遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 楓橋に到着しましたが、雨で地面が濡れているため、それぞれの手に傘とカメラを持ちながら歩くのは、中々大変であった。しかも、思っていた以上に高さもあり、無意識にカメラを強く握りしめた。
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 上の写真の右上にある建物が、寒山寺です。太宰達も、この楓橋を景色を眺めながら渡り、寒山寺へと向かいました。太宰を含めた阿佐ヶ谷会一行もこの景色を見たのだと思うと、感慨深い気持ちになる。山の方に目をやると、小雨も降っていることもあり、うっすらと靄がかかっていた。人通りもなく静かであった。
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 橋の上からの多摩川です。流れも穏やかで、触れなくても冷たさが伝わってくるようであった。本来は青い空の下をゆっくり散策したかったが、靄のかかる山々を眺めながら歩くのも、そう悪くはない。
阿佐ヶ谷会文学アルバム』では、上林暁が『楓橋と書いた白い橋へ出た。随分高い橋なので、足が縮まりさうであった。橋を渡ると、寒山寺だった。』と書いている。確かに思っていたよりかは高さはある。しかし、足が縮まりそう、というのはいささか誇張のように思われた。本音なのか、作家としての誇張なのか。橋の上から多摩川を真下に見ると、水深は浅いようであった。水深が深く、これが夏であったら、ここから飛び込みたい、と思ってしまうのは私だけであろうか。
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 上は別の角度からの楓橋。こうして見ると、確かに中々の高さだ。向こうまでの距離も遠く感じられる。楓橋というだけあって、秋には沢山の木々が紅葉するのだろう。

 そういえば、上林暁は『足が縮まりさうであった。』と書いているが、太宰は橋などの高い場所はどうだったのでしょうか。高い場所を恐れる描写は見たことがないので、高所は別段なんとも思わなかったのだろうか。

 次回の№4は、楓橋の向こうにある『寒山寺』を書きます。



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by dazaiosamuh | 2014-07-31 17:03 | 太宰治 | Comments(0)
 沢井駅で下車し、親切な女性から道を教えてもらった私は、言われた通りに坂を降りて行った。坂を下りている途中に『青柳瑞穂の生涯』に記載された内容を思い出した。

七人は青梅線の沢井という駅で降りて、多摩川上流の河原づたいに御嶽まで散策した。現在は、この御嶽渓谷の河原沿いの道は遊歩道になっていて、多少上り下りはあるが、ぶらぶら歩いて三十分ほどの行程である。澤乃井という大きな造り酒屋の庭に六尺桶が何本も乾かされているのを横目でみながら坂を下ると、楓橋という白い橋に出る。』(青柳瑞穂の生涯)
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 私も同じように建物を横目で見ながら坂を降り、横断歩道を渡り、ふと建物を見ると『澤乃井』と大きく書かれていました。上の写真の白い綺麗な建物が『澤乃井』です。建て直されているとは思いますが、場所は太宰たちが訪れたときと変わっていないようです。そして、川沿いに目をやると大きな橋が視界に入ってきます。楓橋です。
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 橋の手前の両脇には、お休み処のようなところもあるようです。よく見ると、澤乃井園などと書かれています。先ほど通った澤乃井が経営しているようですね。
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 和風で落ち着いた建物もありますね。豆腐ゆば料理が食べられる『まゝごと屋』というお店があります。写真では分かりにくいですが、この日は小雨が降っていました。デジカメが濡れないように撮るのに苦心しました。いつも人が少ないのか、あまりお客さんを見かけませんでした。通行人もあまりいません。
 内容はほとんど似てますが、『阿佐ヶ谷会文学アルバム』にも、『終点から一つ手前の沢井駅で、一行七人が下車した。大きな造り酒屋の庭に、六尺桶が何本も乾かされ、その桶の色を見ながら坂を降りると、楓橋と書いた白い橋へ出た。』と書かれていますが、楓橋に到着すると、現在は白い橋ではないです。うす緑色というか、水色とミント色の中間というのか、同じ白色の楓橋を見たかったです。

