遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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 芦野公園を出た私は、公園のすぐ横にあるカフェ『駅舎』に入りました。その名の通り、昔駅舎として使われていたのですが、今は『駅舎』を店名にした喫茶店として使われています。
 
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 メニューに『昭和の珈琲』というのがあって、太宰が好んだ味を再現した珈琲だそうです。中に入ると、旧駅舎をそのまま利用しているため、木の温もりが感じられ、落ち着いた雰囲気となっていました。私は、入口からすぐの席に腰を下ろしました。入って左奥には女性三人が雑談に花を咲かせ、私のすぐ目の前の席には、こちらも三人の背広を着た営業マンでしょうか、何やら書類を見て、忙しそうに話込んでいました。店員さんは、若い女性と年配の女性の二人だけでした。私は早速、太宰が好んだ味を再現したという『昭和の珈琲』を頼みました。この時、ケーキセットがお得ですよと言われたので、どうせならと思い注文しました。若い女性が運んできたのですが、この時、「太宰が好んだ味を再現した珈琲なんですよね?」と聞くと、「あぁ、そう…ですね」と曖昧な返事でした。返事は曖昧でしたが、この店員さんは太宰になどまったく興味がないことだけはハッキリと分かりました。
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 肝心の珈琲はというと、私は珈琲の味の違いなどは分からない男なので、ただ上手い。としか言えません。それとケーキは、予想以上に小さかった。珈琲を啜りながら、私は図々しいことを考えました。それは、電池の切れたデジカメを充電させてもらえないかということでした。若い方の店員さんが通った時、小さい声で「あの、すみません、お願いがあるのですがデジカメの電池を充電させてもらえないですか?」というと、快くお願いを聞いてくれました。帰りの電車の時間が迫ったいたため、少しだけのんびりしていき店を出ました。
 快く充電させてくれた若い女性の店員さん、ありがとうございました。

 来た道を戻り、再び『斜陽館』の前を通り折角なので充電したデジカメでまた何枚か外観を撮りました。こういった有名人の足跡をたどるのは、その時の本人の心境や経験、年齢によって気持ちが変わるはず。自分は次に来る時どんな気持ちでここに立っているだろうかと、しみじみ思いながら金木駅へ。

 発車間際に到着しメロス号に乗り込むと、『斜陽館』で一緒に館内を回った年配の女性が寄ってきて、「乗り遅れたのかと思いましたよ」と声を掛けてきてくれました。車内でお互いこの旅で撮った写真を見せ合いました。彼女は若い時から太宰が好きだったようですが、結婚し家庭を持ってからは生活に追われ、来る機会がなかったようです。何十年もファンから愛され続ける太宰は幸せだなと思うと同時に、少しだけ嫉妬しました。
 太宰は自分の生まれたこの金木町のことを、小説『津軽』で『どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡泊であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町という事になっているようである』と書いている。
 そんな金木町も、今では「太宰の生まれ故郷、金木」、「太宰の生家のある金木」として、気取る必要も見栄を張る必要もない、一人の素晴らしい文学者の歴史を背負った由緒ある町となっています。

 新青森に到着し女性と別れる時、「悔いのない人生を生きてください」と言われました。私はこの旅で、太宰の生きた町に感激、興奮しました。しかし、それ以上に人との出会い、出会った人からの言葉が一番こころに染みました。
 こんな良い出会いがまたあると信じて、太宰の聖地めぐりを続けていけたらと思います。
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by dazaiosamuh | 2013-12-30 22:29 | 太宰治 | Comments(0)
 『斜陽館』を出て、一緒に館内を周った女性と別れた私は、太宰治の銅像があるという芦野公園へと行くことにしました。途中、太宰が幼い頃に津島家に年季奉公に来ていた子守のタケに連れていかれたというお寺に少し寄ってみた。『雲祥寺』というお寺で、タケは太宰を連れて行き「地獄絵図」を見せたのだ。幼い太宰は「地獄絵図」の描写とタケの話に恐怖し、泣き出した。この時の場面を小説『思ひ出』に書いている。
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『たけは又、私に道徳を教えた。お寺へ屢々連れて行って、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。(中略)嘘を吐けば地獄へ行ってこのように鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した』

