遠い空の向こうへ

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太宰の他に映画等、色々載せれたらいいなと思っています。

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カテゴリ:太宰治( 311 )

 久しぶりの記事になります。幼い頃から目が弱く、近頃、目を開けているのも辛い状態でしたが、何とか記事を続けていきます。

 木造から深浦へ向かった太宰。『津軽』で途中の千畳敷海岸について書いているが、おそらくは車窓から眺めただけで、海岸へは降りていないと思われます。
 深浦町へ到着した太宰は、『この港町も、千葉の海岸あたりの漁村によく見受けられるような、決して出しゃばろうとせぬつつましい温和な表情、悪く言えばお利巧なちゃっかりした表情をして、旅人を無言で送迎している。つまり旅人に対しては全く無関心のふうを示しているのである。』と町の印象を書いている。しかし、太宰は深浦の欠点を述べているのでは決してなかった。
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 深浦駅。小さな駅舎で、私が来たとき、横柄な駅員が気になったが、まあ長閑な場所である。

そんな表情でもしなければ、人はこの世に生きて行き切れないのではないかとも思っている。これは成長してしまった大人の表情なのかも知れない。何やら自信が、奥底深く沈潜している。津軽の北部に見受けられるような、子供っぽい悪あがきは無い…(中略)…津軽の奥の人たちには、本当のところは、歴史の自信というものがないのだ。まるっきりないのだ。だから、矢鱈に肩をいからして、「かれは賤しきなるものぞ」などと人の悪口ばかり言って、傲慢な姿勢を執らざるを得なくなるのだ。あれが、津軽人の反骨となり、剛情となり、詰屈となり、そうして悲しい孤独の宿命を形成するという事になったのかも知れない。』とここでもやはり太宰特有の自論を展開している。
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 深浦駅を出てすぐ前にある通りは、人が誰も歩いておらず、何だか廃れた寂しい印象を受けた。太宰の『旅人に対しては全く無関心のふうを示している』を肌で感じた気持ちであった。寂しい気持ではあったが、しかし、この雰囲気がまた私には心地よかった。
 太宰はそして『人からおだてられて得た自信なんてなんにもならない。知らん振りして、信じて、しばらく努力を続けていこうではないか。』と言っている。その通りだ。人からおだてられて得た自信なんて、なんにもならないのだ(おだてられるような場面が、まず私にはないが)

 太宰の歩いた深浦を、少しずつ書いていきたいと思います。


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by dazaiosamuh | 2017-09-19 20:33 | 太宰治 | Comments(0)
 千畳敷駅を下車してすぐに太宰治の文学碑があり、その背後には日本海と駅名に由来する数えきれない岩石が展開している。
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この辺の岩石は、すべて角稜質凝灰岩とかいうものだそうで、その海蝕を受けて平坦になった斑緑色の岩盤が江戸時代の末期にお化けみたいに海上に露出して、数百人の宴会を海浜に於いて催す事が出来るほどのお座敷になったので、これを千畳敷と名付け……
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 でこぼことした岩石が露出している。なるほど、言われてみればお座敷に見えなくもない。ここで数百人で酒を飲めたら、たしかに楽しそうだ。この千畳敷海岸を歩くことを事前に分かっていたのに、この旅行で私が履いてきた靴は、通気性を良くするために、底に数カ所の穴のあいたランニングシューズであった。おかげで海水のしみ込んだ砂地を歩くときに、その穴からじわりじわりと海水が入ってきて、靴下がびしょびしょになってしまい、靴のなかは海水臭くなってしまった。なんてドジなんだろうと思いながら千畳敷の岩盤の上から遠く日本海を眺めていました。
 この岩盤は、1792年(寛政4年)に地震で隆起したと伝えられている。藩政時代は殿様専用の避暑地で、庶民は近づけなかったという。

