遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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神経衰弱や胸部疾患の治療のために、たしか長兄の友人関係であった世田谷の経堂病院に移ってからは、ぼくも二回ばかり見舞にいった記憶がある。』(人間太宰治 山岸外史

 昭和10年(1935)4月4日。太宰は原因不明の腹痛に襲われ、阿佐ヶ谷の篠原病院で診察を受けた結果、急性虫様突起炎(現在の急性盲腸炎)と判明し即入院(この篠原病院は2014年5月の記事で書いています)。
 篠原病院で手術を受けたが、この時の手術が原因で腹膜炎を併発し、患部鎮静のためパビナール注射を打つようになる。そして、同月10日ごろ長兄文治の友人で沢田という医師がいる経堂病院に移ることになった。
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 新宿から小田急線で一本、各駅で20分、私は経堂駅の改札を通った。私が訪れたのは、今年3月の雪がほとんど溶けたが、しかし、まだ肌寒い日であった。東京に来て数年の私はもちろんのこと、東京に住んでいる人も、この『経堂駅』は普段あまり聞かない駅ではないでしょうか。
 駅を降りて地図を見ながら進むと、わずか徒歩5,6分の場所にその病院はあった。
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 場所は当時から変わらないようです。写真では分かりにくいですが、なかなか古い建物です。改修工事などはしていると思いますが、たぶん建物も当時から変わっていないのではないでしょうか。太宰治ゆかりの地の貴重な建物だと思います。

 先に紹介した長兄文治の友人である沢田という人が、当時の経堂病院院長でした。太宰家は人脈が広いですね、流石です。
ぼくもそのひとつひとつを明確におぼえてはいないが、この期間に太宰がぼくに宛てたハガキがあるからそれなどでその頃の状況を推察するよりほかないようである。』(人間太宰治 山岸外史
友人の山岸外史は、当時経堂病院に入院していた太宰に手紙を送り、その返事のハガキを受け取っている。

お手紙、いま読んだ。よい友を持ったと思った。生涯の記念になろう。こんなときには、ダラシナイ言葉しか出ないものだねえ。歓喜の念の情態には、知識人も文盲もかわりない。「バンザイ!」これだ。
 君は僕の言葉を信じて呉れるか。文字どおりに信じて呉れ。いいか。「ありがとう。」……


 だらしないというか、少し気障というか、「生涯の記念になろう」とは少し大袈裟である。生来寂しがりやの太宰らしいセリフでもある。
そして、経堂病院に入院中のこの頃から、患部の苦痛を鎮めるために、パピナールの秘密の使用をはじめたらしいが、むろん、ぼくはそれを知らなかった。何カ月もあとになって知ったが、太宰は、その間、初代さんにも堅く口止めしていた。ほとんど誰一人として友人は知らなかったようである。いったい、パピナールの中毒症状というものはモヒそのものよりは軽いのではないかと思うが……』(人間太宰治 山岸外史
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 パビナール中毒は治らなかった。そして上記に書いてある通り、太宰は周りに知られないように、隠れて注射を打つようになっていくのであった。
 太宰は昭和10年の4月10日ごろから6月まで入院し、6月30日に退院している。太宰の『東京八景』にも少し書かれているので、一応載せます。
私は伝染病患者として、世田谷区・経堂の内科病院に移された。Hは、絶えず私の傍らに附いていた。ベエゼしてもならぬと、お医者に言われました、と笑って私に教えた。その病院の院長は、長兄の友人であった。私は特別に大事にされた。広い病室を二つ借りて家財道具全部を持ち込み、病院に移住してしまった。五月、六月、七月、そろそろ藪蚊が出て来て病室に白い蚊帳を吊りはじめたころ、私は院長の指図で、千葉県船橋町に転地した。海岸である。町はずれに、新築の家を借りて住んだ。

 この経堂病院を退院してすぐに、船橋へと転居することになる。太宰の人生のなかでも、波乱な時代、船橋時代へと突入していくことになる。
 順番でいくと、昭和10年4月上旬に阿佐ヶ谷の篠原病院、4月中旬から6月末までが世田谷の経堂病院、そして、7月から翌年昭和11年10月中旬までが、太宰にとって辛くも愛着があった船橋時代になります。

