遠い空の向こうへ

tushima.exblog.jp

太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

ブログトップ

<   2014年 05月 ( 9 )   > この月の画像一覧

 前回は別の記事(ゴールデンバット)を書きましたが、また荻窪紀行に戻ります。
 私が鎌滝跡の次に訪れたのは、井伏鱒二宅です。もう今さら言うまでもありませんが、太宰治の師です。鎌滝跡からそう離れていないです。
 今でもご家族、親類が住んでいるようで、人の出入りがありました。しかも、表札にも「井伏」と書かれていました。表札は文字が薄くなっており、近付かないとよく分かりません。載せた写真では見えないですが、門の右上の方に「井伏」と書かれています。
c0316988_21381632.jpg
 井伏宅から女性が一人出て来て、自転車に跨った所で、「あの、すみません。こちらが、井伏さんのお宅ですよね」と、思わず聞いてしまった。表札に「井伏」と書かれているのにわざわざ聞くのもどうかと自分で思った。女性は少し驚いた様子で「あ、はい、そうです。」と言って、私のことを少し不審に眺めながら自転車で去って行った。
 この出入りしていた女性に何か少しでも話を伺おうと思って、咄嗟に話しかけたのであったが、何も言葉が浮かんでこなかった。ただ不審に思われて終わってしまった。

 井伏鱒二は太宰に会った初対面のときのことを、『荻窪風土記』に書いていた。
『月日のことは覚えないが、筑摩書房の現代文学大系「太宰治集」の年譜で見ると、昭和五年(1930年)太宰治二十二歳、四月に大学仏文科に入学し、下戸塚の諏訪に下宿してゐるときで、四月か五月頃の見当である。太宰は赤っぽい更紗の下着に久留米の対の蚊絣を着て、紬の袴をはいてゐた。連れの青年は有りふれた紺絣の上下に袴をはいてゐた。私はこの初対面のときのことを、後になつて随筆で二度も書いたので、割合にこまごましたことまで覚えてゐる。』

 太宰はこの時、自分が書いた短編を赤い細いリボンで綴じて井伏に渡し、今読んでくれ、と言った。井伏はこれを読むがひどいものであった。それは、井伏が中村正常と合作で「婦人サロン」に載せた「ペソコとユマ吉」というナンセンス読物に似せて書かれていたからだ。井伏は太宰に言った。
『きみ、こんなペソコ・ユマ吉の真似をしちゃ、毒だ。こんなことをする前に、プーシキンやチェホフを読んだらどんなものかね』
 太宰は素直に頷き、新聞紙に原稿を包んで懐に入れた。
c0316988_21382421.jpg
 また、井伏は太宰の服装についてもふれていた。
『私は太宰の身なりを気にして、貸衣裳屋で借りて来たのではないだらうかと思った。今どき更紗の下着なんか身に着ける文学青年もないものだ。「きみは、兄さんがあるんだらうね」と訊いた。「あります」と答へるので、「その更紗の下着や蚊絣は、兄さんからの拝領ぢゃないのかね」と訊くと、太宰は咄嗟に、図星だと言わんばかりに頷いた。うまく調子を合わせ、我が意を得たと言ふかのやうに見えた。(中略)ところが後に太宰が亡くなって、津軽五所川原の中畑さんといふ太宰の後見人に会ったときその話をすると、「とんでもない。修ッつあんといふ人は、人のお古なんか着る人ぢゃごわせん。私は津島家出入りの呉服屋ですが、あの更紗の下着も揃ひの蚊絣も、私が見立てて送った覚えがごわす」と言った。』

 太宰は自身の作品のなかでも、自分の服装に就いて書いていたりと、やはり見栄坊な一面がちらちらと伺える。しかし、オシャレの度を過ぎてちぐはぐな印象を人に与えることもしばしばあったようだ。それでも、それが太宰のある意味、一種の特徴というのか、初対面の人間に「この男はなんだろう、何者なのだろうか」と思わせていたことは事実ではある。

