遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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おい、俺も撮れよ。織田作ばっかり撮ってないで、俺も撮れよ

 銀座のバー・ルパンに来た目的は、太宰が座ったであろうポジションにて座り、しかも、似せた服装、ポーズで撮影することであった。もちろん、その場所で太宰気分に浸りながら酒を飲み、マスターから太宰の話を聞くことも目的の一つだ。
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 現在のビルばかりが建ち並ぶ銀座の町並みとは打って変わって、店内は落ち着いた昭和の雰囲気が醸し出されていた。このルパンで太宰の有名な写真が撮られたのは、昭和21年11月25日で、この日、太宰、坂口安吾、織田作之助と、実業之日本社主催の座談会に出席した。この時、織田は1時間程遅刻してきたのだが、太宰と安吾は座談会開始前に、すでに酩酊していたらしい。この座談会の記録は、翌年4月20日付発行の「文学季刊」第3輯に「現代小説を語る」と題して掲載された。さらに同日、同じく3人で改造社主催の座談会にも出席。この記録は、「改造」には未掲載のまま、昭和24年1月1日付発行の「読物春秋」新年増大号に「歓楽極まりて哀情多し」と題して掲載。そして、最後にここ、バー・ルパンに来たというわけだ。
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 店内には太宰、安吾、織田の写真が飾られている。写真を撮っていいですか、というとマスターは快く返事をしてくれた。それどころか、ポーズのとり方まで教えてくれた。友人Sさんに撮影を頼み、早速、撮ってみることにした。マスターが、フラッシュなしの方が太宰の写真のように雰囲気が出る、と言っていたが、撮ってみるとどうもいけない。上手くピントが合わないのか、ぼやけてしまう。何回も挑戦したが、三脚でも用意しなければ中々難しい。そのため止むを得ずフラッシュでの撮影にした。
 私はただポーズをとっているだけだから良いが、Sさんは、撮影にかなり苦心したようだ。今か今かと、私はひたすらベストショットが撮れることを心の中で祈りながら、太宰ポーズに集中した。

 Sさん「撮れましたよ、どうですか。確認お願いします」




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 えっ!太宰治!?
 
 いえ、よく見たら自分でした。自分でまじまじと見ながら、うっとりしました。まさかこんな日が来るなんて、しかも、写真の右上をよく見ると、太宰の写真が写っています。まさかのツーショット。同じポーズでまさかのツーショットです。Sさんは、これを狙って撮ってくれたのか、それとも奇跡(太宰のいたずら)なのか。
 私は、この日のために、気温が30℃近くまで上がる中、ベストにネクタイ、ブーツを着用して臨んだのだ。この時を以ってして報われたのだ。ちなみに、太宰は兵隊靴ですが、この撮影のためだけに、少しでも似せようと、私もミリタリー使用のブーツ(3万円)を買いました。
 太宰はルパンで何の煙草を吸っていたのか、マスターに尋ねてみましたが、分からないみたいです。一応、私は太宰が吸っていた有名な煙草「ゴールデンバット」を指に挟んで撮影しました。ズボンは、太宰はウール素材を穿いていたようですが、この時期、どこのお店にいってもウール素材のズボンは売っていなかったため、今回はスーツにしました。(写真をよく見ると、左足の位置が少し違うが、まあ上出来だろう)

 私とSさんは、興奮を抑えつつ太宰の座っていた場所に座り、お酒を頼みました。マスターに、太宰はよく何を飲んだのかと聞くと、やはり、ビール、日本酒、ウィスキーだったそうです。私はお酒は弱いのですが、せっかくなのでウィスキーを飲んでみました。うむ、やはり私にはきついです。
 しかし、飲んでいる最中、マスターが「このウィスキーのグラスは、太宰がいた当時からあるものです。今では数が無く、かなり貴重ですよ」と言ってきたので、「えっ、では、もしかしたら、太宰もこれを使ってウィスキーを飲んだりもしたのでしょうか」と言うと、「そうかもしれません。可能性はあります」と言った。
 なんということでしょう!私はもしかしたら、60年以上の時を超えて、太宰と間接キスをしたかもしれないのです(太宰は好きだが、別に太宰とキスしたいとは思っていないですし、そういう趣味もないことは、一応、言っておく)。
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 太宰のルパンでの写真は、今でこそ有名な一枚だが、マスターによるとそんなにここへは来たことはなかったようです。ちなみに、撮影者は林忠彦で、織田作之助を撮っていると、太宰が『おい、俺も撮れよ。織田作ばっかり撮ってないで、俺も撮れよ』と言い、林はムッとしたが、今売り出し中の太宰と分かると、しめたと思って撮ったのだ。しかも、カメラのフラッシュバルブの残りがたった1個しかなく、後ろの便所のドアを開けて、便器の上に寝そべるようにして撮った、非常に貴重な1枚だったらしい。
 マスターが、「後ろの便所のドアも当時のままなので、太宰がドアノブを握ったかもしれませんよ、握れば、間接的に太宰を感じることができるかもしれませんね」と言った。
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 そう言われたら握らないわけにはいかない。早速、ドアノブを握ると、おや、と思った。一瞬、温かい肌に触れたような感触であった。もう一度握るが、今度は感じられなかった。太宰のいたずらかなと思い、少し微笑んでしまった。

