2014年 12月 17日
太宰治 新潟『みみずく通信』 №6 イタリア軒
『イタリヤ軒に着きました。ここは有名なところらしいのです。君も或いは、名前だけは聞いた事があるかも知れませんが、明治初年に何とかいうイタリヤ人が創った店なのだそうです。二階のホオルに、そのイタリヤ人が日本の紋服を着て収まった大きな写真が飾られてあります。モラエスさんに似ています。なんでも、外国のサアカスの一団員として日本に来て、そのサアカスから捨てられ、発奮して新潟で洋食屋を開き大成功したのだとかいう話でした。』(みみずく通信)
ところが明治13年の大火で店は焼失。それでも周囲の人達の励ましで、現在の場所に、おすいの発案で「イタリア軒」として、時代の最先端をゆく西洋レストランになっていきました。
その後、ミオラも在日30余年、単身故国イタリアへ帰り、大正9年11月、郷里のチュリン市で波乱の生涯を終えました。
そして現在…、今ではホテルとして生まれ変わりましたが、レストランには、ミオラが周りの人々から貰った暖かい情熱を持って創り上げた「イタリア軒の味」が今でも生き続いているのです。
『生徒が十五、六人、それに先生が二人、一緒に晩ごはんを食べました。生徒たちも、だんだんわがままな事を言うようになりました。
「太宰さんを、もっと変わった人かと思っていました。案外、常識家ですね。」
「生活は、常識的にしようと心掛けているんだ。青白い憂鬱なんてのは、かえって通俗なものだからね。」
「自分ひとり作家づらをして生きている事は、悪い事だと思いませんか。作家になりたくっても、がまんして他の仕事に埋れて行く人もあると思いますが。」
「それは逆だ。他に何をしても駄目だったから、作家になったとも言える。」
(中略)
晩ごはんが済んで、私は生徒たちと、おわかれしました。
「大学へはいって、くるしい事が起ったら相談に来給え。作家は、無用の長物かも知れんが、そんな時には、ほんの少しだろうが有りがたいところもあるものだよ。勉強し給え。おわかれに当って言いたいのは、それだけだ。諸君、勉強し給え、だ。」』(みみずく通信)
生徒たちも結構ひどいことを言いますね。「案外、常識家ですね。」「自分ひとり作家づらをして…」など。しかし、その後新潟高校の生徒たちの間では、太宰の人気は上昇したらしいので、小説からのイメージをそのまま鵜呑みにすることは軽率で、さらには他作家たちや評論家からの風評も、そのまま人間太宰治にあてはめることは、言語道断だろう。
太宰は、『イタリア軒』の後、古町通りの『大野屋旅館』に泊まったとされています。
次回は、『大野屋旅館』を書きます。