 誰もがあるかもしれないが、私も幼い頃にお葬式などでお寺へ行ったとき、掛けてある地獄絵図を見て恐怖したものだ。泣きはしなかったが、血の池に無理やり入れられる人、針山を登らされる人、宙吊りにされノコギリで股から切断される人などの描写は幼い私に衝撃を与えた。タケが太宰に言ったように、私の父も「悪いことをすると地獄行になり、この絵に描かれているような罰を受けるんだぞ」と私に言い聞かせた。私も太宰と同じく、「地獄絵図」によって道徳を学んだ内の一人ということです。残念ながら時間が押していたため、中には入らず外観だけを写真に収めました。

『雲祥寺』から徒歩2分ほどの所にも、『南台寺』というお寺があり、ここは子供たちのために日曜学校を開き、本の貸出しを行っていたお寺だ。こちらも太宰は『思ひ出』の中でタケとの思い出を書いている。
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『私がたけという女中から本を読むことを教えられ二人で様々の本を読み合った。たけは私の教育に夢中であった。私は病身だったので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなればたけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを覚えていたので、いくら本を読んでも疲れないのだ』

 このことから、いかに太宰が本に親しんできたかがうかがえる。ちなみにたけは、自分が使った尋常小学校読本を見せながら太宰に文字を教えたと言われている。

 ここで『南台寺』の写真を数枚撮ったところでなんと、デジカメの電池残量が無くなってしまいました。やむを得ずスマホで代用することに。しかし、スマホも電池が半分ほどしか残っていないため、せめて『芦野公園』の太宰治の銅像を撮るためにも必要最低限の写真しか撮らないことにしました。デジカメが古いのと、前日旅館で充電しなかったためです。

 『芦野公園』には、『斜陽館』から徒歩16、17分ほどかかります。流石にこの時期でも16、17分も歩くとじんわりと汗が出てきます。到着してからも入口から太宰の銅像がある場所まで徒歩3、4分かかりました。公園には芦野湖と呼ばれる溜池があるのだが、季節のせいもあってか訪れた私以外、一人もいませんでした。この公園での思い出を、妻・津島美知子は『回想の太宰治』で少しだけ触れている。

『五月初めの観桜会、夏のボート遊びに賑わうというこの公園も、十一月の午後、全く人影がなく、太宰も私も口少なになってしまった。松と桜の林の奥に大きな溜池が静まり返っていた。一隻ボートがつながれている。その池の堤に腰をおろしてしばらく休んだ。引き返して玄関を入ったときには、もうたそがれ近くなっていた』

 溜池を少し過ぎた所に、太宰治文学碑太宰の銅像がひっそりとたっていました。文学碑には、小説『晩年』の中にある『』から引用されたヴェルレーヌの詩が刻まれていました。
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 昭和四十年五月、『芦野公園』の登仙岬に建立。太宰が生前、好んで口にしていたといわれるヴェルレーヌの一節が刻まれていて、碑の最上部はラフェナールに黒で炎を現わし、その中に「不死鳥」が金メッキで浮き彫りにされている。この不死鳥は火のなかに飛び込み古い身を焼き、五百年に一度、新しく生まれ変わるというギリシャ神話から引用して太宰の生まれ変わりを意味しているらしい。さらに、中央の鉄格子は「人間の道には狭いけわしい一つ一つの門がある」ということを意味するもので、太宰がよく遊んだ芦野公園、大倉岳、賽の河原などがよく見通せることも加味して製作された。
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 太宰の銅像は、平成二十三年に生誕百周年を記念して建てられたものだ。まさか太宰は自分の銅像が建てられているなんて思ってもみないだろう。しかし、この銅像の太宰の表情は生まれ故郷の金木、そして自分の生家を見守っているように感じられました。数分間、銅像の太宰を見つめ電池の少ないスマホで写真に撮りました。銅像の太宰に「それじゃ、また来るからね。では失敬」と軽く会釈し、公園を出て行きました。
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by dazaiosamuh | 2013-12-28 00:38 | 太宰治 | Comments(0)
 旧津島家新座敷『太宰治疎開の家』に引き続き訪れたのは、疎開の家から徒歩2分にある太宰治の生家にして現在記念館となっている『斜陽館』です。
 ここは太宰の父・津島源右衛門が、明治40年(1907)に総工費約4万円(現在の価格で約6~8億円)を掛けて建てた豪邸である。
 以前にも出てきたが、ここの建築を担当したのは『旧弘前市立図書館』『青森銀行記念館』を設計、施工した堀江佐吉だ。しかし、佐吉は完成を見ずに亡くなり、佐吉の四男、斎藤伊三郎が棟梁を務めた。青森県産のヒバや秋田杉、タモなどをふんだんに使い、基本の入母屋造りの和風建築に当時弘前で流行していた洋風建築を合わせた和洋折衷な造りで、県内では例を見ない。周囲に巡らせた高い煉瓦塀は、当時多かった小作争議に備えたものといわれている。
 