 その後、私とSさんは太宰席でビール等を飲みながら歓談し、お店を出て行くのですが、ここで写真を撮れたことと、もう一つ最高にうれしかったことがありました。
 それは、私がマスターに「私みたいに、太宰の服装を真似て、同じポーズで写真を撮りに来る人は、やっぱり、いるんですよね」と訊くと…。
 「いえいえ、いませんよ、お客様ぐらいですよ。ポーズを真似る人はいても、服装まで真似して来られた方はお客様だけです」と言われた事でした。最高に嬉しかった。今まで生きてきて、一番感激した瞬間かもしれません。

 1時間ほど飲み、私とSさんはマスターにあいさつし、マスターも「また来てください」と言い、お酒に酔っているのか、太宰に酔っているのか、自分でも分からない、夢心地の気分でルパンを後にしました。

 苦心しながらも撮影してくださったSさん、そして親切なマスター、ありがとうございました。


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by dazaiosamuh | 2014-06-28 14:17 | 太宰治 | Comments(0)
 桜桃忌である6月19日の数日前、私は友人Sさんと仕事帰りに夕刻、銀座付近を彷徨っていた。仕事帰りにある場所に行く予定をしていたのだが、開店時間は17時からのため、時間潰しをしていたのだ。
 場所は、知る人ぞ知る、銀座バー・ルパンだ。服装は桜桃忌の日と同じで、一応、バー・ルパンで写っている太宰の写真を真似てやってきた。白いYシャツにネクタイ、ベストを着用し、ブーツもそろえた。
 
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 いよいよ開店時間になり、Sさんが先陣を切って扉を開いた。そういえば、以前、Sさんと安酒を飲んだ帰りに勢いでここまで来たことがあった。雨の降りそそぐ、残暑の続く秋の頃だったような気がする。その時は生憎、お休みであった。しかし、酔っていたこともあり、すぐ横の階段の平らな部分で、太宰の写真で有名な、左手で頬杖をつくポーズを撮った。実に阿保であった。お互いにあまり記憶になかった。
 しかし、今回は素面だ。中に入ると食器の音が聞こえる。Sさんを先頭に階段をゆっくりと下りていくと、奥にマスター、そして手前に女性2人の店員がいた。
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 手前にいた女性の店員に、「もうよろしいんでしょうか」と訊くと、返事はなかった。冷たい張りつめた空気が流れたが、どうにかカウンターに腰を下ろした。
 ここに来た目的は、太宰と似た服装で、似たポーズで写真を撮ることであった。
 マスターに思い切って話しかけると、とても話しやすく、私とSさんはホッと胸を撫で下ろした。

 銀座、バー・ルパンは1928年(昭和3年)に開店した。開店当時は、「カフェー」という、女給のサービスでお酒を飲ませる洋風の酒場スタイルだった。それを1935年(昭和10年)9月に、現在のようなヤチダモのカウンター・バーに改装した。その時に、控室だった1階も改装してL字形のカウンターを作り、営業を始めたそうだ。
 やがて戦争が始まり、1941年(昭和16年)には洋風の店名は禁止され、「ルパン」は「麺包亭(ぱんてい)」と名乗るようになった。1944年(昭和19年)には戦局も苛烈を極め、政令により一斉休業になってしまった。
 1945年(昭和20年)1月に銀座は大空襲を受けるが、ルパンは幸いにも直撃は免れた。漏水や破損など少なからず被害は受けたものの、1946年(昭和21年)1月には、珈琲店として再開し、1949年(昭和24年)5月に酒類が自由販売になるまでは、様々な手立てで酒を仕入れて売る時代が続いた。この時代は、闇酒などが出回っていたりなどしたが、ルパンなら安心だと、作家や出版関係の人々を中心に、沢山のお客様が帰って来てくれるようになったそうだ。
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 太宰が座った場所を、マスターが親切に教えてくれたのだが、詳しい感想は、また次回に載せたいと思います。
 