 経堂病院は古いが、地域から信頼され、愛されているからこそ続いているのだと思います。ちなみに、内科、消化器科、循環器科、呼吸器科、泌尿器科を扱っている。
 現在、篠原病院は全く別の建物に変わってしまっているが、経堂病院は今も元気に活躍しているようだ。太宰ゆかりの地の数少ない現存する建物なので、太宰が好きで史跡巡りをしたい方は、こういった建物を優先して見ておいた方がいいかもしれません。
 ただし、病院等は、カメラでパシャパシャ撮っていると病院のスタッフから変な目で見られるので気をつけることを、一言いっておく。




 

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by dazaiosamuh | 2014-08-29 12:19 | 太宰治 | Comments(0)
そのとしの夏に移転した。神田・同朋町。さらに晩秋には、神田・和泉町。その翌年の早春に、淀橋・柏木。なんの語るべき事も無い。朱麟堂と号して俳句に凝ったりしていた。老人である。例の仕事の手助けの為に、二度も留置場に入れられた。留置場から出る度に私は友人達の言いつけに従って、別な土地に移転するのである。何の感激も、また何の憎悪も無かった。それが皆の為に善いならば、そうしましょう、という無気力きわまる態度であった。』(東京八景
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 神田明神を参拝した私は、目的である太宰と妻・初代が住んだ場所へと向かった。場所の住所は、当時、神田区同朋町12番地で、現在の住所だと千代田区外神田2丁目11番地付近になるようだ。神田明神から右に行くと、『男坂』と呼ばれる石段の階段がある。そこを下りて、すぐ左側付近が、当時の神田区同朋町12番地付近だ。上記の通り、自身が東京生活を振り返って書いた、「東京八景」にも一応住んだ町について触れている。
 ちなみに、『男坂』は天保年間に神田の町火消4組が石段と石灯籠を奉献したことからきているらしい。そして眺めがよいことから、毎年1月と7月の26日に観月(夜待ち)がおこなわれたとのこと。また、当時の江戸湾を航行した船の灯台の役割も果たしていたといわれている。
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 上の写真の階段(男坂)を下りたすぐ右手付近が、神田区同朋町12番地だったようです。当たり前ですが現代の建物に変わっていますね。共産党の活動をしていたため、逃げるように住居を転々としていました。昭和6年の6月下旬、工藤永蔵の「安全を保つため」というすすめによって、この同朋町12番地に転居してきたのだ。工藤永蔵によると、『小粋な格子戸の家』だったらしい。さらに、工藤永蔵『太宰治の思い出』には、『郷里のこと、文学のことなど雑談に花を咲かせ、初代さんの手料理で津軽の味をなつかしみ、家庭的な空気に浸ることが出来た。砂漠の中のオアシスのようなものであった』らしい。

 太宰は初代さんの手料理も食べ、平穏に問題なく生活していたように思えたが、同年10月下旬から11月上旬頃、青森の方から足がついて、共産党と青森の組合関係との連絡場所になっていたことを察知され、西神田署に出頭を命じられ、2、3日取調べを受けた。このままでは危険だからと引越しを進められ、神田区和泉町に移転した。しかし、こちらは青森の方の手落ちですぐにバレてしまった。
 その後、工藤永蔵は起訴され、刑務所に送られることになる。太宰は神田区和泉町もすぐに転居することになってしまうのであった。
 この神田区和泉町の住所は、いくら書籍等で探しても見つかりませんでした。ただ『神田区和泉町』としか記載されていないため見つけることは困難です。

 今では面影もなくなっていますが、この場所に太宰が居たのか、ここを太宰が行き来していたのかと思うと、感慨深いものがある。しかし、転居ばかりしていたら執筆にも影響が出るでしょう、初代さんも大変だったと思います。
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 『男坂』を下りてしまいましたが、甘酒を飲むために再び階段を上り、来た道を辿り、鳥居のすぐ横のお店で甘酒を買って飲みました。冷甘酒です。