 次回は楓橋を渡ります。
 
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by dazaiosamuh | 2014-07-27 22:23 | 太宰治 | Comments(0)
 昭和17年、太宰治を含めた阿佐ヶ谷会一行は奥多摩の御嶽へと遠足に行っている。この年の6月までは、日本の戦局はきわめて好調であった。2月15日にはシンガポールの英軍、3月9日にはジャワのオランダ軍、4月9日にはフィリピンの米軍と、ことごとく日本軍に降伏した。
 この戦局の好調であった時期、2月5日に、東京に残っていた阿佐ヶ谷会のメンバーで御嶽へと遠足に行ったのだ。
 参加者は安成二郎、上林暁、青柳瑞穂、浜野修、木山捷平、太宰治と太宰が連れて来た名取書店の林宗三という青年の7人。
立川駅に十二時半という、ピクニックにはいささか奇妙な集合時刻だった。』(青柳瑞穂の生涯
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 この奥多摩遠足は、沢井駅で下車し、川沿いをゆっくり散策し景色を見ながら御嶽駅へ向かい、駅近辺にある玉川屋という蕎麦屋で疲れを癒しご帰宅、という流れのようであった。
 私もこの阿佐ヶ谷会一行と同じルートで散策し、最後に玉川屋でお蕎麦をいただいて帰ることにした。私が行ったのは、今年の3月の終り頃でまだ桜が咲き始めたばかりの時期であった。同じように立川駅で下車しようと思っていたのですが、東京駅からの中央線快速で乗り換えをしなければならない青梅駅まで一本で行けるので、わざわざ降りるのも面倒なので立川駅には寄りませんでした。

 集合時間は12時半という、やや遅い時間ではあるがそれでも遅刻者はでたようだ。
零時三十分に、立川駅ホームに参集するはずだったが、荻窪駅を出た時は、すでに零時を十五分過ぎてゐた。置き去りを食ふかなと心配してゐると、同じ省線の車室に、参加者の一人である木山捷平君の姿を見つけて、ホッと安心した。同じ思ひの木山君も僕に声をかけられて、ホッとしたらしかった。
 立川駅のホームには、すでに、安成二郎、濱野修、青柳瑞穂、太宰治、林宗三の諸氏が、待ちかねて立つてゐた。ただちに、満員の青梅電車に乗り込んだ。
』(上林暁

集合場所は、立川の駅で、集合時間は、午後十二時半という、遠足にしては奇妙な時刻であった。
 それでも朝寝坊の私は少し遅刻したが、上林暁氏は私よりも、もっと遅刻した。
 案外、こんな時、早いのが太宰治。
 早い上、太宰は懐中に岩波文庫を三冊もしのばせていたので、ひやかしてやると、
「なに、時間をもてあまして、本屋に入って義理で買ったんだ」
 と、いったのを、私は今でも忘れないでいる。
』(木山捷平
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 JR青梅駅でJR青梅線奥多摩行に乗り換え沢井駅へと向かいました。電車に揺られながら景色を見ていると、とても東京とは思えない場所ですね。特に私のように地方から来た人間には、東京にもこんな場所があるのか、と思わずにはいられませんし、田舎を思い出してはしみじみとしている自分がいました。青梅駅から沢井駅まで約20分、ようやく沢井駅に到着しました。東京駅から沢井駅まで、約1時間半かかったのですが、私の住む場所から東京駅まで1時間程かかるので、合計で片道2時間半ですね。着く前に少し疲れてしまいました。
 東京でありながら車窓から見える自然豊かな景色に驚かされたのですが、沢井駅に到着して改札を出ようと思ったら、無人駅だったことにも驚きました。さり気なくSuicaの改札機が一台、ぽつねんと置かれていました。
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 改札を出た私は、まずは阿佐ヶ谷会一行が寄った寒山寺に向かおうと思い、地図を広げたのですが、いまいちよく分からず、迷子の子供のようにきょろきょろしていました。すると、ちょうど通りかかったお姉さん(30代後半ぐらいかな)が、迷子の私に見かねて親切に話しかけてきてくれました。

「大丈夫?どこに行きたいの?」
「あの、寒山寺というお寺に行きたいのですが…」
「それなら、すぐそこの坂を下って、酒屋の前を通って、『楓橋』っていう橋を渡っていけばすぐよ」
「ありがとうございます」
「それにしても、今日は天気が悪くて残念ね。気をつけて行ってらっしゃい。」