 井伏は長くここ荻窪に住んだ。「荻窪風土記」には、井伏が荻窪に移り住んだ時のことや、戦時中のこと、太宰と出会った時のことも書かれているので太宰に興味のある方や昭和の荻窪について知りたい方は読んでみるのもいいかもしれない。



[PR]
by dazaiosamuh | 2014-05-28 21:42 | 太宰治 | Comments(0)
 荻窪紀行の途中になってしまいますが、太宰の愛用した煙草を紹介したいと思います。太宰が愛用したと言われている煙草というのが、日本たばこ産業から出されている『ゴールデンバット』です。
c0316988_12362532.jpg
『ゴールデンバット』は、1906年(明治39年)9月に販売されました。現在販売されている煙草の中では日本最古の銘柄として有名。2006年には発売100周年を迎えました。太宰は1909年生れなので、太宰より先に誕生してますね。
 この『ゴールデンバット』は、太宰の小説の中にもしばしば登場します。

『甲府へ行って来て、二、三日、流石に私はぼんやりして、仕事する気も起らず、机のまえに坐って、とりとめのない楽書きをしながら、バットを七箱も八箱も吸い、また寝ころんで、金剛石も磨かずば、という唱歌を、繰り返し繰り返し歌ってみたりしているばかりで、小説は、一枚も書きすすめることができなかった。』(富嶽百景

『…バットを七箱も八箱も吸い…』と書かれていますね。バットはもちろん『ゴールデンバット』のことです。この『富嶽百景』は太宰が気持ちを新たに、再出発のために師である井伏を追って天下茶屋に逗留しているときに書かれた小説です。
 1906年のバット発売当時は、10本入りで4銭だったそうです。現在は20本入りで200円。200円に値上がりしたのは、2010年10月の価格改定からで、それまでは140円だった。

 このバットは、両切りタイプで、いわゆるフィルターの付いていない煙草です。私は普段煙草を吸わないので、フィルターのない煙草など知りませんでした。それでも、太宰が愛用していたのなら、私も吸ってみようと思い買ったわけです。そして、吸った感想はというと、吸いにくい。フィルターがないので、吸い口の部分が湿ってボロボロになってきてしまった。葉も口に入るし、それに不味い。私の吸い方が下手なだけだと思いますが、あまり積極的に吸いたいと思わないです。ちなみに、タール18mg,ニコチン1.1mgです。普段吸わないので、味も含めて他の煙草と比べることができませんので、味の感想等、上手く伝えることができないのが残念です。
c0316988_12363620.jpg
 上の写真を見て分かる通り、フィルターは付いていません。見るからに吸いにくそうだと思います。
 他にも、『千代女』にもバットは登場します。
『私がお父さんのお使いで、バットを買いに行った時の、ほんのちょっとした事を書いたのでした。煙草屋のおばさんから、バットを五つ受取って、緑のいろばかりで淋しいから、一つお返しして、朱色の箱の煙草と換えてもらったら、お金が足りなくなって困った。おばさんが笑って、あとでまた、と言って下さったので嬉しかった。緑の箱の上に、朱色の箱を一つ重ねて、手のひらに載せると、桜草のように綺麗なので、私は胸がどきどきして、とても歩きにくかった、というような事を書いたのでしたが、何だか、あまり子供っぽく、甘えすぎていますから、私は、いま考えると、いらいらします。』

 こちらにもバットの名で、『緑の箱の上に…』などと書かれていますね。まぎれもなく『ゴールデンバット』です。当時からバットという通称で親しまれてきたようです。

 このバットは吸いにくかったため、私はフィルターを別で買い吸いました。やはりフィルターがあった方が吸いやすいですね。
 しかし、『女性徒』の中にこんな事が書かれていました。

『なぜ、敷島なぞを吸うのだろう。両切りの煙草でないと、なんだか、不潔な感じがする。煙草は、両切りに限る。敷島なぞを吸っていると、そのひとの人格までが、疑わしくなるのだ。』