またその岩盤のところどころが丸く窪んで海水を湛え、あたかもお酒をなみなみと注いだ大盃みたいな形なので、これを盃沼と称するのだそうだけれど、直径一尺から二尺くらいのたくさんの大穴をことごとく盃と見たてるなど、よっぽどの大酒飲みが名附けたものに違いない。
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 たしかに海水をなみなみと注いだような丸い窪みがある箇所があった。これをお酒をなみなみと注いだ大盃と見るのは、太宰の言うとおりよほどの大酒飲みである。それにしても、とても綺麗な丸い窪みだ。ほんとうに自然にできたのかと思って見入ってしまった。

 大宴会の開かれたとされる千畳敷であるが、太宰からすると、この辺から、津軽ではないと言っている。
外ヶ浜北端の海浜のような異様な物凄さは無く、謂わば全国至るところにある普通の「風景」になってしまっていて、津軽独得の詰屈とでもいうような他国の者にとって特に難解の雰囲気は無い。つまり、ひらけているのである。人に眼に、舐められて、明るく馴れてしまっているのである…(中略)…私などただ旅の風来坊の無責任な直感だけで言うのだが、やはり、この辺から、何だか、津軽ではないような気がするのである。津軽の不幸は宿命は、ここには無い。あの、津軽特有の「要領の悪さ」は、もはやこの辺には無い。山水を眺めただけでも、わかるような気がするのである。すべて、充分に聡明である。所謂、文化的である。ばかな傲慢な心は持っていない。

 津軽特有の『要領の悪さ』というのが、何だか分かるような分からないような。風土の違いを太宰は敏感に感じ取り指摘している。津軽出身の人からすると、太宰のこの見解をどう思うのだろうか。

 この後、靴の中がびっしょりの状態で再び列車に乗り込み、深浦へ向かいました。


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by dazaiosamuh | 2017-09-09 20:32 | 太宰治 | Comments(0)
『津軽』の『五 西海岸』の木造からの続きになります。
 コモヒの町・木造で父の生家でMさん(松木尚三郎)から思わぬもてなしを受け、なおも引きとめられるのを汗を流して辞去した太宰は、どうにか深浦行きの汽車に乗り込みます。
木造から、五能線に依って約三十分くらいで鳴沢、鯵ヶ沢を過ぎ、その辺で津軽平野もおしまいになって、それから列車は日本海岸に沿うて走り、右に海を眺め左にすぐ出羽丘陵北端の余波の山々を見ながら一時間ほど経つと、右の窓に大戸瀬の奇勝が展開する。』(津軽)
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 事前に景色のよい日本海側の席を確保していたのだが、私の隣と通路を挟んで反対側の2席には、鹿児島から旅行で来た家族3人連れが座っていました。私の隣に座っていた年配のおじさんが話しかけてきて、せっかく景色を1人で静かに楽しもうと思っていたのに、と最初は煩わしく感じたが、その家族3人連れの人達と会話が弾み、私が太宰治ゆかりの地を巡っている話などをし、次に停車する千畳敷は太宰治の作品『津軽』にも登場し、文学碑もあることを教えると、せっかくなら降りて写真を撮ろうかということになりました。五能線を走るリゾートしらかみは千畳敷駅で、たしか約10分ほど停車し、観光客に千畳敷海岸へ降りて楽しんでもらうというサービスがあるのでした。
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 駅を降りて、道路を挟んですぐに海岸へ降りる入口に、太宰治の文学碑があります。碑には『津軽』の『五 西海岸』から千畳敷について書かれた部分が抜粋されています。
 この文学碑の前で、隣りに座った家族と記念に写真を撮りました。とてもよい思い出になりました。こういうのも、太宰のおかげで巡り合えた出会いだと1人で勝手に太宰に感謝してます。ありがとう太宰。
 文学碑の背後には、太宰が書いた千畳敷海岸が広がっています。次回書きます。