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 一階は十一室、二百七十八坪の広さを誇る。ここでは同居していた津島家の親族、使用人である乳母、女中、行儀見習い、子守などを加える三十人以上がともに暮らしていたのだが、和風の一階は、十八畳の仏間、十五畳の座敷が二間、囲炉裏の付いた十五畳の茶の間があり、襖を外せば六十畳以上の大広間となり、父・源右衛門の時代はしばしば大宴会が繰り広げられた。 
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 元台所跡にはかつてのように、たくさんの箱膳が並べられていた。
太宰は代表作『人間失格』の中で、暗澹たる思いで食事をする場面を書いている。
『最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。(中略)ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。』
『人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種の儀式のようなもので、家族が日に三度々々、時刻をきめて薄暗い一部屋に集まり、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんを噛みながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした』

 
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 妻・津島美知子の『回想の太宰治』の中で、太宰は箸の使い方が非常に上手かったと書かれていた。津軽屈指の大地主であり政治家でもある父の元に生まれた太宰は、女中たちに厳しく躾けられたのだ。食事の時間を苦痛に感じたのも無理はないかもしれない。

 少し奥に進むと衣装箪笥のある小部屋があるのだが、そこにはなんと、太宰が着ていた二重回し(マント)のレプリカが二着掛けてあるではないか。その二重回しをぼーっと眺めていると、ある女性が「撮ってあげましょうか?」と声を掛けてきてくれた。その女性はどこかで見たことがあると思ったら、先ほど『太宰治疎開の家』で一緒に見学した女性でした。私はやや緊張しながらマントを羽織ったのですが、サイズが大きいのです。それもそのはず、太宰は当時で珍しく身長が約175㎝あったと言われています。身長160㎝しかない私には大き過ぎたのです。女性にお礼を言うと、「またいつでも声を掛けてください。何枚でも撮ってあげますよ」と言ってくれました。親近感を覚えた私は一緒に館内を見てまわることにしました。
 
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 さらに奥に進むと展示室になっていて、直筆の原稿や太宰が実際に来ていた二重回し(マント)、財布や灰皿などの太宰の愛用品が展示されていた。展示室は二階もあり、こちらは主に初版本などが展示されている。この展示室は上下階ともに写真は禁止のため撮ることはできなかった。太宰が実際に着た二重回しなどの愛用品はここでしか見られない。他にも非常に貴重な展示品が多数あり、太宰が好きな方は是非その目で見て感動してもらいたい。

 二階へ進む途中の階段は非常に日当たりが良く、木の温もりを感じさせる重厚な造りだ。この階段を幼い日の太宰は駆け上がったりしていたのだろうか。階段に腰掛けて読書をするのも中々絵になりそうだと思わず思ってしまうほどだ。
 
