遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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カテゴリ:太宰治( 321 )

 知っている人は知っていると思うが、先月、新潮社の関係者宅から太宰治『斜陽』や島崎藤村の小説原稿、石川啄木や菊池寛の手紙など約30点が見つかった。
 太宰治の有名作品『斜陽』は、それまで6枚の所在が不明であったが、そのうちの4枚が今回発見された。『斜陽』は『新潮』で1947年7月号から10月号まで掲載され、今回発見された直筆原稿は、9月号と10月号の冒頭の2枚ずつであった。発見された冒頭原稿は、乱れのない几帳面な字で書かれていたと新聞記事に書かれていた。太田静子から借りた日記をもとに太宰独自の脚色を加え、大事に作品を造り上げたことがうかがえる。残る原稿は2枚。貴重な冒頭の原稿が発見されて何よりだが、残り2枚はたしてどこにあるのだろうか。無事にすべて揃えばいいのだが。
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 資料の一部は、先月新潮社から発売された「『文豪とアルケミスト』文学全集」に掲載されているとのことだ。

 この『斜陽』の直筆原稿が発見されたことは先月のうちに知っていたのだが、この新聞の切り抜きを私の両親がわざわざ実家から送ってきてくれたので、せっかくなので記事に載せることにしました。

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by dazaiosamuh | 2017-11-15 20:36 | 太宰治 | Comments(0)
 先月、ホラー漫画家の伊藤潤二がビックコミックオリジナルで連載している、太宰治原作『人間失格』の単行本の記念すべき第1巻が発売された。
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 以前にも記事で書いたが、非常に原作の雰囲気が出ている。しかし、作者の独特の解釈、アレンジが加えられているため、全くの原作通りではない。正直、私はなるべく原作通りに描いてほしかった。ネタバレになるが、例えば、原作と違って、主人公・大庭葉蔵のせいで竹一が自殺したり、また下宿先の姉妹が殺し合いをしたりなど…。原因は葉蔵の言動によるもので、これだと葉蔵は間接的ではあるがただの殺人者でしかなく、そうなると、原作の人間との付き合いで苦悩する葉蔵とは全く違くなってしまう。しかも、この漫画では、自分のせいで竹一が自殺したのに、それに対する罪悪や後悔もなく、それどころか『どうにも抑えきれない解放感と…かつて感じた事のない喜び』などと思っている有様で、原作の繊細で『綿でも怪我をする』葉蔵ではないと思います。

 まだまだ続くため完結まで読んでみないと分かりません。原作とは別物として考えて読めば、純粋に楽しめるとは思いますが……。

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by dazaiosamuh | 2017-11-09 20:49 | 太宰治 | Comments(0)
 先月10月27日は読書の日。その読書の日に合わせて、コーヒー豆専門店のやなか珈琲が、なんと、名作文学の『読後感』が味わえるコーヒーとして文学珈琲『飲める文庫』を出した。

 なんでも、やなか珈琲店のカップテスター(コーヒー豆品質の見極め、味を検査する専門職)と、NECの人工知能AIが共同開発し、文学作品に関する1万件以上のレビューをコーヒーの味覚指標(苦味・甘味・余韻・クリア感・飲みごたえ)に変換し、この学習データをもとに分析、作成。対象とした文学作品の読後感をコーヒーの味わいで再現したとのことだ。
そしてその対象の文学作品というのが、島崎藤村「若菜集」、太宰治「人間失格」、夏目漱石「吾輩は猫である」「こころ」「三四郎」、森鴎外「舞姫」の6作品になる。
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 私は当然『人間失格』を購入。パッケージ裏には、『人を理解することができず、ついに自らに「人間失格」の烙印を押してしまう主人公の物語をコーヒーに。高地産アラビカ種などをベースに、スムーズな飲み口のペルー、スッキリとした苦味のブラジルをブレンド。淡々と語られる人間の弱みを、滑らかな口当たりで飲み易く、質の高い豊かな苦味で表現しました。』と商品説明が記載されていた。

 あの名作『人間失格』の読後感がコーヒーで味わえるとは、よく考えたものだ。しかし、コーヒー通でもなければコーヒーの味にうるさいわけでもない、たいして味の違いの分からない私に、果たして読後感が味わえるのか…、やや緊張の面持ちで飲んでみた。

