遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 今年は太宰治生誕105年だ。これを記念して、神奈川近代文学館では太宰治展を開催している。行かないわけにはいかない。私も今日行って来た。この太宰治展は、先月の4月5日から5月25日まで開催している。前々から分かっていたが、実は今、腰を痛め、右足が坐骨神経痛で出かけるには非常に億劫な状態なのだが、徐々に治ってきたので行って見ることにしたのだ。
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 私の最寄駅からは、片道1時間半程掛かる。足に若干の痺れを感じつつも、我慢して電車に揺られたのであった。
 元町・中華街駅からが近代文学館に近いのだが、私はここに来るのは初めてでした。(横浜にすら行った事がないです)駅を出て、エスカレーターでどしどし上へと進んで行き、アメリカ山公園を抜け、外国人墓地の横を通り、真直ぐに目的地を目指しました。

 近代文学館の近くにまで来ると、何やら中学生たちが野外学習でもしているのか、グループになって見学をしていました。
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 途中、太宰治展の宣伝ポスターを数か所発見。中々、力を入れていると見える。少し私も興奮してきた。目的地までもう少しだ。自然に歩が早くなる。
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 ようやく辿り着くと、私の全身に衝撃が走った。
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 『本日は休館日です。

 そんな、ここまで来たのに休館だなんて、酷い、あんまりだ。自分がちゃんと調べないで来たのが悪かったのだが、よりによって自分が来た曜日が休館日だなんて。どうやら、月曜日が休館日のようです。行かれる方は、気をつけてくださいね。(こんな初歩的なミスをするのは私くらいなものですが)
 いつものことですが、つくづく自分はドジで、こんな自分に嫌気がさします。何のために来たのか、まるで分かりません。遥々、片道1時間半を掛けてこの有様です。途方に暮れた私は、仕方なく、すぐ横に建てられてある『大佛次郎記念館』へと入りました。
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 大佛次郎は、1897年(明治30年)10月9日に横浜で生まれました。代表的な作品は、『鞍馬天狗』『赤穂浪士』『帰郷』『パリ燃ゆ』などがあります。大佛は「猫は一生の伴侶」と語る程の愛猫家だったそうです。そこから生まれた「スイッチョ猫」という童話もあります。記念館の中に、大佛が集めた猫の絵や彫刻がたくさん展示されていました。ちなみに、亡くなったのは、1973年(昭和48年)4月30日です。明後日が命日ですね。
 しかし、実は恥ずかしながら私は大佛次郎の名前は知っていましたが、作品は一つも読んだことがありませんでした。読んでいれば、また違った気持ちで見学できたのかもしれません。後で読んでみようと思います。
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 今日は、午後に病院の予約をしていたため、ここであまりゆっくりできません。病院のある場所まで、電車で1時間は掛かります。かといって、帰るにも早すぎる。中途半端な時間を持て余している私は、近くの『港の見える丘公園』から「はあ…」と、虚しい溜息を一つ二つと洩らしながら、港をただ眺めるのであった。


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by dazaiosamuh | 2014-04-28 22:03 | 太宰治 | Comments(0)

太宰治 日比谷公会堂

 太宰の小説にも登場する日比谷公会堂は、1929(昭和4年)に竣工した。建築家8人による指名設計競技の結果、佐藤功一の案が採用され、その案をもとに清水組(現在・清水建設)が建てた。

 当時、東京では唯一のコンサートホールとしてプロのオーケストラの演奏会やリサイタルなども多く開かれた。しかし、東京文化会館を皮切りに、サントリーホール、東京芸術場、オーチャードホール、昭和女子大学人見記念講堂といったコンサート専用ホールやコンサートに使用可能な多目的ホールが整備されるにともない、コンサートホールとしての地位は徐々に低下して行ったのだった。
 そして、講演会、イベントなどの音楽会以外の利用が増え、クラシック音楽の演奏会は殆ど開催されなくなったのであった。
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『晩秋の夜、音楽会もすみ、日比谷公会堂から、おびただしい数の鳥(カラス)が、さまざまの形をして、押し合い、もみ合いしながらぞろぞろ出て来て、やがておのおのの家路に向かって、むらむらぱっと飛び立つ。』(渡り鳥)

