遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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『私は院長の指図で、千葉県船橋町に転地した。海岸である。町はずれに、新築の家を借りて住んだ。転地保養の意味であったのだが、ここも、私の為に悪かった。地獄の大動乱がはじまった。』(東京八景)

 太宰が書いた葉書の案内図は非常に分かり難い。そのため、他の書籍なども活用し道筋を辿って行くことにした。
 案内図をよく見ると、船橋駅と京成船橋線の間を左折するようだ。左折する角には、「タナカ薬局」と書かれている。
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 しかし、現在はタナカ薬局は無くなっているようです。当時とは全く違うお店が並んでいます。案内図には左折する道は一本しかないが、現在も一本しかないためここであっているはずです。早速左折して進んでゆくのですが、ここからが大変です。図には何も目安がありません。どこで右折すればいいのか分かりません。右折した先を見ると、京成線を越えた先に、どうやら小学校があるようです。とりあえず小学校を目指します。
 ある程度進み、京成線を越えてみるも小学校は見当たりません。住宅地に入ってしまいました。毎度のことですが道に迷ったようです。小学校のように大きい建物ならすぐに見つかりそうだと思っていたのですが、中々見つけられません。やむを得ずスマホの地図で確かめることに……。
 スマホの地図で、自分が来た道を目で追い現在地を確かめると、小学校はすぐ近くにあるようです。地図を見ながら慎重に進んで行くとようやく見つけられました。
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 ここが案内図に載っている小学校だと思います。見にくいですが船橋小学校です。どうりですぐに見つけられないなと思ったら、私が来た時は改装中(工事かな?)でした。場所は当時のままだと思います。
 小学校を西に進んで行ったのですが、また道に迷ってしまいました。この時、昭和を感じさせる古い旅館を発見しました。
 
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 どうやら現在は使われていないようです。今でも船橋では、こういった取り壊されていないレトロな建物が、まるでそこだけ時間が止まってしまっているかのように残っている場所があるようです。太宰も利用したことがあるのかな、なんて思わず考えてしまいますね。
 
 書籍やスマホ等で調べ、道を抜け出た私は、どうにか海老川まで来ることができました。ここまで来れば、あともう少しの辛抱です。太宰の旧宅跡ももうすぐだと思います。ここまでで、およそ30分程掛かってしまいました。道に迷ったり、スマホで調べたりもしたので、本来なら10分も掛からないのではないでしょうか。
 太宰がいた当時は、海がもっと近かったようですが、埋め立てられています。
 太宰の『黄金風景』では、『ひとびとの情で一夏、千葉県船橋町、泥の海のすぐ近くに小さい家を借り、自炊の保養をすることができ、毎夜毎夜、寝巻をしぼる程の寝汗とたたかい、それでも仕事はしなければならず、毎朝々々のつめたい一合の牛乳だけが、ただそれだけが、奇妙に生きているよろこびとして感じられ、庭の隅の夾竹桃の花が咲いたのを、めらめら火が燃えているようにしか感じられなかったほど、私の頭もほとほと痛み疲れていた。』と書かれています。
 
 毎年、夏は気温が上昇し異常気象だと言われていますが、太宰が過ごした夏も『寝巻をしぼる程の寝汗とたたかい』中々暑かったようです。いくら夏の気温が昔より上がっているとはいえ、太宰がいた時代はクーラーなどなかったのですから、さぞ大変だったと思います。
 次は、いよいよ橋を渡って太宰の旧宅跡に向かいます。
 

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by dazaiosamuh | 2014-02-28 20:34 | 太宰治 | Comments(0)
 『私には千葉県船橋町の家が最も愛着が深かった。』(十五年間)
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 太宰が亡くなったのは39歳の時だが、その2年前、37歳の時に書いた短編「十五年間」には、千葉県船橋町の家が最も愛着が深かったと書いている。三鷹、船橋等は有名だが他にもどこで生活していたかと言うと、これもまた「十五年間」の中で自身が書いているので、紹介しよう。

 『私はたいてい全部を失い、身一つでのがれ去り、あらたにまた別の土地で、少しずつ身のまわりの品を都合するというような有様であった。戸塚。本所。鎌倉の病室。五反田。同朋町。和泉町。柏木。新富町。八丁堀。白金三光町。この白金三光町の大きい空家の、離れの一室で私は「思い出」などを書いていた。天沼三丁目。天沼一丁目。阿佐ヶ谷の病室。経堂の病室。千葉県船橋。板橋の病室。天沼のアパート。天沼の下宿。
甲州御坂峠。甲府市の下宿。甲府市郊外の家。東京都下三鷹町。甲府水門町。甲府新柳町。津軽。
 忘れているところもあるかも知れないが、これだけでも既に二十五回の転居である。いや、二十五回の破産である。』