 それにしても、一仕事終えた後(ただ写真を撮っただけですが)の甘酒は美味いですね。甘酒は作り手によってだいぶ味やとろみが変わると思います。美味しかったですが、やはり自分好みの味に自分で作った方がいいですね。
 





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by dazaiosamuh | 2014-08-24 22:07 | 太宰治 | Comments(0)
 昭和6年6月、太宰(当時23歳)は神田明神の石崖下の家に小山初代と生活を始めた。共産党活動のために、そして、その活動の安全のためにだ。

 同年、1月11日、芸妓紅子こと小山初代の引取り披露宴が、青森市新浜町2町目の料亭玉家で行われた。同月27日、津島文治と津島修治(太宰治)との間に、「小山初代ト結婚同居生活ヲ営ム限リ昭和八年四月其ノ生活費用トシテ毎月壱百弐拾円ヅツ支給スル」との条項を含む覚書が交わされた。さらに、「単独生活ヲ行フトキハ支給生活費ハ月額八拾円也」とし、また、「昭和八年四月限リ年額四百弐拾円ノ割ヲ以ツテ」修治の「生活費用トシテ」文治が「保管シ」、修治の「生活上支出ノ止ムヲ得ザルモノ」と、文治が「認メタルトキハ随時」修治に「支給スル」、というものであった。
 ただし、帝国大学より処罰を受ける、理由なく大学を退く、学業の放棄、刑事上の問題を犯す、操行の乱れ、社会主義運動への関わりなどをしないことを生活費支給の条件として、これに反した時は、「額ヲ減ジ或ハ停止及ビ廃止ヲスル」と記したのであった。

 しかし、太宰は共産党の活動へ参加。のちに出頭することになってしまう。
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 神田明神は、御茶ノ水から徒歩5、6分の場所にある。私はここへ来るのは初めてだ。ビルの建ち並ぶ中、大きな鳥居があった。すぐ脇には甘酒を販売するお店がある。甘酒は帰りに買って飲むとしよう、ひとまず神田明神へと向かった。

 神田明神の歴史は古い。歴史のほんの一部をホームページから紹介させてもらう。
社伝によると、当社は天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。(中略)慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行いました。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、徳川家康より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。(中略)大正12年(1923)、未曽有の関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまいましたが、氏子崇敬者をはじめ東京の人々により、はやくも復興が計画され、昭和9年に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。昭和10年代後半より、日本は第二次世界大戦へと突入し東京は大空襲により一面焼け野原となってしまいました。当社の境内も多くの建造物がほとんど鳥有帰しましたが、耐火構造の社殿のみわずかな損傷のみで戦災を耐えぬきました。
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 徳川家康から認められていたとは知りませんでした。長い年月、人々の祈りがここで捧げられてきたのですね。私もお賽銭を入れ、お祈り(どちらかと言えば我儘なお願いですが)をしました。
 私が訪れた時は中々混んでいました。皆さん、どんな思いで手を合わせていたのでしょうか。少なからず太宰もここへ足を運んだことに違いありません。太宰なら、「日本一の作家になれますように」とかでしょうか。まさか「一生、酒と煙草と女と文筆に困りませんように」、なんて願いは頼んでいないとは思いますが。いや、しかし、ことによると……。

 太宰が妻・小山初代と住んだ神田同朋町の旧居跡は神田明神から右わきに進んだ「男坂」と呼ばれる階段を下りたところにあります。次回の№2で書きたいと思います。







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by dazaiosamuh | 2014-08-21 13:12 | 太宰治 | Comments(0)
ハイキングを終えた一行は、御嶽近くの玉川屋という蕎麦屋に上がった。大正四年に創業した玉川屋は、明治時代の民家を生かした茅葺き屋根の家で、二階の窓からは多摩川の渓流をみおろすことができる。』(青柳瑞穂の生涯

