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田部あつみと東京 №6 天勝のいる水明館へ

鈴村の妻よし子は、銀座のカフェー・ホリウッドに勤めていた。日本一の銀座だけに、カフェーといってもさまざまだが、よし子の話からも、ホリウッドは品の悪い店だはなさそうであった。順三たちの事情を知っているよし子は、あつみにも銀座で働いてみたらどうかと、熱心に勧めてくれた。』(太宰治 七里ヶ浜心中)

 広島では喫茶店のウェイトレスをしていただけであったあつみは、多少の不安を抱いていた。それにともない、日に日に減っていく貯金、そして夫・順三の職が中々決まらない不安も増していく一方だったあつみは、鈴村の妻よし子を頼りに、銀座のカフェーで働く決心をした。困窮する生活の手前、無論、順三に反対する理由はあるはずも無いのであった。

ホリウッドの女給として働く決心をしたすこしまえ、あつみは日比谷の水明館に松旭齋天勝を訪ねて行った。天勝師匠が広島でなぜ水明館の住所を書いて渡したのか、これがどうもよく判らないのだが、一時的に水明館の一室を借り受けて、臨時の事務所として使った時期があったのかも知れない。このとき、あつみは天勝師匠に会えなかった。のち天勝が水明館の館主になるのだが、それはさらに五年の後のことになる。

 あつみはこの時どういった理由で天勝を訪れたのだろうか。まさか住所を教えてもらったという理由だけで訪ねたわけではあるまい。もしかしたら、困窮する生活から脱するためだけではなく、断固反対した父・島吉に内緒で、天勝に弟子入りし、自分のやりたかったことにチャレンジするとともに、夫・順三を支えようと考えていたのではないだろうか。

水明館については、伊坂梅雪の一文に「先々代水明館は元木挽町亀井橋に居て常に大阪俳優の常宿であり、殊に隣りには菊五郎の愛妾辻井お梅さんが居たので若女将のお栄さんも心易ければ養子の湊氏とも親しく某湊氏は栄子夫人と別れて磯子園と称する料理旅館を営んでいる。二代目の水明館主人は元葭町の名妓よし子さんで俳優片岡市蔵丈の妻となったが、片岡氏の没後も養子を守り立てて旅館水明館を経営して居られた」と記してある。
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 写真は現在の木挽町にある亀井橋。非常に交通量が多く、訪れた時間帯が昼頃だったこともあり、サラリーマンなどが休憩に入っていた。
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 亀井橋上には小さな公園がある。サラリーマンなどが談話に耽っていた。青空の下、浮浪者が公園のゴミ入れを漁り、飲み残しのジュースをおいしそうにゴクゴクと飲んでいた。
 現在、水明館という旅館はない。この付近にあったのだろうか。もし田部あつみが水明館を訪れたとき、天勝と再会することができていたら、銀座のカフェー・ホリウッドで働くことはなく、また違った人生になっていたかもしれない。そうすれば太宰と出会うことはなかった。
 私は田部あつみを調べるうちに、少なからず情が湧き、太宰と出会わなければ良かったのに、と思うことが少なからずある。しかし、田部あつみとの出会いがその後の太宰の人間関係、哲学、文学、人生に影響を与えたことは言うまでもないが…。


by dazaiosamuh | 2016-11-14 18:44 | 太宰治 | Comments(0)