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by dazaiosamuh | 2017-09-02 12:09 | 太宰治 | Comments(0)
 つい先日、山梨県甲府市を歩いた。その日、山梨県立文学館へ行ったのだが、そこで津島佑子の展覧会が行われることを知った。

 津島佑子(本名・津島里子 1947年~2016年)は、太宰治(津島修治)の次女で、去年の2月に亡くなっている。太宰治のことは知っていても、次女のことは知らない人は多いかもしれない。しかも父と同じく作家なのだ。
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 津島佑子の業績をたどる初の展覧会とのことだ。私は太宰のことばかり調べて、実は、次女のことはあまり知らない。津島佑子の本は何冊も買っているのに、未だに読んでいない。展覧会は9月23日~11月23日までの2カ月間だ。これを機に作品を読み、太宰の次女・津島佑子の人と文学を知り、展覧会へ行き、さらにその世界に浸ろうと思います。


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by dazaiosamuh | 2017-08-31 09:15 | 太宰治 | Comments(0)
 父の生れた家を見たくて松木家を訪ねた太宰であったが、そこで思わぬ嬉しい発見をする。それは…、
この家の間取りは、金木の家の間取りとたいへん似ている。金木のいまの家は、私の父が金木へ養子に来て間もなく自身の設計で大改築したものだという話を聞いているが、何の事は無い、父は金木へ来て自分の木造の生家と同じ間取りに作り直しただけのことなのだ。』(津軽)
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 写真の郵便局の周辺がM家(松木家)のあった場所。太宰の実家である斜陽館がここにあったと想像すれば分かりやすいと思います。その間取りであるが、松木家は、『床の間付きの二十四畳間、回り廊下に面した書院付きの十五畳間、常居、小間、台所、通り土間、薬倉、文庫蔵……。間口三十六間、奥行き二十七間といわれた大きな屋敷だったという。
 津島家の住宅は、父源右衛門が明治四十年六月に新築した。構造においては松木家を、外観は五所川原の佐々木嘉太郎家をそれぞれ模している。一階は十一室二七八坪。四部屋をブチ抜くと六三畳の大広間になる。二階は和洋折衷で八室一一六坪からなる。文庫蔵、中の蔵、米蔵三棟、泉水を配した庭園と前庭を合わせて宅地六八〇坪余の建物である。』(郷土文化誌 いしがみ)
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 太宰は自分の生家の間取りと同じことに気付き、『私には養子の父の心理が何かわかるような気がして、微笑ましかった』とし、『そう思って見ると、お庭の木石の配置なども、どこやら似ている。私はそんなつまらぬ一事を発見しただけでも、死んだ父の「人間」に触れたような気がして、このMさんのお家へ立寄った甲斐があったと思った。』と素直に語っている。太宰にとって木造に来て一番の収穫は、父の生れた家を訪ね、『死んだ父の「人間」に触れ』ることができたことであった。『津軽』の文中で私の好きな場面でもあります。
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 太宰とこの時一緒に酒を飲んだ松木尚三郎の三男の松木宏泰は、『若いころ、金木の津島家に行った折、飯を炊く大釜を見て、木造の家にあるものより大きいのに驚いたことがある。源右衛門は、恐らく木造の生家にまけない家をと婿養子に入った時から思っていたに違いない。その私の育った家は、昭和三十三年に解体してしまい、一部が残っているのみである。」と「太宰と父の家」に記している。
 また、尚三郎が逝去した後、妻・ムツが1人で住んでいたが、平成11年11月27日に亡くなり、その後は現在の通り廃墟となっている。

