遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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選ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり

 ヴェルレエヌの詩から用いられたこの言葉は、太宰の処女創作集『晩年』の中にある短編『』に書かれている。『葉』は『晩年』の巻頭を飾った作品である。作品としては、第4作品目にあたる。ページを開いて、まず飛び込んでくるこのヴェルレエヌの詩は、太宰ファンのみならず、初めて本を手にした人に強い印象を与える。

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
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 この『葉』の作品の中で、東京で有名な日本橋が登場する。高速道路の下に位置しているこの日本橋は、私が来た時は青空が広がっていたが、それでも、やはり薄暗かった。
むかしの日本橋は、長さが三十七間四尺五寸あったのであるが、いまは廿七間しかない。それだけ川幅がせまくなったものと思わねばいけない。このように昔は、川と言わず人間と言わず、いまよりははるかに大きかったのである。
 この橋は、おおむかしの慶長七年に始めて架けられて、そののち十たびばかり作り変えられ、今のは明治四十四年に落成したものである。大正十二年の震災のときは、橋のらんかんに飾られてある青銅の竜の翼が、焔に包まれてまっかに焼けた。

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 紋章を抱く獅子の像、翼を持つ麒麟の像、それぞれが、まるで橋の番人のようであった。下手な観光スポットよりも、随分見応えがある、そう思った。

ことし、十二月下旬の或る霧のふかい夜に、この橋のたもとで異人の女の子がたくさんの乞食の群からひとり離れて佇んでいた。花を売っていたのは此の女の子である。三日ほどまえから、黄昏どきになると一束の花を持ってここへ電車でやって来て、東京市の丸い紋章にじゃれついている青銅の唐獅子の下で、三四時間ぐらい黙って立っているのである。日本のひとは、おちぶれた異人を見ると、きっと白系の露西亜人にきめてしまう憎い習性を持っている。。(中略)しかし、誰かひとりが考える。なぜ、日本橋をえらぶのか。こんな、人通りのすくないほの暗い橋のうえで、花を売ろうなどというのは、よくないことなのに、……なぜ?
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 この日本橋で異人の少女が花を売る場面で、太宰は、「なぜ、日本橋を選ぶのか。よくないことなのに、……なぜ?」と読者に問いかけている。それは即ち、なぜ太宰は作品の舞台にわざわざ日本橋を選んだのか、ということである。
 この問いに対し、太宰研究に半生を捧げた長篠康一郎が『太宰治文学アルバム 女性編』に、『いくつかの解釈が可能となるが、そのひとつは、日本橋の橋の長さに就いてである。この花売娘の話は、べつに日本橋を舞台とせずとも成立する物語であるから、その長さを問題として考えれば、「三十七間四尺五寸」とは、三七四五(ミナシゴ)とも読みとれるし、「二十七間」とあるは(フナ=鮒)の意に解することもできよう。(中略)三七四五(孤児)、二七(鮒)とは、『漁服記』の主人公スワが小鮒に変死したごとくに、心中事件後の急激な境遇の変化と、当時の心情を仮託したところの、自己の運命の象徴と見られぬこともない。(中略)昔も今も日本橋は、「人通りのすくないほの暗い橋」ではなかったわけで、物語の舞台に日本橋をえらんだ作者の意図は、他に理由ありとみて、さしつかえないであろう。』と推測を述べている。

 太宰が計算して日本橋を舞台に選んだのか、自身の体験が無意識にそうさせたのかは分からない。もしかしたら、どちらでもなく、私が麒麟と獅子の像を見て、見応えがあると、思ったように太宰もただ気に入っただけだったのかもしれない。

生活。

 よい仕事をしたあとで 一杯のお茶をすする お茶のあぶくに きれいな私の顔が いくつもいくつも うつっているのさ どうにか、なる。


 私は、ヴェルレエヌの詩から用いられた『選ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり』よりも、『葉』の最後に書かれた、上記の詩が好きである。太宰らしさが滲んでいるように見える。