 なんて親切な女性なのだろう。都心でこんな風に自ら道に迷っている人を助ける人とは、一度も出会った事がない。外人さんのように、頬に、少しそばかすのある綺麗な女性であった。お礼を言うと、お姉さんは颯爽と去って行った。私はその後ろ姿を、少しの間だけ眺めていたのであった。親切なお姉さん、ありがとう。

 次回は、楓橋寒山寺を載せたいと思います。




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by dazaiosamuh | 2014-07-24 13:28 | 太宰治 | Comments(0)
 目的の『割烹旅館玉川』に行く途中、『つるや伊藤』『川奈部書店』と2つのゆかりの地を偶然発見することができたが、しかし、本来の目的は玉川旅館の伺察だ。
 今回はあくまで『伺察』であって、『視察』『調査』ではないことを言っておく。
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『川奈部書店』を後にした私は、船橋市役所を目安に進んだ。途中、『割烹旅館玉川』の案内が電柱に貼ってあることに気が付いた。それも1ケ所だけではない。数カ所の電柱などに貼ってあり、市役所を目安にする必要も無かった。
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 辿り着くと、いきなり『玉川』の文字が目に飛び込んできた。木造でどっしりと構えているかのように見えた。太宰が泊まったかどうかは別として、流石は創業大正10年の老舗旅館だと、思わずその場で立ち竦んでしまった。ビルに囲まれているため、非常にまわりとのギャップを感じずにはいられない。この玉川旅館は千葉県の登録有形文化財に登録されているのだが、サイトのトップページには『太宰治ゆかりの宿』とは書かれていても、『登録有形文化財』とは書かれていなかった。Wikipediaを見て初めて知った。

 果たして、太宰はここに20日間も泊まったのでしょうか。以前の記事にも書きましたが、年譜など、関連書籍には載っていなかった。それとも私が見つけられなかっただけなのか。太宰はお金が払えず、代わりに本数冊と万年筆を置いていったらしい。ネットで少し発見したので引用させてもらう。

長逗留する客には「10日締め」という習慣があった。女将が10日目に宿泊代を請求した。太宰は手元に金はないという。仕方なく10日間泊めたが、やはりお金を払わない。フランス語の辞書と本数冊、万年筆を借金のかたにとり、お引き取り願ったという。
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 当時の女将が大事に麻袋にいれて保管していたらしいのですが、昭和51年に住居部分が火事で全焼し、その時に一緒に燃えてしまったとのこと。太宰が20日間泊まり、本や万年筆を置いていったことが本当なら、非常に残念である。
 これではもはや、知る手がかりは一切ないということか。さらに、Wikipediaには、『太宰治が滞在した事でも知られ、前期の傑作「ダス・ゲマイネ」「虚構の春」「狂言の神」の作品がここで書かれた。』と載っていた。
 しかし、こちらも年譜には玉川旅館で書かれたとは記載されていない。