 一応、太宰の小説には日比谷公会堂は登場しますが、実際に太宰本人が公会堂に入ったことがあるかは不明。
 この日比谷公会堂は、市政会館と同時に造られました。現在も同建物内に公益財団法人後藤・安田記念東京都市研究所(旧・東京市政調査会)があります。

『昨年の晩秋、ヨオゼフ・シゲティというブダペスト生れのヴァイオリンの名手が日本へやって来て、日比谷の公会堂で三度ほど演奏会をひらいたが、三度が三度ともたいへんな不人気であった。孤高狷介のこの四十歳の天才は、憤ってしまって、東京朝日新聞へ一文を寄せ、日本人の耳は驢馬の耳だ、なんて悪罵したものであるが、日本の聴衆へのそんな罵言の後には、かならず、「ただしひとりの青年を除いて」という一句が詩のルフランのように括弧でくくられて書かれていた。』(ダス・ゲマイネ)

 この短編で登場する、ヨーゼフ・シゲティは実際に1931年に初来日しているようですね。Wikipediaにも、『1925年にレオポルド・ストコフスキーの招きで渡米。その後1930年代に世界各国を回り、1931年には初来日を果たし、その翌年にも日本に来訪している』と記載されている。が、これもまた太宰が実際に演奏を聴いたのかは定かではない。
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 上の写真は、市政会館の正面です。日比谷公園を歩いているとすぐに視界に飛び込んでくる、塔時計と茶褐色のタイル張りの外壁。オフィスビルの建ち並ぶ中、クラシックな雰囲気で、心を落ち着かせてくれる。
 当初は公園の東北部に建築される予定だったそうですが、南東部に変更され、建築物の北側部分を公会堂(日比谷公会堂)、残りを会館とした。公会堂は東京市が、会館は東京市政調査会がそれぞれ管理した。

 ちなみに、1999年(平成11年)6月11日に、東京都景観条例に基づき「東京都選定歴史的建造物」となっている。また、2003年(平成15年)6月9日、千代田区景観まちづくり条例に基づき「景観まちづくり重要物件」に指定されている。

 太宰が、公会堂に実際に入ったのかは分からないが新聞社試験を受けに来たことはあるため、必ず目にしていたことは確かだ。公園も散策したに違いない。太宰が見た景色を自分も見ているのだ、と思えばファンとしては嬉しい限りだ。
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by dazaiosamuh | 2014-04-26 21:06 | 太宰治 | Comments(0)
 前回の記事では、日本プレスセンターについて書きましたが、プレスセンターに行った時に日比谷公園日比谷公会堂にも立ち寄ったので、今回は日比谷公園を載せます。

 日本プレスセンターのすぐ前にある大きな公園、日比谷公園は1903(明治36年)の6月1日に開園しました。
 明治30年代、日本ではまだ誰も西洋式公園を知らなかった。その時、ドイツ留学から帰ったばかりの本多静六博士が、日比谷公園の設計案をまとめ、明治34年からこの設計案を元に整備されたのが、はじまりです。
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 かつて、この場所は、幕末までは松平肥前守などの大名屋敷地で明治時代に入ると陸軍の練兵場だったそうです。
 設計案に見られるS字型の大園路、日本初の野外音楽堂として1905(明治38年)に初演した小音楽堂、西洋の花々を咲かせた第一花壇など、開園当時の面影も残るスポットも多くあります。この時代は、洋風文化の普及が急速に深まっていく時代ですね。太宰が学生時代に過ごした、青森の弘前町も洋風文化を多く取り入れていました。
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 それにしても広いですね。こんな大きな公園があるなんて知りませんでした。公園内外をジョギングする人も多くいました。(いつの間にか天気が崩れてきましたね)
 太宰の小説にも、少しだけ登場します。

『宴会の場所は、日比谷公園の中の、有名な西洋料理屋である。午後5時半と指定されていたのであるが、途中バスの聯絡が悪くて、私は6時すぎに到着した。』(善蔵を思う)

 「善蔵に思う」で登場する「有名な西洋料理屋」は、松本楼だと思います。しかし、写真を撮るのを忘れていました(しかも何も食べずに帰った)。後でまた記事にしたいと思います。

 この日比谷公園は、今年の6月1日で110周年を迎えます。何やらイベントも開かれるみたいです。ホームページには、「モダンガール、モダンボーイが闊歩した時代に思いを馳せ、さまざまな記念事業を開催します。」と記載されていました。