 太宰の父・源右衛門(本名・松木永三郎)は婿養子として津島家に迎えられたのだが、『明治二十一年の春、津島家から婿見の一行がやってきた時、十八歳の永三郎は屋敷の裏の小川のそばで下駄を作っていたそうだ。この健気さが津島家の印象を良くしたと言われている。もっとも、長兄絶対権力の中でおんじカスという境遇からなんとしても這いあがろうと、利発な永三郎が計算づくで下駄づくりの芝居を演じたとの話もある。』と尚三郎の三男・宏泰が語った話が記されている。
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 松木家のあった場所のすぐ裏手にはたしかに小川が流れている。婿養子に何としても迎えてもらうため、熱心に下駄づくりを演じた(と思われる)姿が微笑ましく想像される。『津軽』にはこの話は出てこないが、太宰は尚三郎から聞いたのだろうか、もし聞いていれば、なお父に対する親近感が増し、父への想いも変わったことだろう。

 余談になるが、この木造の記事で引用した『郷土文化誌 いしがみ』は、廃墟となった『まつきや』のすぐ目の前の道路を挟んだ向かい側にある喫茶店で女性店主から偶然いただくことができた。おかげで記事を書くにあたって非常に役立てることができました。感謝しています。

 木造編はこれで終わりになります。


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by dazaiosamuh | 2017-08-23 17:41 | 太宰治 | Comments(0)
そのコモヒを歩いていたら、M薬品問屋の前に来た。私の父の生れた家だ。立ち寄らず、そのままとおり過ぎて、やはりコモヒをまっすぐに歩いて行きながら、どうしようかなあ、と考えた…(中略)…しばらく歩いて、ようやくコモヒも尽きたところで私は廻れ右して、溜息ついて引返した。私は今まで、Mの家に行った事は、いちども無い。木造町へ来た事も無い。或いは私の幼年時代に、誰かに連れられて遊びに来た事はあったかも知れないが、いまの私の記憶には何も残っていない。

 太宰はコモヒをまっすぐそのまま歩いて、父の生家を通りすぎてしまう。太宰は人の家を1人で訪ねるのが苦手なのであった。それは私が太宰治を好きになったきっかけである『人間失格』にも表れている。
そのうえ自分には、「訪問(ヴィジット)」の能力さえ無かったのです。他人の家の門は、自分にとって、あの神曲の地獄の門以上に薄気味わるく、その門の奥には、おそろしい竜みたいな生臭い奇獣がうごめいている気配を、誇張でなしに、実感せられていたのです…(中略)…何よりも自分に苦手の「訪問」を決意し、溜息をついて市電に乗り……

 これもまた私にとって太宰に共感した部分で、私も人の家を訪ねるとき、どうしても躊躇して何回も家のまえをウロウロしてしまいます。
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 写真の木造郵便局の周辺一帯が、太宰の父・津島源右衛門こと本名・松木栄三郎の生家があった場所です。
 太宰は自分の突然の訪問に、Mさんがぎょっとして、『こいつ東京を食いつめて、金でも借りに来たんじゃないか』などとMさんが思うのではないかと心配になってしまう。それでも『もう二度と、来る機会はないのだ。恥をかいてもかまわない。はいろう。』と覚悟を決めて店の奥へ声をかける。太宰の心配は杞憂で、Mさんが出て来ると、大変な勢いで床の間の前に座らせ、『二、三分も経たぬうちに、もうお酒が出た。実に、素早かった。「久し振り。久し振り」とMさんはご自分でもぐいぐい飲んで、「木造は何年振りくらいです」
「さあ、もし子供の時に来た事があるとすれば、三十年振りくらいでしょう」
「そうだろうとも、そうだろうとも。さあさ、飲みなさい。木造へ来て遠慮する事はない。よく来た。実に、よく来た」』と太宰を心からもてなすのであった。
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 写真は現在の『まつきや』。誰も住んでおらず、廃墟となっている。かろうじて店の中に『まつきや』と書かれた看板が残っている。すぐ右隣は木造郵便局。
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 いしがみ刊行会が出している郷土文化誌『いしがみ』第17号で、太宰をもてなしたM家の松木尚三郎と太宰のその時のエピソードを、父・母から話を聞いた尚三郎の三男・宏泰の話が載っている。
宏泰さんは、「『津軽』には描かれていないが、父と太宰は酒を酌み交わしているうちに、気がついてみるとお互いの炉の中に数十本の吸いかけの煙草を差し並べていた。似ている変な癖を発見した、いとこ同志はさらに、くしゃみを連発して、これが始まると酒席が終わりなのだと認め合ったと言う。」と記している。別の証言では、酒六~七合くらい飲むとくしゃみが出るという。二人で二升近く飲んだことになる。』と書かれてた。
 太宰の、酒が飽和点に達するとくしゃみが出る話は有名だが、吸いかけの煙草を炉の中で差し並べる癖があることは知らなかった。たしかに変な癖である。
 尚三郎はそして、太宰に木造について書くなら、米の供出高を書くように宣伝を始める。太宰はその時の木造を宣伝する尚三郎との会話を『津軽』の中にエピソードとして入れることによって、約束を果たすのであった。
 そして、『Mさんは、小さい頃から、闊達な気性のひとであった。子供っぽいくりくりした丸い眼に魅力があって、この地方の人たち皆に敬愛せられているようだ。私は、心の中でMさんの仕合せを祈り、なおも引きとめられるのを汗を流して辞去し、午後一時の深浦行きの汽車にやっと間に合う事が出来た。』と感謝の気持を載せて締めくくっている。太宰の心からの感謝であった。

