遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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『玄関の左横に夾竹桃が一本植えられてあった。太宰は私を散歩に連れだす時に、指さして、「夾竹桃だよ。檀君、夾竹桃」
 私の郷家の辺りでは珍しいことも何もない。太宰がどうしてそのように嬉しそうに、又繰りかえし語るのかわからなかったが、太宰の追憶の中に、この木にまつわる思い出でもあったのか?
 太宰は単衣の手織の着流しに、細い竹のステッキを振りながらよろよろとよろけ出た。考えると、夾竹桃には花がついていたように覚えているから、最初に船橋に太宰をたずねていったのは、夏でなくても、初秋であったろう。』(小説 檀一雄)


 太宰は、船橋に転居してきた年の8月に近所から夾竹桃を貰ったようだ。『めくら草紙』の中に書かれていた。
 夾竹桃を欲しがった理由に『隣りの庭の、三本の夾竹桃にふらふら心をひかれた。』と書き、さらに、『つやつやした小造りの顔の、四十歳くらいの婦人がでて来て挨拶した。少しふとって、愛想のより口元をしていて、私にも、感じがよかった。三本のうち、まんなかの夾竹桃をゆずっていただくことにして、私は、お隣りの縁側に腰をかけ、話をした。たしかに次のようなことを言ったと覚えている。
「くには、青森です。夾竹桃などめずらしいのです。私には、ま夏の花がいいようです。ねむ。百日紅。葵。日まわり。夾竹桃。蓮。それから、鬼百合。夏菊。どくだみ。みんな好きです。ただ、木槿だけは、きらいです。』
と書いている。
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 実は、船橋の中央公民館前広場の文学碑のそばに、太宰が植えた夾竹桃は移されていた。旧宅跡の案内板には、「船橋は、太宰文学の飛躍の地であるとともに、生涯の中できわめてゆかりの深い土地の一つである。」(船橋市教育委員会)と書かれていた。太宰の船橋での生活がいかに重要であったかがうかがえる。太宰の作家としての実力は、船橋公認、お墨付きなのだ。
 
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 ところで、夾竹桃とはどんな花かというと、キョウチクトウ科キョウチクトウ属の常緑低木もしくは常緑小高木で、和名は、葉が竹に似ていること、花が桃に似ていることかららしい。元々はインド原産で、日本へは、中国を経て江戸時代中期に伝来したという。特徴は、葉は長楕円形で、両端がとがった形。花は、6月から残暑の頃である9月まで開花する。五弁にわかれ、プロペラ状に曲がる。色は、ピンク、黄色、白など多様の園芸品種がある。
 調べていて少し驚いたことに、この夾竹桃は毒性があるらしい。強い経口毒性があり、野外活動の際に調理に用いたり、家畜が食べたりしないように注意が必要であるとのこと。さらに、花、葉、枝、根、果実すべての部分と、周辺の土壌にも毒性があり、生木を燃やした煙にも毒がある。
 中毒症状は、吐気、嘔吐(100%)、四肢脱力(84%)、倦怠感(83%)、下痢(77%)、非回転性めまい(66%)、腹痛(57%)など。中毒事例も多数あるが、乾燥や大気汚染に強いため、街路樹などに利用されている。
 ちなみに、花言葉は、「用心・危険・油断しない」だそうです。
 それにしても、なんだか少し怖い花ですね。絶対触りたくないです。たぶん、太宰はこの花の特徴など知らなかったと思います。この時期の太宰はパビナール中毒で禁断症状などもありましたが、まさか夾竹桃の影響もあったのでは?、と思ってしまうのは私だけでしょうか。今となっては分かりませんが。

 太宰は、船橋の自宅を引き払うときのことを『十五年間』の中でこう書いている。
『私には千葉県船橋町の家が最も愛着が深かった。私はそこで、「ダス・ゲマイネ」というのや、また「虚構の春」などという作品を書いた。どうしてもその家から引上げなければならなくなった日に、私は、たのむ!もう一晩この家に寝かせて下さい、玄関の夾竹桃も僕が植えたのだ、庭の青桐も僕が植えたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れていない。』