 すみません、太宰さん。私にとってただでさえ口に合わないのに、フィルターなしでは吸えません。
 バットにフィルターを付けて吸うのは、太宰にとって邪道ということになりそうです。


[PR]
by dazaiosamuh | 2014-05-25 12:43 | 太宰治 | Comments(2)
『この時代の太宰はおそらく最も惨めな自分を感じていたはずだと、僕は考えている。パビナール事件にひきつづいて、武蔵野病院での屈辱の傷手もあった。(中略)すぐ近くの鎌滝という四等下宿で、じつにわびしい孤独の生活をはじめていたのである。「なにもかも駄目だった。ぼくがほんとに、駄目な男だということがよく判りましたよ」太宰がそういったことがあるが、太宰も生活の方針にも人間としての在り方にも、ほんとに窮してしまった時代であったと思う。』(「人間太宰治」 山岸外史)

 照山荘アパート跡の次に私が向かったのは、鎌滝富方跡だ。
 昭和12年の6月21日、太宰は杉並区天沼一丁目二百十三番地の鎌滝富方に、『蒲団と、机と、電気スタンドと、行李一つ』で、転居している。
c0316988_00424779.jpg
 私は、青海街道を慎重に歩きながら探したわけだが、どうにも、なかなか探すのに苦労した。当たっているかどうか、何度も自分で調べた住所を確認した。それこそ殆ど不審者と見誤られても仕方がないようなほど、目的地周辺をウロウロしたのだ。
 それでも、一応、鎌滝跡のあったであろう場所を見つけることができた。
c0316988_00423024.jpg
 上の写真の小奇麗な建物(マンション?)が、鎌滝富方跡だとおもわれる。言うまでもないが、当時の面影は全くない。
 太宰が居たこの鎌滝には、いろいろな人が集まっていたらしい。檀一雄や緑川貢、大学生などの文学青年たちもよく来た。山岸外史は、この時の太宰を訪ねたとき、よく連れだって、原っぱなどを散歩した。当時はこの付近にはまだそんな場所が残っていたようだ。檀一雄と三人で散歩したこともあった。
 また、山岸はこの鎌滝で太宰と一緒にお風呂に入ったこともあった。
『山岸君もはいらんかネ』
 そう言われ一緒に入った山岸は太宰の思わぬ毛深さに驚く。

『ぼくは、太宰の肉体をこれほど目近くみたのははじめてであった。銭湯では、かえって気がつかなかったが、太宰は偏平胸みたいに胸が平らで瘠せていた。雲助みたいな胸毛がかなり生えていた。
「君は、なかなか毛深い方なんだネ」
 ぼくがいうと、
「うん。アイヌの血が入ってるのじゃないかと思ってる」
 太宰はその胸毛を自分の指先で引っぱってみせたりした。』(「人間太宰治」 山岸外史)

 太宰が井伏鱒二と一緒にお風呂に入っている写真があるが、特に太宰の胸毛が濃いとは思わなかったがどうなのでしょう。
 
 この鎌滝に住んでいた頃も、太宰は阿佐ヶ谷「ピノチオ」での将棋会に参加。出席者16名、太宰は四勝九敗であった。これが昭和13年6月7日で、さらに、翌月7月12日でも将棋会に参加した。出席者10名で、四勝五敗であった。
c0316988_00424021.jpg
 その後、9月13日に井伏の勧めにより鎌滝方を引き払っている。
 山岸外史によれば、この鎌滝の下宿は相当ひどい部屋であったようだ。『この下宿というのは、たしかにひどく古くなった下宿で太宰の住んだことのある部屋のなかでは最もわびしい室であった。』(「人間太宰治」 山岸外史)

 どれだけ侘しい部屋だったのか、見てみたかったですね。それにしても、太宰は結果だけ見れば、将棋は弱いほうだったのでしょうか。それともお相手達が強すぎたのでしょうか。

