2015年 09月 03日
太宰治 『思い出』めぐり!! №7 料亭『玉家』跡
『父の知る太宰治は、まだ無名の津島修治である。父はごく普通の調子で「修さん」という。
父の経営する料亭”玉家„から四、五軒東隣りの塩谷旅館を常宿としていた北津軽郡金木町出身の県議会議員津島文治(後の青森県知事)氏の弟であり、その頃旧制弘前高等学校の学生であった太宰治は、いつも友人と一緒に、半玉(玉代が芸妓の半額の者をいう)として新浜町二丁目(現在本町三丁目)の父の母、野沢たまが経営する野沢家に籍を置いていた紅子こと小山初代をひいきにし、連れ歩いていた。「まだ学生の津島のおんちゃまが、よく紅子をひいきにし、そちこちへ連れて歩いているのを知っていたが、兄の文治先生のこともあるので見ても見ぬふりをしていた」と父は当時の複雑だった気持を語る。』
紅子は、太宰と出会ってからあまり時間がかからずに半玉から芸妓になりました。文だけだと簡単になれるかのような印象を受けますが、『紅子の出た大正の末頃はおよそ三百人近い芸妓と半玉が居り、芸の修業はそれだけになかなかきびしい』時代だったようです。
『紅子が野沢家に籍を置き、また料亭”玉家„は野沢家の長男である父が経営していること、津島文治氏が玉家をひいきにしていたことから気まずいのか、太宰治は、玉家に上ることはなく、同じ浜町二丁目であっても角を一つ曲がった料亭”おもだか„にもっぱら通っていた。』
兄・文治の通っていた『玉家』に上ることはなかったといっても、『おもたか』から『玉家』まで徒歩1分もあれば着く距離ではあるので、文治がまったく気づかなかったわけはないはず。そして、もし『玉家』経営者の野沢謙三が『見ても見ぬふり』をせず、何かしらのアクションを起こしていれば、太宰と初代の関係は、また違ったものになっていたかもしれません。
ちなみに、紅子こと小山初代は、昭和19年7月23日に中華民国の青島(チンタオ)で病没している。享年33歳。詳しくは、後で書きたいと思います。
『思い出』めぐり、の記事はまだまだ続きます。
それに、小説しか知らないから、太宰の細かい行動を読めるのはとても興味深いです。
それにしても、いくら太宰が波乱万丈な人生だったといっても、太宰は39歳で亡くなっています。小山初代は太宰よりも若くして、しかも、故郷ではなく中国で亡くなっていますから、可哀想ですよね。太宰に比べて詳細な情報があまりないので、中々調べるのが難しいです。
“生身”の太宰が知れて、太宰ファンとしてとても嬉しくなります。
ここに太宰がいて、歩いたんだなぁと思うと感慨深いですね。
私も同じようにゆかりの地めぐりしてみたくなります。
是非ゆかりの地を歩いてみてくだざい!面影が全く残っていないときは、少し寂しい気持になるときもありますが、それでもやはり、自分の足で太宰と同じ土地を踏み、太宰と同じ風景を見ることは、ただ小説を読むのとは違った趣がありますよ!