 普段、訪れたことの無い方も行って見るのもいいかもしれないですね。次回は日比谷公会堂について載せます。

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by dazaiosamuh | 2014-04-22 15:34 | 太宰治 | Comments(0)
『どうか頼む!太宰君、帰って来てくれ。今日も私は三浦半島へ君を捜しに行って帰って来たところだ。』(井伏鱒二)

 昭和10年3月16日、太宰治は失踪した。井伏鱒二は、杉並区署に捜索願を出し、長兄文治も打電によって郷里から駆けつけた。
 3月17日付「読売新聞」には『新進作家死の失踪?』の見出しで報じられた。

 太宰はこの事件の数週間前、東京帝国大学の落第が決定していた。帝大に入学してから約5年、卒業の見込みはなく、このままでは生家からの送金は途絶えてしまう。不安と焦燥が彼を襲った。
 それでも太宰は、新聞社に入ることができれば、もしかしたら……、という思いがあった。
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 太宰が入社試験を受けた都新聞社は、現在の内幸町日本プレスセンターにあった。私は、丸ノ内線に乗り霞ヶ関駅で降りて、その都新聞社が当時あった場所、現在の日本プレスセンターに足を運んだ。霞ヶ関で降りるのは今回が初めてであった。ほとんどビジネスマンしか見かけなかったため、私の目には堅苦しい印象に映った。

『今思い直してみると、都新聞の入社試験があったのは、三月前だったような気持がする。しかし、いずれにせよ、私に卒業の準備にと母から百円の金が送られて、太宰の見立てで、六拾円の青色の背広を買った前後のことだった。
 かりに、東大の卒業が駄目になるような事があるにせよ、都新聞にさえ這入れれば、と、太宰のこれは可憐な迄の悲願だった。
 当時、都新聞の学芸部に勤めていた、中村地平ともしきりに打合わせをし、いかにも大事げに、臆病げに、その忠告なぞにきき入っていたのを覚えている。しかし、丁度上泉秀信氏が学芸部長であり、井伏さんのすぐ近所で、今度は案外物になりはしないか、という妄想に大きな望みをかけているようだった。全く甲斐々々しく、太宰は大喧噪で、
 青い背広で心も軽く
 などと、流行歌を妹の前で口遊んで見せたりしながら、私の家から、その青い背広を着込んでいった。口頭試問の時であったろう。
 しかし、見事に落第した。』(『小説 太宰治』檀一雄)
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 上の写真の中央が、内幸町日本プレスセンターです。丸みをおびた上部が印象的です。都新聞社は昭和17年に、国民新聞と合併し「東京新聞」へと変わっています。

 新聞社に入れなかった太宰は、生家から「この春大学を卒業しなければ、以後、いっさい送金しない」などと言われていたこともあり、ショックを受け、負の塊となって、一人、鎌倉へと向かい自殺未遂事件(縊死)を起こしたのであった。
 太宰は、この時のことを『東京八景』に書いている。

『あくる年、三月、そろそろまた卒業の季節である。私は、某新聞社の入社試験を受けたりしていた。(中略)新聞記者になって、一生平凡に暮らすのだ、と言って一家を明るく笑わせていた。どうせ露見する事なのに、一日でも一刻でも永く平和を持続させたくて、人を驚愕させるのが何としても恐ろしくて、私は懸命に其の場かぎりの嘘をつくのである。私は、いつでも、そうであった。そうして、せっぱつまって、死ぬ事を考える。結局は露見して、人を幾層倍も強く驚愕させ、激怒させるばかりであるのに、どうしても、その興覚めの現実を言い出し得ず、もう一刻、もう一刻と自ら虚偽の地獄を深めている。もちろん新聞社などへ、はいるつもりも無かったし、また試験にパスする筈も無かった。完璧の瞞着の陣地も、今は破れかけた。死ぬ時が来た、と思った。私は三月中旬、ひとりで鎌倉へ行った。昭和十年である。私は鎌倉の山で縊死を企てた。』(東京八景)

 新聞社に落ちてしまった太宰ですが、私個人としては、新聞社でどんな働きを見せるのか、少し見てみたかった。正直、太宰の性格上、ちゃんとこなすようには見えませんが……、そんなこと言ったら失礼ですね。