 パビナールで苦しむ太宰の瞳には、夾竹桃の花がとても綺麗に見えたのかもしれません。郷里の青森になくて、珍しかっただけでここまで執着するとは思えませんが、何かしら太宰の心の琴線に触れるきっかけでもあったのか。デビュー作『晩年』の出版をまたぐ時期でもあるため、太宰の心に強く思い出として残っているのかもしれません。

 船橋時代に書いた作品は、主に、「ダス・ゲマイネ」昭和10年10月号の「文藝春秋」に発表、「めくら草紙」は「新潮」昭和11年1月号に発表、「虚構の春」は処女創作集『晩年』に収容された「道化の華」とともに、昭和12年6月、3部曲「虚構の彷徨」として「道化の華」「狂言の神」「虚構の春」の順で構成され、新潮社より刊行されました。

 太宰が愛した夾竹桃は毎年、綺麗な花を咲かせているようです。なごり惜しんだ夾竹桃は、今現在、船橋の公民館前広場のすぐそばで、駅からは徒歩5分以内の場所にあります。この文学碑のそばで、立派に咲く夾竹桃を、太宰は喜んで見てくれていると思います。

 

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by dazaiosamuh | 2014-03-27 21:38 | 太宰治 | Comments(0)
『晩年』の出版はぐずついた。(中略)太宰の方は、モヒ中毒のせいか、あの頃は全くこらえ性が無かった。やきもきと私に督促する。即刻、自殺でも決行しかねないような、電報、書簡の間断のない連続である。』(小説 太宰治)
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 砂子屋書房の主人が株にも相当手を出していたようで、それが2・26事件の株価の変動に会い、遅延の理由だと、檀一雄は言われたようであった。それでも何とか『晩年』の出版の話は着々と進んで言った。
 
 太宰は佐藤春夫らの勧めで済生会芝病院(後程、詳しく書きます)を10日間の約束で入院、退院後の昭和11年3月12日に第2回芥川賞が発表されるが、該当者は無かった。同年の6月には『晩年』は完成し25日に刊行された。『小説 太宰治』には、『「晩年」は希望通りに出来上がった。しかし、太宰のモヒ中毒の方は、勿論の事なおらなかった。』と書かれている。
 そして、太宰はその初刊行本を川端康成に寄贈し、その礼状への折り返しに『第二回の芥川賞 くるしからず(中略)労作 生涯いちど 報いられてよしと 客観 数学的なる正確さ 一点のうたがい申しませぬ 何卒 私に与えて下さい (中略) 早く、早く、私を 見殺しにしないで下さい』と記して投函した。
 『晩年』の出版記念祝賀会は、昭和11年7月11日に上野精養軒にて、豪華な顔ぶれで行われた。
 
 8月に入り、『晩年』が第3回芥川賞の有力な候補に上がっていることを、佐藤春夫から聞かされて有頂天になる。8月7日には、パビナール中毒と肺病を癒すため、群馬県の谷川温泉に行き投宿した。
 有力な候補に上がっていながら、しかし、檀一雄らの懸命な働きや、川端への泣訴状もむなしく、8月10日過ぎ、第3回の芥川賞に落ちたことを知らされて強い衝撃を受けた。
 
 その後、パビナール中毒の太宰を心配した妻・小山初代は、井伏鱒二に相談。相談を受けた井伏も他の友人たちと話し合い、太宰に麻薬中毒の治療を強く勧め説得し決意させた。そして、昭和11年10月13日に板橋区の武蔵野病院(後程、詳しく書きます)に入院し、入院中に船橋の自宅は引き払い、太宰の船橋時代は終わるのであった。
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 太宰の船橋時代の写真に、お稲荷の像が写っている写真があるのですが、どうやらネットや書籍で調べたところ、御蔵稲荷のことらしい。川奈部薬局を後にした私は、その御蔵稲荷神社へと向かいました。
 この稲荷神社も、旧宅跡から5、6分の場所にありましたが、お稲荷の像も新しく造り直されていました。小さい神社ですね。横は公園でした。
 
