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太田静子と愛知川 №5 愛知川小学校

 太田静子が通った愛知川小学校は、1878年(明治11年)に福山学校として創立された。現在までに5回、改名しており、明治20年・尋常科沓掛小学校、明治23年・愛知川尋常小学校、明治25年・愛知川尋常高等小学校、昭和16年・愛知川国民学校、そして昭和22年に現在の愛知川小学校となった。昭和32年には防火用水を兼ねたプールが完成し、昭和55年に100周年を迎え、鉄筋コンクリート2階建ての新校舎が出来、現在に至っている。それまでは木造建てであった。
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 現在の愛知川小学校、正門を通ると正面に二宮尊徳像(昭和12年建立)がある。

愛知川小学校の入学式の写真の横には、一年生の時の学芸会の写真が貼られていた。「天人の羽衣」の舞台だった。同学年の女組の田中俊子さんは天女、母は漁師の役である。母はつり竿を肩に微かに口を開けて舞台の袖に座り、天女の舞いを踊る愛らしい俊子さんをうっとりと見上げていた。
「私の着ている黒いマントは、まんもるさまのものなの。愛知高等女学校時代の学芸会では、菊池寛の「父帰る」の長男役を演じたわ。その時着た背広も、まんもるさまの若い時に着ていたものだった」
 シモーヌ・シモンに似たファニー・フェイスの母は、意外にも男役がぴったりのところがあったのだった。』(明るい方へ)

 平日とあって子供たちの元気な声が聞こえてくる。太田医院からこの愛知川小学校まではとても近く、子供の足でも徒歩4,5分ほどで着ける。太田静子も元気に通ったのだろう。愛知川郡愛荘町沓掛が発行している『沓掛のあゆみ』に当時の子供たちの遊びが載っている。全国どこを見ても同じような遊びになると思うが、「鬼ごっこ」「かくれんぼ」「缶けり」「野球」「めんこ」「竹とんぼ」「竹馬」「水遊び」「チャンバラ、陣地づくり」「雪遊び」(冬は現在よりも積雪が多かったようです)などである。女の子は、「お手玉」「縄跳び」「お人形さんごっこ」「まりつき」「ゴムとび」「おじゃんめ」など。
 「杉玉鉄砲」というのもあり、『春は雄花(杉玉)を竹につめて飛ばす杉玉鉄砲で遊んだ。』とある。これは初めて聞きました。太田静子はどんな遊びをしていたのでしょうね。
 私も小学校時代、竹馬などで遊んだ記憶がありますが、現在の小学校はどうでしょうか。
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 太田静子が娘・治子を育てるため女手ひとつで身を粉にして働いている時、小学校時代の同級生が静子のもとを訪ねて来た時の話が娘・治子によって書かれている。

寮母になる前、母は十一年間、倉庫会社の食堂の炊事婦をしていた。その食堂に、ある日、立派な着物を着た女性が入ってきた。母はその顔に、ぼんやりと見覚えがあった。母より少し年下の彼女は、小さな女の子の頃、まんもるさまに診察されたことがあった。その昔の女の子が、まんもるさまの娘の母を突然訪ねてきたのだった。
 茶碗洗いの手を休めて白いエプロン姿のまま食堂の裏口にでてきた母をみて、その女性はしばらく声もなかったという。ほとんどまとまった言葉もいわずに、とぶようにして帰ったというのだった。
「あれからしばらく、愛知川では、静子さんが炊事婦してなさるのは本当やった。ウソやなかった、という話で持ちきりどした」
 寮母時代の母に会いにきた愛知川小学校時代の母の同級生がいった。それまでは、娘時代の母を知っているだれもが、母がそのような仕事についているとは信じていなかった。ミニ・スカートをひるがえして愛知川の畦道を自転車で突っ走るモダン・ガールである一方、静子さんにはどこか箸を持ち上げるのも危うそうな、か弱い姫君の感じがあったからだと、寮母の母を前にしてその友だちはいうのだった。』(心映えの記)

 恵まれた子供時代を過ごしたのとは対照的に、太宰治と出会い、娘・治子を産んでからというもの、生きていくために、いかに太田静子が苦労したかがうかがえる。苦労し故郷の愛知川に1度も帰ることなく死んでいった太田静子を、太宰は空の上からどう見ていたのだろうか。


by dazaiosamuh | 2017-02-24 15:23 | 太宰治 | Comments(0)