 この挙げられた二十五箇所の中には、転居とよべるのかは分からないが病室等も含まれている。
 では、この中で船橋での生活は太宰にとってどのようなものだったのか、なぜ船橋が最も愛着が深かったのかを見ていきたい。

 昭和10年4月初旬、急性盲腸炎の手術で阿佐ヶ谷の病院(篠原病院)に入院。手術を受けるも、腹膜炎を併発し、患部の鎮静のために、ほとんど毎日パビナール注射を受ける。(この時からパビナール中毒の魔の手が忍び寄る)
 その後「血痰出デシ為」、五月上旬、世田谷区経堂町の経堂病院(現・児玉経堂病院)に移り、1ヶ月ちょっと入院。7月1日に予後療養のため、妻の初代と共に千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿1928番地に転居した。船橋では、京成電車の線路を渡り海老川の方へと散歩することも多かったようだ。
 太宰は、神戸雄一宛に自身の船橋の自宅案内図入りの葉書を書いている。今回は、その葉書を元に太宰の住んでいた旧跡地へと進んでみようと思う。下のイラストが、太宰が書いた案内図入りの葉書だ。

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 この案内図を見てどうでしょうか。少し、大雑把過ぎやしませんか。しかも見にくいですね、というより字が読めないです。太宰はこれでも真剣に書いたのでしょうか。聖地巡り泣かせです。当時の船橋は、現在の船橋とは町並みも少し違うはずです。区画整理もされていると思います。葉書の上の方に「ハガキが汚くて失礼です。おゆるし下さい。」と書かれています。分かっているなら丁寧に書きなさいよ、太宰さん。本当に失礼な案内図です。ただでさえ私は方向音痴なのに。

 果たして! 私は無事に太宰の自宅跡に辿り着けるのか!


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by dazaiosamuh | 2014-02-23 22:04 | 太宰治 | Comments(0)
『私は、独りで、きょうまでたたかって来たつもりですが、何だかどうにも負けそうで、心細くてたまらなくなりました。けれども、まさか、いままで軽蔑しつづけて来た者たちに、どうか仲間にいれて下さい、私が悪うございました、と今さら頼む事も出来ません。私は、やっぱり独りで、下等な酒など飲みながら、私のたたかいを、たたかい続けるよりほか無いんです。
 私のたたかい。それは、一言で言えば、古いものとのたたかいでした。ありきたりの気取りに対するたたかいです。見えすいたお体裁に対するたたかいです。ケチくさい事、ケチくさい者へのたたかいです。』


 この太宰らしい文章は、昭和23年1月8日ごろから書かれた『美男子と煙草』の冒頭部分で、先輩作家や批評家たちから酷評された時のことをこの作品で取り入れている。『古いものとのたたかい…』、この言葉の意味には、生家との関係や自分のドロドロとした過去の体験も含まれているのでしょうか。さらに『見えすいたお体裁に対するたたかいです。』とも書いています。これもまた生家の父・源右衛門、後を継いだ長兄・文治との確執などの体験も意味していると思われます。太字は全て『美男子と煙草』から引用。

 『私は、負けそうになりました。先日、或るところで、下等な酒を飲んでいたら、そこへ年寄りの文学者が三人はいって来て、私がそのひとたちとは知合いでも何でも無いのに、いきなり私を取りかこみ、ひどくだらしない酔い方をして、私の小説に就いて全く見当ちがいの悪口を言うのでした。私は、いくら酒を飲んでも、乱れるのは大きらいのたちですから、その悪口も笑って聞き流していましたが、家へ帰って、おそい夕ごはんを食べながら、あまり口惜しくて、ぐしゃと嗚咽が出て、とまらなくなり、お茶碗も箸も、手放して、おいおい男泣きに泣いてしまって…』

 気の弱い太宰の泣く描写は定番ですね。『ぐしゃと嗚咽が出て』の『ぐしゃ』という表現は太宰特有で他の作品にも出てきます。太宰好きの読者なら、この表現がたまらないでしょう、太宰の上手い表現が発揮されています。
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「上野の浮浪者を見に行きませんか?」
「浮浪者?」
「ええ、一緒の写真をとりたいのです。」
「僕が、浮浪者と一緒の?」
「そうです。」

