遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 1年程前、私は友人に案内されて、古書店が建ち並ぶ本の町、神保町へ行ってきた。太宰の初版本や太宰が来たと言われる柏水堂というお店を訪れるためである。太宰の初版本は一度もお目に掛かったことがない。そもそも、神保町に来たことじたいないのである。少しばかりわくわくしながら、友人に案内されて神保町の古書店街を歩いた。
 
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 私と友人は、地下鉄丸ノ内線淡路町駅を降り、靖国通りを真直ぐ進んだ。古書店街に着くと、友人は早速太宰の本のありそうなお店に案内してくれた。友人は平然としながら店内を見ていたが、私は古書店に入るのは初めてで落ち着かなかった。特にお店の主人が怖そうな人だと、思わずちらちらと意味もなく警戒した。何年か前、テレビで古書店を巡る番組をやっていて、ある店の如何にも怖そうなご主人が、古書の扱いについて厳しく語っていたのを思い出した。その時、その店のご主人が言っていたのが、古書の扱いが分かっていないお客さんには、厳しく注意し、二度と来店しないように言うそうです。その時のことを思い出してしまい、本を棚から抜き出すのに最初は非常に緊張した。そんな私の心情も知らず、友人は店内をざっと見て、ここに太宰の本がありますねと教えてくれた。棚を一瞥すると、「人間失格」のタイトルが目に飛び込んできた。私は恐る恐る棚からそっと抜き取り、自身、細心の注意を払っているつもりでぱらっとめくり、ちらっと店のご主人の方を見た。瞬間、ご主人と目が合った。ごくりと唾を飲んだ。数十秒間ぱらぱらと本をめくった。何も注意を受けなかった。合格である。無言の合格である。最低でも私の古書の扱いは悪くないようで、安堵し、その後は気兼ねすることはなかった。
 太宰の初版本を手に取った私は、とても興奮した。特に人気の高い「人間失格」「津軽」「桜桃」「斜陽」などは、私をより一層興奮させた。状態によって金額も違うため、お店を回って見比べるのも楽しい。案内されて、太宰の本が多くあるお店も大体把握できた。特に八木書店、田村書店、けやき書店が太宰関連の書籍を多く取扱っていた。
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 ある程度見てまわった私と友人は、帰りに太宰が来たと言われる柏水堂に立ち寄った。柏水堂は昭和4年(1929年)から続く老舗の喫茶・洋菓子店だ。お店に入ると、友人が先陣を切って店員の方に「ここに太宰治が昔来たことがあると聞いたのですが…」と聞いてみたが、全く分からないようで、話を聞くことができず残念であった。せめて柏水堂のオーナーからなら、何かしらの話を聞かせてもらえるのではと思ったのだが、2009年7月に、火事によりオーナー(86)はお亡くなりになられているそうです。ここは店舗・工場兼自宅で、4階の自宅寝室から出火したそうです。それでもお店は健在で、訪れたときはお客さんも多く元気に営業していました。

 しかし、太宰治が柏水堂に来たという情報はネットで少し載っているだけで、詳しい情報は全く分かりません。私の見る限り、太宰関連の書籍にも記載されていないと思います。ネット上では、「柏水堂に通った」「ケーキを食べた」ぐらいしか書かれていなかった。オーナーも亡くなり、今となっては詳しい情報を知る手がかりはないようです。