 謎だらけである。泊まって話を聞いてみたいが、有力な情報は、もはや手に入らない気がする。いつか気分が向いたら泊まりに行こうと思う。

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by dazaiosamuh | 2014-07-19 22:22 | 太宰治 | Comments(0)
つるや伊藤』では、太宰が料金を踏み倒したというエピソードを偶然発見することができた。そして、新たに『川奈部書店』も料金を踏み倒されたという情報を入手し、お店へと向かうことにしたのだ。
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川奈部書店』は、『つるや伊藤』から僅か1、2分の、車の行き交う十字路のすぐ角にお店を構えていた。古い外観ですが、当時から変わらないのでしょうか。看板も少し見にくいですね。早速、お店の中に入ると、年配の女性が1人いるだけでお客さんはいませんでした。今となっては、太宰がいた時代の人たちは亡くなられていることが殆どなので、多分、何も情報は聞けないだろうとは思っていましたが、一応話しかけてみました。
 その女性に、「昔、太宰治がここで本代を払わなかったという話を聞いたのですが、何か話しは知りませんか」と聞くと、「いやあ、すみません。私は全くそういう話は聞いたことがありません。詳しい話は何も……」との返答。ある程度予想はしていました。しかし、こうなると太宰がこの『川奈部書店』に来たこと自体が疑問になります。太宰の旧宅跡から、僅か5、6分の距離なので立ち読みくらいはあるだろうとは思いますが。
 相手から、全く聞いたことはありません、と言われたらそれ以上話すことはありません。私は本棚の本には目もくれず、しぶしぶ、お店を出て行きました。
 この後、私は目的の玉川旅館へと向かうのですが、実はこの日から僅か数日後、古本屋で船橋太宰文学研究会が調査し、作成した『夾竹桃』という60ページしかない本(冊子?)に、なんと『川奈部書店』のことが記載されていました。
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 船橋太宰文学研究会発行『夾竹桃』の第3号(昭和57年6月10日発行)の最初のページ、「竹のステッキの人 船橋時代の太宰治 北川功」に、『先年亡くなった川奈部雄之助さん(川奈部書店主)の話によると、太宰は毎朝七時頃船橋薬局に行き、その帰りに必ず川奈部書店に立寄り、月々の文芸雑誌を買って帰ったという。一日に二度顔を出すこともあった。代金は後払いで毎月末に払ってもらった。』と書かれているではないか。そうか、やはり太宰は『川奈部書店』に来たことがあるようだ。料金が未払いだったかどうかは記載がなかったため分からない。
 さらに、『船橋薬局のほかに、内山薬局、川奈部薬局の名前が挙がってくるし、最初、右島薬局にもパビナールをねだって断られている。
 船橋薬局店主は荻原茂二さんといった。夫妻とも既に物故し、同薬局も今は無い。しかし、太宰が直接同店に足を運び又は初代が津軽なまりの声で何度か電話でパビナールを頼み込んだことなどは、確かな証人もいる。私は、太宰がある時期、船橋薬局を”日課„のように利用したという故川奈部書店主の言を信じていいと思っている
』と記載されているが、太宰研究に半生を捧げた長篠康一郎は、『太宰治文学アルバム 女性編』で、『船橋地区におけるパビナールは、川奈部薬局が当時一手で各病医院に納入していた関係で、在庫量、使用料はつねに正確に記帳されており、川奈部薬局以外からの入手は考えられない。』と書いている。
 さて、どちらが本当なのでしょうか。確かな確証は今となっては手に入らないので、真相は分かりません。『夾竹桃』の方には「確かな証人もいる」と書いてあるが、詳しい内容(その証人が誰なのか、期日はいつかなど)は記載されていないので、読み手からすると甚だ疑問だ。
 ただ、料金を払わなかったかどうかは不明だが、『川奈部書店』に来たことがあるのは確かだとは思う。

 今回は、偶然ゆかりの地を発見することができたので思わぬ収穫であった。もしかしたら、探せば他にも色々あるかもしれないが、当時からある店、建物はどんどん減少している。他にも探すなら今しかない。ネットや書籍での情報にも限りがある。疑問を持った建物、お店を発見したら、躊躇うことなく、根気よく聞き込みをしていくしかない。





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by dazaiosamuh | 2014-07-16 17:55 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治のゆかりの地を探していたら、ある旅館に太宰が止宿している内容の情報をネットで発見した。
 それは、船橋にある旅館で、『割烹旅館玉川』という旅館らしい。しかし、今まで船橋の太宰のゆかりの地を探していたが、中々見つけることができなかった。『割烹旅館玉川』のホームページには、太宰治ゆかりの宿 昭和10年7月1日に船橋へ転居した太宰治、20日余り、同館「桔梗の間」に宿って小説を書いてました。』とトップページに載せてある。
 ほう?そうなのか。色々と関連書籍を読み漁っていたが、玉川旅館の記載された内容は、一度もお目に掛かったことがない。それとも私が見過ごしてきたのか。再度、太宰の船橋時代が書かれた本のページを何度も捲るも、やはり、書かれていない。そこで、太宰が船橋で過ごした期間を年譜で調べたが、こちらも一切の記載がない。
 