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『保田与重郎が、一度、太宰を語って、「船橋時代とか、甲府時代とか、住みついている場所によって、その作家の時代と環境を劃して意味があるのは、今日もう、太宰をおいて他にないだろう」という意味のことをいっていたが、私も同感であった。』(小説 太宰治)

 太宰にとって、船橋時代は病気、麻薬との戦いであったか。病気、薬で弱る中での芥川賞落選は、心身共に負担であったはず。いくら心配していたとはいえ、小山初代では、太宰を支えるには力量不足だったのではないかと思われた。
 
 この船橋時代に行った、済生会芝病院、武蔵野病院は後でじっくり書きたいと思っています。
 船橋時代の記事は、あと一回で終わりになります。

 

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by dazaiosamuh | 2014-03-24 22:10 | 太宰治 | Comments(0)
『借銭は、最悪の罪であった。借銭から、のがれようとして、更に大きい借銭を作った。あの薬品の中毒をも、借銭の慚愧を消すために、もっともっと、と自ら強くした。薬屋への支払いは、増大する一方である。私は白昼の銀座をめそめそ泣きながら歩いた事もある。金が欲しかった。私は二十人ちかくの人から、まるで奪い取るように金を借りてしまった。死ねなかった。その借銭を、きれいに返してしまってから、死にたく思っていた。』(東京八景)

 この『東京八景』に書かれている薬屋とは、太宰が通っていた長直登病院から徒歩4,5分の所にある『川奈部薬局』のことだと思われます。川奈部薬局から薬を買っていたことも、長篠康一郎著「太宰治 文学アルバム」に書かれていました。どうやら、長直登医師が名刺の裏にパビナールの処方を書いて渡していたとのこと。この時、川奈部薬局で太宰に薬を渡していたのは、川奈部薬局の当主新之助の長男・川奈部真佐雄であった。
 文学アルバムには、『船橋地区におけるパビナールは、川奈部薬局が当時一手で各病医院に納入していた関係で、在庫量、使用量はつねに正確に記帳されており、川奈部薬局以外からの入手は考えられない。』と書かれている。川奈部薬局であったことは確かなようだ。
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 上の写真が現在の川奈部薬局で、今でも代々残っているようです。病院から真直ぐ進んでいくとすぐに見つけられます。外壁の色が黄色で分かりやすいですね。
 太宰は、パビナールを一日に、二本又は三本を用いていたとされている。苦しみの中、昭和10年に東京帝国大学を授業料未納により、9月30日付で除籍されている。
 翌年の昭和11年(1936)2月には、佐藤春夫宛の封書で、「芥川賞をもらへば、私は人の情に泣くでせう。さうして、どんな苦しみとも戦って、生きて行けます。(略)私を、助けて下さい。」と哀願した。受け取った佐藤春夫は、井伏鱒二らから太宰の現状を聞かされていたこともあり、パビナール中毒治療のために、入院を強く勧めた。

 同じ頃、太宰を非常に心配していた人物がいた。それが、前の記事にも書いた檀一雄である。
『あの頃太宰は。よく泣いた。(中略)太宰も自分の苦悩の来源の薄弱さに、しばしば疑いの心を持つようだった。しかし、落ち込んだ妄想を、是正するというよりは、その妄想と心中しようという、太宰らしい純情に生きるようだった。(中略)おそらく太宰は自殺を選ぶだろう。だから、何としても、「晩年」を今の中に上梓しておきたいと思った。大きい封筒に入れられた儘、「晩年」の原稿は、早くから私が預かっていたからである。』

 太宰に芥川賞を取らせてあげたいために、砂子屋書房に掛け合い「晩年」の刊行に向けて尽瘁する檀一雄や、太宰の体を心配し病院を強く勧める佐藤春夫、井伏鱒二らの苦労は計り知れない。薬の使用量は増える一方で、太宰の知らないところで多くの友人たち作家仲間が、太宰を助けるべく行動を起こしていたのだ。
 ちなみに、妻の小山初代が川奈部薬局へ薬を求めに来たことは、一度も無かったという。
 小山初代については、後程、詳しく書こうと思っています。