 こうして太宰は、『なぜ、特に私を選んだのでしょう。太宰といえば、浮浪者。浮浪者といえば、太宰。何かそのような因果関係でもあるのでしょうか。』と思いつつ、くやし泣きの日から、数日後に、雑誌者の記者に連れられて、上野駅の地下道へと行きます。下の写真は、現在の駅構内と地下道。太宰がいた時代とはだいぶ変わってしまっていると思います。特に駅構内は違うのではないでしょうか。地下道はどうだったのでしょうか。
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『私は、地下道へ降りて何も見ずに、ただ真直に歩いて、そうして地下道の出口近くになって、焼鳥屋の前で、四人の少年が煙草を吸っているのを見掛け、ひどく嫌な気がして近寄り、「煙草は、よし給え。煙草を吸うとかえっておなかが空くものだ。よし給え。焼鳥が喰いたいのなら、買ってやる。」
 少年たちは、吸い掛けの煙草を素直に捨てました。
 これでも、善行という事になるのだろうか、たまらねえ。私は唐突にヴァレリイの或る言葉を思い出し、さらに、たまらなくなりました。
 私は風邪をひいたような気持になり、背中を丸め、大股で地下道の外に出てしまいました。
 四五人の記者たちが、私の後を追いかけて来て、
「どうでした。まるで地獄でしょう。」
 私は声を出して笑いました。
「地獄?まさか。僕は少しも驚きませんでした。」
「実は、僕なんにも見て来なかったんです。自分自身の苦しさばかり考えて、ただ真直を見て、地下道を急いで通り抜けただけなんです。でも、君たちが特に僕を選んで地下道を見せた理由は、判った。それはね、僕が美男子であるという理由からに違いない。」
 みんな大笑いしました。
「いや、冗談じゃない。君たちには気がつかなかったかね。僕は、真直を見て歩いていても、あの薄暗い隅に寝そべっている浮浪者の殆ど全部が、端正な顔立ちをした美男子ばかりだということを発見したんだ。つまり、美男子は地下道生活における可能性を多分に持っているということになる。君なんか色が白くて美男子だから、危いぞ、気をつけ給え。僕も気をつけるがね。」』
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 太宰は、地下道を出て公園前の広場に行きます。すると先ほどの四、五人の少年たちが外で遊んでおり、太宰はふらと近寄ってしまい、記者たちに写真を撮られてしまいます。
 そして、後日、家に届いた写真を妻に見せるのですが…。

『「これが、上野の浮浪者だ。」と教えてやったら、女房は真面目に、「はあ、これが浮浪者ですか。」と言い、つくづく写真を見ていたが、ふと私はその女房の見詰めている箇所を見て驚き、「お前は、何を感違いして見ているのだ。それは、おれだよ。お前の亭主じゃないか。浮浪者は、そっちの方だ。」
 女房は生真面目過ぎる程の性格の所有者で、冗談など言える女ではないのである。本気に私の姿を浮浪者のそれと見誤ったらしい。』

 この『美男子と煙草』は、前年の昭和22年12月22日に「日本小説」の雑誌記者と上野に行った時に見た浮浪児を元に書かれた。僅か10数枚の短編小説なのだが、5枚目以後は、取材に同行した記者の口述筆記になっているらしい。
 日本は敗戦後、上野駅、盛り場、公園などには、戦災で両親を失った浮浪児たちが多数うろつき、上野の地下道は、家を失った人々、家も両親も失い住む場所もない浮浪児が住み着いていて、2列か3列になり、ムシロや炭俵などを敷いて寝ていた。およろ1千人以上がたむろしていたと言われている。

 太宰は、この地下道での光景を見て、どう思ったのでしょうか。というのも、『美男子と煙草』を書くため、上野に取材に行った年の3月に、次女・里子が生まれており、同年11月には、愛人・太田静子の娘・治子が誕生している。戦災で親を失い、行き場を失った子供を見て、自分の収入で、果たして家族を路頭に迷わせることなく養っていけるのか、太田静子の子供まで生まれてしまった中、このまま表沙汰にならずにやっていけるのか、という思いが太宰の心のなかにあったはず。
 その後、執筆した昭和23年1月8日から約2か月後の3月に『美男子と煙草』を発表した。
 それから僅か3ヶ月後に、愛人・山崎富江と玉川にて心中するなど、誰もが夢にも思わなかったことだろう。

