遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 太宰は魯迅の調査のため、河北新報社へ資料集めに行ったり、下宿跡等、町を練り歩きました。そしてやはり、魯迅の通った東北大学にも足を運んでいる。
 河北新報社の村上辰雄の案内で、東北帝国大学医学部に行き、医学部の前身、仙台医学専門学校時代のことを加藤豊次郎に聞いたりしたとのこと。

お国はどちらです。」私は余念なく尋ねた。
 相手は奇妙な笑い方をして、私の顔を黙って見ている。私は幾分まごつきながら、重ねて尋ねた。
「東北じゃありませんか。そうでしょう。」
 相手は急に不機嫌な顔になって、
「僕は支那です。知らない筈はない。」
「ああ。」
 とっさのうちに了解した。ことし仙台医専に清国留学生が一名、私たちと同時に入学したという話は聞いていたが、それでは、この人がそうなのだ。唱歌の下手くそなのも無理がない。言葉が妙に、かた苦しくて演説口調なのも無理がない。そうか。そうか。
』(惜別
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 写真が、『魯迅の階段教室』です。中を見学したかったのですが、私が来た時は祝日で、中を見ることはできませんでした。金網越しから、上手く撮りました。太宰もここへ調査に来ているので、『魯迅の階段教室』へも足を運んでいるはず。
『魯迅の階段教室』があるのは、東北大学の片平キャンパス(B05)になります。

君は周君の親友か?」
「いいえ、決して、そんな、親友ではないのですけれど、でも、僕はこれから周さんと仲良くしようと思っていたのです。周さんは、僕なんかより、ずっと高い理想をもって、この仙台にやって来たのです。周さんは、お父さんの病気のため、十三の時から三年間、毎日毎日、質屋と薬屋の間を走りまわって暮らしたのです。そうして、臨終のお父さんを喉が破れるほど呼びつづけて、それでも、お父さんは、死んじゃったんです。その時の、自分の叫びつづけた声が、いまでも耳について、離れないと言っているんです。だから、周さんは、支那の杉田玄白になって、支那の不仕合せな病人を救ってやりたいと言っているのです。それを、それだのに、周さんたちは革命思想の急先鋒だから、一面親切、一面監視だの、複雑微妙な外交手腕だの、そんな事、あんまりだと思うんです。あんまりです。周さんは、本当に青年らしい高い理想を持っているんです。青年は、理想を持っていなければ、いけないと思います。そうして、だから、青年は、理想を、理想というものだけを、……」言いかけて、立ったまま泣いてしまった。
』(惜別
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 見にくいですが、『魯迅先生が学ばれた講義室』と書かれています。
 太宰は、中国の偉大な小説家であり思想家でもある魯迅に強い関心を持っていた。そして、その魯迅を、入念な調査の元、仙台留学時代を中心に描き、本格的な真の文学作品を書こうと決意していた。
 作家太宰治の文学に対する抱負と強い決意が感じられる。

 次回は、仙台城跡(青葉城跡)を載せます。









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by dazaiosamuh | 2014-10-31 19:08 | 太宰治 | Comments(0)
 仙台へ来た太宰は、河北新報社へ行ったあとは、藤野先生が魯迅と連れ立って行きそうな、教会、飲食店、劇場、寄席などの古い広告なども片っ端から漁り、入念にメモをとった。
 他にも、敗戦国ロシアの捕虜兵士が収容されていたという広瀬川原や、魯迅が下宿していたという下宿跡(佐藤屋跡)、荒町近辺などを歩いて資料集めに奔走した。