 うーん、分からない…。美味しいことは言うまでもない。しかし分からない。大庭葉蔵の苦悩が伝わってくるようなこないような…。『人間失格』を読んでいるときの、あの何ともいえない暗澹たる思いも…。

 それにしても、6作品のうち3つは夏目漱石の作品なのはなぜだ。どうせならそれぞれ違う6人の作家から作品をチョイスすれば良かったのに。
 ちなみに、この『飲める文庫』は期間限定で、10月27日~11月30日までとなっており、しかも無くなり次第終了となるので、飲んでみたい方は早めの購入をおすすめします。


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by dazaiosamuh | 2017-11-05 12:24 | 太宰治 | Comments(2)
 深浦の秋田屋旅館に泊まった翌日の昭和20年7月31日、太宰一家は駅の発車時間まで間があったので、海での団欒を楽しんだ。その時のことが『回想の太宰治』に書かれている。
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翌日は、晴天で、窓をあけてみると空地に網や漁具が干してあって、漁港に泊ったことを実感した。宿に頼んでワカメを土産用に買って駅に向かった。…(中略)…夕方までに金木へ着けばよいので、のんびりした気持で駅で発車の時間をたしかめてから、足はしぜんに海べに向かった。
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朝の海は凪いでいて大小様々の岩が点在し、磯遊びには絶好であった。四つの長女はまだ海を見たことがない。一家で子供中心の行楽の旅に出たこともなかったから、私たちははしゃいで、しばらく海べでのまどいを楽しんだ。
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 太宰一家が訪れた当時は、広く大きな砂浜が広がっていたが、今はないようだ。せっかくの楽しい一家団欒のひとときであったのに、太宰はこれを題材に金木で「海」というコントを書いている。それに対しての不満を、妻・美知子が書いている。
海を指して教えても川と海の区別ができない子、居眠りしながら子の言葉にうなずく母
 
 海というと私に浮ぶのは、あの深浦の楽しかった家庭団欒のひとときである。「浦島さんの海だよ、ほら小さいお魚が泳いでいるよ」とはしゃいだのはだれだろう。太宰自信ではないか。なぜ家庭団欒を書いてはいいけないのか…私は「海」を読んでやり切れない気持であった。

 せっかく家族で楽しい時間を過ごしたのに、それとは正反対のことを書かれた妻からすれば当然不満であることはたしかである。しかも一番はしゃいでいたのは太宰である。がしかし、これが作家というものなのだろう。太宰も妻子と海辺で楽しい時間を過ごしたことは間違いないのだから、大目に見てほしい。

 深浦の記事はこれで最後になります。


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by dazaiosamuh | 2017-11-01 10:18 | 太宰治 | Comments(2)
 太宰は料亭二葉で一人さみしくお酒を飲み、ふたたび秋田屋旅館へ帰ってきた。そして、翌日、朝食を食べていたら主人がお銚子を持ってきて、あなたは津島さんでしょう、と言った。宿帳には筆名の太宰を書いていたはずなのだが、
そうでしょう。どうも似ていると思った。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになったからわかりませんでしたが、どうも、あんまりよく似ているので」
「でも、あれは、偽名でもなのです」
「ええ、ええ、それも存じて居ります、お名前を変えて小説を書いている弟さんがあるという事は聞いていました。どうも、ゆうべは失礼しました。さあ、お酒を、めし上れ。この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒の肴にはいいものです」
 私はごはんをすまして、それから、塩辛を肴にしてその一本をごちそうになった。塩辛は、おいしいものだった。実に、いいものだった。

 鮑のはらわたの塩辛とは美味しそうですね。私はイカの塩辛くらいしか食べたことがありません。あとになって知ったのですが、鮑のはらわたの塩辛は、円覚寺前にあるお店で買えるそうです。私はたしか円覚寺前にあるお店で蕎麦を食べたのですが、鮑のはらわたの塩辛があるとは気づきませんでした。腹が減っていたため、蕎麦にしか目がいきませんでした。味見してみたかったです。
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 太宰は秋田屋旅館にきたとき、『津軽へやってきて以来、人にごちそうにばかりなっていたが、きょうは一つ、自力で、うんとお酒を飲んで見ようかしら…』と意気込んでいたが、『こうして、津軽の端まで来ても、やっぱり兄たちの力の余波のおかげをこうむっている。結局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して、珍味もひとしお腹綿にしみるものがあった。要するに、私がこの津軽領の南端の港で得たものは、自分の兄たちの勢力の範囲を知ったという事だけで、私は、ぼんやりまた汽車に乗った。』と、ただただ津島家の力を思い知るのであった。