 次回は、荻窪紀行ではなく別の記事を書くつもりなので、ご了承ください。

[PR]
by dazaiosamuh | 2014-05-21 00:46 | 太宰治 | Comments(4)
 太宰は昭和8年2月頃から昭和13年9月中旬ごろまでを杉並区で生活している。といっても、途中、病院に入院したり船橋で療養生活などをしているため、厳密には昭和8年から昭和13年までの5年間をずっと杉並区で生活していたわけではない。
 
 途中の船橋時代は、処女創作集『晩年』の出版やパビナール中毒、病院での手術、入院等、波乱の時期であり、杉並にまた戻って来た後は、初妻・小山初代との生活に終止符を打つなど、太宰の人生を語る上では外せない時期である。
c0316988_22353186.jpg
 荻窪は、太宰の師である井伏鱒二の住んだ町として有名だ。井伏自身も愛着があり、思い出深い町だったようで、「荻窪風土記」も残している。
 私は荻窪駅を出て、まずは太宰が昭和11年に住んだ「照山荘アパート跡」を探すことにした。
 前もって言っておくが、太宰が生活した時系列順通りに地を周ったわけではなく、少しでも効率良くまわるために、駅から近い順に散策したことをまず一言いっておく。
c0316988_22354241.jpg
 太宰が住んだとされる「照山荘アパート」は、光明院裏手にあったらしい。太宰は昭和11年の11月に板橋区の武蔵野病院を退院後、小山初代と井伏の夫人・節代が探しておいてくれた「照山荘アパート」に移り住んだ。初代と井伏節代がアパートを見つけたのが、11月12日のこと。この日の午後1時20分に退院した。
 武蔵野病院に太宰が入院中、主治医を務めた中野嘉一が書いた「太宰治 主治医の記録」に、『初代はほかへ転居した。退院後、杉並区天沼の白山神社うらの照山荘アパートに移り……』と書かれてる。
 さらに、年譜には『病院から、秋晴れの中を、初代とともに車で井伏鱒二宅に向かったあと、杉並区天沼の白山神社裏手の光明院裏の照山荘アパートに荷物を運んだ。四時頃、荻窪駅を発つ長兄文治を見送ったあと、初代と照山荘アパートに帰った。』と書かれていた。
c0316988_22354934.jpg
 上の写真の左が光明院です。ここら辺でしょうか。光明院は今もあるので、この近くであったことは確かなようです。太宰は、「照山荘アパート」のことは何も残していないため、他の人の証言や年譜でしか分かりません。荻窪駅から徒歩で5、6分ほどの場所にありました。
 
 ちなみに、太宰はこのアパートが気に入らず、僅か3日ほどで引っ越しています。11月13日に、初代と井伏節代が「貸間さがし」に行き、14日に「天沼に八畳の貸間」を見つけ、15日に引っ越しています。
 病院に入院しまわりに迷惑を掛けたり、折角、妻や井伏夫人が住居をさがしてくれたのに、気に入らないとは贅沢ですね。

 現在は全く面影を残していませんので、写真を見てもあまり面白くないと思いますが、荻窪紀行を少しずつ書き進めたいと思います。



[PR]
by dazaiosamuh | 2014-05-17 22:40 | 太宰治 | Comments(0)
 以前、太宰の生誕105年を記念して開催された太宰治展を見るため、神奈川近代文学館にわざわざ片道1時間半を掛けて行き、不幸にも休館日により時間とお金を無駄にしたが、今回、リベンジを果たした。
c0316988_21204630.jpg
 前回の失敗のおかげで、近代文学館までの道順を覚えていたためスムーズに辿り着くことができた(そりゃ当然だ)。
 そして、今回改めて到着すると、大きな太宰治展の看板の前に綺麗な赤い花が咲いていた。以前の記事の写真と見比べてほしいのですが、前回来た時は花は咲いていなかった。しかも今回は天気も良い。実に晴々とした気持ちだ。

 早速館内に入ったのですが、残念ながら、館内は写真撮影は禁止であった。太宰の展示物を見る前に、常設されている作家達の展示物を観たのですが、中でも夏目漱石のコーナーの範囲が広かった。夏目漱石の書斎を再現したコーナーもあった。他にも、太宰と関わりのあった作家達のコーナーも設けられていた。