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by dazaiosamuh | 2014-01-30 01:46 | 太宰治 | Comments(0)
 三ツ峠を登った、翌々日の9月18日の日曜日の午後、斎藤夫人が井伏鱒二と太宰を甲府市水門町29番地の石原家に案内した。石原美知子とお見合いをするためである。
 この天下茶屋に来る前、太宰はパビナール中毒で入院していたり、入院中に小山初代が男と過ちを犯していたことからのショックなどもあり、精神が不安定であった。心配した周囲は、師である井伏鱒二に太宰のための嫁探しを懇願したのである。
 この時の太宰の服装は、黒っぽいひとえに夏羽織をはおり、白メリンスの長襦袢の袖。井伏は登山服で石原美知子はデシンのワンピースであった。美知子夫人は「回想の太宰治」で『服装の点でまことにちぐはぐな会合であった。』と書いている。
 他人の家で自分で交渉するなど太宰にはできなかったようで、主に井伏と美知子の母によって話が交わされていたようであった。
 太宰はこの時の様子を「富嶽百景」で結婚の決意とともに書いている。

『私は、娘さんの顔を見なかった。井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、ふと、井伏氏が、「おや、富士」と呟いて、私の背後の長押を見あげた。私も、からだを捻じ曲げて、うしろの長押を見あげた。富士山頂大噴火口の鳥瞰写真が、額縁にいれられて、かけられていた。まっしろい睡蓮の花に似ていた。私は、それを見とどけ、また、ゆっくりからだを捻じ戻すとき、娘さんを、ちらと見た。きめた。多少の困難があっても、このひとと結婚したいものだと思った。あの富士は、ありがたかった。』

 井伏夫妻は翌朝に帰京し、太宰はまた御坂の天下茶屋の2階に籠り、少しずつ執筆を進めた。
私は、部屋の硝子戸越しに、富士を見ていた。富士は、のっそり黙って立っていた。偉いなあと、と思った。
「いいねえ。富士は、やっぱり、いいとこあるねえ。よくやってるなあ」富士には、かなわないと思った。念々と動く自分の愛憎が恥ずかしく、富士は、やっぱり偉い、と思った。よくやってる、と思った。』
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 太宰は約3ヶ月の間、ここで嫌でも富士と対峙しながら執筆を進めたのだ。
 この2階の太宰が執筆に使っていた部屋から、私も富士を見たかったのだが、いくら待っても、やはり、曇り空で富士が見えることはありませんでした。
 井伏の帰京後、寂しがり屋の太宰は、ずっとこの部屋に籠っていたわけではなく、郵便物の投函や受取を口実に、茶店の前からバスで河口湖や吉田の町へ行ったり、反対のトンネルをくぐって甲府市街へおりたことも度々あったようです。
 下の写真は茶店のすぐ横にあるトンネルで、文字は見えにくいですが、「天下第一」と彫り込まれている。
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 2階の部屋は、小さな記念館にもなっていて初版本や当時の写真なども展示されている。
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 現在、1階は当時のように食事もとることもでき、少しではあるがお土産も売っている。太宰はここに逗留している時、「ほうとう鍋」をよく食べたらしい。「天下茶屋」のホームページでは、この時のちょっとしたエピソードを載せているので引用させてもらった。

『滞在中の太宰治に、ほうとうを出したところ、「僕のことを言っているのか」と不機嫌になったとの事、先代が「ほうとうは甲州の郷土料理である」と説明したところ、太宰治は安堵して喜んで食し、好物になったようです。その様子から先代は生前、太宰治は自身が「放蕩(ほうとう)息子」と勘違いしていたようだと当時を語っておりました。』

 なるほど、生家の体面を汚してきた太宰にとって、「ほうとう(放蕩)」という言葉は心に刺さるものがあるのも無理はないですね。太宰が食べた「ほうとう鍋」を私も食してみました。
 
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 写真を見て分かる通り、撮る前に少し食べてしまいました。本当なら具が上に綺麗にのせられていたのですが、混ぜてしまいました。これだから聖地巡り初心者は困るのである。本当に阿保である。
 ちなみに、「ほうとう」とは何かというと、甲州地方の郷土料理として知られ、小麦粉を練った平打太麺を南瓜やジャガイモ、人参などの野菜と煮込み、味噌で味付けをした食べ物で、特に、スープに甘味ととろみを加える南瓜は欠かせないのだ。一般的には温かい鍋料理を「ほうとう」、つけ麺を「おざら」とよび分けるそうです。10月の肌寒い時期に来た私には、この「ほうとう鍋」は芯から温まる郷土料理でした。