 ちなみに、都新聞は明治から昭和の日刊新聞で1884年発行の夕刊紙(今日新聞)が前身。1888年(みやこ新聞)、1889年(都新聞)と改題している。小説や歌舞伎・花柳業界関係の記事に特徴があり、黒岩涙香の翻案小説、伊原青々園の劇評などが人気をよんだとされている。
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by dazaiosamuh | 2014-04-19 16:14 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰のゆかりの地で、阿佐ヶ谷はあまり関係ないと思っていたが、実は太宰に限らず、多くの文士達の溜まり場だったようだ。その阿佐ヶ谷では、井伏鱒二をはじめ、多くの文士たちが集まる懇話会が開かれていた。そして、会場となったのは阿佐ヶ谷駅前の「ピノチオ」というお店である。

 太宰治の年譜によれば、昭和15年12月6日、阿佐ヶ谷駅北口通りの「ピノチオ」で、文藝懇談会の第1回会合が開催され、太宰も出席した。出席者は、坪田譲治、井伏鱒二、田畑修一郎、木山捷平、小田嶽夫、外村繁、浅見淵、中谷孝雄、中村地平、亀井勝一郎、上林暁、そして太宰治の計12名。会の後、「ピノチオ」の表で二次会があり、太宰は夜半帰宅とのこと。以後、この会にはよく出席した。
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 上の写真は、阿佐ヶ谷駅北口のロータリーで詳細は分からないが西友の前あたりに「ピノチオ」があったとされている。
 さらに、阿佐ヶ谷将棋会などもあり、これにもまた太宰はよく参加した。書籍等を見ると、昭和15年に井伏鱒二の自宅にて、太宰と井伏が縁側で将棋を指す姿がよく載っている。果たして、太宰の将棋の実力は如何なものだったのでしょうか。この時代の盤上での遊戯といったら、将棋、囲碁、チェスくらいでしょうか。

 この「ピノチオ」では何かと会合が開かれていますが、何だかんだ言っても飲み会なのでしょう。他にも、翌年の昭和16年7月16日、「ピノチオ」での第1回「水曜会」というのも開かれ、上林暁、小田嶽夫、木山捷平、外村繁、亀井勝一郎、青柳瑞穂、井伏鱒二、田畑修一郎、浜野修、そしてやはり太宰治も参加した。以後、毎週水曜日夜、「ピノチオ」でこの会が開催された。
 また、徴集を受けた小田嶽夫、中村地平、井伏鱒二の為に、同年11月20日に「ピノチオ」にて送別会が行われた。

「ピノチオ」は中華料理屋だったみたいです。文士たちがよく集まったらしいのですが、つまり、ツケがきいたのではないでしょうか。この時代の作家たちが喜んで常連になる店といったら、値段が手ごろ、そしてツケがきくことだと思われます。現在の阿佐ヶ谷駅周辺を見渡すと、新しいお店ばかりで当時の面影はほとんどないようです。
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 そういえば、実を言うと私も将棋はよく小さい頃やっていました。小学生の頃、教室に将棋の道具が一式そろっており、雨の日等、外で遊べないときはよく友達とお昼休みに将棋を指したものです。(ほとんど負け戦でしたが)
 太宰はどんな戦法で戦っていたのか気になります。文士達の将棋は強そうな印象を持ってしまうのは、私だけでしょうか。
 久々に、将棋を打ちたくなる、そんなある日のことでした。
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by dazaiosamuh | 2014-04-16 09:45 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰が師事した一人に、佐藤春夫がいる。私はある日仕事帰りに、佐藤春夫のお墓参りへ行って来た。佐藤春夫のお墓は、文京区の伝通院にある。私は丸ノ内線「後楽園」で降りた。