 ざっと眺めた私は、最後のお楽しみに太宰のコーナーをまわった。ここでは、普段見ることのできない、貴重な資料を見ることができた。私が一番興味をそそられたのは、太宰が死ぬ前までの約10年間愛用した、アメリカ製エバーシャープの万年筆だ。硝子ケースに鼻の先がくっ付きそうになるくらいまで近付き、目を見開いて、まじまじと観察したのですが、型番は分かりませんでした(実はこれが一番見たかった)。他には、太宰が学生時代に書いた勉強ノートをパソコンから閲覧することができ、実に興味深かった。それにしても落書きの多いこと。太宰の描いた落書きを見ると、洋画の影響を受けていることがよくわかります。
c0316988_20085368.jpg
 私はてっきり、自分と同じで男性も多く観に来るとばかり思っていましたが、殆どが女性でした。しかも、男性の殆どは40歳以上で、若い男性は私だけでした(偶然かもしれません)。

 およそ2時間半程観て、文学館を出た私は、せっかく来たので中華街に行って見ました。
c0316988_20084317.jpg
 中華街に来るのは今回が初めてです。中華街に入ると、景色は一変。初めての中華街に、ただもう目を丸くするだけでした。多くの人で賑わい、時間帯もお昼時だったため、どこも満席に近い状態でした。文学館でずっと立ちっぱなしで疲れていた私は、早く座って腹を満たしたいと思い、適当なお店に入りました。
 お店に入ると、一番奥にある円卓しか空いておらず、そこに案内されました。
 後から別々の男性が2人入ってきて、同じ円卓に腰をおろしました。注文は私の方が数分早かったのですが、料理はほぼ同時に運ばれてきました。
c0316988_20085873.jpg
 周りのお客さん達は、楽しそうに一つのテーブルで友人や家族と一緒にランチタイムを楽しんでいるのに、私を含めて、見知らぬ男3人が、同じ円卓で三角形のポジションで黙々と、しかもムシャムシャと飯を食っている姿は、なんだか阿保のようでした。話しかけてみようかな、と思ったのですが、一人は新聞を、もう一人はスマホに夢中でとても話しかけられる雰囲気ではありませんでした。

 食事を終え空腹を満たした私は、さっさと店を出てぶらっと街中を見学し、帰路につきました。ちなみに、私が食べたのはパーコー麺と半チャーハンのセットです。中々おいしかった(ただ、他人と円卓で食べるのはもう嫌です)。

 太宰治展は、今月25日まで開催しています。実際に使った万年筆や油絵、原稿、草稿等、太宰を身近に感じることは間違いないです。興味のある方は是非、ご覧になってみてください。



[PR]
by dazaiosamuh | 2014-05-14 21:11 | 太宰治 | Comments(0)
 今日に於いて芥川龍之介を知らない日本人は殆どいないと思いますが、芥川の眠るお墓の場所を知らない人は多いのではないでしょうか。
 
 芥川のお墓は、東京都豊島区巣鴨の慈眼寺にあります。徒歩で10分以内で着けると思います(私は歩くのが早いためあてにならないですが)。広大な面積の墓地の間にある道筋を通り、ようやく慈眼寺に到着。
c0316988_22114379.jpg
c0316988_22115304.jpg
 看板には、芥川龍之介の名前も書かれていました。しかし、場所が分らないので探すことになったのですが、何せ有名人ですから発見するのにあまり時間はかからなかった。