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 この階段を上がると約百十六坪、八室の部屋がある。長椅子のある洋間があるのだが、『津軽』に『中学時代の暑中休暇には、金木の生家に帰っても、二階の洋室の長椅子に寝ころび、サイダーをがぶがぶラッパ飲みしながら、兄たちの蔵書を手当り次第に読み散らして暮らし、どこへも旅行に出なかった』と書いている。
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 他にも、金襖のある部屋や襖に「斜陽」の文字の入っていることから「斜陽の間」と呼ばれる部屋もある。一緒に見ていた女性も「立派な家だねぇ、どんな暮らしぶりだったんだろうねぇ」と言っていた。確かに広く贅沢な造りである。しかし、いつも人の顔色ばかり伺う太宰が、ここで伸び伸びと生活していたとは言い難い。 
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 これだけ贅沢な造りをした豪邸だが、太宰は『苦悩の年鑑』の中でこんなことを書いている。
『私の家系には、ひとりの思想家もいない。ひとりの学者もいない。ひとりの芸術家もいない。役人、将軍さえいない。実に凡俗の、ただの田舎の大地主というだけのものであった。父は代議士にいちど、それから貴族院にも出たが、べつだん中央の政界に於いて活躍したという話も聞かない。この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである。間数が三十ちかくもあるであろう。それも十畳二十畳という部屋が多い。おそろしく頑丈なつくりの家ではあるが、しかし、何の趣も無い。(中略)しかし、その家系には、複雑な暗いところは一つも無かった。財産争いなどという事は無かった。要するに誰も、醜態を演じなかった。津軽地方で最も上品な家の一つに数えられていたようである』

 津島家がここまで大きくなったのは、明治維新後、帰農した士族が安く手放した農地を次々と買取り、冷害がもたらした凶作に打撃を受けた農民へ高利の金貸しを行い、返せなくなった自作農から抵当の田畑を取り上げ続けたことにあると言われている。太宰はそんな生家をあまり良く思っていなかったのだ。
 そんな豪邸も戦後になって津島家が手放し、昭和25年から『斜陽館』として町の観光名所となり、平成8年3月に旧金木町が買取り、旅館『斜陽館』は46年の歴史に幕を下ろした。
 ちなみに『斜陽館』の名は、『斜陽』がベストセラーになっていたこともあったが、「泊まり客は、日が傾いた頃に来る」ことから命名されたとも言われている。

 太宰治という一人の苦悩する作家が生きた生家は、今もこうして世の人に語り継がれているのだ。太宰があるいた廊下、太宰が見た窓からの景色、太宰が駆け上がった階段、太宰が生活した空間がここにある。太宰に興味のない人間でも、この豪邸には目を丸くするであろう。

 金木町に立ち寄ったら是非、この『斜陽館』は多くの人に見てもらいたい。名残惜しみながら私は『斜陽館』を出て行きました。
 
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by dazaiosamuh | 2013-12-25 00:07 | 太宰治 | Comments(0)
 今日はいよいよ『斜陽館』のある五所川原市金木町へと向かいます。前日宿泊した『石場旅館』を出る時、受付の方に、「太宰がここ(石場旅館)に泊まったことはあったのですか?」と聞いてみた。
「いやぁ、泊まったことはなかったみたいです……。でも、ここら辺界隈をぶらぶらと友人たちと歩いたり、カフェに行ったりはしていたらしいですよ」
 太宰が高校時代三年間を過ごしたこの弘前をゆっくりと歩きながら、金木へ行くべく弘前駅へと向かいました。
 
 弘前駅から電車で40分、乗り換えるため五所川原駅に着いたのですが、待ち時間が30分程あったため『あげたいの店 みわや』へ行くことに。
 この「あげたい」というのは、鯛焼きをさらに油で揚げたもので五所川原の名物の一つにもなっています。中身はもちろん餡子で、揚げた鯛焼きに砂糖がまぶしてあり、揚げパンの鯛焼き版だと思って間違いない。一個100円で普通の鯛焼きの値段と変わらないので、待ち時間に余裕のある方は是非。駅から徒歩5分というのもグッド。