 私は後楽園には殆ど降りたことがなかった。伝通院へと向かう出口を出ると、噴水のある公園があった。噴水があるとは思っても見なかった。夏は涼しげでいいかもしれない。この日は強風で、やたらと目に砂が入ったが、それでも小学生や親子が楽しそうに遊んでいた。日が暮れないうちに行こうと思い、歩を進めた。
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 伝通院は、後楽園駅から徒歩10分程の場所にあった。大きな堂々たる正門だ。早速、中に入ると何か行事でもあったのか、関係者たちが忙しそうに道具を運んでいた。私は彼らを尻目に墓所へと入っていった。本当は時間を掛けたくなかったので、お墓の場所を聞いてからにしようかと思ったのだが、まずは自力で探すことにした。事前に調べていたこともあり、なぜか根拠のない自信があったのだ。すると、墓所に入り探すこと僅か数分、今回はあっさり見つけることができた。
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 写真を見て分かる通り、銀色の立て看板のプレートに、大きく『佐藤春夫』と書かれているではないか。太宰のお墓はこういったプレートはないため、探すのに少し苦労したが、佐藤春夫のお墓は見つけやすかった。
 お墓には何もお供え物もお花もなかった。少し寂しい感じだった。しかも、私が訪れた時間も夕方4時半を過ぎていたため、一層寂しい印象を受けた。ただ名前の書かれた銀色のプレートだけは陽の光を反射して目立っているようだった。このプレートが無ければ、私はきっと探すのに相当手間取ったに違いない。

 太宰治は、船橋時代に佐藤春夫を師事するようになった。芥川賞のために、太宰の作品を推薦してくれていたのも佐藤春夫だ。『道化の華』を評価してくれたり、太宰の身体を心配して、芝済生会病院を紹介してくれたりと、太宰をかわいがった。

 佐藤春夫 1892(明治52)4月9日~1964(昭和39)5月6日

 『彼の死は信州の山中にあって知った。何れはそんな最期をしなければならない運命にある彼のような気がして、折角幾度も企てて失敗している事を今度は成し遂げさせたいような妙に非人情に虚無的な考えになっていた自分は、他人ごとならず重荷をおろしたような気軽るなそれでいて腹立たしい気がしたのを得忘れない。』佐藤春夫(『稀有の天才』より)
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 伝通院を後にし、再び後楽園駅のすぐ横にある公園を通ると、まだ子供たちが元気に遊んでいた。風も先ほどよりも冷たくなっていた。噴水の水は止まっていた。
 私にも、風にも負けず元気に外で遊んだ日があったものだと、しみじみ思いながら、子供たちの明日にも響く元気な声を背に、電車に乗り込んだ。


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by dazaiosamuh | 2014-04-12 17:49 | 太宰治 | Comments(0)
 先日、古本屋である本を見つけた。その本は太宰の「人間失格」なのだが、少し造りが違かった。よくよく手に取って見てみると、トランプのような手触りだった。タイトルの上の方に目をやると、『風呂で読める文庫100選』と書かれている。
 そう、文字通りお風呂で読むための本なのだ。
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 人間失格は、すでに何度も読んでいる。しかし、お風呂でただ黙って浴槽に浸かっているよりは、たとえ読んだことのある本でも、まあ良いかと思い、少し躊躇いながらも購入した。定価だと税抜き1000円だが、中古で280円で手に入れた。
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 内容に関しては、あえてここでは触れない。そんなことよりも、風呂で読めるというのが何より魅力だ。上の写真は、洗面に溜めた水に浸した『人間失格』だ。これくらい朝飯前だ。私は、早速お風呂で「人間失格」の世界に入り浸った。
 しかし、夢中になって読んでいたところ、不覚にものぼせてしまった。立ち上がると立ち眩みで危なく倒れるところだった。お風呂から上がって、改めて本を手に取り、表紙をめくると、しっかりと注意書きが書かれていた。

『警告! 本文は内外の秀作を集めました。読書に夢中になって入浴しすぎると健康を害するおそれがあります。十分な自己管理の下、入浴しすぎに注意しましょう。』

 どうやら、お風呂での読書は、私は初心者ですね。以後、気をつけたいです。それでも、濡れる心配をすることなく読めるのだから、何もお風呂だけに限定する必要はない。プールで泳ぎながらだって読める。夏は太陽の照り付ける青い空の下、プカプカと浮き輪の上で波に揺られながら読むことだってできる。スキューバダイビング中でもオッケーだ。勿論、飲み物をこぼしたって余裕綽綽。あえて台風の日に、この本を片手に平然と街を歩いてみるのも格好いいかもしれない。

 色々とふざけたことまで書いてしまいましたが、今現在、若い人たちの読書離れが進むなか、「場所を選ばず、気にせず読める」ということは、とても良いことですね。携帯やネットではなく、活字で読むことがとても重要なのです。
 お風呂で読書をしてみたいという方は、是非自分で好みの本を見つけて試してみてはいかがでしょうか。
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 ちなみに、私が買ったのはフロンティア文庫の『風呂で読める文庫100選』で、太宰の作品は『人間失格』の他に、『斜陽』や『走れメロス』、『津軽』があります。他にも、夏目漱石、宮沢賢治、芥川龍之介などもあり、さらには、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』、シェークスピアの『ロミオとジュリエット』など、多種多様です。