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by dazaiosamuh | 2014-06-26 00:23 | 太宰治 | Comments(0)
『子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ。桜桃が出た。私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかも知れない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾のように見えるだろう。
 しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。』(桜桃
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 数日前(19日)の桜桃忌は、感慨深い日であった。昭和23年の6月19日、午前6時50分頃、死体が発見された。太宰の遺体は「千草」で検視のあと、堀ノ内の火葬場で荼毘に付され、午後6時すぎに骨が拾われた。
 そして、20日にお通夜が行われた。亀島貞夫の「太宰治との別れと死」より。
『ほとんどしどろに乱れた田中英光の巨躯や、葬儀委員長がなんで豊島さんか、なんでおれで悪いかと酔余の逆上に発した山岸外史の大声や、それら一切の場景の外に、読経に現われた僧を一瞥し、「珈琲、のみに行こう」と、にべなくという感じで、席を立った石川淳の、幾らかしゃくれた不機嫌な顔』等が印象に残っているという。

 6月21日、太宰宅において、葬儀委員長豊島与志雄、副委員長井伏鱒二のほか、亀井勝一郎、伊馬春部、石川淳、林芙美子、太田洋子、今官一、小田嶽夫、外村繁、上林暁、丹羽文雄、渋川驍、田中英光、吉田晃、野原一夫、野平健一、石井立、亀島貞夫、青柳瑞穂、小山清、戸石泰一、宮崎譲、山岸外史、末常卓郎、原通久など、文壇、出版界の人間が約300人参列して告別式が行われた。

 6月26日、角田唯五郎が津島の家を角田家住宅として買収した。
 7月18日、三鷹町下連雀296番地、黄檗宗霊泉山禅林寺に葬られ、57日の法要が営まれた。
 7月25日付で、『人間失格』を筑摩書房から、同日付で『桜桃』を実業之日本社から刊行。
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 太宰の亡くなった時期と、『人間失格』の出された時期が近かったため、遺書だという噂、憶測が絶えなかったようです。安易な決めつけでしかありませんし、太宰専門の研究者たちや、当時、身近にいた人々でさえ本当の理由は分かりません。ましてや一緒に心中した山崎富栄も、太宰の真の胸中は分からなかったのではないでしょうか。

『太宰君は自分で絶えず悩みを生み出して自分で苦しんでいた人だと私は思います。…しかし元来が幅のせまい人間の私は、ただ君の才能に敬伏していましたので、はらはらさせられながらも君は悩みを突破して行けるものと思っておりました。しかしもう及ばない。私の愚かであったために、君は手まといを感じていたかもしれません。どうしようもないことですが、その実は恥じ入ります。左様なら』
 井伏鱒二の、悔やんでも悔やみきれない哀切極まる弔辞ですね。

 それから1年後、昭和24年6月、太宰治自筆の著名を写して「太宰治」とだけ刻まれた墓碑が、敬愛する森鴎外の斜め前に建てられた。
 12日、三鷹禅林寺で一周忌法要が営まれた。そして、知友で同郷の今官一の提唱によって、遺体が発見され、誕生日でもあった6月19日を『桜桃忌』と名づけた。
 それ以来、この日に太宰治を偲ぶ会が開かれるようになった。
『桜桃忌』の由来は、死の直前に名作『桜桃』を残していることと、太宰自身が桜桃を好んでいたこと、そして、桜桃の実る頃に逝ったことによります。
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 『桜桃忌』の名前を提案した今官一は、自身の著書『少年 太宰治』でこんな事を書いていた。
 『それを尋ねられたら、このように答えようと、初めから心組みでいるのに、いまだにだれひとり、ただの一度も、尋ねてはくれなかったために、ついに出口を失って、とまどうている答えが、一つだけ、私の心の中に、かすのように、淀んでおります。それは、「太宰の死は、善だろうか、悪だろうか」という、問いかけであります。私は、死の直後に、それを自らに問いかけ、そのときから今日まで終始一貫して、「それは、悪である」という答えを、いつも心の中に用意しておりました。しかし今日まで、だれひとりとして、私に、それを尋ねた人はありませんでしたし、それの答えを、しゃべらせたり、書かせたりしてくれるところはありませんでした。』