 次回もまた松木家の記事を書きます。


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by dazaiosamuh | 2017-08-16 13:50 | 太宰治 | Comments(0)

小説 『探偵太宰治』

 数日前、1,2カ月振りに銀座のバー・ルパンへ行った。カクテルを頼み飲んでいると、マスターが、そういえば、と何かを思い出し、本が並んでいる棚から1冊の文庫本を取り出し私に手渡してきた。
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 先月発売されたばかりの『探偵太宰治』という全くのフィクションの小説であった。主人公・津島修治(太宰治)が、怪奇事件というのか行方不明事件を解決していきながら成長し、自身の半生をおっていく話だ。太宰の人生をもとに作者の創作を加えたフィクションとなっている。
 太宰の小説はほとんど読んでないと言っていたマスターが太宰を題材にしたフィクション小説を買って読んでいたとは意外であった。書店の新刊のコーナーでこの本が目に留まり試しに買って読んでみたとのことだが、意外であった。マスターに読み終えた感想を尋ねたが……、ここではあえて書かないでおこう。
 私は読み始めたばかりのため何とも言えない、かと言って読み終えてから感想を記事に書こうとも思わない。読み終えたらさっさとマスターに返すつもりだ。
 太宰に興味がある人、ミステリー系が好きな人は試しに読んでみるといいかもしれない。
 
 それにしても、マスターがこの本を買ったことが、本当に一番意外であった。

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by dazaiosamuh | 2017-08-11 18:02 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治は『津軽』の『五 西海岸』で、『木造は、また、コモヒの町である』と木造のコモヒをかなり印象深く書き、自分なりのコモヒ論を展開している。
コモヒというのは、むかし銀座で午後の日差しが強くなれば、各商店がこぞって店先に日よけの天幕を張ったろう、そうして、読者諸君は、その天幕の下を涼しそうな顔をして歩いたろう、そうして、これはまるで即席の長い廊下みたいだと思ったろう、つまり、あの長い廊下を、天幕なんかでなく、家々の軒を一間ほど前に延長させて頑丈に永久的に作ってあるのが、北国のコモヒだと思えば、たいして間違いは無い。
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 写真の右側の屋根のあるガラス張りの通路がコモヒ。日ざし除けには最適であるのはたしかであるが、

しかも之は、日ざしをよけるために作ったのではない。そんな、しゃれたものではない。冬、雪が深く積った時に、家と家との聯絡に便利なように、各々の軒をくっつけ、長い廊下を作って置くのである。吹雪の時などには、風雪にさらされる恐れもなく、気楽に買い物に出掛けられるので、最も重宝だし、子供の遊び場としても東京の歩道のような危険はなし、雨の日もこの長い廊下は通行人にとって大助かりだろうし、また、私のように、春の温気にまいった旅人も、ここへ飛び込むと、ひやりと涼しく、店に座っている人達からじろじろ見られるのは少し閉口だが、まあ、とにかく有難い廊下である。