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by dazaiosamuh | 2014-02-14 12:52 | 太宰治 | Comments(0)
 東京に雪が降った。実に16年ぶりの大雪らしい。私は東京に来てまだ3年も経っていないことと、東北出身であることもあって、大雪と言われてもさほど驚きはしなかった。しかし、東京はほんの少しの積雪が交通網に大きな影響を与えてしまう。
 前日のニュースで、大雪が降るため外出は極力控えるようにと、どこのニュース番組でも放送されていた。私はニヤリとし、そして興奮した。この時を待っていたのだ。太宰治のお墓の雪景色をいつか撮ろうと思って、チャンスを待っていたのだ。しかも、16年ぶりの大雪である。たとえ、電車の本数が減らされようとも、ダイヤが乱れようとも、雪にも負けず、風にも負けず、絶対に雪景色のお墓を拝みに、写真を撮りに行こうと強固な決意を胸に床に入った。

 翌日、朝起きると窓の外は真っ白な銀世界である。しかし、積雪の多さの珍しさより、久しぶりに見る雪に懐かしさを感じた。今日は、ダイヤ乱れ、遅れが発生するはずである。早めに出ようと、朝食を済ませ身支度を整え、8時半には家を出た。
 朝は特に何の影響もなく三鷹にたどり着くことができた。
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 三鷹には以前も来たことがあり、お墓に行った時の記事も書いている。雪の降りしきる中では、写真も上手く撮れず、見にくいことと、雪のない晴れた日にじっくり散策し、記事にしたいと思っているので、今回は詳しく書かず、あくまで三鷹の太宰ゆかりの地の雪景色バージョンを楽しんでもらえたらと思っています。ご了承ください。
 
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 最初に太宰治文学サロンに寄った。実は、前日に三鷹の太宰ゆかりの地が書いてある地図をコピーしておいたのだが、忘れてきてしまったのだ。相変わらずドジである。そのため、文学サロンでマップを購入(100円)。ここは元々、伊勢元酒店があり、太宰一家が利用していたそうです。現在は文学サロン。
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 文学サロンから僅か徒歩10秒ほどの場所には、美登里家鮨跡で太宰馴染みのお寿司屋さんがあったが、現在はマンションになっています。
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 他にも文学サロンがある通りには、野川家跡、千草跡があり、野川家は山崎富江の下宿先で、親しくなった1947年(昭和22年)9月頃から、2階を仕事場にしていました。太宰最後の日、ここから2人で玉川上水へと向かいます。現在は、永塚葬儀社になっています。千草は小料理屋で、こちらも同年7月から仕事場にしていました。現在はビルになっています。
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 三鷹から文学サロンに向かう途中には、太宰横丁と呼ばれる通りがあり、小さな飲食店が並んでいて、太宰が通ったことで通称ができたそうです。太宰横丁の脇には田辺肉店離れ跡があり、1947年(昭和22年)4月から、「斜陽」を書き継ぐために、田辺肉店のアパートを借りていました。現在は三鷹の森書店となっています。
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 さらに太宰横丁の近くには、うなぎ若松屋跡があり、太宰が編集者との打ち合わせ場所にしていたそうです。現在はさくら通りになっています。ちなみに、若松屋は場所を移転し、現在は国分寺にあります。先月、2代目がお亡くなりになったそうで、息子さんが3代目として受け継ぐそうです。
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 若松屋跡から三鷹駅沿いにある陸橋へと向かう途中には、中鉢家跡ある。1946年(昭和21年)11月、疎開から戻った太宰は、ここで「ヴィヨンの妻」などを執筆。斜め向かいは郵便局があります。中鉢家跡は現在マンションになっている。郵便局は今も同じ場所にあります。
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 陸橋は1929年(昭和4年)に竣工され今も殆ど当時の姿のままで残っています。殆どの場所が面影もなくなっているなか、陸橋は当時の姿のままで残っているので、太宰の聖地巡りでは貴重な場所と言えよう。しかも、太宰はこの陸橋を気に入っていて、何度も訪れたようです。
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 太宰が入水したと言われるポイント地点付近には、玉鹿石の石碑があります。
雪の積もる玉川上水もまた、違う顔があってなかなか見ごたえがありました。雪の影響もあってか、水量も若干多いようです。
 途中、公園のトイレに寄ったのですが、ホームレスのおじさんがいて「寒くないのですか」と聞くと、「東京に来て43年。寒さには慣れたが、流石に今日は風が冷たい」と言っていました。この男性にマップを見せて、「今、現在地はどこか分かりますか」と聞くと、丁寧に教えてくれた。おじさんに挨拶をして再び散策に戻った。
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 太宰と富江が発見されたのは、この新橋付近と言われています。現在の橋は当時と違って造り直されています。近くで学生たちが元気に雪合戦をしていました。私は、あまりの寒さに、だんだんカメラのボタンが押せなくなってきました。自分の吐く息でなんとか温めながら、雪に苦戦しながらどしどし進みます。
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 この郵便局のすぐ横にあるホンダカーズの場所に、連雀湯がありました。太宰一家で銭湯に入りに来たようです。それにしても寒い、ここに今も銭湯が残っていたら、迷わず入っていたのにと思わず考えてしまった。
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 お次は、井心亭(百日紅)で市の和風文化施設です。百日紅が植えられています。すぐ近くには、太宰治旧宅跡あるのですが、自分の勘違いから違う場所を撮ってしまいました。折角寒い中、苦労して来たのに残念であった。