玉川屋』は、青梅線御嶽駅を左手から青梅方面へと向かうと、玉川屋の看板が見え、さらに左手の坂を少し上ると玉川屋に辿り着きます。下の写真の左側の坂を上って行くとすぐに玉川屋があります。
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 玉川屋は、大正4年創業、茅葺屋根で思わず一息つきたくなるような純和風の造り。太宰を含めた阿佐ヶ谷会一行は、この玉川屋の暖簾をくぐったのだ。以下、赤文字は全て『青柳瑞穂の生涯』より引用。
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 私が暖簾をくぐった時は、開店時間を少し過ぎたぐらいであったためお客は年配の男女の一組だけであった。店内は畳の部屋で、ゆったりとしている。
将棋盤が一台あったので、まず勝ち抜き戦で一局ずつやったあと、飲食した。「酒のサカナは、ふきのつくだにと、鯉のあらいであった。なんだか、妙なとりあわせであったが、一同たらふく飲んで、いまは太平洋戦に報道班員として徴用されて、不在の、井伏鱒二、小田嶽夫、中村地平の、三会員に寄せ書きをしたためて、何だか物足りない思いの遠足の感想を、こっちからも報道したのである」

 将棋盤は一台も置いてはいなかった(たとえ置いてあっても相手がいないが)。
 当時書いた寄せ書きは、今でも玉川屋の店内に掛けてある。もちろん直筆だ。ただ、一応、店員の女性に「この太宰の寄せ書きは直筆なのですよね?」と聞くと、「はあ、そうです…」と別段興味なさそうな返事であった。どこに行ってもそうだが、太宰に興奮する私と、別段、太宰に興味のない店員さん達との温度差は相当離れているようだ。
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 上の写真が太宰が書いた寄せ書きです。
太宰一人が「川沿ひの路をのぼれば赤き橋 またゆきゆけば人の家可奈」と気取っている。
 
 うっとりしながら、「ああ、直筆だ。これが太宰が書いた直筆の寄せ書きなのか」と、じーっと眺めていると、店員さんがお蕎麦を運んできた。
 私が頼んだのは鴨汁蕎麦で、しかも、大盛りだ。鴨汁蕎麦は千百円、大盛りはプラス二百円の合計千三百円でした。
 3月に来たため外はまだ肌寒い。しかし、その肌寒さもあり、より一層食欲が湧くというものだ。
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 上の写真が鴨汁蕎麦です。写真を見ているだけで、よだれが出てしまうのは、言わなくともわかる。(ちなみに鴨汁そばを食べるのはこの時が初です)阿佐ヶ谷会の一人、木山は8杯も蕎麦を平らげたらしいのですが、腹が空いていても蕎麦を8杯も食べる気は、流石に起こりませんね。
ところで太宰は、食べ物に関心がないどころか、井伏や浅見淵と三宅島に合宿に行ったとき、朝食の味噌汁を毎日六杯ずつ飲んだという逸話の持ち主だった。
 味噌汁6杯は飽きるでしょう。食べ物に関心がある、ない、ではなく美味しい食べ物はただ何杯も飽きずに食べただけであって、実際、太宰は食べ物に関心など無かったと思います。

 阿佐ヶ谷会一行は、夜9時ごろまで居たようです。
三時から九時までしたたかに飲んで、九時二十六分の御嶽発の電車に乗った。上林によれば、車内で、太宰は弁当に持ってきたにぎり飯を食べていた。木山は、車内で岩波文庫を読んでいる太宰をみたと書いている…
 この当時、太宰は三鷹に家を持ち、美知子夫人と暮らしている。おにぎりは美知子夫人のお手製だと思われます。太宰の心身共に安定した時期だったのではないでしょうか。
 御嶽からの太宰たちの寄せ書きは、マレー攻略後シンガポール入りした井伏のもとに無事に届けられました。

 折角、ここまで来ましたが、太宰たちのようにしたたかに飲むこともなく(それどころか一滴も飲まず)、御嶽から電車に乗って帰りました。

 玉川屋は大正4年の老舗。太宰が実際に訪れたゆかりの場所でもあり、直筆の寄せ書きも残っています。ここからの多摩川の景色は見応え十分、多摩川沿い散策の後に、もしくは太宰に少しでも興味のある方は是非、寄ってみるのもいいかもしれません。
 これで奥多摩の記事は終りになります。

