めているだけでした。流石に、『滅亡の風景』とは思いませんでした。
 私はこのあと、時間があったので『新潟市水族館 マリンピア日本海』に行ってきましたが、割愛させていただきます。イルカ・ショーなどは見応えがありましたので、新潟に行く予定の方は寄ってみるのもいいかもしれません。

 次回は、太宰が新潟高等学校の生徒たちと食事をした『イタリア軒』を載せます。

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by dazaiosamuh | 2014-12-14 18:36 | 太宰治 | Comments(0)
 前回のドッペリ坂を上り、左にどんどん直進していくと、右手にとても広い校庭が見えてくる。ここは現在、新潟大学教育学部付属小学校、新潟大学教育学部付属新潟中学校、新潟大学教育学部付属特別支援学校があり、かつて、旧制新潟高等学校があった場所です。太宰治は、1940年(昭和15年)11月16日、案内役の野本秀雄と上野を発ち、新潟高等学校に招かれ、「友情」について講演をした。

正門前で自動車から降りて、見ると、学校は渋柿色の木造建築で、低く、砂丘の陰に潜んでいる兵舎のようでありました。玄関脇の窓から、女の人の笑顔が三つ四つ、こちらを覗いているのに気が附きました。事務の人たちなのでありましょう。私は、もっといい着物を着て来ればよかったと思いました。玄関に上る時にも、私の下駄の悪いのに、少し気がひけました。
 校長室に案内されて、私は、ただ、きょろきょろしていました。案内して来た生徒たちは、むかし此の学校に芥川龍之介も講演しに来て、その時、講堂の彫刻を褒めて行きました、と私に教えました。私も、何か褒めなければいけないかと思って、あたりを見廻したのですが、褒めたいものもありませんでした。
』(みみずく通信
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 上の写真が、新潟高等学校跡の石碑です。道路を背にして建てられていました。太宰は新潟高等学校で、自身の作品「思い出」「走れメロス」の一節を紹介しながら「友情」について、かなり熱を入れて話したという。
「青春は、友情の葛藤であります。純粋性を友情に於いて実証しようと努め、互いに痛み、ついには半狂乱の純粋ごっこに落ちいる事もあります。」と言いました。理想は捨てるな、と言いました。精一ぱいのところでした。私の講演は、それで終わりました。一時間半かかりました。つづいて座談会の筈でありましたが、委員は、お疲れのようですから、少し休憩なさい、と私にすすめてくれましたが、私は、「いいえ、私のほうは大丈夫です。あなた達のほうがお疲れだったでしょう。」と言いましたら、場内に笑声が湧きました。』(みみずく通信
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 校庭は中々広いですね。太宰は自動車の中で、「浪の音が聞えるだろうね」と生徒に行っていましたが、生徒が答えた通り、聞えませんでした。「砂丘の陰に潜んでいる兵舎のようでありました。」とありますが、現在、周りは住宅地となっています。当時は、どのような風景だったのでしょうか。

質問は、あまりありませんでした。仕方が無いから、私は独白の調子でいろいろ言いました。ありがとう、すみません、等の挨拶の言葉を、なぜ人は言わなければならないか。それを感じた時、人は、必ずそれを言うべきである。言わなければわからぬという興覚めの事実。卑屈は、恥に非ず。被害妄想と一般に言われている心の状態は、必ずしも精神病でない。自己制御、謙譲も美しいが、のほほん顔の王さまも美しい。どちらが神に近いか、それは私にも、分からない。いろいろ思いつくままに、言いました。罪の意識という事に就いても言いました。やがて委員が立って、「それでは、之で座談会終了いたします。と言ったら、なあんだというような力ない安堵に似た笑い声が聴衆の間にひろがりました。
 これで、私の用事は、すんだのです。いや、それから生徒の有志たちと、まちのイタリヤ軒という洋食屋で一緒に晩ごはんをいただいて、それから、はじめて私は自由になれるわけなのです。
』(みみずく通信
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 講演会後、新潟高等学校の生徒たちの間で、太宰の人気が急上昇したという。ちなみに、新潟高等学校の設立は、1919年4月15日で、1930年には、左翼学生処分に端を発するストライキがあり、翌年の1931年6月には学生籠城ストが起きている。そして、1949年5月、新制新潟大学発足にともない同大学に包括され、1950年3月に廃止となる。太宰が講演に訪れたのは、1940年(昭和15年)だから、僅か10年後に新潟高等学校は廃止となったということですね。