 その翌年の昭和20年7月30日には一家で深浦の秋田屋旅館に泊まっている。一夜で焦土と化した甲府から逃れて、金木へ向かう途中に、深浦へ寄ったのだ。その理由については、『太宰の深浦泊りの目的が何にあるのかが察しがつくので仕方なく同意して…』と妻の津島美知子が『回想の太宰治』で書いている。
 到着したときはすでに夜で、懸命に太宰は戸をたたき、やっと二階へ上がらせてもらえたのだが、『前年の「津軽」の旅のとき、主人から特別のもてなしを受け、やまげんの勢力がここまで及んでいることを感じたことを太宰は記しているが、その主人は現れない筈、長患いの床に就いているとのことであった。』とあり、17、18歳の娘さんが給仕してくれたのだが、『手もとが僅かに見えるほどの暗い部屋で、とうてい、お銚子をと言い出すことが出来なくて、あてにして来た太宰が気の毒であった。甲府で罹災して以後も毎夜焼跡で飲んできていたが、甲府出発以来アルコールが全く切れていた。これではなんのためにまわり道して、深浦に泊ったのかわからない。』とある。そう、太宰は酒が飲みたくて、わざわざ妻子を連れまわして深浦へ来たのだ。『津軽』の深浦の場面で、『子供は百日咳をやっているのである。そうして、その母は、二番目の子供を近く生むのである。たまらない気持がして私は行きあたりばったりの宿屋へ這入り…』とあんなに妻子を心配していたのに、アルコールが切れると酒優先になってしまうのは、酒飲みのなんとも悲しい性だと思います。

 太宰が泊まった秋田屋旅館(現・ふかうら文学館)ですが、実は太宰は、秋田屋旅館の経営者が、兄・英治の友人(島川貞一)であることを事前に知っていたのではないか、という説もありますが、分かりません。

 深浦の記事はもう一度だけ書きます。


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by dazaiosamuh | 2017-10-26 10:07 | 太宰治 | Comments(0)
 秋田屋旅館にてすぐにお膳が運ばれてきたことに救われた太宰であったが、どうやらお酒はもうないとのことであった。そこで太宰はお膳を持ってきた若い娘さんに、他にお酒を飲める場所はないかと尋ね、ございますという返事に安堵し、その料亭へそそくさと足を運ぶのであった。

ほっとして、その飲ませる家はどこだ、と聞いて、その家を教わり、行って見ると、意外に小奇麗な料亭であった。二階の十畳くらいの、海の見える部屋に案内され、津軽塗の食卓に向かって大あぐらをかき、酒、酒、と言った。
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 写真の建物付近に当時太宰が行った料亭がありました。太宰が行った料亭というのは料亭二葉のことで、現在は風待ち館という観光協会の建物と駐車場になっている。

お酒だけ、すぐに持って来た。これも有難かった。たいてい料理で手間取って、客をぽつんと待たせるものだが、四十年配の前歯の欠けたおばさんが、お銚子だけ持ってすぐに来た。私は、そのおばさんから深浦の伝説か何か聞こうかと思った。
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 お酒もすぐに出て、そのおばさんに名所などを尋ねる太宰であったが、突如、『ぶってり太った若い女』が現われて、変に気障な洒落などを飛ばし、太宰は頗る不快な思いで我慢がならず、『私は、いやで仕様が無かったので、男子すべからく率直たるべしと思い、「君、お願いだから下へ行ってくれないか」と言った。私は読者に忠告する。男子は料理屋へ行って率直な言い方をしてはいけない。私は、ひどいめに逢った。その若い女中が、ふくれて立ち上がると、おばさんも一緒に立ち上がり、二人ともいなくなってしまった。ひとりが部屋から追い出されたのに、もうひとりが黙って坐っているなどは、朋輩の仁義からいっても義理が悪くて出来ないものらしい。私はその広い部屋でひとりでお酒を飲み、深浦港の燈台の灯を眺め、さらに大いに旅愁を深めたばかりで宿へ帰った。