 今でこそ太宰は天才作家として、なぜあの若さで死んだのかと思われていますが、当時は、社会的にも衝撃を与え、市民の飲み水であった玉川で、しかも女と心中したことに対する抗議もあり、物議をよんだのでしょうが、今現在、今官一が自身に問うた、「太宰の死は、善だろうか、悪だろうか」という問いには、誰もが口を揃えて「悪である」と答えることは間違いないであろう。
 あの時の太宰は、心身共に弱っていたのかもしれないが、生きていれば、どうとでも、いくらでもなったであろう、しかし、周りの仲間や家族が思っている以上に、太宰は苦しんでいたのかもしれない。

 生きていれば、間違いなく、より多くの名作を残したことは間違いない。

 太宰治 
 明治42年(1909年)6月19日~昭和23年(1948年)6月13日



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by dazaiosamuh | 2014-06-22 13:26 | 太宰治 | Comments(0)
『ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。』(人間失格

 今日(6月19日)は、太宰治の桜桃忌だ。太宰は、6月13日の深夜から翌日14日の間にかけて、玉川上水に山崎富栄と共に入水したと言われている。そして、懸命の捜索活動の末、偶然にも太宰の誕生日である、19日に遺体が発見された。それが、66年前の今日である。

 私は今日のために有休をとっていた。ちょうど友人Sさんも休みで、「良かったら写真を撮りますよ」、そう言ってくれたのでお言葉に甘えることにした。
 当日、午後12時に三鷹駅に待ち合わせをし、住職が来るのが14時かららしいので、一先ず太宰治文学サロンに立ち寄った。
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 文学サロンの前まで来るとサロンから年配の男性が出てきて、私を一瞥し、「お兄さん、太宰治に似てるね」と言って去っていった。私とSさんはお互い顔を見、ニヤリとした。太宰の有名な写真に銀座のバー・ルパンの写真がある。私は太宰の服装を、完璧ではないものの、白のYシャツにネクタイ、そしてベストを着て桜桃忌に臨む気持ちで来たのだ。
 文学サロンでは年配の女性が多く来店していた。ざっと眺めサロンを後にし、1時間以上早いが、太宰の眠る禅林寺へと向かった。
 
 禅林寺に到着すると、近くにいた男性が気さくに話しかけてきてくれた。話しを聞くと、今回の桜桃忌は思っていた以上に人数が少ないとのこと。5年前の生誕100周年の時は、数千人が集まったと言っていました。すごいですね。ですが、たしかに初めて桜桃忌に参加する私でさえも、思っていたほど多くは集まっていなかった。13時頃到着し、15人前後といったところか。しかし、人数が少ないうちに手を合わせておこうと思い、持参したさくらんぼとゴールデンバットをお供えし、Sさんに撮影してもらった。
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 写真に写っているのは私です。自身の記事での出演は初ですね。14時まで時間があるので時間潰しに近くのガストで休憩をとりました。
 雑談で時間を潰した私とSさんは再び禅林寺へと向かうと、うむ、なかなか集まっていると見える。しかし、やはり思っていたほどではない。ざっと見渡して100人前後。それもピーク時でだ。
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 ファンたち、所謂、自分の同志たちを眺めているうちに、いつのまにか住職が墓前にてお経を初めていた。上の写真は住職が来るまえの写真で、同志たちに混ざって私も写っています。どこにいるか分かるでしょうか。
 お経は僅か1、2分足らずで終了しました。私は住職から、何か太宰についてのお話を聞けないかと思い、話しかけようと思っていたのですが、いつのまにやら姿を消していました。
 住職が姿を消すと同時に同志たちは持参した、お花、酒、煙草(ゴールデンバット)、さくらんぼ等を思い思いの気持ちを胸に、お供えしながら手を合わせて太宰にあいさつをしているようでした。その中で1人、周りの人に怒声を言いながら、お供えしている年配の男性がいました。熱狂的な太宰ファンなのでしょうか、それとも関係者の方なのかと思っていたのですが、後になってからですが、どうやらファンの方のようでした。(変なファンも多いと聞きました。)

 私はただ写真を撮るのが嫌でした。折角、服装を真似て、友人Sさんにも協力してもらっているので、バー・ルパンのポーズで撮影をしたかったのだ。しかし、一向に減る気配が無かったため、人数が減るのを待つため、また時間を潰すことにしました。
 墓所を出ると偶然にもSさんの知り合いが居り、これからお茶をするとのこと、時間を持て余していた私とSさんは同行させてもらうことにしました。
 向かった先は、またもやガスト。正直に先ほど来たことを伝え、それぞれ1人ずつ(全員で8人)簡単な自己紹介をしました。
 
