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田部あつみと東京 №5 順三、雑踏で掏摸にあう

上京してから三週間が瞬く間に過ぎた。順三の就職口もなかなか見つからない。広島の鈴木が紹介してくれる筈だった友人が、順三の上京直前に検束されて、未だに帰宅を許されていないのだ。あるいは釈放されたのち、再逮捕をおそれて行方をくらましたのかも知れない。すでにその友人をあてにできなかった。』(太宰治 七里ヶ浜心中)
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 上京して1カ月も経たないうちに、順三とあつみの生活に暗雲が覆いつくそうとしていた。演劇界は不況に陥り、演劇関係への就職が困難となっており、生活のためにも何か別の仕事を探さなくてはならない状況になっていた。職業紹介所などにも行くが、『そんなある日、悪いことは重なるもので、劇団新東京の探偵喜劇『ルールシーヌ街の惨劇』を歌舞伎座で観ての帰り途、銀座の雑踏の中で順三は財布を掏摸とられてしまった。
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 この銀座の雑踏で財布を掏摸とられ、所持金の大半を失ってしまったらしいのだが、生活が苦しくなるほどの金額を順三は持ち歩いていたということだろうか。順三は財布を掏摸取られただけでなく、勢い勇んで演劇の世界へ飛び込もうとしていた矢先に、友人の伝手を失い、また演劇界の未曾有の不況により進路が断たれ、それにより完全に精神的に萎縮し、情熱はみるみると薄れていくのであった。そんな順三に対して田部あつみは懸命に励ましつづけ、どうにか立ち直らせようと献身的に努力した。
広島へ帰京するにしても、せめて一年は頑張らないと、恥ずかしくて帰れたものでない。「私が働きます」とそう言ってから、あつみは本当に自分が勤めに出るほかないと思った。

 夢を追う者によくあることで、情熱の炎を燃え上がらせ、いざ勇んで上京してみるも、現実の厳しさに直面、圧倒され、そのまま心身ともに折れてあっけなく夢破れて帰郷する若者というのはいつの時代も不変で、順三も例に漏れずその1人であったのだ。それと同じく、男性よりも冷静に現実をみつめる女性は田部あつみのように、懸命に相手を励まし、自分も一緒に背負うから、と言い必死に支えようとするが、大抵、ここで男はそれを励みに立ち直るか、落ちるとこまで落ちるかのどちらかのようである。
 そして順三は、どちらかというと再び立ち直ることのできる男であると私は勝手に推測しているが、不幸といったら同じ太宰ファンに失礼かもしれないが、田部あつみが太宰と出会ってしまったことで、それぞれ順三、あつみ、太宰の不幸な結末は、ここで決定づけられてしまったのではないかと思われてならない。


by dazaiosamuh | 2016-11-09 22:07 | 太宰治 | Comments(0)