自分の下宿は、米ヶ袋鍛冶屋前丁の宮城監獄署の前にあって、学校にも近いし食事も上等だし自分には大いに気にいっていたのだが、その津田さんの言によれば、この下宿屋は、監獄の囚人の食事の差入屋を兼ねているからいかん、という事であって、いやしくも清国留学生の秀才が、囚人と同じ鍋のめしを食っているというのは、君一個人の面目問題ばかりでなく、ひいては貴国の体面にも傷をつける事になるから早く引越さなければいけない、(中略)自分は仕方なく、その津田さんの荒町の下宿に引越した。
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 魯迅の下宿は、今現在も残っている。よく見ると、入口はオレンジ色の電灯がついていた。誰か住んでいるのでしょうか。長篠康一郎の『太宰治 文学アルバム』には、『仙台で、太宰治が訪ねた魯迅の最初の下宿屋(佐藤屋跡)は、仙台市米ヶ袋1の1の11にあり、いまは竹中正雄氏宅となっている。魯迅の第二の下宿跡は、浅田高明氏の調査によると、仙台市土樋1の4の16となるが、現在は、当時の井戸が残されているだけという。』と書かれていた。
 ということは、現在もその竹中正雄氏の家族が住んでいるということなのでしょうか。
 それにしても、2011年3月11日に起きた東日本大震災によく耐えたと思います。あれだけの被害を受けたのに、この魯迅の下宿跡が倒壊しなかったのは奇跡ではないでしょうか。しかし、建物は結構傾いていますね。建物の右下には、石碑が建てられていましたが、非常に古いので、いつ取り壊されるか分かりません。見るなら今のうちですね。場所は、東北大学片平キャンパスの正門近くにあり、すぐに発見することができます。方向音痴の私でもすぐに発見できました。
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それでは、あなたは日本には西洋科学以上のものがあると言うのですね?」
 「もちろんです。日本人のあなたが、そんな事をおっしゃるのは情無い。日本が露西亜に勝ったではありませんか。露西亜は科学の先進国です。科学知識も最高度に応用した武器を、たくさん持っていたに違いない。旅順の要塞も、西洋科学のEssenzでもって築かれたものでしょう。それを日本軍は、ほとんど素手で攻め落としているじゃありませんか。外国人には、この不思議な事実が理解できかねるかも知れない。支那人にだって、わかるまい。とにかく僕は、もっともっと日本を研究してみたい。興味津々たるものがあります。」と爽やかに微笑して言った。


 太宰は、この『惜別』を、東北の片田舎の老医師でありかつての魯迅の親友であったという人物を置き、語り手として話を進める手法を用いている。太宰にしては、入念な調査の元、丹念に書かれた作品と言える。

 次回は、東北大学片平キャンパスにある、『魯迅の階段教室』を載せます。









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by dazaiosamuh | 2014-10-21 17:07 | 太宰治 | Comments(0)
 実に1週間ぶりの更新になってしまいました。申し訳ありません。引き続き書いていきますので、よろしくお願いします。


 『これは、日本の東北地方の某村に開業している一老医師の手記である。
 先日、この地方の新聞社の記者だと称する無精鬚をはやした顔色のわるい中年の男がやって来て、あなたは今の東北帝大医学部の前身の仙台医専を卒業したお方と聞いているが、それに違いないか、と問う。そのとおりだ、と私は答えた。(中略)「それじゃ、あなたは、たしかにこの人を知っている筈だ。」と呆れるくらいに強く、きめつけるような口調で言い、手帖をひらいて私の鼻先に突き出した。ひらかれたペエジには鉛筆で大きく、
 周樹人
 と書かれてある。
「存じて居ります。」
「そうだろう。」とその記者はいかにも得意そうに、「あなたとは同級生だったわけだ。そうして、その人が、のちに、中国の大文豪、魯迅となって出現したのです。」と言って、自身の少し興奮したみたいな口調にてれて顔をいくぶん赤くした。
』(惜別
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 太宰治は魯迅をモデルに『惜別』を書くため、資料集めのために仙台へ行っています。
 初めて仙台に来たのですが、駅を出て町並みを眺めると、東京とあまり違いがないような印象を受けました。正直、あまり新鮮味を感じなかったのは私だけでしょうか。

 昭和19年12月20日、太宰は魯迅が仙台医専に滞在した当時を調査するために、仙台へと向かいました。12月21日の朝、仙台に着き、河北新報社編集部を訪れ、「河北新報」の綴じ込みによって、主に明治37年頃の主要報道や仙台について調査したとされています。
 私は河北新報社を目指し、持参した地図を見ながら向かったのですが、何度か道に迷ってしまいました。ウロウロと迷い、要した時間は30分ほど…。無駄に時間を浪費してしまいました。
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 こちらが現在の河北新報社です。建物や規模は変わっていますが、場所は当時のままのようです。こんな目立つ大きな建物を見つけられないとは…。つくづく自分に辟易します。
 妻の美知子夫人は『回想の太宰治』で、
昭和十九年の「津軽」取材の旅のときは、時候がよかったので粗末ながら何とか、一式でっち上げたけれども、その年末、仙台に「惜別」の資料蒐めに行くときは、太宰には黙って郷里の嫂にSOSを発した。嫂は兄の山行きの服ですがと断って黒ラシャ折襟の服と、オーバーとを送ってくれ、それが出発の日の朝届いた。このときは太宰が褒めてくれた。しかしこの服は防寒用としては最適だが、何分時代物で一種異様な印象を河北新報社の方々に与えたらしい。』と書いている。
 いつもそうだが、太宰は服装において、他人に異様な印象を与える男である。何といっても、雨も降っていないのに、「便利」という理由からゴム長靴を履く男なのだ。
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 仙台へ行く前は、津軽への取材へ行ったりと、身の回りの世話をしてくれる美知子夫人もおり、精神的に落ち着いていた時期ではないでしょうか。