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 実は、私とSさんを除いた方々は、『みたか太宰の会』のOBの方たちでした。現在はすでに解散しているようですが、まさかこんな出会いがあるとは思っていなかったため、貴重な体験をしました。この時、『みたか太宰の会』が作った、元祖太宰マップを貰いました。マップは、三鷹の太宰のゆかりの地等が載せてあり、カラフルでとても愛着のあるイラストが描かれており、太宰愛に感激しました。何より嬉しかったことは、「太宰治と横顔が似ている」と言われたことでした。私にとって、なによりのご褒美です。
 私は、自身のブログアドレスを載せた手作りの名刺を渡し、Sさんはお知り合いでお世話になった女性と語り合い、大いに有意義な時間を過ごし、また再び写真を撮るため、お礼を言い、禅林寺に向かいました。

 三度目の正直。人数はだいぶ減り、最初と同じ15、16人前後。しかし、まだメディアがインタビューを行っていた。酒を飲んでただ座っている者たちもいた。ただじっと眺めている者もいた。グラサン掛けた姉ちゃんもいた。
 
 私はとりあえず、通路でバー・ルパンのポーズを決めて撮影した。その後も、じっと人がいなくなるのを待っていたが、帰る気配がない。すでに夕方16時は過ぎていた。

 Sさん「もう大丈夫ですか?そろそろ行き(帰り)ますか?」
 私  「……」
 Sさん「どうします?まだ撮りますか?」
 私  「…すみません、やっぱり墓前でお願いします。」

 もじもじしながら、やはりここで帰ったらきっと後悔するに違いない。そう思った私は、勇気を振り絞って写真を撮ることにした。
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 上の写真が、一応、勇気を振り絞って撮ったルパンポーズの写真です。私のすぐ後ろには、昼間から酒を飲んで少し意味不明の話し(過去の女の卑猥な話)をするおじさんや、ただ黙って見つめているおじさん、グラサンを掛けた2人組の女性、そして、横にはカメラを持ったメディアがいました。中々緊張しました。写真では平然と写っていますが、太宰のセリフを使わせてもらうなら、『おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィス』でした。

 大満足であった。なぜルパンポーズを選んだのか、なぜこだわったのか、自分でもよく分かりません。それしかポーズが思い浮かばなかっただけかもしれません。
 しかし、大満足でした。Sさんには感謝しています。
 それと、酒を飲んで意味不明の話しをしていたおじさんは、実は文学サロンの前で私に、「お兄さん、太宰治に似てるね」と言った男性でした。しかも撮影後、帰ろうとする私とSさんに、またもや女の下品な話をしてきました。
 それでも私に、「お兄さんは、顔が太宰に似てるね」と言ってくれたことは、正直お世辞でも嬉しかったです。最後の、「もうちょっと背を伸ばせよ」は、大きなお世話ですが。

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 今回は初の桜桃忌でしたが、生誕105周年にも関わらず思った以上に人数が少なかった(私が美化し過ぎていただけなのかもしれません)。
 しかし、何より桜桃忌に参加できたことがよい経験でしたし、ルパンポーズも最高な気分でした。さらには、『みたか太宰の会』の方々とお会いでき、名刺交換等、非常に有意義でした。

 これも全て、撮影に協力してくださったSさんが居たこと、そのことによってSさんのお知り合いと出会うことができました。
 この場を借りて、改めて、Sさんと『みたか太宰の会』のOBの方々に、心から感謝いたします。
 
 




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by dazaiosamuh | 2014-06-19 23:40 | 太宰治 | Comments(0)
 井伏鱒二が息を引き取った東京衛生病院から外れて通りに出た。私はまっすぐ天沼稲荷神社を目指した。荻窪駅からだと歩いておよそ20分ほどでしょうか。小さな、しかし、立派な神社がありました。
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 太宰はこの天沼稲荷神社のすぐ横に住んでいたことがありました。
『芝の空家に買手が附いたとやらで、私たちは、そのとしの早春に、そこを引き上げなければならなかった。学校を卒業できなかったので、故郷からの仕送りも、相当減額されていた。一層倹約をしなければならぬ。杉並区・天沼三丁目。知人の家の一部屋を借りて住んだ。その人は、新聞社に勤めて居られて、立派な市民であった。それから二年間、共に住み、実に心配をおかけした。』(東京八景