 料亭二葉での話は本当なのか『津軽』を面白くする上での創作なのかは分からない。『君、お願いだから下へ行ってくれないか』
 これは誰でも不機嫌になってしょうがないであろう。ひどいめに逢ったのはお互い様である。
 
 深浦町の記事は次回で最後になります。



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by dazaiosamuh | 2017-10-20 10:41 | 太宰治 | Comments(2)
 久しぶりの記事になります。
 太宰は『津軽』執筆のために、取材旅行でこの深浦へ来たのが昭和19年5月25日。深浦の町を歩き、円覚寺へお参りして、そろそろ引きあげようかと思った時に、ふと東京にいる子供のことなどを思い出してしまった。百日咳に罹っている子供と2人目の子供を近く生む妻のことを思い、郵便局へ行って、葉書を1枚認め、妻子のもとへと送った。そして…。

たまらない気持がして私は行きあたりばったりの宿屋へ這入り、汚い部屋に案内され、ゲートルを解きながら、お酒を、と言った。すぐにお膳とお酒が出た。意外なほど早かった。私はその早さに、少し救われた。部屋は汚いが、お膳の上には鯛と鮑の二種類の材料でいろいろに料理されたものが豊富に載せられてある。鯛と鮑がこの港の特産物のようである。お酒を二本飲んだが、まだ寝るには早い。津軽へやってきて以来、人のごちそうにばかりなっていたが、きょうは一つ、自力で、うんとお酒を飲んで見ようかしら、とつまらぬ考えを起し、さっきお膳を持って来た十二、三歳の娘さんを廊下でつかまえ、お酒はもう無いか、と聞くと、ございません、という。どこか他に飲むところは無いかと聞くと、ございます、と言下に答えた……
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 その行きあたりばったりの宿屋というのが、秋田屋旅館のことで、現在の『ふかうら文学館』のことだ。『汚い部屋に案内され…』とは失礼だと思うが、現在太宰が宿泊したその部屋は、『太宰宿泊の間』として当時のままに再現されている。館内は撮影禁止のためお見せすることができないのが残念だが、部屋からの見晴らしもいい。太宰が各地で泊まった部屋は、いつも決って角部屋が多い気がする…。
 それと面白いのが、部屋とは別にある『太宰治の間』のコーナーでは、太宰が訪れた頃に旅館で振舞われた料理が推測再現されていたことだ。お膳には、鮑の刺身、鯛の塩焼き、アラ汁、鯛の子とフキ、ネマガリダケの炊き合わせ、鯛のかぶと蒸し、鮑のウロ(はらわた)の塩辛、ミズと鮑の水物。この料理が全部出されたわけではないが、それでも戦時下でありながらなかなか豪華である。
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 部屋の中の写真は撮れないので、外から太宰が泊まった部屋の写真を載せておきます。ここから酒を飲んでは、東京にいる妻子のことなどを考えていたのだろう。

 飲み足りない太宰は、お酒はもう無いと言う娘さんから、お酒を飲める場所を聞き、その料亭を訪ねるのであった。


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by dazaiosamuh | 2017-10-14 13:23 | 太宰治 | Comments(3)
 太宰治は深浦の円覚寺におまいりし、深浦を引きあげようかと悩んだ。東京へ残した妻子のことなどを、ふっと思い出してしまったのだ。
私は立ち上って町の郵便局へ行き、葉書を一枚買って、東京の留守宅へ短いたよりを認めた。子供は百日咳をやっているのである。そうして、その母は、二番目の子供を近く生むのである。

 太宰の子煩悩な一面がうかがえる。太宰がこの日、木造から深浦へと訪れたのは昭和19年5月25日のことであったが、実は翌年の昭和20年7月30日には、妻子を連れて再び深浦へと来ている。
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 太宰が葉書を買い求めた郵便局。建物は建て直されているが、太宰が訪れた当時からこの場所であったようだ。
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 郵便局のほんの少し先に深浦文学館がある。そこは太宰が1人で訪れた昭和19年5月25日と妻子を連れてきた昭和20年7月30日に2度宿泊した秋田屋旅館で、現在は深浦文学館として活用されている。深浦文学館に、当時郵便局で働いていた花松フサという女性のインタビュー映像を見ることができるのだが、太宰が郵便局に葉書を買い求めた時、この女性が売ったという。せっかくインタビュー映像を見たのに、内容を覚えていない…。まさか葉書を売った女性が太宰のことを覚えていて、しかもインタビュー映像が見られるとは思っていなかったためメモも取れなかった…。もう一度見ようかと思ったが、如何せん滞在時間があまりなかったのであきらめて文学館を出ました。今思えばもう一度ちゃんと見てメモを取っておけばよかった…。いつになるか分からないがあとでまた必ず深浦文学館を訪ねようと思います。