 太宰の結婚の話は順調に進み、昭和13年11月6日、午後4時頃に石原家で、井伏鱒二、斎藤夫人、石原美知子の叔母2人を招き、ささやかな婚約披露の宴が催された。美知子夫人は「回想の太宰治」に『結納は太宰から二十円受けて半金返した。太宰はこれが結納の慣例ということを知らず、十円返してもらえることを知って大変喜んだ。』と書いている。太宰がいかに人任せで生きてきたかがよくわかる一文である。

 それから10日後の11月16日、御坂峠を降りて、石原家が見つけてくれた、石原家と斎藤家との中間辺りにある寿館に下宿した。
 ちなみに滞在時執筆していた「火の鳥」は103枚で未完のまま終わっている。


 私の遠出での太宰治の聖地巡りは、これが初であったが残念ながら富士山を見ることができなかった。美知子夫人は「回想の太宰治」に『盆地からバスで登ってきてトンネルを抜けると、いきなり富士の全容と、その裾に拡がる河口湖とが視野にとびこんで、「天下の絶景」に感嘆することになる。』と書かれている。

 私も太宰や美知子夫人のように「天下の絶景」に感嘆の声をあげたいものだ。今回は太宰についてたいして詳しく知りもしないで来たが、次に来た時は、少しでも人間太宰治について理解してから再び来ようと思った。
 私はこの御坂峠の天下茶屋を後にし、河口湖駅から電車に揺られて帰路についた。夕暮れ時であった。車窓から例のアトラクションが見えた。やっぱりちょっと遊びたい気持ちがちらと動いたが、ぐっと懸命にこらえ、目を閉じ、東京駅まで一眠りすることにした。

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by dazaiosamuh | 2014-01-25 14:39 | 太宰治 | Comments(0)
 天下茶屋は、外川政雄によって昭和9年12月、旧御坂道のトンネル脇に建てられた。標高は1297m、富士と河口湖を一望できる。この「天下茶屋」という名は、徳富蘇峰が新聞に紹介したことがきっかけで、定着したものと言われている。
 太宰はこの天下茶屋に、1938年(昭和13年)の9月13日に訪れている。

昭和13年の初秋、思いあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た
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 実は先に、師である井伏鱒二が7月30日頃からここに滞在していて、それを知って太宰はここへ来たのだ。2階の端にある部屋で、荒い棒縞の宿のどてらに角帯を締めて机に向かい、主に「火の鳥」を書き進めた。ここでは今も、井伏鱒二や太宰治が使った机や火鉢があり、じかに触れることもできる。他にも数は少ないが資料なども展示されている。
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 この3日後の9月16日に、井伏の仕事も一段落し、三ツ峠に登ることになった。
「富嶽百景」にも書いているのだが、嘘か本当か、自分の師である井伏鱒二が放屁したことを書いている。

井伏氏は、ちゃんと登山服着て居られて、軽快の姿であったが、私には登山服の持ち合わせがなく、ドテラ姿であった。茶屋のドテラは短く、私の毛臑は、1尺以上も露出して、しかもそれに茶屋の老爺から借りたゴム底の地下足袋をはいたので、われながらむさ苦しく、少し工夫して、角帯をしめ、茶店の壁にかかっていた古い麦藁帽をかぶってみたのであるが、いよいよ変で、井伏氏は、人のなりふりを決して軽蔑しない人であるが、このときだけは流石に少し、気の毒そうな顔をして、男は、しかし、身なりなんか気にしないほうがいい、と小声で呟いて私をいたわってくれたのを、私は忘れない。とかくして頂上についたのであるが、急に濃い霧が吹き流れて来て、頂上のパノラマ台という、断崖の縁に立ってみても、いっこうに眺望がきかない。何も見えない。井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放屁なされた。いかにも、つまらなそうであった