 どうにか、なる。
 私も、人生そう思いながら生きて行こうと思った。









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by dazaiosamuh | 2014-09-29 01:09 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治が芥川龍之介を敬愛していたことは、太宰ファンなら誰でもご存知のはず。しかし、それ以外にも、やはり有名作家の小説は大変な馴染みであった。
 太宰の生家には沢山の本があり、太宰も自身の作品の中で、「読み散らした」などと言っている。
 また、『人間失格』の中で夏目漱石の『吾輩は猫である』を人に差し出す場面もある。

また、或る秋の夜、自分が寝ながら本を読んでいると、アネサが鳥のように素早く部屋へはいって来て、いきなり自分の掛蒲団の上に倒れて泣き、
「葉ちゃんが、あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、一緒に出てしまったほうがいいのだわ。助けてね。助けて」
 などと、はげしい事を口走っては、また泣くのでした。けれども、自分には、女から、こんな態度を見せつけられるのは、これが最初ではありませんでしたので、アネサの過激な言葉にも、さして驚かず、かえってその陳腐、無内容に興が覚めた心地で、そっと蒲団から脱け出し、机の上の柿をむいて、その一きれをアネサに手渡してやりました。すると、アネサは、しゃくり上げながらその柿を食べ、
「何か面白い本が無い?貸してよ」
 と言いました。
 自分は漱石の「吾輩は猫である」という本を、本棚から選んであげました。
「ごちそうさま」
 アネサは、恥ずかしそうに笑って部屋から出て行きましたが、このアネサに限らず、いったい女は、どんな気持で生きているのかを考える事は、自分にとって、蚯蚓の思いをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、薄気味の悪いものに感ぜられていました。

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 夏目漱石は、副都心線雑司ヶ谷駅から徒歩10分ほどの場所にある雑司ヶ谷霊園に眠っている。
 日本に生まれて知らない人は殆どいないはず、有名人である、もしや看板に漱石のお墓の位置が書かれているのではないかと思い、霊園の全体図が書かれた看板を見ると、やはり、漱石のお墓が印されていた。
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 発見するのに、殆ど時間を費やさなかった理由のもう一つに、写真を見て分かる通り、立派なお墓であることは、一目瞭然である。お墓に向かう途中で、あれが漱石の墓に違いないと、すぐに気づいた。
 太宰はなぜ、『人間失格』の中で、アネサに『吾輩は猫である』を差し出したのだろう。敬愛する芥川龍之介の作品でも良かったはず。やはり、猫の視点から風刺的に描かれた内容、ユーモアのある文体などから、泣きじゃくるアネサを元気づけるために書いたのか、それとも、読者に分かりやすくするため、誰でも知っている理由から、読者への配慮として『吾輩は猫である』を選んだのでしょうか。

 夏目漱石は、1867年(慶応3年1月5日)に江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生まれた。帝国大学英文科を卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第5高等学校教授などを務めたあと、英国に留学した。帰国後、東大で教鞭をとりながら、『吾輩は猫である』を発表し、評判になり、その後も『坊っちゃん』、『草枕』などを発表。後に新聞社に入社し、創作に専念するが、晩年は胃潰瘍に悩まされ、『明暗』の執筆中に悪化し永眠。1916年(大正5年)12月9日没。

 太宰は1909年生まれなので、7歳の時に亡くなっています。幼少の頃は、読みやすい『坊っちゃん』、『こころ』などを読んでいたのではないでしょうか。
 漱石は50歳という若さで亡くなっていますが、もったいないですね。もっと長く生きていれば、他にも良い作品を世に生み出していたはずです。