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by dazaiosamuh | 2017-10-04 11:24 | 太宰治 | Comments(0)
駅からまっすぐに一本路をとおって、町のはずれに。円覚寺の仁王門がある。この寺の薬師堂は、国宝に指定せられているという。
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 太宰が書いているとおり、駅からまっすぐにひたすら歩いていくと、円覚寺の大きな仁王門が見えてくる。途中、お腹が空いたので仁王門のすぐ目の前のお店に入り、蕎麦を食べて腹ごしらえをし、改めて仁王門へと向かうと、門に掛けてある幕には、『開山1150年 33年ごと ご本尊開帳記念大法要平成30年 7月17日~31日』とある。33年ごとにご本尊の開帳が行われているらしい。これを逃すと、次は2051年まで待たなくてはならない。

 この春光山円覚寺は、県内でも屈指の古刹で、大同二年(西暦807年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が建立したと伝えられている。
 円覚寺のHPによると、『円覚寺の古来から澗口観音として信仰を集めた祈願寺で、嵐の中を無事に生還した船乗りのチョンマゲが多数奉納されている』とのことだ。信仰の厚い、由緒あるお寺ですね。
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 しかし、円覚寺を訪れた太宰は、『私は、それにおまいりして、もうこれで、この深浦から引上げようかと思った。完成されている町は、また旅人に、わびしい感じを与えるものだ。私は海浜に降りて、岩に腰をかけ、どうしようかと大いに迷った。まだ日は高い。東京の草屋の子供の事など、ふと思った。なるべく思い出さないようにしているのだが、心の空虚の隙をねらって、ひょいと子供の面影が胸に飛び込む。』と、東京にいる子供のことを思い出し、なんだか寂しい気持になるのであった。

 太宰が訪れたこの円覚寺は上記に書いたとおり、来年7月に御開帳となる。33年ごとだ。太宰が訪ねた地ということもあり、是非とも見ておきたい。逃すと次の御開帳の頃には私は還暦を過ぎてしまう…。その頃には、いったい自分はどういう人間になっているのだろうか。


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by dazaiosamuh | 2017-09-29 15:18 | 太宰治 | Comments(2)
深浦町は、現在人口五千人くらい、旧津軽領西海岸の港である。江戸時代、青森、鯵ヶ沢、十三などと共に四浦の町奉行の置かれたところで、津軽藩の最も重要な港の一つであった。
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 太宰が訪れた当時は人口約5千人ほどであったが、少し深浦の人口について調べて見ると、1955年(昭和30年7月29日)大戸瀬村と合併し、1970年には人口が1万8千人を超えた。しかし、過疎化や少子高齢化が進み、1980年は1万5千人、1990年には1万3千人と減少し、2005年(平成17年3月31日)には西津軽郡岩崎村と合併するも人口は1万人であった。2015年には8千4百人まで減少している。少子高齢化、過疎化は日本に於いての深刻な問題である。

丘間に一小湾をなし、水深く波穏やか、吾妻浜の奇巌、弁天嶋、行合岬など一とおり海岸の名勝がそろっている。しずかな町だ。漁師の家の庭には、大きい立派な潜水服が、さかさにつるされて干されている。何かあきらめた、底落ちつきに落ちついている感じがする。
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 弁天島。この付近一帯は、日本の渚百選、日本の夕陽百選に認定されているとのこと。浜辺から夕陽を眺めたら、さぞ美しかっただろう、あいにく滞在時間があまりなかったので、夕陽はおろか弁天島へ行く時間も無かった。またあとでじっくり訪れたい。

 次回は、円覚寺を書きます



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by dazaiosamuh | 2017-09-24 18:29 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)