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by dazaiosamuh | 2014-03-20 10:48 | 太宰治 | Comments(0)
『私が、はじめて船橋に太宰を訪ねていった時は、南の縁側に籐の長椅子を出して腰をおろし、ボンヤリと薄目を開きながら、太宰はビールを飲んでいた。』
『太宰は殆ど食事らしい食事はとっていないようだった。例の鶏卵とビールを交互に同じコップで飲みほしながら、それでも空想は豊富に湧くらしく、次から次へと語り倦かなかた。』(檀一雄著 『小説 太宰治』)
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 船橋時代、友人の檀一雄が太宰家を訪れたときの様子を詳細に書いている。心身共に弱りながらも酒はやはり手放せなかったようだ、いや、辛いからこそ酒を飲むのか。
 太宰は昭和10年7月から長直登病院に通うようになった。「病床日誌」によると「七月七日頃ヨリ腹痛ノ為毎日医師ヨリ麻薬注射ヲ受ケ習慣化スルニ至リ」と書かれている。病院は、太宰宅から徒歩約7、8分、「船橋大神宮」のすぐ横にある。太宰研究家の長篠康一郎が調べ場所が特定さている。
 長篠著「太宰治文学アルバム 女性編」に長直登医師のことが書かれているので引用させてもらう。
『この長先生は、まことに風変りなお医者さまであった。「人間は、その遺伝にも進化にもまた発生にも、医学の力を殆ど必要とはしていない。無医の僻地山漁村にも子供は生まれ、順調に成育し、医薬の恩恵を知らぬまま天寿を全うする人々も多い。言い過ぎ、穿ちすぎだとは思うが、忌憚なく云って、かような人々は、間違った医学からの被害から、免れている点もありはしないだろうか」「医学の理想は、医学、医師、病医院の必要を無くすることであろう。少なくとも、”造病医学”の汚名からは脱却したいものである」 いつもこんな調子なのだから、患者に対してもよほどのことがなければ、薬も多くは与えない。勿論、やたらと注射を打つこともしない。この一事だけでも、おのずから平素における長直登の人柄がしのばれるのではないだろうか。』
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 上の写真が、長直登医院のあった場所です。現在は別の病院になっていますが、建物は中々古く、当時のままではないでしょうか。
 注意平成28年11月17日・補足 長医院がこの場所にあったのは、大正15年から昭和5年にかけてで、その後は別の場所へ移転している。太宰が通ったのは昭和10年のため、移転後の長医院に通ったことになる。
 神宮のすぐ横にあったため、ここは迷うことなく見つけることができました。「船橋大神宮」の境内はとても広く、休日にのんびり散策するにはいいかもしれない。

 太宰は酒、薬等により、どんどん借金は膨らんでいった。そして、精神的にも弱り、それがまた飲酒や注射の回数を増やしていった。
 借金は、保田与重郎、芳賀檀、亀井勝一郎、淀野隆三などから送金嘆願の書簡を受け取っている。
「イノチノツナ」「シヌマデワスレヌ」「テヲアワセル」「タノミマス」等、太宰らしい電文で打たれている。他にも、知友、親戚にも嘆願の文字をつらねた手紙や電報を出していたと見える。

 檀一雄は、一二度、太宰に聞いたことがある。
「君。何か麻薬の注射をやっていやしない?」
「いや、いいんだ。何でもないんだ」
と、太宰はあわてて、云いまぎらすふうだった。(中略)自殺。という疑いが時折、私の心にも頭をもたげた。是非とも芥川賞の授賞にありつかせてやり度いものだ。