 気が向いたら、また漱石の作品を読み直してみたいと思います。












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by dazaiosamuh | 2014-09-25 21:38 | 太宰治 | Comments(0)
 新宿3丁目にある、『新宿武蔵野館』は1920年6月30日に誕生した。映画好きの人間なら一度は利用したことがあるかもしれない。昔からデートコースの一つとして、この映画館を利用し、若い頃の青春の思い出の場所としてしみじみ思う人も多くいるだろう。
 そして、太田静子も、その1人であった。
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 昭和16年4月、離婚したばかりで、娘・満里子の死の悲しみも抱えていた太田静子は、書店でたまたま目についた太宰治の『虚構の彷徨・ダスゲマイネ』という小説集を見つけ、開いてみると、「道化の華」という小説があり、その中の一句「僕はこの手もて、園を水にしづめた。」という言葉が、静子の胸を刺した。
 自分と同じように、愛する人の死の罪悪に苦しめられている人がいる、そう思った。静子は太宰に手紙を書いた。告白の文章を書いております、ご指導して下さいと。
 太宰からは、才能はおありになると思いますが、お体があまり丈夫でないようですから、小説は無理かもしれません、お気が向いたら、どうぞ遊びにいらして下さい、というような内容の返事が返って来た。
 それから数カ月後、静子は友人2人を連れて、三鷹の太宰宅を訪れた。太宰はこの時、太田静子の文章をよく分かると言い、ボートレールの散文詩に似た味があると言った。そして、娘・満里子のことでも、またほかのどんなことでも、日記に書いておきなさい、楽な気持ちで、飾らず、素直に、と言った。

 そしてある日、突然太宰から「ニジ トウキョウエキ ダザイ」と電報がきた。

待ち合わせ場所の東京駅の花店の前で二重廻しのマントを着て立っている太宰はどこかフランス俳優のようにみえた。自宅であった時のお侍さんという感じはすっかり消えていたという。その朝ベッドでたまたま聴いていたシューマンの『クライスレリアナ』の曲にぴったりの柔らかな紳士に思われたというのである。
 その日は、新宿の武蔵野館でシモーヌ・シモン主演のフランス映画『乙女の湖』を一緒に観た。二十代の頃に、母と京橋の国立近代美術館フィルムセンターでこの戦前の映画を見たことがあった。ベビー・フェイスのシモーヌ・シモンは、母に似ていると思った。その時母は映画を観ながら泣いていた。何回も観たことのあるそれはなつかしい映画なのだといった。
』(太田治子『明るい方へ』
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 上の写真が現在の新宿武蔵野館です。当初は、別の場所にあったが、1928年12月14日に現在の新宿3丁目に移転した。太宰治と太田静子が映画『乙女の湖』を観たのは昭和16年(1941年)になのるので、改装、拡張工事で現在は当時のビルとは違うと思いますが、場所は2人が訪れた時と同じになります。ここで2人は寄り添い合いながら映画を観たのですね。

 映画を観終わったあと、喫茶店で太宰は、『あなたは今日から、ひとりじゃない。僕の命をあずけます。だから責任が重くなるんだよ』と言った。

それにしても初めてのデートの時にいきなりこのようなことをいいだす男性は、余程キザだと思う。しかも太宰には、妻子がいた。あなたの方の責任はどうなのですかと問いかけたくなるのである。これも芸術の中のひと齣(こま)と彼は思っていたのだろうか。
 母はその言葉をすべて真っ直ぐに受け止めてしまった。こうした彼女の純真さを思うと、猛然と太宰の悪口をいいたくなるのだった。
 太宰治は太田静子を花店の前で、一時間以上も待っていた。薄紫の名前の知らない花をみつめながら、はたしてちゃんとくるのだろうかと泣きたい気持だったと母に話した。やはり憎めない男性のように思われてくるのである。
』(太田治子『明るい方へ』
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 太田静子の娘・太田治子は複雑な気持ちだったはず。妻子のある身でありながら、自分の母を誘いだし、キザなセリフで自分に惚れさせ、日記を手に入れるために、1度、身体の関係になり、そうして自分が生まれたのだ。
 当時は当然携帯電話などない。手紙、はがき、電報で連絡を取り合うしかない。そんななか妻子がいて、他の女性と連絡を取り合い、落ち合うとなると、美知子夫人が気づかないはずはない。
 自宅に届いた手紙等、ひやひやしながら読み、どんな理由をつけて外へと出掛けて行ったのか、気になってしまう。「外で飲んでくる」「編集者たちと会ってくる」などでしょうか。

 ちなみに、シモーヌ・シモンの『乙女の湖』ですが、どんな映画か観てみようと思ったのですが、レンタル店になく、DVDは販売しているようですが、中々発見することができないため、まだ観ていません。
 DVDを手に入れて、観たら、またその時改めて記事にしたいと思います。