 次回は魯迅の下宿跡を書きます。
 











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by dazaiosamuh | 2014-10-17 18:53 | 太宰治 | Comments(0)
その日、小坂氏と相談して結婚の日取をきめた。暦を調べて仏滅だの大安だのと騒ぐ必要は無かった。四月二十九日。これ以上の佳日は無い筈である。場所は、小坂氏のお宅の近くの或る支那料理屋。その料理屋には、神前挙式場も設備せられてある由で、とにかく、そのほうの交渉はいっさい小坂氏にお任せする事にした。

 上記の『支那料理屋』というのが、目黒雅叙園のことです。『佳日』の主人公は、慣れない結婚式の準備に悪戦苦闘し、大隅君の横柄な態度に苛立ちながらも、何とか日取を決め、当日を迎えることになります。
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 目黒雅叙園の宴会場は2階から上階になります。実は、この『佳日』は映画化もしており、その際、撮影のロケにも、この目黒雅叙園が利用されました。しかし、残念ながら『佳日』はDVD化はおろか、ビデオ化もされていませんので、見ることはできないようです。いつか見れる日は来るでしょうか。
 とりあえず私は、4階まで上り、通りかかったスタッフに「会場を見させてもらうことはできますか」と尋ねると、「使われていない会場でしたら、ご自由にご覧になれます」と言われ、写真もOKと聞き、ならば遠慮なくと、ひたすら扉を開きまくり、パシャパシャ写真を撮りました。開いては写真を撮り、開いては写真を撮りを繰り返し、もはや、どこがどこの部屋だか、まるで覚えていません。
 本来、部屋にはそれぞれ名前が付いているのですが、さっぱり覚えていない有様です。
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 部屋によって、照明等、雰囲気がまるで違います。私が来たときは、セミナーの会場として使われている部屋もありました。

四月二十九日に、目黒の支那料理屋で大隅君の結婚式が行われた。その料理屋に於いて、この佳き日一日に挙行せられた結婚式は、三百組を越えたという。大隅君には、礼服が無かった。けれども、かれは豪放磊落を装い、かまわんかまわんと言って背広服で料理屋に乗込んだものの、玄関でも、また廊下でも、逢うひと逢うひと、ことごとく礼服である。さすがに大隅君も心細くなった様子で、おい、この家でモオニングか何か貸してくれないものかね、と怒ったような口調で私に言った。そんなら、もっと早くから言えば何か方法もあったのに、いまさら、そんな事を言い出しても無理だ……(中略)、「君は仕合わせものだぞ。上の姉さんが君に、家宝のモオニングを貸して下さるそうだ。」
 家宝の意味が、大隅君にも、すぐわかったようである。「あ、そう。」とれいの鷹揚ぶった態度で首肯いたが、さすがに、感佩したものがあった様子であった。
「下の姉さんは、貸さなかったが、わかるかい? 下の姉さんも、偉いね。上の姉さんより、もっと偉いかも知れない。わかるかい?」
「わかるさ。」傲然と言うのである。瀬川先生の説に拠ると、大隅君は感覚がすばらしくよいくせに、表現のひどくまずい男だそうだが、私もいまは全くそのお説に同感であった。
 けれども、やがて、上の姉さんが諏訪法性の御兜の如くうやうやしく家宝のモオニングを捧げて持って私たちの控室にはいって来た時には、大隅君の表現もまんざらでなかった。かれは涙を流しながら笑っていた。


 大隅君は礼服を持っておらず、万策尽きたと思ったところで、上のお姉さんが家宝のモオニングを貸してくれたことにより、無事に挙式を迎えることができました。
 ちなみに、映画の方はというと、昭和19年1月、東宝映画から『佳日』の映画化の申入れがあり、9月に「四つの結婚」と題して上映された。出演者は、入江たか子、山田五十鈴、志村喬、高峰秀子、山根寿子、他。
 長篠康一郎の『太宰治 文学アルバム』によると、『この映画で主演した女優・入江たか子とは、『佳日』の舞台となった雅叙園の創立者細川力蔵夫人(東坊城敏子)の令妹、東坊城英子の俳優名である』らしい。