 五所川原駅からは太宰の有名作「走れメロス」から取った、「走れメロス号」に乗り換えて金木へ向かいます。車内ではアナウンスの女性が津軽弁で、どういうルートで太宰の足跡をたどればいいか、是非寄って行ってほしい場所等話してくれました。
 小中高の国語の教科書などに掲載されてきた「走れメロス」は、最も広く知られている作品の一つだろう。人々に希望を与える分かりやすい明確なテーマと力強い文章で多くの人々に読み継がれてきた名作だ。幼いころから家族間、他者との人間関係に苦しんできた太宰だからこそ書けた作品であると言える。
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 金木駅に到着した私は、まず初めに旧津島家新座敷、『太宰治疎開の家』へと向かった。ここは太宰の生家の離れだった通称「新座敷」と呼ばれる場所で、『斜陽館』の正面から約200m東にあります。元々、大正11年(太宰13歳)大地主津島家の跡取りとなる、長兄文治の結婚を機に新築されたものである。当時は母屋(斜陽館)の文庫蔵前から右に伸びる渡り廊下でつなぎ、蔵の東側に隣接する位置に造られました。
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 左翼思想への傾倒、女性関係等から生家から義絶され、長い間ここへは帰っていませんでした。しかし、昭和17年に母・たねの危篤の報を受け、妻子を連れて帰郷することになります。その時に母・たねが床で寝ていたのがこの新座敷と呼ばれる離れです。また『故郷』にこの時の母の様子を書いている。

 『母は離れの十畳間に寝ていた。大きいベッドの上に、枯れた草のようにやつれて寝ていた
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私は枕もとにしゃがんで、どこが苦しいの? と尋ねた。母は、幽かにかぶりを振った。
「がんばって。園子の大きくなるところを見てくれなくちゃ駄目ですよ」私はてれくさいのを怺えてそう言った。

 突然、親戚のおばあさんが私の手をとって母の手と握り合わさせた』


 太宰は我慢できずに母の元を離れた。廊下をあるいて洋室のある部屋へと向かうのです。上の写真は、母・たねが寝ていた部屋。下の写真は、太宰が懸命に涙を怺えた描写が書かれた、マントルピースがある洋室。
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廊下を歩いて洋室へ行った。洋室は寒く、がらんとしていた。白い壁に、罌粟の花の油絵と、裸婦の油絵が掛けられている。マントルピイスには、下手な木彫が一つぽつんと置かれている。ソファには、豹の毛皮が敷かれてある。椅子もデエブルも絨毯も、みんな昔のままであった。私は洋室をぐるぐると歩きまわり、いま涙を流したらウソだ、いま泣いたらウソだぞ、と自分に言い聞かせて泣くまい泣くまいと努力した』

 また、太宰の妻・津島美知子も自身の著書『回想の太宰治』に母・たねのことを書いている。
母は離れの座敷のベッドに寝ていた。蒼みがかった頬、黒い大きな眼、濃い長い睫毛、美しい人であった

 その後、太宰は、兄たちとの確執も徐々に解け、昭和19年には『津軽』の取材旅行でも帰郷している。翌20年(太宰36歳)は、三鷹と甲府の空爆で二度罹災し、やむなく7月末に、妻子を連れて金木の生家に疎開している。

 ここの新座敷は、一応手入れなどはされてはいるが、ほとんど当時のままである。太宰の母・たねの寝ていた部屋の奥は、昭和20年に被災し逃げ込んできた時に、太宰が1年3カ月、仕事部屋として使っていた部屋だ。太宰は執筆の時、片膝を立てて書く癖があったという。そんな太宰の姿を目に浮かべながらデジカメのシャッターを切った。部屋の外の廊下はL字型になっていて、床は鴬張りとなっている。侵入者を入れないための工夫だろうか。
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 太宰はここで、パンドラの匣や苦悩の年鑑、トカトントンなど計23作品を執筆した。生家との確執のあった太宰にとって、ここでの仕事、生活は感慨深いものだったに違いない。