 住所は杉並区天沼三丁目741番地。移り住んだのは昭和8年の2月で、三兄・圭治の友人で「東京日日」社会部記者であった飛島定城と共に暮らした。飛島家が母屋で、太宰と初代は離れに住んだ。
『芝の空家に…』というのは、昭和7年9月から住んでいた芝区白金三光町276番地高木方のことです。
 太宰が住んだ天沼の現住所は、天沼三丁目15番地となっています。途中で訪れた碧雲荘とは違って、全く面影を残していません。ただ住宅が立ち並んでいるだけですね。
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 この天沼三丁目には、僅か3ヶ月程しかいませんでした。理由は、荻窪駅から徒歩で20分近く掛かり、通勤、通学に不便であったためだ。
『H(初代)も、またその新聞社の知人も、来年の卒業を、美しく信じていた。私は、せっぱ詰まった。来る日も来る日も、真黒だった。私は、悪人ではない!人を欺く事は、地獄である。やがて、天沼一丁目。三丁目は通勤に不便のゆえを以て、知人は、そのとしの春に、一丁目の市場の裏に居を移した。荻窪駅の近くである。誘われて私たちも一緒について行き、その家の二階の部屋を借りた。私は毎夜、眠られなかった。安い酒を飲んだ。痰が、やたらに出た。病気かも知れぬと思うのだが、私は、それどころでは無かった…』(東京八景

 天沼三丁目には数ヶ月しか住んでませんし、書籍等にもあまり詳しく書いていませんので、どのような住居だったのかは分かりません。たしかに、実際に歩いてみると、遠いです。大人の足で15分以上なので疲れます。
 太宰はこの後、昭和10年に船橋に移り住みます。

 今回の荻窪紀行では、まだ訪れていない箇所もありますので、次回に来た時にまた周りたいと思います。碧雲荘は、中々貴重だと思います。いつ取り壊されるか分からないので、太宰好きの方で行っていみたい方は今のうちです。

 
 
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by dazaiosamuh | 2014-06-16 17:31 | 太宰治 | Comments(0)
『いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます。自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。ただ、一さいは過ぎて行きます。』(人間失格

 今日は太宰治と愛人・山崎富栄が玉川上水に入水心中した日だ。荻窪紀行はまだ途中だが、せっかくお墓詣りに行って来たので、載せることにした。

 太宰が亡くなった日は、一応、6月13日と言われているようだが、実は正確には分かっていない。そもそも太宰と富栄が入水した日付も時刻も曖昧で、13日の午後11時半から14日の午前4時頃までの間に入水したとされている。日付をまたいでいるため詳細は不明。年譜等にも正確には記載されていない。
 そして、死亡推定時刻は14日午前1時頃とされている。

 午後12時半ごろ三鷹に到着。雨はポツポツと降る程度で、禅林寺に着くころには、そのポツポツ雨も降らなくなった。しかも丁度良く青空が広がっていた。
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 太宰の人気は日増しに増える一方で、しかも、今年は太宰治生誕105年ということもあり、19日の桜桃忌ほどではないにしても、きっと沢山の人がお手を合わせに来ているだろうなと思っていたが、来てみると、沢山いるどころか一人もいなかった。それどころか、墓所自体に人っ子一人いないのである。私にとっては好都合であった。これでゆっくりと手を合わせることができる。
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 お墓にはすでにお花が供えてあった。午前中に親族が来たのでしょうか。私もお線香を供え、落ち着いた気持ちで手を合わせた。今日の気温は30℃まで達していたが、太宰のお墓は木影に入っており、先ほどまで雨が降っていた影響で、気持よく清々しかった。太宰に、「なぜ、富栄さんと入水などしたのですか」と聞いてみようかと思ったが、やめた。野暮のように思われた。目の前に、太宰と美知子夫人が2人仲良く並んでいるように見えたからだ。


「桜桃忌も必ず来ます」

 私は、そう心のなかで呟き、禅林寺をあとにした。


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by dazaiosamuh | 2014-06-13 20:19 | 太宰治 | Comments(0)
 腹ごしらえを済ませた私は、井伏鱒二が息を引き取った病院・東京衛生病院へと向かった。建物は大きく殆ど迷うこともなく辿り着くことができた。