 皆さんも是非、有意義なbathtimeを過ごしてみてはいかがかな。

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by dazaiosamuh | 2014-04-08 21:29 | 太宰治 | Comments(0)
 先週、エイプリルフールである4月1日に井の頭恩賜公園へと足を運んだ。別段、お花見に行きたいわけでも無かったが、桜が咲く景色の中での太宰のお墓を写真に収めたかったので、そのついでに寄っただけのことである。

『吉祥寺で降りて、本当にもう何年振りかで井の頭公園に歩いて行って見ました。池のはたの杉の木が、すっかり伐り払われて、何かこれから工事でもはじめられる土地みたいに、へんにむき出しの寒々した感じで、昔とすっかり変わっていました。』(ヴィヨンの妻)

 私はまず吉祥寺駅で降りた。吉祥寺駅から、井の頭恩賜公園を通ってお墓に向かおうと思っていた。駅を降り立つと、春休みということもあって人の波がすごかった。流されるまま、井の頭公園へと進んでいった。

 到着し公園内を見渡すと、井の頭池を取り囲む桜の木々たちが目に飛び込んできた。その桜の木々、井の頭池を眺めながら沢山の親子連れがシートを敷き、お花見を楽しんでいた。他にもおじさんの集団が酒で賑わっていた。私がここへ来た時には、まだお昼もまわっていない。この分だと昼過ぎには酩酊してお花見どころでは無くなるのでは、と思った。
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 井の頭池では、ボートを楽しむ姿も沢山あった。孫と一緒に乗るおじいさんの姿、恋人同士で二人の世界に酔いしれる姿、若かりし頃に戻って楽しむ夫婦の姿、春の井の頭公園は、多くの人びとに幸福をプレゼントしてくれたようだ。
 
 この井の頭恩賜公園は、1917年(大正6年)5月1日に開園した。武蔵野三大湧水池の一つで、日本さくら名所100選にも選定されている。武蔵野市の南東から三鷹市の北東にかけて広がる大きな公園で、池は神田川の流れの一部も井の頭公園に含まれているらしい。
 ゆっくりと散策していると、池の水面にまで伸びた枝々、池の水に浸る桜の枝もあり、水面に映る桜の花、そして青空との鮮やかな対照は見事。

『ここは東京市郊外ではあるが、すぐ近くの井の頭公園も、東京名所の一つに数えられているのだから、此の武蔵野の夕陽を東京八景の中に加入させたって、差支え無い。』(東京八景)

 また、他にも太宰の小説に『水仙』『乞食学生』等、何度もこの井の頭公園は登場する。太宰は何度もここへ散策しに来たに違いない。ここで桜を見ながらお酒を飲む事はなかったのかな。
 
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  景色もそうだが、お花見を楽しむ親子の何とも幸せそうな姿に、私の心もまた幸せになった。満足であった。私の心に一枚の『芸術の絵』として残したい、そう思った。こんな幸福な姿をいつまでも見ていたかった。顔を上げ、咲き誇る桜に目をやり、「桜さん、早く散らないでください。彼らの幸福な時間を、少しでも長く与えてください。お願いします。」、心からそう願った。

 井の頭公園を後にし、私は太宰のお墓へと向かった。前回は大雪の日に行った時だ。雪景色の太宰のお墓と違って、桜と一緒に写る太宰のお墓は、ぽっと温かみがあるように見える。季節によってお墓もまた変わるのだ。すでにお花が供えてあった。
 太宰も空の上でお酒を飲みながら、お花見を楽しんでいるに違いありません。
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 私はこの日、冒頭で書いた通りお花見をしに来たわけでは無い。だが、青空の下、咲き誇る桜に魅了され、幸福な家族の姿に心を打たれた。実に思いもよらぬ幸福を受けたのだった。