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by dazaiosamuh | 2014-09-21 16:02 | 太宰治 | Comments(0)
そのとしの秋に、女が田舎からやって来た。私が呼んだのである。Hである。Hとは、私が高等学校へはいったとしの初秋に知り合って、それから三年間あそんだ。無心の芸妓である。私は、この女の為に、本所区東駒形に一室を借りてやった。大工さんの二階である。肉体的の関係は、そのとき迄いちども無かった。』(東京八景
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 昭和5年10月1日、太宰は小舘保、葛西信造とともに、赤羽駅で芸妓こと小山初代を迎えた。その日は、夜明けまでともに街中で過ごし、深夜、小舘保、葛西信造の借家に初代を連れて行き匿った。その2、3日後に、本所区東駒形の大工の2階に一室を見つけて移らせたという。
 初代の失踪を知った「玉家」の女将野沢たまは、直ぐに東京の知人に連絡し、初代の乗った列車を上野駅で待ち受けさせたが、発見することはできなかった。
 それもそのはず、太宰達は、玉家が気づき、上野駅で待ち受けさせるだろうと、事前に読んでいた。そのため、初代に一つ手前の赤羽駅で下車するように便りで指示していたのだ。
 しかし、幾日かして、津島文治は玉家の野沢謙三に電話し、寺町の豊田太左衛門方で対談し、文治の依頼により野沢謙三は上京した。そして、太宰こと修治、初代と会って話をし、その内容を文治に報告した。
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 写真は、現在の赤羽駅のロータリーです。太宰が初代を迎えた当時とは全く違う景色になっています。面影は少しもないようです。
 文治が上京し、11月9日(10月15日頃との説もある)、戸塚の下宿で会談した。
故郷から、長兄がその女の事でやって来た。七年前に父を喪った兄弟は、戸塚の下宿の、あの薄暗い部屋で相会うた。兄は、急激に変化している弟の兇悪な態度に接して、涙を流した。必ず夫婦にしていただく条件で、私は兄に女を手渡す事にした。手渡す驕慢の弟より、受け取る兄のほうが、数層倍苦しかったに違いない。(中略)ただいま無事に家に着きました、という事務的な堅い口調の手紙が一通来たきりで、その後は、女から、何の便りもなかった。女は、ひどく安心してしまっているらしかった。私には、それが不平であった。こちらが、すべての肉親を仰天させ、母には地獄の苦しみを嘗めさせて迄、戦っているのに、おまえ一人、無智な自身でぐったりしているのは、みっとも無い事である、と思った。毎日でも私に手紙を寄こすべきである、と思った。私を、もっともっと好いてくれてもいい、と思った。けれども女は、手紙を書きたがらないひとであった。私は絶望した。』(東京八景

 会談の末、文治は生家からの分家除籍を条件として、初代との結婚を承諾した。
 そして、分家に際して、財産分与ではなく、大学卒業まで毎月120円の生活費を仕送りすると決め、仮証文の「覚書」に署名させ、初代落籍のため、文治は初代を連れて帰郷したのであった。

 太宰は『東京八景』にあるように、初代に不満があったのかもしれない。文治と交わされた金銭的な条件にも不満、不安があったはず。
 太宰は、同年11月末に、銀座裏のバー、『ホリウッド』の田辺あつみと鎌倉腰越町小動崎の東側突端の畳岩の上で、二人でカルモチン嚥下することになる。

 太宰は初代を赤羽駅で迎えてから僅か2ヶ月後に田辺あつみと心中している。どういう経緯で出会ってすぐの女性と心中することになってしまうのか、不可解な疑問のシコリが残ってしまう。田辺あつみとの心中は、後ほど書いていきます。

 私は赤羽駅の写真を撮るために来たのだが、折角なので腹ごしらえをすることにした。駅中に手頃なうどん屋さんがあったので入り、目にとまった「黒豚うどん」を注文した。
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 葱がこんもり乗られており、豚肉が写真ではあまりはっきり見えません。葱をかき分けて豚肉に辿り着くと、思っていた以上に少なかった。それでも、太宰がいた当時よりは贅沢な食べ物だと、自分に言い聞かせながら、それ以外、何の思案もなく黙々と食べ、そそくさと店を後にしました。