 東京衛生病院は昭和4年に建てられました。現在の東京都杉並区天沼にあり、当初はわずか20床から始まったそうです。それが平成8年1月に産科棟の新築に伴い、産科病床を2床増床し、6月にホスピスを14床設けました。さらに平成11年5月の創立70周年に合わせてホスピスの増床工事が完成し、合計186床となった。
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 井伏鱒二は1898年(明治31年)2月15日、加茂村粟根89番邸(現・福山市加茂町)で生まれた。井伏は年少の頃、『私は体質が弱いといふので八つ(数え年)から学校にあがることになった』そうである。そして、その年初めて海を見て、また偶然ではあるが、一尺ぐらいあるチヌ(黒鯛)を釣り上げた。釣り好きで知られる井伏だが、この時の体験が井伏を釣り好きにさせたのかもしれない。
 また、井伏は太宰を釣りへ誘ったこともあり、『荻窪風土記』に書いている。

『この日、私は太宰を連れて善福寺川の釣場へ行ったが、何もかもお話にならなかった。ガード下の洗ひ場でも、その下手の薪屋の堰でも釣れなかった。餌は、西隣の上泉さんが庭の隅に飼つてゐる縞蚯蚓だが、丹念に振込んでみても手応へがなかつた。川の水が魚を生かして置く力を無くしたのだらう。この川はもうお仕舞だと思った。』

 釣れなかったらしい。どうやら場所が悪かったようだ。井伏は何かと太宰の世話をして可愛がった。処女創作集『晩年』も祝ってくれた。パビナール中毒で苦しみの中を彷徨っていた時も心配し、病院へ入院させた。甲府で石原美知子を紹介し、お見合いをさせたのも井伏であった。そして、井伏夫妻の媒酌によって行われた結婚式は、なんと井伏宅で行われたのだ。太宰が亡くなった際、弔辞を読んだのも井伏であった。

 『荻窪風土記』を刊行したのは、昭和57年11月。60有余年住み親しんだ荻窪を自身の体験したことなどを交えながら、そこに息づく人々との風土記を作品化した作品だ。
 また、昭和60年10月から翌年10月にかけて『井伏鱒二自選全集』を刊行。平成3年4月には、『文士の風貌』を刊行。
 
 そして、平成5年7月10日、午前11時40分。愛した荻窪の地、東京衛生病院にて永眠。95歳であった。衛生病院の敷地内には天沼教会もある。
 
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 死ぬ間際、どんな思い出の日を回想しただろう。太宰と過ごした日々も思いだしただろうか。きっと空の上で、太宰と一緒にお酒を飲んだりしているのではないでしょうか。


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by dazaiosamuh | 2014-06-09 21:28 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治の暮らした貴重な建物・碧雲荘を見た私は、お腹も空いたのでここら辺で腹ごしらえでもしようと思い、手頃なお店を探した。
 探していると、小さな軽食屋を発見。疲れていたので店頭のメニューは見ずに中に入りました。

 お昼を少し過ぎたくらいだったが、お客さんはいなかった。眼鏡をかけた年配の男性店主が愛想よく迎えてくれた。私はカレーライス(たしか野菜カレーとかだったと思いますが、よく覚えていません)を注文した。
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「ここに来るのは初めてだよね?荻窪の人?」
「荻窪に来るのは初めてです。実は……」

 私は荻窪に来た理由を話した。太宰のゆかりの地を歩いていると言うと、少し驚いたようすだった。このお店で太宰のゆかりの地をまわっている人に出会うのは、どうやら初めてのようでした。途中、青年のお客さんが入って来て、顔見知りのようすで親しげに会話をしていた。話を聞いていると、この青年(年上かと思ったら年下でした)は鍼灸師を目指している専門学生のようでした。私には全く知識のない分野の仕事のため、2人の話を聞いていても、まるで分かりませんでした。
 青年が私に、「お兄さんは、介護の仕事とか向いてそうですね」と言ってきた。別段嬉しくもなかった。「介護職は、種類にもよると思いますが仕事と給料が割に合わないみたいなので、今のところは考えていません」とだけ答えておいた。

 時間を忘れて色々と雑談をしていると、マスター(青年は店主のことをマスターと呼んでいた)は昔、出版社で働いていたことがあったそうだ。それもあって、友人の同窓会の冊子や本などを頼まれることもあるみたいだ。大きな業務用プリンターも持っていると話していた。その他、生れ故郷の話や東京生活の話など小一時間程話しをした。
 話をしながら、店内にある雑誌(たしか荻窪の特集が書かれた雑誌だったと思います)をパラパラめくっていると、井伏鱒二の記事が載っていた。そこには、井伏が荻窪にある東京衛生病院で1993年(平成5年)7月10日に亡くなった、という内容であった。
 私は井伏鱒二のことはあまり調べていなかったため、自宅や墓所しか把握していなかった。ついでなので行って見ようと思った。私はこの次に、天沼稲荷神社付近に行こうと思っていたので、マスターに天沼稲荷神社へはどのくらい掛かるか聞くと、大人の足で10分位だよと教えてもらい、腹ごしらえも済んだので、マスターと青年に別れを言い、一先ず先に東京衛生病院へと向かったのであった。