 エイプリルフール

 つまり、いままでお花見の季節は飲み食いしか頭になかった私にとって、思いもよらぬ幸福に、良い意味で、まんまと騙されたのであった。

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by dazaiosamuh | 2014-04-07 14:57 | 太宰治 | Comments(0)
 美容院での、カットとパーマを終えた私は『若松屋』へと再び来た。時間も開店数分前で、丁度よかった。お店に入ると、3代目を引き継いだばかりの、小川雅也さんの次男・祐二さんと雅也さんの妻・優美子さんが元気に迎えくれた。私は早速、カウンターの席に腰を下ろした。昼食も食べず、しかも、折角来たのだからと、一番ボリュームのある「二段重」を注文した。
 
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 店内は落ちついた雰囲気で見渡すと、沢山の有名人も来たことがあるようで色紙がカウンター席頭上に飾られていた。
 さらに、三鷹時代に『若松屋』に来た時の太宰の写真も飾られていた。他にも太宰の初版本など、太宰関連の本が棚に並べられている。
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 私は太宰のゆかりの地と聞いて、それが目的で此処へ来たのだと話した。話を聞くと、やはり私のような太宰が好きな人も多く来店するようだ。北は北海道から南は沖縄まで、沢山の人が来るそうです。それだけもあり、2代目・雅也さんの死は残念でなりません。急性心筋梗塞で、夜中に寝ている間に亡くなったそうです。一度、お会いして見たかった。

 棚に並べられている太宰関連の本は、お客さんが持ってきて寄贈してくれたものだそうです。中には、当時の新聞の切り抜きをファイリングしたファイルも数冊あり、当時、太宰のファンだった女性が寄贈してくださったのだそうです。

 棚の本などに夢中になっている内に、鰻重が運ばれてきました。私が頼んだのは「二段重」で、やはりボリューム満点。当然ですが、真ん中にも鰻があり食べごたえ十分、ビールと一緒にいただきました。
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 美味い!!美味すぎる!!待った甲斐がありました。実は、私は恥ずかしながら、この時に至るまで、国産の鰻重を食べたことがありませんでした。スーパー等で、安い中国産の鰻重しか食べたことがありません。初めての国産鰻重に何とも尊い、「あぁ」という溜息が漏れました。
 ちなみに、メニューに「眉山セット」というのがあり、これは太宰の短編「眉山」から取ったもので、鰻とお鮨が両方楽しめる贅沢な品だ。

 太宰は当時、三鷹での若松屋を舞台に「メリイクリスマス」や「眉山」を書いている。「メリイクリスマス」は、「中央公論」で昭和22年1月号に発表された。疎開した津軽から約1年3ヶ月ぶりに上京して書いたものだ。

『私の眼には、何の事も無い相変わらずの「東京生活」のごとくに映った。』(メリイクリスマス)

眉山」は、「小説新潮」で昭和23年3月号に発表された。一人の少女の少し哀しい短編だ。 

 ここへ来た太宰が、ここに何度も通った気持ちがすぐわかりました。食べ終わっても、すぐに「もっと食べたい、もう一品頼もうかな」と思ってしまう程でした。聞くところによると、太宰はやはり、お酒を飲むと饒舌になったそうです。
 美味しいです、と言うと、お二人とも嬉しそうな笑顔になるのが分かりました。

 私は、ここで1時間程ゆっくりしていきましたが、お二人とも優しく、親切でした。少々値段は張るが、それだけの価値のある鰻重です。近くまで来た方は、是非寄ってみてください。
 
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by dazaiosamuh | 2014-04-04 21:32 | 太宰治 | Comments(0)
 先月、私は国分寺駅を訪れた。太宰治が食べた鰻を、今でも当時のタレを守り続けているお店があるという情報をネットで見つけて、是非とも食べたいと思いやって来たのである。

 国分寺駅を出た私は、早速お店に向かおうとしたのだが、駅前で新米美容師のお姉さんに声を掛けられた。なんでも、練習をしたいからカットモデルになってほしいらしい。料金も格安で、カットとパーマで3500円ほどでできるとのこと。掛かる時間を聞いたら、4時間程らしい。丁度私は髪を切ろうと思っていたのと、パーマをかけてみたいと思っていたところだったので、お昼を食べたら行きます、と言い、12時半頃に美容院に行く予約を取った。『若松屋』はランチタイムは11時から13、14時頃までやっているとネットで見つけたので、11時に着くように家を出たのだ。美容師さんから名刺を受取り、あいさつして一先ず目的の『若松屋』へと足を運んだ。
 