『みみずく通信』に書かれている通り、講演後、イタリア軒に生徒たちと夕食を共にするのですが、その前に、生徒たちと一緒に日本海を見に行っています。その後にイタリア軒に向かいました。
 私も新潟高等学校跡を見た後、太宰と同じように日本海を目指しました。
 次回は、太宰が見た新潟の日本海の記事を載せます。



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by dazaiosamuh | 2014-12-11 22:55 | 太宰治 | Comments(0)
ひる少し前に起きて、私は、ごはんを食べました。生鮭を、おいしいと思いました。信濃川からとれるようです。味噌汁の豆腐が、ひどく柔らかで上等だったので、新潟の豆腐は有名なのですか、と女中さんい尋ねたら、さあ、そんな話は聞いて居りません、はい、と答えました。はい、という言いかたに特徴があります。片仮名の、ハイという感じであります。』(みみずく通信

 信濃川からは、今も鮭がとれるようです。私の出身地も、鮭がとれることで有名で、日本海側でとれる鮭を食してみたかったのですが、今回は食べませんでした。
 太宰が豆腐好きなこと(特に湯豆腐)は有名で、しかも、歯が悪かった太宰には、「ひどく柔らかで上等だった」新潟の豆腐は、非常に嬉しかったようです。
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 旧制新潟高校跡へ向かう途中、ドッペリ坂という階段がありました。この階段の由来は、写真にも書いてありますが、あまり坂を往来し、遊びの度がすぎると、落第するぞという戒めの意から、ドイツ語のドッペルン(二重にするという意)と洒落て「ドッペリ坂」と名づけられたそうです。そして、この坂の階段は、及第点の60点に1つ足りない59段で造られているそうです。太宰がこの坂を上り下りしたかは分かりません。『みみずく通信』では、生徒たちが自動車で迎えに来たと書いています。
一時ちかく、生徒たちが自動車で迎えに来ました。学校は、海岸の砂丘の上に建てられているのだそうです。自動車の中で、
「授業中にも、浪の音が聞こえるだろうね。」
「そんな事は、ありません。」生徒たちは顔を見合せて、失笑しました。私の老いたロマンチシズムが可笑しかったのかも知れません。

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 実際に数えながら階段を上ると、60段になってしまいました。たぶん、数え間違いです。かといってまた数え直して下りるのも面倒だったので、まあいいや、と思い新潟高校跡へと進みました。

 1枚目の写真の左下をよく見ると、当時の旧制新潟高校の風景が描かれています。現在、旧制新潟高校があった場所は、今では小学校と中学校があり、石碑があるだけだそうです。

 次回は、太宰が講演を行った旧制新潟高校跡の記事を書きます。





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by dazaiosamuh | 2014-12-05 12:38 | 太宰治 | Comments(0)
 新潟には、日本一の長さを誇る大河・信濃川にかかる大きな橋がある。御影石の化粧張りが施された、六連アーチが美しい、萬代橋だ。
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万代橋も渡りました。信濃川の河口です。別段、感慨もありませんでした。東京よりは、少し寒い感じです。マントを着て来ないのを、残念に思いました。私は久留米絣に袴をはいて来ました。帽子は、かぶって来ませんでした。毛糸の襟巻と、厚いシャツ一枚は、かばんに容れて持って来ました。旅館へ着いて、私は、すぐに寝てしまいました。けれども、少しも眠れませんでした。』(みみずく通信

 綺麗なアーチを描いた萬代橋と、大きな信濃川に、しみじみと見とれていた私ですが、太宰は『別段、感慨もありませんでした。』との一言で終わっています。前回の新潟の街に対する『へんに埃っぽく乾いて…』と同様、ちょっと新潟県民に失礼な気もしますが、正直な気持ちを書いたのでしょう。
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 ビルの上からの信濃川と萬代橋です。私は東北出身で、太平洋側の人間ですが、日本海側の空気は、またちょっと違うような気がしました。
 この萬代橋は現在3代目で、3代目は1927年(昭和2年)7月16日に起工式を執り行って着手し、1929年(昭和4年)8月に竣工しました。太宰が訪れたのは、1940年(昭和15年)なので、一応、太宰もこの橋を渡っています。そういうことも含めて、太宰にとって何の感慨もなくても、私にとっては感慨深い橋、ということになりそうです。

 ちなみに、新潟タウンの交通の要であり、シンボルとなっている萬代橋は、2004年に国の重要文化財に指定されています。

 太宰治が萬代橋を渡っていたことを知っている新潟県民は、どれくらいいるのだろうか。

 新潟紀行は、まだまだ続きます。

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by dazaiosamuh | 2014-12-01 20:51 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)