 雅叙園で有名な百段階段も見たかったのですが、私が来た時は公開されていませんでした。しかも、事前の予約も必要なため、どちらにしても見ることはできなかったようです。
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 そのまま何も食べないで帰ろうかと思っていたのですが、、おいしそうなキャラメルパンケーキがあったので、食べて帰りました。
 見た目はとても甘そうですが、甘味を抑えた、大人のパンケーキに仕上がっています。
 注文の品を持ってきた女性スタッフに、「昔、ここで太宰治の『佳日』の映画化で、ロケ地として使われたそうですが、何か詳しい話をご存じないでしょうか。』と尋ねると、詳しい話は分からないと言われました。残念ですね。

 アイスコーヒーとキャラメルパンケーキで約2000円…。
『佳日』は心温まる話で終わりましたが、私の懐は寒くなる、そんな日でした。
 







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by dazaiosamuh | 2014-10-10 18:30 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治が目黒雅叙園に来たことがあることを知る者は少ない。
 昭和18年(1943)4月29日、友人の塩月赳の結婚式が、目黒雅叙園で行われた。この時に身内代わりとなって、結納を届けたり式の打ち合わせに行ったりなど、仲人役を務めたのが、太宰治であった。

 JR目黒駅の西口を出ると、権之助坂と行人坂という2つの坂道があり、行人坂の方を下りきると、広大な雅叙園が見えてくる。
 結婚式場としてだけではなく、有名な百段階段の見学やランチを楽しむために来店するお客さんも多い。それでも結婚式場という先入観があり、私は入る時に少しまごついてしまった。
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佳日』は、太宰が友人・塩月の身内代わりとなって結婚の準備をした時の体験を元に書かれた。主人公が友人・大隅忠太郎から結婚式の世話を頼まれるのだが、初めてのこともあって、失敗ばかりを繰り返してしまう。そんな主人公のとまどいや、そこに関わる人々の触れ合いがユーモアに暖かく描かれた作品だ。

 主人公は大隅君の結婚相手の家に辿り着くも、まるでひとり相撲のような失態を見せてしまう。
大隅君には、他に友人も無いようだ。私が結納を、おとどけしなければなるまい。その前日、新宿の百貨店へ行って結納のおきまりの品々一式を買い求め、帰りに本屋へ立寄って礼法全書を覗いて、結納の礼式、口上などを調べて、さて、当日は袴をはき、紋付羽織と白足袋は風呂敷に包んで持って家を出た。小坂家の玄関に於いて颯っと羽織を着換え、紺足袋をすらりと脱ぎ捨て白足袋をきちんと履いて水際立ったお使者振りを示そうという魂胆であったが、これは完全に失敗した。(中略)「いや。ちょっと。」私はわけのわからぬ言葉を発して、携帯の風呂敷包を下駄箱の上に置き、素早くほどいて紋付羽織を取出し、着て来た黒い羽織と着換えたところまでは、まずまず大過なかったのであるが、それからが、いけなかった。立ったまま、紺足袋を脱いで、白足袋にはき換えようとしたのだが、足が汗ばんでいるので、するりとはいらぬ。うむ、とりきんで足袋を引っぱったら、私はからだの重心を失い、醜くよろめいた。「あ。これは。」と私はやはり意味のわからぬ事を言い、卑屈に笑って、式台の端に腰をおろし、大あぐらの形になって、撫でたり引っぱったり、さまざまに白足袋をなだめさすり、少しずつ少しずつ足にかぶせて、額ににじみ出る汗をハンケチで拭いてはまたも無言で足袋にとりかかり、周囲が真暗な気持で、いまはもうやけくそになり、いっそ素足で式台に上がりこみ、大声上げて笑おうかとさえ思った。けれども、私の傍には厳然と、いささかも威儀を崩さず小坂氏が控えているのだ。五分、十分、私は足袋と悪戦苦闘を続けた。やっと両方履き了えた。
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 雅叙園は平成25年に創業85周年を迎えた。その独特の装飾美から「昭和の竜宮城」と呼ばれ、親しまれてきた。雅叙園に入った私も、思わず足を止めて見入ってしまいました。
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 上の写真を見て、何だか分かるでしょうか。実は男子トイレです。入った瞬間、間違えたかと思ってしまいました。『佳日』の主人公のように、「いや。ちょっと。」と私も意味の分からぬ言葉を発してしまった。トイレの中に橋が架かっているなど、考えたこともありませんでした。写真の橋を渡ったすぐ先に、見えにくいですが、小便器があり、すぐ右に個室があります。

『佳日』の主人公は、果たして無事に結婚式当日をむかえることはできるのでしょうか。
 次回に続きます。









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by dazaiosamuh | 2014-10-06 12:12 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)