 自分の師を使い、「放屁なされた」と書いた太宰は流石である。井伏はこれに反論するが、長部日出雄著「富士には月見草」によると、太宰は「いえ、たしかになさいました」といい、さらに、「一つだけでなく、二つなさいました」と言い張ったそうである。
「放屁さないました」なんて、ユーモアがあり読み手には面白いが、むきになって抗議するところを見ると、流石の井伏も恥ずかしかったのだろうか。


 ・井伏鱒二 1898年 広島県出身 早大中退 「鯉」「山椒魚」でデビュー

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by dazaiosamuh | 2014-01-18 22:16 | 太宰治 | Comments(0)
 前日に泊まった安ホテルは実に粗末なホテルであった。河口湖駅から徒歩数分の場所にあるのだが、私は素泊まりで予約を取ったため、途中、コンビニで夜と朝の分の食料を買ったのである。安ホテルに到着し部屋に案内されたのだが、想像以上に狭く不潔であった。部屋の鍵も少し力を加えれば今にも壊れそうな造りであった。部屋の真ん中で一人ただずむ自分がいた。これならまだ自分のアパートの方が幾分ましだ。エアコンも自分の部屋の方がまだましである。
 こんな部屋にいるくらいなら風呂にでも入って疲れを癒そうと思い、浴場に行くと湯船が二つあった。大小二つの湯船だ。一つは畳六畳分、もう一つは僅か二畳分しかない。湯が張られているのは二畳分の湯船だけであった。しかもタイルが剥げていたり変色していた。ここでも思った。自分のアパートの方がましだと。
 
 部屋に戻りテレビで明日の天気予報を見ると、曇り時々雨の予報であった。明日はいよいよ天下茶屋である。今日はもう嫌なことは忘れて早く寝ようと思い、コンビニで買って来たパンに噛り付き、寝床に入った。実に寂しい初日であった。

 翌日起きた私は、朝食のパンを頬張り早速天下茶屋に向かうべくバスに乗車した。
 天下茶屋は河口湖駅からバスで四十分程の所だったと思う。雨は降っていなかったが、やはり曇り空であった。バスの中で一人溜息をついたのであったが、いざ天下茶屋に着くと前日の疲れも吹き飛んだ。
 ここが太宰が実際に滞在した聖地なのかと思うと、私の心も少しずつ晴れてきた。
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 天下茶屋に入る前に、まずは太宰と同じ角度で富士山を拝むことにした。
 ここに来る前から前日の天気予報を見て富士を拝むことはできないだろうなと思っていたが、それでも中々悔しく悲しいものだ。前日と同様、一片も見えないのだ。皆無であった。
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 ここからの景色は本来ならば、富士三景の一つに数えられていて代表観望台と言われていた。太宰は「富嶽百景」で富士について書いているので引用してみよう。

ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞえられているのだそうであるが、私は、あまり好かなかった。好かないばかりか、軽蔑さえした。あまりに、おあつらいむきの富士である。(中略)私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも注文どおりの景色で、私は、恥ずかしくてならなかった

 また、太宰好きは知らない人はいない、有名な言葉も残している。

三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う

 実はこの時、太宰が見た月見草については太宰文学研究者たちの間では色々と疑問が湧いている。
 それは、太宰が富士山を見たのは日中らしいのだが、月見草はその名の通り夕方開いて、朝には萎む習性があるとのこと。そのため「金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていた」というのは、研究者たちの間では疑問となっているのだ。
 しかし、太宰は『人間失格』を読んでも分かる通り、実話を美しく脚色することに秀でた作家である。

 彼の虚構は美しく絶妙なほどに完璧なのだ。
 もしかしたら、太宰の目に映る月見草は他人がどう言おうと輝いて見えたのかもしれない。

 