 最後はいよいよ太宰の眠る禅林寺である。まずは雪の降るなかでの正門。
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 正門を通って中に入ると、まだ誰も来ていないようで、足跡は一つもなかった。私が一番乗りのようで、少し嬉しい。
 しかし、前回と同じで太宰のお墓がどこか分からず少しウロウロしてしまった。何の成長もしてません。見つけていよいよ、「太宰治のお墓・雪景色」とご対面。
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 お墓には、花が手向けられているのですが、雪が積もってしまっていました。雪に覆われた太宰のお墓は少し寂しく感じました。豪雪地域の青森で育った太宰には、今日の東京の雪はどのように感じたのでしょうか。じっとお墓を見つめながら、寒そうに火鉢にあたる太宰の姿を想像してしまいました。
「太宰さん、寒くないですか」と心の中で聞いてみた。すると、一瞬くしゃみが聞こえたような気がした。気のせいだったのでしょうか。周りを見ても誰もいません。
 私は、上に積もった雪を払い除け、太宰が吸っていたと言われる煙草「ゴールデンバット」をお線香の代わりに置いて、お墓を後にしました。


 今日は、16年ぶりの大雪ということで、あえて三鷹の太宰のお墓参りに行ってきました。東京での雪の降る中での聖地巡りは、貴重な資料になると思ったことと、またお墓に限らず、違った景色を楽しめると思ったため決行しました。
 実は、記事には書いていませんが、途中、何度も何度も寒さに耐えられず、屋根のある場所で休み、自分の息で手の指先を温めました。最後の方になると、薬指と小指が冷たく動かなくなり、衣服の中に手を入れて温めたりと大変でした。
 しかし、それでも今回は貴重な雪景色を見ることができ、お陰様で写真も無事に撮ることができて思い出深い体験となりました。
 今回はあくまで太宰ゆかりの地を雪景色で撮ってみただけですので、後でじっくり三鷹の太宰聖地巡りをしたいと思います。
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by dazaiosamuh | 2014-02-08 22:39 | 太宰治 | Comments(0)
『私は書き上げた作品を、大きい紙袋に三つ四つと貯蔵した。次第に作品の数も殖えて来た。私は、その紙袋に毛筆で、「晩年」と書いた。その一聯の遺書の、銘題のつもりであった。もう、これで、おしまいだという意味なのである。』(東京八景より)