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 太宰が書いている通り、大雪の積もる津軽ならではの歩道である。これなら雪が積もっていても平気な顔してあるくことができる。もちろん雨の日や風の強い日、日ざしの強い日にも重宝される。こどもが車と接触する恐れもない。6月のじわりと汗がにじむ日に訪れたが、たしかにコモヒに入ると、ひやりと涼しく快適であった。しかし、写真を見て分かる通り、現在は廃れてしまっており、いつからなのか分からないが商店もかなりが閉店している。

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 ガラス戸が無いコモヒもあった。せっかく屋根はあるが、これでは雪が降った時に通路に入ってきてしまいそうだ。ガラス戸があってこそその特性を活かすことができるはずだと思うのだが。
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 商店も閉店だらけでコモヒも疲れ切っているように見える。コモヒがずーっとくっついて続いているものだと思っていたのだが、所々がすでに無くなっており、あったりなかったりである。
 太宰はさらに、コモヒの語源についても言及している。
コモヒというのは、小店(こみせ)の訛りであると一般に信じられているようだが、私は、隠瀬(こもせ)あるいは隠日(こもひ)とでもいう漢字をあてはめたほうが、早わかりではなかろうか、などと考えてひとりで悦にいっている次第である。

 なかなかに木造において太宰はこのコモヒが非常に印象に残ったようだ。というのも、
この町のコモヒは、実に長い。津軽の古い町には、たいていこのコモヒというものがあるらしいけれども、この木造町みたいに、町全部がコモヒに依って貫通せられているといったようなところは少ないのではあるまいか。いよいよ木造は、コモヒの町にきまった。』と、その木造のコモヒのあまりの長さに強い印象を受け、木造町を、『コモヒの町にきまった』としたのだ。
 しかし、現在は『町全部がコモヒによって貫通せられている』とはとてもじゃないが言う事はできない。部分的にしか残っていないのだ。しかも現在残っているコモヒも閉店している場所も多く、そのうちそのコモヒも取り壊されるであろう、コモヒの町では無くなってきている。

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 このコモヒも商店はみな閉店しおり、しかもガラス戸も無く、柱はサビだらけである。遅かれ早かれ取り壊されるのではないだろうか。
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 歩いていて気付いたが、地面をよく見ると、そこにはガラス戸のレールが残っており、かつてここにコモヒがあったことを示している。太宰が、『町全部がコモヒに依って貫通せられている』と書いていた通り、ずーっと奥までコモヒが途切れることなく続いていたのだ。

 これからさらに時代が進めば、木造からコモヒは消えてなくなるだろうと思われる。しかし、そうなると冬季はどうなるのだろう。コモヒがないと歩きにくいのではないだろうか。それとも最近の津軽は積雪は太宰がいた当時より多くないのか。

 どちらにしても木造のコモヒを見ておくなら今のうちに見ておいたほうがいいだろう。


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by dazaiosamuh | 2017-08-07 21:23 | 太宰治 | Comments(2)
 木造の町に来たのは、太宰治生誕祭の前日である18日だったが、日曜日にも関わらず、ほとんど人通りがなかった。
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 歩いていると、やたらとこの写真のように崩れかかった建物が目についた。どんどん廃れてきてしまっている。閉店したお店も多く目につき、時代の流れを感じずにはいられなかった。