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by dazaiosamuh | 2014-01-15 21:55 | 太宰治 | Comments(0)

太宰治が見た富士山

 前回の記事では、一昨年に太宰のお墓を見に行ったことを書いたが、同年に太宰が滞在した天下茶屋を訪ねたことも書こうと思います。
 先月の太宰の故郷を旅した時と同様、一泊二日で一日目はぶらぶらと美術館を観たり、河口湖周辺で富士山を眺めたりで、太宰の聖地巡りは主に二日目に行った。何せ一昨年のことで聖地巡り初心者なこともあって記憶に乏しい。できる限り記憶を掘り起こして書こうと思います。

 実は私が記念すべき第一回一人旅に出たのは、この天下茶屋が最初である。一昨年の十月のことで、東京はまだ残暑も残っておりどうせ山梨県も暑いだろうと思い、当日は野宿すればいいやと軽い気持ちで旅に出たのである。
 
 新宿から電車に揺られて河口湖駅へ向かう途中、富士急ハイランドのすぐ横を通ったのだが、太宰聖地巡りはまたの機会にして富士急ハイランドで遊んで帰ろうかしら、なんて阿保なことを考えてしまった。しかも、自分がランド内にあるアトラクション、「ええじゃないか」「FUJIYAMA」「ドドンパ」に乗って楽しんでいる様を妄想して一人ニヤニヤしてしまった。もしこの時の私を見た者がいたら、嫌悪を示すだろう。私は、まだ新アトラクション「高飛車」は乗ったことがない。もし富士急ハイランドに来たら絶対乗ってやろうと思った。
 
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 ようやく河口湖駅にたどり着き、見晴らしの良い富士山を眺めるのに手頃な河口湖へ行こうと切符売場へと向かったのだが、受付の若い茶髪の女性の態度が実に不快であった。明らかに、面倒くせぇ、やってらんねぇ、みたいな態度であった。実に怪しからん。世界中から富士山を見に多くの観光客が訪れるというのに、この娘の態度は実に不快である。ましてや駅というのはその土地の顔である。まったく教育がなっていないのである。機嫌を損ないながらレトロバスの券を買い河口湖へと向かった。
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 河口湖は富士五湖随一の観光地だ。到着した私は早速デジカメ片手に湖の手前まで行ったのだが、あいにくの曇り空で富士山を拝むことができなかった。本来ならば河口湖と富士山の絶景が楽しめる絶好の撮影スポットなのだが今回はお預けのようである。ここには河口湖自然生活館というお店があり、ブルーベリーやラベンダーの石鹸などが購入できる。私はどうしても富士山が見たかったので、ブルーベリーソフトクリームを食べながら富士山が顔を出してくれるのを待つことにしたのだが、一向に顔を出さない。自然生活館の横にある花園をぶらぶらと歩いたがやはり駄目である。
 どの写真を撮っても富士山だけは写っていない寂しい写真となってしまった。
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 私はあきらめて周辺にある河口湖美術館に行き、その後は野宿するための寝床を探そうと歩を進めた。
 河口湖美術館は、当然ではあるが富士山を描いた絵画などが多く展示されている。館内は質素で落ち着いた雰囲気である。普段絵画をのんびり観ることなどないのだが、今日は富士山を拝むことができなかったため、せめてもと思い富士山が描かれた絵画を貪るように見入った。油絵で描かれた絵もあれば、幻想的であったり思いもよらぬ描き方をした絵画もあった。館内ではお茶を飲むスペースもあり美術館巡りが好きな人には良いかもしれない。

 美術館を出た私は、寝床を探そうと思ったのであるが思っていた以上の事態であった。非常に寒いのである。とてもじゃないが野宿は無理だ。外はすでに暗くなりかけていて時計の針は十七時を過ぎていた。私は東北出身者で寒さには強いはずなのだが、東京の気温に慣れてしまった私の体はすで耐久力を失っていた。根性で乗り切れるものでもない、朝まで起きているのも阿保である。風邪を引くのも馬鹿らしいものである。
 私は持参した旅行雑誌をめくり、河口湖駅から近く手頃なホテルに電話を入れ素泊まりで予約を取った。