 これはいったいどうゆうことなのでしょうか。旅館には泊まりに行くわけではないが、一応、私は外観だけでもこの目で見ておこうと思い、現地へと飛んだ。

 久しぶりの船橋である。折角なので、太宰の旧居跡にまた行ったのだが、やはり車が邪魔(私有地なので邪魔とは失礼ですが)で、写真を撮るのはやめました。
 玉川旅館は市役所のすぐ近くなので、市役所を目安に進んでいく途中、老舗の染物店の前に出た。
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つるや伊藤』という染物店で、かなり創業は古いと見える。なにげなく横に立ててある掲示板に目をやると、ある新聞記事の切り抜きに目が留まった。
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 その内容を引用させてもらうと、『太宰治とも接点 作家の太宰治は昭和10(1935)年から1年数カ月の間、船橋で暮らし、「ダス・ゲマイネ」「虚構の春」などの作品を残した。「十五年間」という作品で太宰は「私には千葉県船橋町の家が最も愛着が深かった」と書いている。「つるや伊藤」とも接点があったようだ。「祖父から『うちで着物を洗い張りしたのだが、料金を踏み倒された』と聞いた」と伊藤さん。暮らしに即したなりわいの老舗ならではの秘話だ。放蕩無頼、破滅型の太宰がつかの間の安息を得たことも言える船橋時代、いかにもありそうな話だ。』と書かれていた。
 思わぬ発見に嬉し驚いた。それなら何か話が聞けるのではないかと、「つるや伊藤」の店に入った。
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 店に入り、すみませんと一声掛けるとお兄さん(30代かな)が出て来た。太宰のゆかりの地を歩いている事、掲示板で『つるや伊藤』と太宰のエピソードを発見したことを伝え、何か他にも話を聞けないかと尋ねてみるが、太宰の話しに詳しい者が今不在のため分からないと言われてしまった。
 それどころか、掲示板に新聞記事の切り抜きが掲示してあること自体分かっていなかったようだ。掲示板の前まで案内し、見てもらうと、「太宰との関わりは、まあ、ここに書かれている通り、料金を踏み倒された、ということですね。まあ、それだけのことだと思います。」とのこと。
 しかし、「そういば、他にも料金を踏み倒されたお店が近くにもあるみたいですよ」と言ったので、「え、どこですか」と聞くと、「すぐ近くの十字路の角にある『川奈部書店』も料金を踏み倒された、と噂を聞いた事がある」と教えてくれた。

 ついでなので私は、玉川旅館に行く前に寄ることにした。お兄さんにお礼を言い、早速、『川奈部書店』へと向かうのであった。


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by dazaiosamuh | 2014-07-11 10:17 | 太宰治 | Comments(0)
『このたびの入院は私の生涯を決定した。』(碧眼托鉢

 昭和11年2月10日、太宰は芝区赤羽町1番地の済生会芝病院新病棟に10日間の約束で入院している。その1週間程まえ、2月5日付け、佐藤春夫宛封書で、『芥川賞をもらへば、私は人の情に泣くでせう。さうして、どんな苦しみとも戦って、生きて行けます。(略)私を、助けて下さい。』と哀願する。そして、折り返し佐藤春夫から、すぐ来るようにと連絡があり、2月8日午後3時に東京市小石川区関口町207番地の佐藤春夫宅を訪問し、パビナール中毒治療のためにわざわざ入院せよという、強い忠告を受けた。
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 私は芝済生会病院に向かうため、JR山手線の田町駅で降りた。そこからは、たしか、徒歩で20分近くは掛かったと思います。
 もともと、この病院は佐藤春夫の実弟・佐藤秋雄が勤務していました。そして、2月11日、伊馬鵜平、山岸外史、2月12日、浅見淵、2月14日、檀一雄、2月15日、佐藤春夫夫妻、檀一雄、小山祐士、2月16日、伊馬鵜平、檀一雄、山岸外史、2月18日、井伏鱒二と、それぞれ見舞いに訪れた。
 しかし、2月14日の夜に檀一雄に円タクに乗せられ、下谷区中坂町四十一番地の浅見淵宅を訪れ、浅草で大酔し、翌15日の夜には、小山祐士と浅草に行き、呑み屋で出会った喜劇俳優清水金一と3、4軒飲みまわるなどして、2月20日に退院した。
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 皆が心配して入院させたのに入院中に抜け出て酒を呑みまわるとは、流石ですね。今の時代なら絶対に引き止めますね。それとも、酒ならいいだろうとでも思っていたのでしょうか。そんなことしているから治るものも治らないのだ。
 また、檀一雄著『小説太宰治にもこの芝済生会病院の時のことが少し書かれている。