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by dazaiosamuh | 2014-08-16 22:42 | 太宰治 | Comments(0)
 御嶽小橋の先に太宰一行が記念の写真を撮った『御嶽橋』があります。雨が止んだと思ったらまた降ったり、止んだりの繰り返しです。川岸に近づきたいのですが、雨で岩の上などが非常に滑りやすい状態なので、カメラを落としたくないのと、転んだら危険なので今回は遠慮しました。
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 上の写真は、少し離れたところから撮った御嶽橋と多摩川です。近くで釣りを楽しむ人の姿がありました。3月の多摩川では、どんな魚が釣れるのでしょうね。

 ようやく御嶽橋に辿り着きました。ここで太宰を含めた阿佐ヶ谷会一行は写真を1枚撮っています。
御嶽橋に辿りついて、橋の上でまた写真を撮った。橋のむかうに渡ってみたかったけれど、たうとう渡れなかつた。橋のむこうに、心が残った。』(阿佐ヶ谷会文学アルバム
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御嶽橋に着き、吊り橋の上でまた写真を撮った。浜野はレンズから目をそらして下を向き、太宰は逆に難しそうな顔をして斜め上を見あげている。』(青柳瑞穂の生涯

 上が、太宰、瑞穂、上林、浜野の4人が写真に載っている御嶽橋です。
 この時の写真も、書籍やネットで見ることができます。やはり当時とは橋も変わっていると思います。二車線の立派な橋になっていますね、それにしても、なぜ『たうとう渡れなかった。』のでしょうか。改装中かなにかだったのでしょうか。橋の向こう側は、特に何か目新しいお店があるわけでもなかったため、私はすぐに引き返しました。
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 橋の目の前が、『御嶽駅』です。小さな駅ですが、しかし、駅名の看板などは筆で書かれた立派な造りでした。この駅には、訪れた人のために『御嶽みどころMAP』が置かれてあり、自由にお持ち帰りできます。駅に着くと、ハイキングをしにきた年配の男女のグループや、親子連れもあり、親しまれていることがよく分かります。

 この御嶽での多摩川は、自然をまんべんなく楽しむことができます。春になれば『鵜の瀬橋』の近くの遊歩道には見事な桜が、秋には沢山のどんぐりが拾え、新緑、紅葉もスケッチブックを広げて描きたくなるような景色が広がります。川では、カヌー、カヤック、ラフティング、もしくは鮎や山女魚などの渓流釣りを満喫。鷺、鴨、川セミ、山セミなどのバードウオッチングもGOOD。夏には子供たちが水遊びをする光景も。

 人混みだらけの都心とは全く違って、癒されることは間違いないですね。自然を満喫したいけれど、中々遠出できない方、東京を都心しか知らない方にはいいかもしれませんね。

 次回は、いよいよ太宰一行が食べた蕎麦屋『玉川屋』に行きます。
 奥多摩の記事は次で最後になります。



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by dazaiosamuh | 2014-08-13 20:53 | 太宰治 | Comments(0)
 楓橋から御嶽橋までは、大人の足で、景色などを眺めがらなども含めると20分~30分ほどだと思います。楓橋の次は、『の瀬橋』という橋がありますが、私が訪れた時は、反対側の遊歩道は通行止めになっていましたので、この鵜の瀬橋も渡ることはできませんでした。
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 残念ですね。無理矢理渡ろうかなとも考えましたが、やはり事故が起きたらつまらないので遠慮しました。
 この鵜の瀬橋は、その名の通り近くに鵜などの水鳥が沢山いるために付けられた名前のようです。特に鵜の瀬橋に近い、勝仙閣(旅館です)付近に多く見られるようです。鷺、鴨などの水鳥の宝庫。
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 途中、阿佐ヶ谷会一行は河原の岩の上で一枚、写真を撮ります。
途中、河原の、五、六メートルはあろうかという岩の上に並んで座り、周囲の山を背景に写真を撮った。正面を向いているのは瑞穂と安成と上林だけで、浜野は空を見上げ、木山はそっぽを向き、太宰は身をかがめて何かをのぞきこむような姿勢をとっている。その後、一同は河原に座って、林の持ってきた海苔巻を食べた。』(青柳瑞穂の生涯