 檀一雄の太宰に対する想いやりが伝わってくる一文だ。しかし、太宰の苦しみはまだまだ続くのであった。
 次回は、薬局について載せます。

 重要補足とお詫び】 平成28年11月17日(木曜日)
 親切な方からのブログのコメントで、この記事に誤りがあることが判明。太宰治は昭和10年7月から長医院に通うようになったと書き、当時写真の場所にあった長医院に通ったと載せてしまいましたが、事実は、大正15年から昭和5年までは実際に川久保医院のある場所に長医院があったが、同じく昭和5年に別の場所へ移転し洋館の長医院を開業したとのことです。そのため太宰治が通った長医院というのは、移転後の長医院になります。
 私の調査不足と勝手な思い込み、勘違いが原因です。誤った情報を与えてしまい申し訳ありません。深くお詫びします。

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by dazaiosamuh | 2014-03-14 23:20 | 太宰治 | Comments(0)
 海老川に架かる「九重橋」を渡った私は、再び住宅地の中へと入って行った。太宰の旧宅跡まで、もう、すぐそこまでであった。スマホのネットを駆使して太宰旧宅跡があろう場所まで来た。
 そこは、細い路地であった。時間帯がお昼時であったこともあり、人通りは皆無であった。路地を、旧宅跡があるであろう箇所をじっと見ながらゆっくりと進んだ。すると、一軒の家の前で、私の視界に石碑の上部が飛び込んできた。
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 家の壁のすぐ真横と、車の間に挟まれながら、さりげなく石碑が建てられていた。明らかに、家ができてから無理やり造られたことは、写真を見れば一目瞭然である。写真少し左にある赤茶色の細長い石碑だ。「太宰治旧居跡」と彫られている。
 太宰が書いた葉書の案内図だけでは、ここへ辿り着くことはできず、書籍やネット等を利用させてもらい、無事にたどり着くことができてよかった。

 さて、太宰治はここ船橋に昭和10年の7月1日に転居してきた。以前の記事にも書いたが、盲腸炎をきっかけに、手術後の腹膜炎を起こし、その苦痛を和らげるために打っていた注射で重度のパビナール中毒に陥ってしまう。そのため心配した周囲の勧めなどもあり、船橋に療養のため転居してきたのだ。
 また、『晩年』の『めくら草紙』の中でも移り住んできたことが書かれている。
 『私がこの土地に移り住んだのは昭和十年の七月一日である。八月の中ごろ、私はお隣の庭の、三本の夾竹桃にふらふら心をひかれた。欲しいと思った。私は家人に言いつけて、どれでもいいから一本、ゆずって下さるよう、お隣りへたのみに行かせた。家人は着物を着かえながら、お金は失礼ゆえ、そのうち私が東京へ出て袋物かなにかのお品を、と言ったが、私は、お金のほうがいいのだ、と言って、二円、家人に手渡した。』
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 船橋の借家は、八畳、六畳、四畳半の三間と台所、風呂付きで、四十坪程の庭があった。家賃は十七円であった。ここへ移った約一週間後の7月7日頃から、腹痛のため医師から注射(パビナール)を受け習慣化するようになったと言われている。
 この時に太宰を診た医師は、長直登と推定されている。転地療養のために船橋へ移ったというのに、パビナール中毒は加速するばかりであった。さらに、転居後、佐藤春夫の義兄から第1回芥川賞の最終候補に『逆行』と『道化の華』が上がっていることを知らされ舞い上がるが、『逆行』は次席に入選し、『道化の華』は落選に終わった。『道化の華』は落選したが、これを推薦してくれた佐藤春夫を以後師事するようになる。
 また、『文藝春秋』9月号に芥川賞選考経緯が公表され、その中で作家で選考委員の川端康成私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざるの憾みがあったと述べた。私生活の恥部を指摘され、激昂した太宰は反論した。「小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と。
 これに対して、川端は同誌11月号に芥川賞選考経緯に対する太宰の誤解を招いたことに素直に大人の対応で詫びつつ、後に「根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と厳しく戒めた。
 これが、所謂芥川賞事件の発端である。