 芥川は、1892年(明治25年)3月1日に東京市京橋区入船町8丁目(現・中央区明石町)に生まれました。1913年には東京帝国大学文科大学英文科へ進学しています。太宰も同じく帝大に進学していますね。在学中の1914年(大正3年)2には、第一高等学校からの友人・菊池寛たちと同人誌『新思潮』を刊行しています。この友人である菊池寛は、芥川の死後、芥川龍之介賞を創設する人物です。
 1927年(昭和2年)4月前後、芥川の秘書を勤めていた平松麻素子と帝国ホテルで心中未遂事件を起こしています。そういえば、太宰の小説にも帝国ホテルで男女が心中を図る描写が書かれていましたが、まさか何か関係でもあるのでしょうか。
 同年7月24日未明、田端の自室で服毒自殺を図り、社会に衝撃を与えた。
 妻・文だけでなく、菊池寛にも宛てた遺書もあった。自殺の動機とされている、「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」は有名だが、自殺直前に書かれた「河童」を初めとする晩年の作品群などからの厭世観や病的な心境から、完全な自殺の動機とは言えない。芥川の命日は、小説『河童』から取って河童忌と名づけられた。
 また、菊池寛は友人総代として弔辞を読んでいる。お墓には、すでに多くの花が。流石ですね。
c0316988_22120652.jpg
 太宰は芥川の自殺に強い衝撃を受けた。太宰が芥川に憧れていたことを、高校時代に一緒に過ごした大高勝次郎が「太宰治の思い出」に書いている。
『津島と井伏氏との密接な関係は人の知るところであるが、高校時代の津島の口から、一番多く出るのは、芥川龍之介の名であった。芥川の病的な鋭い神経、懐疑、革命の風潮に対する恐れを含んだ関心、自殺癖、等に対して、津島は深い共感を感じていたように思われる。幼いときから津島は身体が弱く不眠症に苦しみ、睡眠剤を用い、鋭利な神経や感受性をもて余していた。人間や世間に対する深い懐疑の点においても、津島は少年にしてすでに芥川と同じ道を歩いていたように思われる。だが、彼等の異常に鋭敏な感受性、狂的なまでに繊細な神経や体質は、当時の私には理解に苦しむものであった。』

 上記に書かれているように、どうやら太宰は芥川と非常に共感できる部分があり、それもあって好きになったのかもしれません。
 太宰は、咽喉から手が出るほど手に入れたかった芥川賞は取れませんでしたが、死後、まさか自分の賞「太宰治賞」ができるとは思ってもみなかったと思います。


 芥川龍之介
 1892年(明治25年)3月1日~1927年(昭和2年)7月24日
 代表作 「地獄変」「歯車」「今昔物語集」「藪の中」「芋粥」等


[PR]
by dazaiosamuh | 2014-05-10 22:15 | 太宰治 | Comments(0)
 ゴールデンウィークは休みを入れなかったため、休みは一日だけで、それ以外は仕事だった。その貴重な一日をどう過ごそうかと思ったが、やはり、外は人で混雑しているため、出かけるのが億劫で自宅でごろごろしていようかと思いましたが、ほんの少しだけ太宰のゆかりの地を周ることにした。
c0316988_21594132.jpg
 私は、本郷三丁目駅で降りた。ここは、太宰が帝大時代入学時に止宿した場所があるのだ。駅を出て東大の方へと進むと、以外にも沢山の人で溢れていた。私は、本郷三丁目に来ることなど殆どないため、どこを観光に周ればいいのか、まるで分かりませんが、人混みが嫌いな私は、すたすた目的地を目指して進んでいった。

『昭和5年3月、私たちは東京帝大受験のため上京した。津島は本郷区森川町の下宿屋に宿を取ったが、わざわざ生家から、夜具類を送らせるという入念さであった。(中略)受験のために東京に集まったときから、私たちはすでに、一つの会合を作った。私たち━━といっても左翼的傾向のある者ばかりであったが━━の会合の場所は、大抵津島の下宿であった。津島は賑やかな明るい人柄で、人の集まりの中にいるのがすきであったから、むしろ喜んで部屋を提供した。会合はまだ正規のものでなかったから、気楽な空気が充満していた。津島は例によって、おどけを発揮して皆を笑わせるのであった。』(「太宰治との思い出」 大高勝次郎)