その日も、ひどくいい天気で、停車場からただまっすぐの一本街のコンクリート路の上には薄い春霞のようなものが、もやもや煙っていて、ゴム底の靴で猫のように足音も無くのこのこ歩いているうちに春の温気にあてられ、何だか頭がぼんやりして来て、木造(きづくり)警察署の看板を、木造(もくぞう)警察署と読んで、なるほど木造(もくぞう)の建築物、と首肯き、はっと気附いて苦笑したりなどした。
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 太宰が木造警察署(きづくり)を木造警察署(もくぞう)と読んだ警察署は、現在はつがる警察署となっている。念の為に昔からここにあるのかを聞きに警察署へ入りました。
 つがる警察署で、ここは以前に木造警察署であったのか、当時からこの場所なのかを尋ねると、ここで間違いありませんでした。署内の警察官たち(6,7人)が不思議そうな目で私を見ており、受付で対応した一人が理由を訊いてきたので、太宰治の『津軽』に登場することを話すとようやく納得し、そのうちの1人が何かを思い出し、奥から何やらパンフレットを持ってきてくれました。
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 つがる市が発行している、『文化観光散策ガイド』というパンフレットで、その中の一部に太宰治が歩いた木造でのゆかりの地が掲載されていました。そこにはつがる警察署も載っていました。パンフレットを頂けないかとお願いすると、一部しかなくあげられない、白黒になるがコピーしてあげるよと言われ、カラーコピーはダメなのかと内心図々しく思いつつお礼を述べて警察署を出ました。実は生誕祭の翌日の20日にも西海岸(木造、鯵ヶ沢、千畳敷、深浦)を再び訪れ、写真のパンフレットは、その2回目の20日に木造に来た時に駅でお願いして頂くことができました。その時も、一部しかないからあげられないと言われたのですが、駅員の方が何とか探して発見し、辛うじて頂くことができたのでした。

 太宰が木造警察署(きづくり)を木造警察署(もくぞう)と読んで、『なるほど木造(もくぞう)の建築物、と首肯き、はっと気付いて苦笑したりなどした。』と書いているが、当然現在は木造ではなくしっかりとしたコンクリートの建物となっている。
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 余談になるが、2回目に木造を訪れた際、せっかくだから心残りの無いようにもっと写真を撮っておこうと、つがる警察署をパシャパシャと撮り、満足したところで振り返りすたすたと歩いてその場を離れたところ、背後からものすごい勢いで走ってくる足音が聞こえ、振り返ると警察官が私に向かって迫ってきているところでした。私が思わずたじろいでいると、おはようございますと声を掛けて来ました。私は内心動揺し、写真を撮ったのがまずかったのか、それとも道路を斜め横断したせいか、いやそれとも信号無視を実は目撃されていたのか、などと考えを張り巡らしていると、「今、警察署の写真を撮っていませんでしたか?」と訊かれ、私は正直に、太宰治のゆかりの地を歩いていて、『津軽』に登場するため、写真を撮ったと言うと、警察官は納得し、「そういうことでしたか、いや、それが、写真を撮るのはまったく構わないのですが、この警察署の写真を撮る方々がたまにいまして、以前から、なんでこの警察署を撮るのか不思議に思っていたのです。太宰治の作品に…、そうでしたか、いやいや引き止めて申し訳ありませんでした。お気をつけてお帰り下さい。」と言い、警察署へまた走って戻って行きました。

 警察官の話だと、警察署の写真を撮る人が何人もいたらしいが、木造のつがる警察署の写真を撮る理由と言ったら、私にはやはり太宰治『津軽』に登場するからとしか思い浮かばない。それにしても驚いた。人生で今まで警察官が追いかけてきたことなどなく、しかも私自身が根っからの気の弱い小心者であるから、尚更であった。