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若松屋』は、元々は、太宰がいた当時は三鷹に店を構えていた。先代、小川隆司さん(故人)が1945年秋に三鷹南口近くで始めた屋台の鰻屋だった。三鷹に住んでいた太宰は常連で、隆司さんとも懇意だったらしい。
 さらに、太宰はこの『若松屋』を舞台に、短編小説『メリイクリスマス』や『眉山』を書いている。太宰の死後、隆司さんは若松屋をたたみ、国分寺市に転居した。二代目、雅也さんは81年にすし店『東鮨』を開き、父の勧めで、三鷹時代のタレを再現した鰻料理も出した。10年には、『若松屋』の店名を復活させた。雅也さんは、「太宰さんのおかげで商売を続けていける」と感謝したという。
 しかし、2014年1月26日、雅也さん(58)は急性心筋梗塞で亡くなった。3年前に膀胱癌の手術を受けた雅也さんは、入院前、会社勤めをする次男・祐二さんに鰻の割き方や名物・厚焼き玉子の焼き方を徹底的に仕込んだ。現在は、雅也さんの次男・祐二さんが、3代目として継いでいる。
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『若松屋』は、国分寺駅から徒歩10分以内の場所にあり、看板には、堂々と太宰治ゆかりの店と書いてありました。
 しかし、営業している様子がなく、嫌な予感がした。店頭に貼られている営業時間を見ると、17時から、と書かれていた。やってしまった。時間を間違えた。たしかに此処に来た人のブログ、掲示板に、11時からやっていると書いている人がいたのだ。何度もお店の前をうろうろした。うろうろしたところで早くお店が開くわけでもない。
 
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 私は、近くの小さな川に架かる橋から、下で泳ぐ鯉を眺めながら思案に暮れた。その時、美容師さんが言った、パーマに4時間掛かるという言葉を思い出した。17時までの時間潰しに丁度良いではないか、これしかないとばかりに美容院へと急いだ。

 美容院に到着すると、先ほどのお姉さんが迎えてくれた。事情を話すと、「どうりで早いと思いました」と言われてしまった。店内にあるヘアーカタログから無難なスタイルを選び、早速カットとパーマを掛けてもらった。
 今回はあくまでカットモデルなので、担当の女性は電話対応等の雑務をこなしながらの作業になった。初めてパーマを掛ける自分の姿に吹き出しそうになった。くるくると巻かれた頭を見て、実に滑稽だとすら思った。まだ慣れないせいか、何度も同じ個所を、巻いては解き、巻いては解きを繰り返されて、流石に頭皮が引っ張られて痛かった。引っ張られる度に、私の眉毛は八の字に吊り上がった。その自分の表情を見て尚更吹き出した。
 今日は、鰻重を食べるために朝食を抜いてきたのだ。その方が、美味さが倍増すると思ったからだ。しかも、お昼も食べていない。あと少しの辛抱で鰻重が食べられると思うとよだれが出る。ごくりと唾を飲み込んだ。
 それでも座りっぱなしでお尻も痛かったが、どうやら無事に終わった。

「結構、かかりましたね。」
「す、すみません。何度も巻くのに時間がかかってしまいました。」

 
 傷つけるつもりはなかったが、言ってしまった。
 そして、最後に軽く髪を洗い、ワックスもつけてもらい、少しばかりワクワクしながら鏡で自分の姿を見た。
 
 そこには、まるで別人のアホ面の男が座っていた。提示したカタログのヘアースタイルとは、随分差があった。
「こいつ誰?」そう思った。
 その女性が、上司を連れてきて、「ご希望通りの仕上がりでしょうか?」と聞いてきた。私は、新人のお姉さんのためにならないと分かってはいたが、「はい、大丈夫です。満足しました。」と答えた。お姉さんは、ほっとした様子だった。
 しかし、本来はカットとパーマで1万円は超えることと、相手が新人で、あくまで私はカットモデルとして、練習台であることを引き受けて来たので、「まあいいか」と思った。こうやって美容師の卵たちは腕を磨いていくのだ。少しでも何か手ごたえを感じ取ることができたのなら幸いだ。

 終わってみると、時計の針は17時を近かった。希望の髪型ではなかったが、新人のお姉さんのこれからの期待を胸に、ある意味、清々しい気持ちでお店を後にし、『若松屋』へと向かったのであった。

 
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by dazaiosamuh | 2014-04-01 19:02 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)