 太宰が上京した時に泊まった、「本郷区森川町の下宿屋」は調べても見つけることができませんでした。あとでもう少し調査したいと思っています。
 
c0316988_21594888.jpg
 受験を終えた太宰は、一旦帰省し、また上京してきます。年譜には、『本郷区台町一番地小山とめ方』に止宿と書かれていました。太宰が居た当時は、文京区ではなく本郷区だったのですね。全然知りませんでした。
 太宰は1930年(昭和5年)の4月上旬から中旬頃の間に、ここに来たようです。現在は立体駐車場になっています。現在の住所で、文京区本郷5丁目30番地のあたりのようです。写真の奥に東大があります。目と鼻の先ですね。

 当時のままの建物は殆ど無くなっているので、実際に足を運んで直接見ても、あまりぱっとしませんね。
 ちなみに「太宰治との思い出」を書いた大高勝次郎は、1927年(昭和2年)から1930年(昭和5年)まで弘前高等学校の同級生としてつきあい、その後の2年半を東大の同期生としてつきあった貴重な人物です。

 帝大時代については後ほど書きます。


[PR]
by dazaiosamuh | 2014-05-07 22:04 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰の作品『火の鳥』『虚構の春』に帝国ホテルが登場する。帝国ホテルになど、一生泊まることなどないだろうと思っているが、太宰の作品に登場するため、せめて外観だけでも一目見ておこうと思い足を運んだ。
c0316988_18335624.jpg
 帝国ホテルは、1890年(明治23年)に開業した。建てられてから120年以上が経つ。つまり、太宰が生まれる前からあるのだ。細々と倹しく暮らしている私には、とてもじゃないが、泊まれるホテルではない。ただぼうっと眺めているだけである。
 ホテルを出入りする人々が、お上品に見えて仕方がない。思わず自分の身体を見て、一人で照れている自分がいる、そんな自分が、また、滑稽である。

火の鳥』は昭和13年の9月中旬頃から書かれた作品で、師である井伏鱒二が滞在する天下茶屋の2階に籠って書いた。

『その夜、二人は、帝国ホテルの部屋で、薬品をのんだ。二人、きちんとソファに並んで座ったまま、冷たくなっていた。深夜、中年の給仕人が、それを見つけた。察していたのである。落ちついて、その部屋から忍び出て、そっと支配人をゆり起した。すべて、静粛に行われた。ホテル全体は、朝までひっそり眠っていた。須々木乙彦は、完全に、こと切れていた。女は、生きた。』(火の鳥)

虚構の春』は『文学界』に昭和11年7月号に発表された。太宰の船橋時代に書かれた作品だ。

『━でも、そのときだって、やっぱり、情死おこなったんだろう。
 ━ええ、女が帝国ホテルへ遊びに来て、僕がボオイに五円やって、その晩、女は私の部屋へ宿泊しました。そうして、その夜ふけに、私は、死ぬるよりほかに行くとこがない、と何かの拍子に、ふと口から滑り出て、その一言が、とても女の心にきいたらしく、あたしも死ぬる、と申しました。
 ━それじゃあ、あなたと呼べば死のうよと答える、そんなところだ。極端にわかりが早くなってしまって居る。君たちだけじゃないようだぜ。
 ━そうらしいのです。私の解放運動など、先覚者として一身の名誉のためのものと言って言えないこともなく、そのほうで、どんどん出世しているうちは、面白く、張り合いもございましたが、スパイ説など出て来たんでは、遠からず失脚ですし、とにかく、いやでした。
 ━女は、その後、どうなったね?
 ━女は、その帝国ホテルのあくる日に死にました。
 ━あ、そうか。
 ━そうなんです。鎌倉の海に薬品を呑んで飛び込みました。』(虚構の春)

