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太田静子と愛知川 №4 思い出の勝光寺

 太田医院跡の通りを挟んで向かいに勝光寺というお寺がある。太田静子はよくこのお寺で遊んだ。
通りの向かいは、勝光寺というお寺である。お寺の奥さんの野田はるゑさんに母は、妹分として、ずいぶん可愛がっていただいたという。』(母の万年筆)
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 現在の勝光寺。現住職の野田暁春(のだぎょうしゅん)は、前述の野田春江の長男。太田静子は『幼い時に彦根の女学校に通っていた姉の芳子さんが肺の病でなくなり、小学校に入るとまもなく今度は妹の槙枝ちゃんが当時日本にも猛威をふるったスペイン風邪で急死した。兄一人と弟二人に囲まれて、女の子は母一人だけになってしまった』ため、小さい頃、7歳上の野田春江を実の姉のように慕っていた。その野田春江の長男で現住職の野田暁春もまた太田静子と親しかった思い出の人物の1人である。春江に可愛がってもらった太田静子であるが、逆に春江の長男・暁春を静子は可愛がったという。その話などが太田治子著『明るい方へ』の中で書かれている。
暁春さんは母のことをとても大切そうに話して下さるのだった。
「太田先生のお家は、別世界のようにキラキラして感じられました。三千坪近い敷地には紅白の蓮池があって、それぞれボートが浮かんでいたように思います。洋風のガラス張りの玄関を入ると、ピカピカに磨き込まれた廊下が長く続いていました。その南側の奥に、静子さまのお部屋がありました」
(中略)
「レコード鑑賞の後は、決って紅茶とケーキをいただきました。当時は、このあたりのどの家でもケーキを食べることなど考えられませんでした。まことに夢のようでした。」
 ケーキも、京都迄買いにでかけたのだろうか。私は、声を上げて泣きたくなった。あまりにも恵まれた少女時代を送った母と、私の知っている倉庫会社の食堂で働き詰めだった母はどうしても結び付かなかった。
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 太宰治との間に子供を産んだ太田静子は世間から冷たい目で見られる中、女手ひとつで娘・治子を育てるために身を粉にして定年まで働き続けた。精神的にも肉体的にも、故郷愛知川に帰って来る余裕がなかった。
 娘・治子とは逆に、恵まれた少女時代しか記憶にない野田暁春からすると、『静子さまがどんなにか苦労されたというお話を聞いても、私にはどうしてもそのお姿が浮かんでこない』のであった。しかし、『静子さまは、今日の私の恩人です。音楽の道に進んだのは、静子さまとの出合いがあったからです』とまるで太田静子本人に向かって話ているかのように、娘・治子に聞かせるのであった。

 実は私も愛知川を訪ねた際、野田暁春さんにお会いし話を伺いましたが、その時の話は後ほど記事にしようと思います。



Commented by iga at 2017-02-24 09:05 x
すごい!
マニアですね!
Commented by dazaiosamuh at 2017-02-24 15:27
> igaさん、こんにちは。マニアと言われると恥ずかしい。と言っても、これが趣味です。太宰治や太宰と関係のあった人物のゆかりの地を歩くのが好きです。楽しくてしょうがない。それと、その旅先での人との出会いも楽しみの一つで、旅行の醍醐味です。
by dazaiosamuh | 2017-02-20 13:17 | 太宰治 | Comments(2)