 ここに見学に来たのは、私以外にもう一人年配の女性だけであった。話を聞くとこの女性も太宰のファンで、この新座敷は見たことがなかったため見に来たとのこと。
 ところで、この新座敷がなぜ、今は『斜陽館』から離れた場所にあるのかというと、終戦後の農地解放のために地主制度は解体し、政界に復帰して青森県知事となった長兄・文治は、昭和23年6月(太宰が没した同月)に大邸宅を売却することになりました。その際、新座敷を現在地に曳屋して家族の居宅としたのです。やがて旅館となった母屋は、太宰の生家として有名になったが、新座敷は、時と共に人々の記憶から消えていったというわけです。

 この新座敷にいると、まるで太宰の息づかいが聞こえてくるようで、家族に気を遣う姿や、作家としての太宰を感じることができたように思います。

 新座敷を後にし、次はいよいよ『斜陽館』へと向かいます。



 
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by dazaiosamuh | 2013-12-23 23:55 | 太宰治 | Comments(0)
 前回に続いて弘前の散策です。
旧弘前市立図書館のすぐ目と鼻の先には、弘前市立郷土文学館があるのですが、ここには郷土出身で明治以降それぞれの分野で活躍した作家達の直筆原稿や手紙、資料などが展示されています。主に常設されている作家は、陸羯南、佐藤紅緑、葛西善蔵、福士幸次郎、一戸謙三、高木恭造、平田小六、今官一、そして太宰治だ。
 約200点ほど展示されていて、これらの貴重な資料を通して、彼らの業績を振り返ることができる。青森出身の作家を知らない人は、ここで興味のある作家を見つけて、その人物の足跡を辿るのもいいかもしれない。是非、立ち寄っていきたいところ。
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 今日泊まる宿をまだ決めていなかったため、ここら辺で宿探し。旅行案内パンフレット、持参した旅行雑誌片手に、料金、距離等を踏まえてコール。旧弘前市立図書館から徒歩でおよそ5、6分の旅館を確保。まだ少しだけ時間があるので2ヶ所の教会を見に行くことにしました。
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 最初に訪れたのは、神聖な空気が流れるロマネスク式の礼拝堂、カトリック教会です。明治43年(1910)に建築されたこの教会は、モルタルの白壁と、高くのびたエメラルド色の尖塔を持つロマネスク様式。天井は弓なりのアーチ型で、祭壇は荘厳なゴシック風。この祭壇は、慶応2年(1866)に制作されオランダの聖トマス教会から譲り受けたものらしいです。
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 美しいステンドグラスには、岩木山、りんご、津軽三味線など弘前が描かれており、こちらはカナダのカーロン神父から贈られたものです。
 この教会を建築したのは、以前にも出た、名匠堀江佐吉の弟、横山常吉とのこと。兄弟揃って洋風建築家だったのですね。

 二つ目の教会は、明治39年(1906)に建築された、東北最古のプロテスタント教会日本キリスト教団弘前教会です。名匠堀江佐吉の四男、斎藤伊三郎がパリのノートルダム大聖堂をモデルに作ったとのこと。なぜ100年もの時を経て、今も建設当時の姿を見せているのかというと、柱、壁、床、屋根などがすべて青森県産ヒバの総づくりのため。2階には、約30畳にも及ぶ畳敷きの観覧室などがあり、和洋折衷の造りも興味深い。
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 1日目はこれにて終了、疲れを癒すために予約した宿へ。
 私が泊まった旅館は、『石場旅館』という明治12年に造られた老舗の旅館で、実は先ほど訪れた日本キリスト教団弘前教会のすぐ横にあります。黒塗りの付け梁と白い漆喰壁が、この城下町弘前の風情を醸し出しています。 
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 太宰は、この弘前で高校時代に憧れの作家・芥川龍之介の自殺に衝撃を受けたり、同人誌『細胞文芸』の創作、義太夫を習い、小料理屋で出会った芸妓の小山初代との逢瀬、可愛がっていた弟・礼治の敗血症による急死などを経験している。
 この弘前という町は、太宰にとってどんな町として記憶に残っているのでしょうか。