 太宰の元々の被害妄想意識に、パビナール中毒も加わり心身共に太宰の言動は狂言的になっていった。さらに、『東京八景』に『船橋に移ってからは町の医院に行き、自分の不眠と中毒症状を訴えて、その薬品を強要した。のちには、その気の弱い町医者に無理矢理、証明書を書かせて、町の薬屋から直接に薬品を購入した。気が附くと、私は陰惨な中毒患者になっていた。たちまち金につまった。私は、その頃、毎月九十円の生活費を、長兄から貰っていた。それ以上の臨時の入費に就いては、長兄も流石に拒否した。当然の事であった。私は、兄の愛情に報いようとする努力を何一つ、していない。身勝手に、命をいじくり廻してばかりいる。(中略)私は、日本一の陋劣な青年になっていた。十円、二十円の金を借りに、東京へ出て来るのである。雑誌社の編輯員の面前で、泣いてしまった事もある。あまり執拗くたのんで編輯員に怒鳴られた事もある。』

 どうやら、太宰の船橋生活は心身だけではなく、借金だらけでボロボロだったようです。芥川賞を取れれば借金も返すことができ、自分の名を広めることもできるのだ。さらに原稿料もあがり、今後の執筆、小山初代との生活にも余裕ができ、作家としてさらなる飛躍をすることもできる。
 しかし、ことはそう簡単に進むことはなかった。

 ちなみに、船橋で書かれた『ダス・ゲマイネ』は昭和10年10月号の「文藝春秋」に発表された作品で、タイトルはドイツ語で、通俗性、卑俗性を意味する言葉らしいが、これに対して師の井伏鱒二は、「ハイカラ過ぎる」と題を変更するように言ったが、太宰は「変えるつもりはない」と語り、その真意については言葉を濁した。
 後年、津軽を旅した井伏は、そこで「ダス・ゲマイネ」が津軽の言葉にも通じていることを知った。
 それは、津軽弁で「ン・ダスケ・マイネ」とは「それだから駄目」という意味だったのである。


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by dazaiosamuh | 2014-03-12 23:32 | 太宰治 | Comments(0)
 海老川へ出ることのできた私は、この海老川に架かる橋『九重橋』を渡りました。道順としては、太宰旧宅跡から最も近い橋は、この『九重橋』です。太宰が生前の時からあったなら、この橋を渡っているはずです。ですが、たとえ昔からあっても造り直されていますね。
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 歩き疲れたため、この橋の上から川を眺めながら少し休憩しようと思い、橋の欄干に近づくと、そこにはなんと、太宰治の『走れメロス』の文学碑が本の形をしたレリーフとして造られていました。
 この橋に文学碑があるということは、やはり太宰が通ったことのある橋だと思われます。この橋の近隣に住む住民は、少なからず太宰に親しみながら生活しているということでしょうか。しかし、欄干に近づかないと中々気づくことができない。太宰がいた当時は、ここからの景色はどうだったのでしょうか。現在は、私の見る限りでは、この川を眺めて癒されるとは正直言い難い。太宰が書いた葉書の案内図には、「空き地」と数か所書かれているので、当時の見晴らしはいまよりは幾分良かったのかもしれない。
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 文学碑のレリーフを見ると、太宰の顔も彫られているが(造った人に失礼ですが)あまりカッコよくないような気が……。
 ちなみに、「走れメロス」は「新潮」昭和15年5月号に発表された作品で、ギリシャのダーモンとフィジアスという古伝説によったシラーの『担保』という詩から題材をとっているらしいです。小中学校で、国語や道徳の教科書にも載っていましたね。内容は覚えていなくても、作品名は知らない人はいないはず。有名作品ではありますが、折角ならここ船橋で書いた作品をレリーフにすれば良かったのでは、と思いました。これだと太宰が船橋に住んでいた時に「走れメロス」を書いたと誤解する人もいるのではないでしょうか。

 そういえば前回の記事で、「次回は、いよいよ太宰治旧宅跡へと向かいます。」と書いておきながら、結局今回の記事でもまだ書いてません。

「メロスは激怒した」「走れメロス」ならぬ「読者は激怒した」「走れ黒森富治大」

 次回は必ず、太宰治旧宅跡を書きます。

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by dazaiosamuh | 2014-03-04 22:33 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)