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by dazaiosamuh | 2014-09-16 07:39 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治は昭和5年の4月、青森から上京し東京都本郷区台町1番地小山とめ方に止宿した。そして、同月17日、東京帝国大学で新学年を迎える。
 本郷区台町1番地小山とめ方は、すでに記事として載せているので興味があったら見てもらいたい。
 
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 昭和5年4月下旬、太宰は三兄圭治の住居に近い、淀橋区戸塚町諏訪250番地の学生下宿、常盤館に移った。この常盤館のある場所は、高田馬場駅から徒歩で数分の場所であった。私は高田馬場に来るのは初めてです。太宰の史跡巡りのおかげで見聞も少しずつ広がると思うと、太宰には感謝の気持ちでいっぱいです。

 さて、この当時の太宰を知る人物はというと、大高勝次郎がいた。大高は太宰と弘前高校、帝国大学時代を共に過ごした人物で、太宰の下宿にも何度も出入りしたことがある。
学期が始まると、津島は戸塚町の常盤館という下宿屋に移った。それはまだ新しい大きな建物で下宿賃も高いだろうと思われた。津島の部屋は一番奥まった、離れのような広い部屋であった。金木や青森や弘前以来の友だちが時には十人以上も集まって騒いでいた。津島はその中で若い公子のように振舞っていた。』(太宰治の思い出
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 上の写真の少し先の付近が、当時常盤館があったとされる淀橋区戸塚町諏訪250番地。現在の住所だと、新宿区高田馬場1丁目になります。すぐ右には戸塚第二小学校、戸塚第二幼稚園があります。
 太宰の下宿先は後に、左翼活動のアジトとして使われるようになってしまう。常盤館に移転してから間もなく、弘前高校出身の先輩、工藤永蔵が訪問し、太宰を共産党に入るように勧めてきた。さらに、マルクス、レーニン主義も太宰に勧めたともされている。
 そして同年5月には武装メーデー事件が発生。「第二無産者新聞」第二十一号では、日本共産党の指導に係る「武装蜂起」に基づくメーデー当日の東京、京浜地方の状況を述べた。
 太宰は後年に書いた、『人間失格』の中で『それから、れいの運動の用事が、とても遊び半分の気持では出来ないくらい、はげしく、いそがしくなって来た事でした。中央地区と言ったか、何地区と言ったか、とにかく本郷、小石川、下谷、神田、あの辺の学校全部の、マルクス学生の行動隊隊長というものに、自分はなっていたのでした。武装蜂起、と聞き、小さいナイフを買い(いま思えば、それは鉛筆をけずるにも足りない、きゃしゃなナイフでした)それを、レンコオトのポケットにいれ、あちこち飛び廻って、所謂「聯絡」をつけるのでした。』と書いている。

 常盤館に居た当時の左翼活動の体験が、後の『人間失格』にも影響しているようすが窺えます。
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アジトとして、津島の部屋をもたびたび利用させて貰った。しかし、私は津島を左翼の組織に加入するようにすすめたことは一度もなかった。津島のような人間が、苦しみに満ちた地下運動に堪えられるとは思われなかったからである。(中略)色々なカンパにも、相応のことをしてくれた。そういう点になると彼の人柄のよさに、今なお頭のさがる思いがするのである。』(太宰治の思い出

 太宰は生来、人の頼みを断れない男であった。それこそ『人間失格』にある『その会合に、いつも欠かさず出席して、皆にお道化のサーヴィス』をして来たのだ。
 そして、『逃げました。逃げて、さすがに、いい気持はせず、死ぬ事にしました。その頃、自分に特別の好意を寄せている女が、三人いました。』とあり、『人間失格』の中では、ツネ子という女と鎌倉で入水自殺をしています。
 しかし、実際には、田辺あつみ(本名・田辺シメ子)と鎌倉の小動崎(こゆるぎがさき)でカルモチン嚥下で女だけ亡くなっています。