 今日で弘前は終了になります。明日はいよいよ太宰の実家であり記念館にもなっている『斜陽館』へと向かいます。
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by dazaiosamuh | 2013-12-22 16:33 | 太宰治 | Comments(0)
 弘前城を後にした私は、弘前公園のすぐ横にある洋館等を周ることにしました。まず最初に向かったのは、洋館の中でも一際目を引く左右両端に八角形のドーム型双塔を持つ、旧弘前市立図書館である。明治39年(1906)に建設された木造の洋館で、造りはルネサンス様式の三階建て。窓枠などにあしらわれた緑色や赤い屋根が非常に印象的であった。
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 中は、普通閲覧室として使用されていた部屋があり、現在は地元の出版物が展示されていた。しかし、普通閲覧室とは別に、塔の一階部分の奥には、女性専用の閲覧室というのがあった。当時の時代背景をちらと思わす一室である。窓が多くて明るく、暖かい日差しの中、当時の女性たちが利用する姿が目に浮かんだ。
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 昭和6年(1931)までは、市立図書館として利用され、かつては下宿屋や喫茶店としても使われていたようだ。

 続いて向かったのは、明治33年(1900)に建設された、見た目の愛らしい東奥義塾外人教師館です。青森県内初の私学校である東奥義塾に招聘された外国人教師の住居として使われていました。家具の置かれた書斎は、壁紙がピンク色だったり、2階のベランダには子供用のブランコがあったりと、外国人一家が子ども達と楽しく過ごしたのでしょう。
 
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 一階は現在『サロン・ド・カフェ・アンジュという喫茶店があります。私は最初、まさかこの教師館の中に喫茶店があるなど知らなかったもので、引き戸を開けたら店員さんが出てきたため驚きました。ですが、ちょうど時計の針もお昼を過ぎていたためここで昼食を取ることに。
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 このカフェには、藩士の珈琲(525円)があるのですが、幕末の珈琲を再現したものだそうです。私は、お腹が空いていたためリンゴ入りのカレーライスを注文。ちなみに、客は私一人だけで、この時の教師館は外観を改装中であったため、少しばかり外の光が遮られて暗い印象を受けました。

 お昼を済ませ、教師館のすぐ横にあるミニチュア建造物群を見ようと思ったところ、こちらも改装中。通路は一応通れるのですが、写真を撮るとどうしても工事の鉄筋などが一緒に写ってしまうため、少し味気なくがっかりしました。
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 青森県内初の銀行の本店、青森銀行記念館に足を運んだのですが、残念ながら冬季(12月~3月)は休館でした。こちらは明治37年(1904)に旧第五十九国立銀行の本店として建設。ルネサンス風の外観に日本の土蔵造りの構造を取り入れた和洋折衷スタイルが特徴。天井一面は金唐革紙で造られており、当初の姿で残っているのは全国でも小樽の日本郵船とここだけらしいです。それもあって、入れなかったのは残念でした。
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 弘前には、なぜ洋館が多いのかというと、北前船が寄港していた当時、藩の中心が置かれていた弘前は、昔から外来文化になじみが深く、幕末の頃より英語教育に尽力し、いち早く外国人教師を招聘。また、洋風建築で有名な弘前出身の大工・堀江佐吉の影響もあり、洋館が多数建築されたそうです。
 ちなみに、途中で分かったのですが、旧弘前市立図書館や青森銀行記念館などを建設した堀江佐吉はなんと、現在記念館になっている太宰治の実家、『斜陽館も手掛けていたのです。どうりで旧弘前市立図書館の赤い屋根は、『斜陽館のそれを思わせるはずです。
 きっと、太宰の父・源右衛門は、堀江佐吉の腕を見込んで建築を依頼したのでしょうね。
 
 
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by dazaiosamuh | 2013-12-21 21:19 | 太宰治 | Comments(0)
 今月の初めに、太宰の故郷である青森へ1泊2日の一人旅に行ってきました。
目的は、太宰の実家であり現在は記念館になっている『斜陽館』に行くためですが、折角なのでまずは弘前に行くことにしました。