河原の岩の上に並んだところを、安成さんが写真に撮つた。それから河原に坐つて、林君の持つて来た海苔巻を食べた。太宰君は、玉川屋の蕎麦や酒のことを知らないで、寒山寺で今日の遠足は終りかと思つてゐたといつたので、皆が笑つた。』(阿佐ヶ谷会文学アルバム

 多分、それぞれが何かしらポーズをとっての視線だったのでしょうね。海苔巻の具は何だったのでしょうか、岩の上で景色を眺めながら食べたら格別でしょうね。天気は曇り又は雨でしたが、川の流れは穏やかでした。この多摩川では、鮎や山女魚などの渓流釣りが楽しめます。寒山寺で遠足が終わりだと思っていたとは、太宰らしいですね。むしろそれだけだと思っていたのによく遠足に参加したと思います。そういう部分が、太宰の愛嬌というのか、お茶目な一面だと思います。
 太宰一行が座って写真を撮った岩を探したのですが、私は見つけることができませんでした。見落としたのでしょうか。それとも、数十年のうちに、川の流れで、もしくは整備等で変わったのか。
 
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 さらに進んでいくとまた橋があり、近くでラフティングをしているグループがありました。私も一度だけラフティングをしたことがありますが、思っていた以上にスリルがあった記憶があります。しかし、3月のラフティングは寒くないのでしょうか。
 橋に到着すると、太宰一行が写真を撮った『御嶽橋』は思いのほか弱々しく華奢な橋だな、と思いよく見ると、『御嶽小橋』でした。紛らわしい。写真では見にくいですが、御嶽小橋です。御嶽橋はもう一つ先でした。

 御嶽橋、御嶽駅までもう少しです。御嶽遠足はまだ続きます。



 

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by dazaiosamuh | 2014-08-10 21:08 | 太宰治 | Comments(0)
 寒山寺を後にし、すぐ横の遊歩道を歩こうと思ったのですが、台風の影響で木が倒れ、道をふさいでいるため通行止めとなっていた(私がここに来たのは今年3月なのですが、いつの台風なのか覚えてません)。
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 注意書きには、日付が2014年1月16日と記載されていますね、いつの台風の影響でしょうか。一応、通行止めとなっている場所まで歩いたのですが、やはり、危険だっため引き返しました。現在も通れるのか分かりません。
 しかし、阿佐ヶ谷会一行は楓橋を戻った川沿いを歩いた、と書かれているため、同じルートを散策するのであれば通行止めでなくとも、結局同じことであった。
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楓橋を戻って、川沿いに岩角づたいの路をたどって歩く。神経痛持ちで膝にマントをかけているという木山は遅れがちだったが、太宰はいつも先頭に立って歩き、とても徴用検査でペケをくった男とは思えなかったと木山は書いている。』(青柳瑞穂の生涯

 たしか太宰の妻の美知子夫人は、太宰のことを、自然や風景に関心のない人だったと書いていたはず。ゆったりと流れる多摩川にもあまり関心がなかったのでしょうか。ずんずんと歩いて行く太宰の姿が、想像できる気がする。私は3月に来たのですが、桜はまだ咲き始めたばかりのようでした。
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阿佐ヶ谷会文学アルバム』の方が詳しく書いているので、こちらも載せておきます。
楓橋を戻つて、川沿ひに、岩角伝ひの路を辿つて行つた。路傍の梅の蕾はまだ硬かつた。屋根に千木をのせ、階下が物置で、二階が住居になつた百姓家などを見ながら行く。いづれも陽がいつぱいで、襤褸など干してある。小さな空家の戸が閉ざされてゐるのを見ると、皆が立ち停まつた。こんなところで住んでみたいと言ひあつた。行く手の谷合ひの奥に、雪のかかつた御嶽の姿が見えた。