 この心中までの流れも、実際の体験が『人間失格』に大きく影響していますね。
 本当は、もっと詳細に書きたかったのですが、あまりにも文が長くなってしまうので、ここまでにしておきます。
 田辺あつみとの鎌倉での心中は、後ほど書きたいと思っています。







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by dazaiosamuh | 2014-09-10 15:00 | 太宰治 | Comments(0)
 新潮社出版部に入った野原一夫はいつにもなく意気込んでいた。
 昭和21年11月15日の朝、三鷹のとある自宅を訪問していた。
しばらく。元気かね。色が黒くなったようだね。』と、野原一夫の顔を覗き込みながら微笑した。
はあ。』と返事をしていると、さらに続けて太宰は言った。
新潮社とは、いいところに入ったね。大いによかった。老舗には、どこかいいところがあるものです。「新潮」の連載は書く。書きたいものがあるんだ。いや、これは、大傑作になる。疑ってはいけない。すごい傑作になるんだ。
 津島美知子夫人がお茶を出し、飲み終えると、長いは失礼と思い、近いうちに新潮社に来てもらうようお願いして、野原は太宰宅をあとにした。

 同年11月20日、太宰は新潮社を訪れ、『傑作を書きます。大傑作を書きます。小説の大体の構想も出来ています。日本の『桜の園』を書くつもりです。没落階級の悲劇です。もう題名は決めてある。『斜陽』。斜めの陽。『斜陽』です。どうです、いい題名でしょう。』と言った。
 そして、「新潮」編輯顧問の河盛好蔵、「新潮」編輯長長斎十一、出版部長の佐藤哲夫、野原一夫などと、神楽坂の焼跡の鰻屋で飲み、新潮社に『斜陽』を書くことを確約した。飲んでいる間中、『傑作を書きます。「斜陽」。いい題名でしょう。日本の「桜の園」を書きます。「桜の園」、あれはいいもんだ。一生に一度あんな作品が書けたらなあ。』と、しきりにくり返して言っていたという。
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 その日の帰り、野原は酩酊に近い太宰を三鷹に送るため飯田橋から電車に乗り込んだ。
その夜、私は太宰さんを三鷹に送った。酩酊、に近いようだった。飯田橋から電車に乗ったその車中、混んでいて、吊革につかまった太宰さんは時々よろけそうになった。いちど、よろけて、となりに立っていた中年の女性にしなだれかかるような恰好になった。度の強い眼鏡をかけたその女性は、いかにも厭らしそうに顔をしかめ、露骨にふりほどこうとした。からだを立て直した太宰さんは、その中年の女性をにらみ、

「だれが!!うぬぼれちゃいけない!」

 吐きすてるように言った。
 以外な感じが、私はした。酔っているとはいえ、そういうけわしい一面が太宰さんにあるとは、私には意外だった。その晩は、太宰さんのお宅に泊めてもらった。
 そして、その日から、私の三鷹通いがはじまった。


 以上の赤文字はすべて、野原一夫の『回想 太宰治』からである。
だれが!!うぬぼれちゃいけない!
 私は太宰のこういったセリフが大好きだ。著者の野原一夫は、「私には意外だった」と書いているが、一読者の私には、むしろ太宰らしいと率直に思った。
 
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 今の時代、電車の中で女性に少し当たっただけで、いや、一切触れてもいないのに、痴漢ですぐさま訴えられてしまうというのに、太宰のこのセリフには、読んだ瞬間、同じ男として誇らしく思った。「よく言った、太宰!」、そう思った。
 太宰がいた当時は、車内で女性が男性を痴漢で訴えるということは、あまり無かったのではないでしょうか。一度痴漢で訴えられてしまうと、無実を証明することは難しい、それどころか、無実の罪を着せられ、それを苦に自殺をする人もいる。ニュースを見ていて非常に心が締め付けられる思いをするのは、私だけではないはず。

 女性にしなだれかかった太宰が悪いのは確かだが、「だれが!!うぬぼれちゃいけない!」というセリフは、ちょっと読んでて気持ちがいいものである。

 私は、このセリフを書きたいがために飯田橋駅まで写真を撮りに行きました。
 なぜかこのセリフを気に入ってしまったのです。いつか使えそうな状況があったら、言ってみたいと思います。