 太宰が弘前で過ごしたのは、高校時代の3年間である。昭和2年(1927)中学校を卒業した太宰は、ここ弘前の官立弘前高等学校に入学する。弘前高校は青森、秋田、岩手三県で唯一の旧制高校であり、選ばれた秀才が集う超エリート高校であった。当時の弘前高校は弊衣破帽、高下駄で闊歩する旧制高校の気風を保つと同時に、全国的に見ても最も左翼活動が盛んな学校の一つであった。
 高校へ入学した太宰は、寮には入らず「病弱」を理由に高校近くの津島家遠縁に当たる藤田家に下宿することになる。入学した年の七月、憧れていた芥川龍之介の自殺に衝撃を受ける。入学早々に受けたこの衝撃は、太宰の心に陰影の付いた複雑な思いを抱かせることになる。太宰はこの思いを胸に過酷な時代と人生の荒波へと突き進んでいくことになる。
 
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 弘前駅からは『100円バス』というのがあって、洋館や弘前城など、主要な見所はほぼ回れるようで、私も並んでいると、前に並んでいたおじさんに話しかけられ、何やらこのおじさんも一人旅で来たようで、お互いデジカメを持参してきたこともあり、意気投合し、二人で弘前公園を周ることにしました。

 弘前城を太宰は小説『津軽で、こう説明している。
「弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦為信は、関ヶ原の合戦に於いて徳川方に加勢し、慶長八年、徳川家康将軍宣下と共に、徳川幕下の四万七千石の一侯伯となり、ただちに弘前高岡に城池の区画をはじめて、二代藩主津軽信牧の時に到り、ようやく完成を見せたのが、この弘前城であるという」
 
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 時期が12月なだけに、枯れた桜の木の中でどっしりと佇む弘前城は、想像以上に小さく、少し寂しい感じがしました。
 しかし、折角来たのでおじさんと一緒に交代でデジカメを撮りながら、園内を周りましたが、「やっぱり、桜が咲いてないと少しばかり寂しいもんだねぇ」と同じことを思っていたようです。
 この弘前公園には、日本一太いソメイヨシノ(樹齢約120年)と日本最古のソメイヨシノ(樹齢約130年)を見ることができます。その他にも、十月桜弘前雪明かり枝垂桜など約50種類の桜を楽しむことができます。なぜ弘前公園には桜が多いのか、それは、正徳5年(1715年)に津軽藩士が京都から桜の苗木を取り寄せたのが始まりでした。その後、明治時代にはソメイヨシノ約1000本が植えられ、市民からの寄贈もあり、大正時代には城を埋め尽くすほどになり、現在は約2600本にもなるようです。
 毎年、陽春には多くの観光客が、桜花に包まれた弘前城を観に来るのでしょう。これから先もその健在を誇っていってほしいです。

 本丸から少し北に進むと、津軽平野のシンボル岩木山』を拝むことができるのですが、少し頂上付近に雲がかかっておりはっきりとは見えませんでした。
こちらも『津軽』から引用。
「『や! 富士。いいなあ』と私は叫んだ。富士ではなかった。津軽富士と呼ばれている1625mの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふわりと浮かんでいる。実際、軽く浮かんでいる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもっと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮かんでいる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとおるくらいに嬋娟たる美女ではある」
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 岩木山も例によって、交互に撮り、二人で弘前城を後にしました。
 ちなみに、私は東京から旅に出きたわけですが、出会ったおじさんは仙台から日帰り旅行で来たようです。「孫が東京に居て、明日会いに行くんだ」と楽しそうに話しておりました。もしかしたら、旅で撮った写真をお孫さんに見せたりして楽しんでいるのかもしれません。
 別れのとき、「東京は大変だと思うけど、しっかり頑張れよ」と元気づけてくれました。私もまた、「おじさんも、いつまでも元気で長生きしてください」といい、手を振って別れました。
 

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by dazaiosamuh | 2013-12-20 17:23 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)