『さて、太宰が、佐藤春夫先生のおとりなしで、中毒除去の為に、芝の済生会病院に入院したのはいつのことだったろうか。先生の御令弟、佐藤秋夫さんが、病院に居られて、その手引きで入院したものだった。未だ「晩年」は出来上がっていなかった。私は、浅見さんと緑川貢を誘って、見舞いにいった。病室の寝台からムックと起き、太宰はひどく喜んだ。淋しかったのだろう。「いい時、来た。檀君。滅多に人は待たれることないよ。今日は待たれた、俺からねえ。有難いと思えよ」しばらくそんなことを云っていたが、「いまさき、佐藤春夫先生御夫妻が、見舞いに来られたとこだ」そう云って、嬉しげに、布団の下から、奉書紙の包みを取り出した。「御見舞 春夫」と、書かれてあった。太宰は、私達に開けて見せた。参拾円のようだった。』
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 写真、見ずらく申し訳ございません。上手く撮れませんでした。建物はこの横にもあります。
 年譜には、佐藤春夫夫妻が訪れた日は、緑川貢と浅見淵の名前は載っていなかった。省かれたのでしょうか。年譜では、病院を抜け出て、途中、浅見宅を訪れている。さらに、見舞いに来た時、佐藤春夫夫妻からの見舞金でウィスキーを買ったとの描写が書かれている。病人にお酒を飲ませちゃだめでしょう。いくら太宰が飲みたがっていても、引き止めるべきです。
 さらに、年譜には檀一雄が太宰を車に乗せて出かけたように書かれているが、『小説太宰治』では太宰の方から誘ったようです。
『「出かけようか?」と、太宰。
 「ああ」と私は即答した。
 「いいかね? 太宰君。大丈夫かね?」
 浅見さんの逡巡の表情が今でも眼に浮かぶ。しかし、浅見さんも強いて反対はしなかった。「いいんだ、いいんだ」と、太宰は和服を着用しはじめた。慣れたふうでベットの下の下駄を手に抱えて、太宰が先に立、全部、見舞客のふうで、ぞろぞろと出ていった。車に乗った。それから何処で飲んだかは、覚えていない。大酔していた。』

 これでは治る病気も治らない。『小説太宰治』でも『「晩年」は、太宰の希望通りに出来上がった。しかし、太宰のモヒ中毒の方は、勿論の事なおらなかった。』
 当たり前だ。分かっているなら一緒に飲みに出かけるな。無理にでも安静させようとは思わなかったのかな。それとも、檀は太宰のことを分かっているから、無理強いさせなかったのか。

 こうしてまた、船橋での自らパビナール注射を打つ、荒れた生活に戻ってしまうのであった。船橋での生活は「愛着深き船橋時代」の記事で、雑ですが載せてますので、そちらを拝見してもらえればと思います。



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by dazaiosamuh | 2014-07-08 02:29 | 太宰治 | Comments(0)
 富栄 「太宰さん以外、私の死ぬ本当の意味は分からないわ」
 太宰 「愛している証拠だよ」とつねる。
 富栄 「愛って、痛いものね」


 太宰を敬愛し、そして、最後に共に玉川上水で命を絶った女性、山崎富栄のお墓は江戸川橋駅から、そう遠くない徒歩5,6分の場所にある永泉寺の墓所に建てられている。
 先月の6月19日には、桜桃忌に参加させてもらった。しかし、太宰の桜桃忌に行くことばかりに夢中になっており、共に心中した山崎富栄のことはすっかり念頭になく、なんとも失礼なことであった。そのため、数日前に私は、一週間以上過ぎていたがさくらんぼとお線香を持参して富栄のお墓を訪れた。