 おかげでこのつがる警察署のエピソードがいやにはっきり記憶に残ってしまった。
 木造の記事はもう少し続きます。


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by dazaiosamuh | 2017-08-02 16:57 | 太宰治 | Comments(0)
木造の町は、一本道の両側に家が立ち並んでいるだけだ。そうして、家々の背後には、見事に打返された水田が展開している。水田のところどころにポプラの並木が立っている。
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『津軽』で太宰が書いている通り、木造駅に降り立つと、目の前に一本の道があるだけだ。そうしてやはり、両側には住宅などの建物が並んでいる。しかし、太宰が訪れた当時はどうだったのか分からないが、随分と廃れた印象を受けた。明らかに人が住まなくなった家々が目に付いた。
 さて、肝心のポプラ並木はどれかと思い周りを見渡すが、ポプラの木を意識して見た事など今までに一度もないので、どれなのかいまいちよく分からず、周辺をうろうろしてしまった。実際は駅を降りて、道路左側の方を見て歩くとすぐに発見できる(私がポプラの木をよく知らなっただけです)。近くで見るには、私有地に入らなければいけなかったため、農作業をしていた年配の男性所有者に許可を得て土地に入り、写真を撮りました。
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 ポプラの木の写真を撮らせてもらってもいいですかと尋ねると、「植物の調査か何かですか?」と訊かれたので、正直に、太宰治の小説『津軽』に、木造にポプラの木が見事に並んでいる描写があることを話し、それを見たくてきたのだと答えたら、ああ、それでですか!、と太宰治『津軽』の木造に於ける場面を知っているような反応で納得してくれました。その男性が、「ポプラの木は、もともと畑や水田を守るため、暴風・防雪のために植えられたんですよ」と教えてくれました。しかし、近年は老木となり、本数も、数えれるほどに減ってきている。

こんど津軽へ来て、私は、ここではじめてポプラを見た。他でもたくさん見たに違いないのであるが、木造のポプラほど、あざやかに記憶に残ってはいない。薄みどり色のポプラの若葉が可憐に微風にそよいでいた。

 微風に可憐にそよぐポプラの若葉があざやかに記憶に残るほど太宰の心をとらえたほどであったから、当時は、さぞかし沢山のポプラの木が並んでいたのであろう。違う角度からポプラの木を眺めてみたいと思い、周辺を遠回りして裏手側に回ってみたところ、堂々たる津軽富士が目に飛び込んできた。
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ここから見た津軽富士も、金木から見た姿と少しも違わず、華奢で頗る美人である。このように山容が美しく見えるところからは、お米と美人が産出するという伝説があるとか。この地方は、お米はたしかに豊富らしいが、もう一方の、美人の件は、どうであろう。これも、金木地方と同様にちょっと心細いのではあるまいか。その件に関してだけは、あの伝説は、むしろ逆じゃないかとさえ私には疑われた。岩木山の美しく見える土地には、いや、もう言うまい。こんな話は、えてして差しさわりの多いものだから、ただ町を一巡しただけの、ひやかしの旅人のにわかに断定を下すべき筋合いのものではないかも知れない。

 とても天気がよく、風も心地が良かった。晴々とした気持ちになる。『華奢で頗る美人』な津軽富士に見つめられ、なんだか照れ臭いような思いでもあった。
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 見づらいが、ポプラ並木と津軽富士。青空の下、すーっと裾を伸ばす津軽富士と心地よい微風にそよぐポプラの木は、なかなか格別な風景であった。今まで見た津軽富士のなかでも、私は木造から見た津軽富士が一番好きかもしれません。

 さて、太宰が書いている美人の件であるが、町中を、美人はいないかときょろきょろしながら歩くが、まず通行人がほとんどいない。なので感想を述べることができないのが残念である。せいぜい犬の散歩をしている中年の女性か90歳近い老婆ぐらいしか見かけなかった。米は当然美味いであろう。言うまでも無い。

 ちなみに木造のポプラの木は明治13年ごろより植林された。太宰の父・源右衛門(本名・松木栄三郎)は明治4年生まれ。栄三郎が8歳頃にポプラの木が木造に植林されたことになる。『津軽』には書いてはいないが、太宰もきっと、「父もこのポプラの木を見たのだろうな」としみじみ思ったのではないでしょうか。


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by dazaiosamuh | 2017-07-28 21:18 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)