 太宰治の初の処女創作集『晩年』は、昭和11年6月25日付で砂子屋書房から刊行された。この『晩年』の出版の背景には、太宰のこれだけでも世に残したいという強い思いと、檀一雄や井伏鱒二たちによる、太宰を死なせたくないという思いから実現した事情があった。太宰は、銀座のカフェの女給・田辺あつみとの心中により自分だけが生き残ったという罪悪感、非合法運動、生家からの義絶、新聞社試験の失敗による自殺未遂事件など、精神的に追い詰められていた。さらには、盲腸炎から腹膜炎を併発し麻薬性鎮痛剤パビナールを打ち続けるが、麻薬中毒に陥ってしまいます。そんな時、1935年(昭和10年)、憧れの作家・芥川龍之介の賞、芥川賞が創設された。太宰はなんとしても栄えある第一回の受賞者になり、栄誉を手に入れたかったことと、苦しい生活から挽回するためにも賞金が欲しかったのだ。
 しかし、同年8月10日、芥川賞の発表があったが、受賞したのは石川達三の「蒼氓」だった。失意の中、9月には授業料未納で東京帝国大学を除籍にされた。
 こうしたこともあり、心配した周囲は創作集『晩年』を刊行すべく動くのである。特に、檀一雄は出版社に掛け合ったり、刊行にあたっての打合せなど、尽瘁した。
 そして、1936年(昭和11年)、第一創作集『晩年』が刊行されたのだ。
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『晩年』の出版記念会は昭和11年の7月11日に上野精養軒で開かれた。会費は2円50銭。参加者は、亀井勝一郎、檀一雄、平岡敏男、今官一、尾崎一雄、浅見淵、中村貞次郎、丹羽文雄、山岸外史、小舘善四郎、井伏鱒二、佐藤春夫など友人知己37名のそうそうたる面々で行われた。この時の司会は檀一雄が担当した。亀井勝一郎「太宰治の思い出」によると、太宰の服装は、黄色い麻の着物をきて、仙台平の袴を穿いていたそうである。
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 上野精養軒は、明治9年に上野公園開設に伴い、不忍池畔の現在の位置に建てられました。JR上野駅から徒歩6,7分の場所にあります。私は以前、友人Sさんに案内されて一緒にここに来たことがあるが、外観や店内などの写真を撮るために、また一人でやってきたのだ。お店に入ると、平日で夕方だったこともあり殆ど空席だった。                                                                                                    しかし、ベランダを見ると嫌な予感がした。Sさんと来た時は、ベランダで食事をしたのだが、今日はデーブルがベランダにないのである。私は、Sさんおすすめのハヤシライスを注文する時に、女性店員に「写真を撮りたいのですが、ベランダには出さ せてもらえないですか」と聞いてみた。女性店員は「申し訳ございませんが、この時期はベランダは開けないようになっています。」と事務的に答えた。
 せっかく来た私は諦めきれず、ハヤシライスを持ってきた男性店員にも同じことを聞いたが、答えは一緒であった。だが、それでもめげずに「実は、ここに太宰治が昔来たことがあると聞いてきたのです。それが目的でここに来たのですが、写真を少し撮るだけでいいのでベランダに出させてもらえないでしょうか」と言った。すると男性店員は「分かりました。今回だけ特別ですよ」と言ってベランダの鍵を開けてくれたのだ。私は嬉しくて何度も感謝の言葉を述べた。
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 ベランダから庭の景色を撮った後、店内も撮っていいですかと聞くと、「ほかのお客様が写らなければ構いません」と快く言ってくれた。さらに、「太宰治がここに来た話などはご存知ないでしょうか」と聞くと、「来たことは知っていますが、詳しい話まではちょっと…」と、太宰についての話は聞くことができなかった。
 その後、テーブルでゆっくりハヤシライスを堪能した。
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 太宰治は、『もの思う葦』の中の『「晩年」に就いて』、『「晩年」は、私の最初の小説集なのです。もう、これが、私の唯一の遺著になるだろうと思いましたから、題も、「晩年」として置いたのです。読んで面白い小説も、二、三ありますから、おひまの折に読んでみて下さい。私の小説を、読んだところで、あなたの生活が、ちっとも楽になりません。ちっとも偉くなりません。なんにもなりません。だから、私は、あまり、おすすめできません。』

 「おひまの折に読んでみて下さい。」と書いているのに、「あまり、おすすめできません。」と書いている所が、なんとも太宰らしい一文。『晩年』は初版は五百部ぐらいで、全部売れたとしても、殆ど儲けはなかったそうだ。この時期は「二・二六事件」などがあり世相は暗かったが、太宰は、「もう死んでも思い残すことはありません」と、出版を非常に喜んだという。
 芥川賞については、『晩年』が周りから推薦されていて、候補に上がっていることなどから、太宰は今度こそは賞を取れると信じていた。しかし、第2回は該当者なし、続く第3回も受賞が叶うことはなかった。
 その後、パビナール中毒により苦しい生活が続くことになる。

 上野精養軒を出て、目の前の駐車場を通り道路に出ると、店のドアマンが走ってきて、「すみません、お客様、あちらに車をとめたままにしないでください!」と黒い乗用車を指さしながら言ってきた。私は、「はい?私の車ではありません」と答えると、「すみません、失礼しました」と言って引き返して行った。なんて失礼なドアマンだと思いつつも、車を運転する男に見られたことに少しうれしく思った。
 
 私は卒業検定以来、一度も車を運転していない。この時の出来事で、ちょっと運転してみたい気持ちがちらと動いた。


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by dazaiosamuh | 2014-02-04 01:01 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)