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by dazaiosamuh | 2014-06-06 20:18 | 太宰治 | Comments(0)
 井伏宅を見た後、私は太宰が妻・初代と生活した碧雲荘へと向かった。碧雲荘での生活は昭和11年11月15日から始まった。
 碧雲荘のまえは、船橋時代や武蔵野病院での一ヶ月入院など苦しい生活であったが、無事に退院。初代と井伏夫人が探しておいてくれた、白山神社裏手の光明院裏の照山荘アパートに移るが、太宰の気に入らず、11月13日、初代と井伏夫人とが貸間さがしに行き、11月14日、「天沼に八畳の貸間」を見つける。
 そして、11月15日に荷物も運び移り住んだ。碧雲荘は天沼衛生病院裏手の大工さんが経営していた。太宰たちは二階であった。

 檀一雄は碧雲荘を訪れた時のことを、『小説 太宰治』に記している。
『太宰が、モヒ中毒除去の為に、例の格子のある病人に監禁されたのは、何時の事であったか、私は全然関知しなかった。又、太宰が船橋をたたんで、再び荻窪に舞い戻ったのも知らなかった。私は昭和十一年の八月から、十月の末迄、満州旅行を試みて居り、多分、この間の出来ごとであったに相違ない。
 帰郷してみると、太宰は、荻窪の碧雲荘に移っていた。碧雲荘と書くと、堂々たるアパートに聞こえるが、実は全く和室の二階八畳の、間借りだった。ただ、階上に炊事場が一部屋あって、間借りでも随時、炊事出来るという状況である。』

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 上の写真が現在の碧雲荘である。周りの住宅とは打って変わって、昭和の雰囲気が漂っている。ここに太宰と初代が共に生活し、太宰はここで『人間失格』の原型である『HUMAN LOST』を執筆している。死ぬ直前に書かれた『人間失格』の元となった作品を書いた貴重な場所が今でも残っているというのは、訪れた私を非常に興奮させた。
 11月末には、熱海温泉に赴き、「二十世紀旗手」の改稿に着手。翌年の1月には「音について」を発表、2月には3月1日付発行の「若草」三月号に「あさましきもの」を発表するなど、病気の快復と共に執筆にも少しずつ力が入ってきた。が、ここでまた太宰にショックな出来事が起きる。
 小舘善四郎が、太宰の妻・初代と過ちを犯してしまったことを太宰本人に打ち明けたのだ。太宰は平静を装うが内心は強い衝撃を受けた。そして、初代を追及し過失を告白させた。
 3月中旬、太宰と初代は谷川岳の山麓でカルモチンによる心中自殺を図るも未遂に終わる。
 その後、太宰は碧雲荘に戻り、初代は井伏家を訪れ滞在(叔父である吉沢家に滞在したという説もある)、別居生活となった。
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 4月1日付発行の「新潮」4月号に『HUMAN LOST』を発表。8日、三姉あいが、「十歳を頭に四人の幼い子供たちを遺して」逝去した。
 6月に入り、初代との別離が決定し、21日、杉並区天沼一丁目二百十三番地鎌滝富方に単身移転した。初代は、碧雲荘での諸道具などを整理し、家財具等を実母方に発送。7月10日、家郷から送られてきた三十円を貰って、7月中旬に青森に帰った。

 碧雲荘での生活も太宰にとって、後味の悪い過去となってしまった(太宰も娼婦と散々遊んでいたみたいだが、それはいいのかな)。小舘善四郎が初代との過ちを太宰に打ち明けたことには経緯があったが、ここでは省略させてもらいました。後ほど書くつもりです。
 それにしても、太宰が住んだアパートがまだ残っているとは驚きでした。荻窪ではかなり貴重な建物ではないでしょうか。私が訪れたときは、どうやら誰も住んでいないようでしたので、建物自体も古いですし、もしかしたら近いうち取壊されるかもしれませんね。
 ですので、太宰に興味のある方は今のうちです。


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by dazaiosamuh | 2014-06-01 18:57 | 太宰治 | Comments(2)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)