 たしかにこんな長閑な土地に住んでみたいものだ。『いづれも陽がいつぱいで』と書かれていますね、ということは阿佐ヶ谷会一行が訪れた時の天気は、きっと快晴だったのでしょうね。そういえば、いつの間にか雨は止んでいました。『襤褸など干してある』とありますが、流石に襤褸(ぼろ)など干してある民家はありませんでした。

 天気の良い日にまた来てみたいですね。まだ多摩川沿いの散策は続きます。




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by dazaiosamuh | 2014-08-07 16:06 | 太宰治 | Comments(0)
 楓橋を渡ると、寒山寺に通じる階段と梵鐘がすぐに目に入る。早速梵鐘のそばに行き、鐘を撞いてみたのですが、少し緊張し、力が弱かったため、小さく、ゴンっと鳴っただけでした。それでも思わず、周りをキョロキョロ見ては、一人で首をすくめ、顔を赤くする自分が居た。
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青柳瑞穂の生涯』には、『橋の向こうには寒山寺の鐘撞き堂があり、早速誰かがひとつ撞いた。みると、「乱打してはいけない」と注意書きがある。この梵鐘は、その後戦争で供出されてしまった。』と書かれています。
 ということは、この鐘は太宰たちが訪れた当時の鐘ではない、ということなのでしょうか。この鐘を誰が撞いたのかは記載がなかったため不明です。ちなみに、私が来た時は『乱打してはいけない』などとは書かれていませんでした。かと言って、乱打する気など毛頭ないが。

 すぐ脇の階段を上がると寒山寺なのだが、寒山寺前の階段は非常に急斜面であった。転げ落ちたらひとたまりもない、踊り場の横はすぐ崖で、多摩川である。恐る恐る階段を上ると、何とも趣のあるお寺・寒山寺がひっそりと建っていた。
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阿佐ヶ谷会文学アルバム』より。
寒山寺は、山蔭で寒く、なんの味もない新しいお堂だつたが、場所は絶佳、建立者が支那から持つて来た仏像が、本尊に祭つてあるといふ。断崖の木の間を透かして、川の流れと、河原に残つた雪が見え、その雪が白い瀬のやうで、いづれが川だか見粉ふ気持だった。
 当時からしたら『なんの味もない新しいお堂だつた』かもしれないが、今では、その少し古びた味わい、というのか、山の中腹に良く溶け込んでいるような気もする。階段、手摺の古びた様子や人があまり訪れない様も、どことなく寂しくも、それがまた風情があってよい。
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 お寺に入りると、パンフレットが置かれていた。自由に持っていっていいみたいで、持ち帰り読んでみると、寒山寺の由緒が書かれていたので、ほんの少しだけ載せたいと思います。
この寺の由緒は、明治十八年に遡り、時の書家、田口米舫氏が中国に遊学した折、姑蘇城外の寒山寺を訪れ、主僧の祖信師より、日本寒山寺の建立を願って、釈迦仏木像一体を託されたのに始まります。帰国後、米舫氏は、適地を求めて日本全国を遍歴中、幽すいでありながら交通の便がよく、人心の素朴なこの澤井の地を発見、地主の清酒澤乃井醸造元当主の小澤太平翁の尽力によって、昭和五年落慶しました。
』と記載されていた。
 寒山寺は中国から伝わってきたのですね。そして、来る途中に太宰たちも見た、清酒澤乃井醸造が深く関わっていたとは、このパンフレットを読んで初めて知りました。さらに、梵鐘について『鐘声は、つく人の祈りと煩悩をのせて、多摩川の清流にまにまに流れゆきあとにはひと時の静寂と浄福が訪れ、しばし俗塵を忘れさせてくれます。』と紹介しています。思わず多摩川を眺めながら鐘を撞きたくなりますね。

 興味の湧いた方は、是非、自分の足で訪ねてみてください。
 次回は、多摩川沿い散策の記事を書きます。

 




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by dazaiosamuh | 2014-08-04 18:39 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)