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by dazaiosamuh | 2014-09-05 22:06 | 太宰治 | Comments(0)
 数カ月前の記事で、煙草『ゴールデンバット』を書いた事があったが、その時まで太宰が吸っていた煙草はバットしか見つけることが出来なかった。しかし、関連書籍を読み漁っていると、また一つの銘柄を発見した。ピースだ。
 ゴールデンバットの誕生は1906年。ピースは40年あとの1946年(昭和21年)だ。太宰が亡くなったのは、1948年(38歳)であるから、太宰が吸い始めたのは、早くても亡くなる2年前の36歳からということになる。
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 ピースは、両切りタイプもあり、入り本数やパッケージ等の違いも大きい。風味やニコチン、タールの量もバリエーションがある。本場バージニア葉を主体に国産優良葉をブレンドした国産初の本格的バージニアブレンドタイプでバニラ豆のバニリンのような加香を施して、「ほのかな甘く華やかな香り」と深みのある味わいが特徴とされている。

 太宰がピースを買う描写が書かれているのは、長尾良の『太宰治 その人と』である。
太宰は一軒の閉まっている商家の潜戸を開けて入った。薬屋であったが、店には店番も誰もいなかった。
「煙草、下さーい」
 土間から太宰が奥に向かって喚いた。暫くすると、紬の着物を着た五十がらみの恰幅のよい主人が、煙草を両手にかかえて出て来た。
 決まった日に、行列を作って一人一個ずつしか買えない、自由販売のピースを、主人は黙って太宰に十個渡していた。その中から太宰が三個、私にくれた。
 先に表に出て、代金を払っている太宰の出てくるのを待っていた。煙草で懐をふくらませた太宰が出て来た。
「じゃ帰って来るよ」
 と、言った。
 太宰は、一寸、頷いて、「うん。じゃ、また」と、言った。
 私は、二、三歩駅の方に歩き、太宰も数歩歩いてから、互いにもう一度振りかえった。そして、
「さよなら」
 と、目を見交わして別れた。
 これが太宰との最後であった。
 この時、太宰はまだ、死ぬとも、死のうとも、考えていなかったろう、と思う。


 長尾にとっては、これが太宰と過ごした最後の日であった。最後であったからこそ、太宰がピースを買う姿が強く印象に残った貴重な場面だ。当時、既存のたばこは、10本入り20~60銭であったのに対して、ピースは10本入り7円という破格で、高級煙草に分類されていた。発売当初の人気は非常に高かった。太宰もまた、このピースの「ほのかに甘く華やかな香り」の虜になったのだろう。昭和22年の出来事であったから、発売してから1年程しか経っていない、太宰達にとっては上品な新商品煙草であったのだ。
 
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 発売時のピースは、今でも販売しているピース(10)というフィルターの付いていない両切りタイプの煙草である。「煙草は両切りに限る」と言っていた太宰が気に入るのも納得。

 私も味見をしてみたのですが、バットの時もそうでしたが、普段煙草は吸わないので、味など分かりません。しかも、両切りタイプなので、葉が口に入って吸いにくい。しかし、まずいのはともかく、私にはニコチンが強すぎでした。一瞬でくらっと来ました。パッケージをよく見ると、タール28mg、ニコチン2.3mgと記載されていました。バットと見比べると、バットはタール18mg、ニコチン1.1mgです。タールは10mgも多く、ニコチンは2倍以上じゃないですか。どうりでくらくら目眩がするはずです。ただでさえ、私にとってバットもきついのに……。
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 しょうがなく私は、残りの9本をパイプを付けて吸うことにしました。パイプを付ければ私でも問題なく吸えました。ただ、ニコチン、タールの量は変わらないので、太宰に興味があり、吸ってみたい方は、味見程度に抑えておくことをお勧めします。

 パイプを付けて吸う私を、太宰が空から笑いながら見ている気がします…。







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by dazaiosamuh | 2014-09-02 16:50 | 太宰治 | Comments(2)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)