 江戸川橋駅を出て橋を渡り、途中、小さいお店でさくらんぼを買い求めた。そのお店のすぐ左の道に左折し、坂を上っていくと、わずか数分で永泉寺が見えてくる。
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 当初、太宰のお墓の場所(禅林寺)は知れ渡っていたが、富栄のお墓はどこにあるのか、知る者は殆どいなかった。しかし、太宰治の研究者・長篠康一郎が苦労の末、見つけだしたのだが、それにはある事情があった。長篠康一郎著太宰治文学アルバム 女性編』から。
『山崎富栄の遺骨は密葬のあと父の山崎晴弘が八日市町に持ち帰り、母信子との最後の別れののち再び上京、山崎家の菩提寺である永泉寺(文京区関口町二ノ三ノ二八)に埋葬された。だが山崎晴弘は、娘が世間を騒がせて申し訳ないとの考えから、富栄には白木の墓標を建てただけで、住職の安田弘達師に対しても、富栄の墓所が永泉寺に在ることを世間には公表しないで欲しいと依頼したという。後年、山崎富栄のお墓を探すために、私が長年月を要することになってしまったのにも、こうした事情が存在したからである。』

 父・晴弘の娘に対する配慮であった。それは、書かれてある通り『娘が世間を騒がせて申し訳ない』との考えや、相手の津島家に対する配慮、しかし、1番はやはり、娘・富栄を守るためだったのではないでしょうか。
 亡くなった当時は非難の嵐であった。富栄が太宰を殺したというデマも流れた。薬を飲ませてから入水したのでは、首を絞めてから川に引っぱりこんだのではなど、身勝手な、様々な中傷が飛び交い、太宰の死の悲しみが深ければ深いほど、それは富栄への憎しみ、恨みへと変わっていった。こういったことから、娘を守る意味も含めて、富栄の眠る墓所を知られたくなかったのではないでしょうか。
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 お墓に到着すると、すでに桜桃忌から10日ほど経っていたためか、花はすでに枯れていた。缶コーヒーやジュース、お酒が、何時からなのか分からないが置かれていた。
 私は、持参したさくらんぼをお供えし、お線香に火をつけ、静かに手を合わせ「すみません、遅くなりました。」とあいさつした。墓所はひっそりとしていた。置かれていたジュースは『愛のスコール』で、よく見ると、さくらんぼ味であった。なるほど、私は普通に果物しか思い浮かばなかった。太宰と一緒に食べてくださいと、呟いた。

 富栄の太宰に対する恋の炎は、出会った日から激しく燃えだした。
戦闘、開始! 覚悟しなければならない。私は先生を敬愛する。』

 他にも、日記には富栄の苦しい胸の内が書かれている。
先生の心なんか分からない。
 分かるもんか!
 馬鹿。分かるもんか!
 頭が混沌としてしまって空廻りだ。
 女。唯それだけのもの。飽和状態の私。
 どうしていいのか、拭いとりたい気もするし、ずるずると入りこんでしまいたい気もする。
 おい、お前! 助けてくれ。酔えなくなったのはお前のせいだ。鼻もちならない!ウンフフ、馬鹿々々、消えろ、消えてしまえ。やい、とみえ、起きろ、路傍の花など摘んでくれるな。いや、もういい
。』

 富栄には、奥名修一という夫がいたが、戦争に行き亡くなっている。しかし、まだ戦死公報も届いていない。そんな中、妻子ある男と関係をもった富栄は、罪悪感、自己嫌悪に陥る。さらに、太宰の気持ちに振り回され、もどかしく、もやもやした感情が胸の中でぐるぐると回っていた。それでも、恋心は消えてはくれなかった。 
 
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 やがて、太宰も富栄も死の決心が固まり、遺書を残して玉川上水に飛び込むのであった。富栄の遺書の内容は、ここでは割愛させてもらう。

 死後60年以上が経つが、2人が川に身を投げた状況は、今となっては分からない。当時は、山崎富栄が太宰を殺したような話しも多く出たが、今では、そんな馬鹿な話を信じるものはいないし、我々太宰ファンも、山崎富栄の太宰に対する真直ぐでひたむきな恋心を、少なからず理解しているつもりだ。

 お供えしたさくらんぼを、天国で仲良く食べてもらえれば幸いである。



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by dazaiosamuh | 2014-07-03 07:29 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)