 この2つの作品の描写は、どちらも自身の鎌倉での心中の体験がもとになっていることは、すぐに読み取れる。太宰は昭和5年に、田辺あつみと鎌倉の小動崎(こゆるぎがさき)で、カルモチン嚥下した。
 
c0316988_18340469.jpg
 太宰は、どういった心境を持ってこの2つの描写を書いたのか。罪の意識からなのか。『火の鳥』では、男が死に女が生きたのびた設定になっている。あくまで私の推測だが、これは太宰が、「自分が死んで、女(田辺あつみ)が生き延びればよかったのだ」という罪の意識から、罪滅ぼしから書いたのではないかと思う。
 悔恨の念に押しつぶされそうになった太宰は、自虐することで、自分の行いに報いたのではないないでしょうか。そんな気がしてなりません。

 2つの作品に登場する帝国ホテルは、どちらも「死」が関わっており、太宰の実際の心中などから、深く考えさせられてしまいますが、そんな帝国ホテルは、2020年の東京オリンピック開催が決定して、国内のみならず国外からくるお客様を、最高のおもてなしで迎えるために、より一層力を入れて準備をしているようです。

 お金のある方は、ぜひ東京オリンピック開催時、帝国ホテルに泊まってみてはいかがでしょうか。

 
[PR]
by dazaiosamuh | 2014-05-04 18:40 | 太宰治 | Comments(0)

太宰治 篠原病院で手術

 昭和10年3月、太宰は新聞社試験失敗、そして鎌倉での<縊死>自殺未遂事件などを起していた。その翌月の4月4日には、原因不明の腹痛を訴え、東京市杉並区阿佐ヶ谷四丁目九百番地の外科、篠原病院に行き診察を受け、急性盲腸炎と診断され入院。
 翌日4月5日、手術を受けたが、少し手遅れで腹膜炎を併発して重態に陥るが、一命はとりとめる。しかし、入院中、患部の苦痛を訴え、パビナール(麻薬性鎮静剤、正式名日本薬局複方ヒコデノン注射液)注射を受け、次第に習慣化していく。太宰のパビナール中毒の原因は、この時の手術後の腹膜炎による患部の苦痛であった。
c0316988_21021140.jpg
 阿佐ヶ谷の篠原病院跡は、駅からそう遠くない徒歩3、4分の場所にあった。すでに篠原病院自体は無くなっており、別の建物に変わっていた。
 下の写真中央が、当時篠原病院があったとされる場所だ。今は全く面影を残していないようだ。
c0316988_20593905.jpg
 太宰は自身の当時を「東京八景」に、
『私は劇烈な腹痛に襲われたのである。私は一昼夜眠らずに怺えた。湯たんぽで腹部を温めた。気が遠くなりかけて、医者を呼んだ。私は蒲団のままで寝台車に乗せられ、阿佐ヶ谷の外科病院に運ばれた。すぐに手術された。盲腸炎である。医者に見せるのが遅かった上に、湯たんぽで温めたのが悪かった。腹膜に膿が流出していて、困難な手術になった。手術して二日目に、咽喉から血塊がいくらでも出た。前からの胸部の病気が、急に表面にあらわれて来たのであった。私は、虫の息になった。医者にさえはっきり見放されたけれども、悪業の深い私は、少しずつ恢復して来た。一箇月たって腹部の傷口だけは癒着した。』と書いている。

 書籍を見比べると、殆どが「急性盲腸炎」と書いているが、ある年譜には「急性虫様突起炎」と記載されていた。私は違いが分らなかったので調べたところ、一般的には「盲腸」というのは、医学的には急性虫垂炎が正式な病名らしい。大腸の盲腸という部位の下端に突出した虫垂突起の炎症で、これが「盲腸」といわれるゆえんだそうです。そして、「虫様突起炎」というのは、「虫垂炎」の昔の旧名のようです。

 当時は、今のように医学が進んでいたわけではないため、治るのにも時間が掛かったと思います。毎日注射などしなくても飲み薬でどうとでもなると思いますから、太宰も大変だったことでしょう。

 この後、静養を兼ねて長兄文治の友人が院長を務めている病院『経堂病院』に移ることになる。
 『経堂病院』については、また後ほど書きます。



[PR]
by dazaiosamuh | 2014-05-01 21:04 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)