 初日は富士急ハイランドの誘惑に負けそうになったり、駅での切符売場の若い女性の態度が不快なものであったり、あげくの果てに富士山を拝むことができなかった。
 
 初日は散々であった。せめてホテルではゆっくりと疲れを癒せればと思い安ホテルへと足を運んだのであった。
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by dazaiosamuh | 2014-01-11 21:36 | 太宰治 | Comments(0)

太宰治のお墓!

 一昨年、三鷹にある禅林寺を訪れた。太宰治のお墓を見に行くためだ。禅林寺は、JR三鷹駅から徒歩15分程の場所にある。私は地図を見るのが苦手で、しかも、方向音痴なこともあり、見知らぬ団地に入ってしまったり、訳も分からずぐるぐると辺りを無駄にまわってしまい、30分も掛かってしまった。ようやくたどり着いた時には、汗だくになっていた。
 息を切らせながらたどり着くと、小奇麗な正門が見えてきた。こんな立派な正門を私は発見することができずにウロウロしていたのだ。我ながら情けないものだと思いながら、正門の前で一つ深呼吸しなかへ入った。
 
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 太宰のお墓は、正門から左斜め奥に進むとあるのだ。太宰治の墓所と書かれた小さな案内板があった。早速墓所へと向かうのだが、またもや場所が発見できない。事前にある程度は把握していたつもりだったのに、此処でもまた一苦労だ。生まれつきの方向音痴には困ったものだ。ウロウロしていると、墓周りを掃除しているおばさんがおり、最初は自力で見つけようと思っていたのだが、変なプライドを捨て声を掛けた。すると、おばさんに声を掛けたすぐ横が太宰の墓であった。赤面しながら太宰のお墓とご対面である。
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 太宰のお墓には、花が手向けてあった。私はお花どころかお線香も持ってきていなかったため、少し失礼なことをしてしまった。この太宰のお墓の右斜め向かいには、森鴎外のお墓もある。太宰は生前、『花吹雪』の中でこんなことを書いていた。

『どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小奇麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持ちが畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。私には、そんな資格が無い。立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い』

 だが、太宰はこうして鴎外の斜め向かいに安らかに眠っている。それは、妻である津島美知子夫人の計らいにより、太宰の気持ちを汲んでここにお墓を建てたのだ。そして、美知子夫人の遺骨も遺族により太宰のすぐ横で二人一緒に眠っている。
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 お墓とはいえ、まるで本人を目の前にしているかのようで、緊張してしまった。写真を撮る前に、失礼しますと一言あいさつし写真に収めた。

 ・太宰治(津島修治) 
        1909年(明治42年)~1948年(昭和23年)
 
 ・津島美知子(旧姓 石原美知子)
        1912年(明治45年)~1997年(平成9年)

 ちなみに、毎年6月19日は『桜桃忌』があり、大勢のファンが集まるのだが、これは太宰の友人で同郷の、今官一の提唱により偶然にも遺体が発見された日が太宰の誕生日であることもあり、『桜桃忌』と名づけられたのだ。
 なぜ桜桃なのかというと、太宰の名作に『桜桃』があることと、太宰本人が桜桃を好み、桜桃の実る頃に逝ったことによる。

 月日が流れようとも、太宰文学の愛読者は尽きない。私もこうしてなんでもない日に来るように、誕生日でもなければ命日でもないのに、手向けの花や線香の紫煙が途切れることはないのだ。

 次来るときは、手向けの花とお線香を持って是非とも『桜桃忌』に参列したいものだ。その時はまた上手く記事にできればと思います。

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by dazaiosamuh | 2014-01-04 21:44 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)