2014年 07月 16日
太宰治 ひそかに立ち寄っていた本屋 川奈部書店
その女性に、「昔、太宰治がここで本代を払わなかったという話を聞いたのですが、何か話しは知りませんか」と聞くと、「いやあ、すみません。私は全くそういう話は聞いたことがありません。詳しい話は何も……」との返答。ある程度予想はしていました。しかし、こうなると太宰がこの『川奈部書店』に来たこと自体が疑問になります。太宰の旧宅跡から、僅か5、6分の距離なので立ち読みくらいはあるだろうとは思いますが。
相手から、全く聞いたことはありません、と言われたらそれ以上話すことはありません。私は本棚の本には目もくれず、しぶしぶ、お店を出て行きました。
この後、私は目的の玉川旅館へと向かうのですが、実はこの日から僅か数日後、古本屋で船橋太宰文学研究会が調査し、作成した『夾竹桃』という60ページしかない本(冊子?)に、なんと『川奈部書店』のことが記載されていました。
さらに、『船橋薬局のほかに、内山薬局、川奈部薬局の名前が挙がってくるし、最初、右島薬局にもパビナールをねだって断られている。
船橋薬局店主は荻原茂二さんといった。夫妻とも既に物故し、同薬局も今は無い。しかし、太宰が直接同店に足を運び又は初代が津軽なまりの声で何度か電話でパビナールを頼み込んだことなどは、確かな証人もいる。私は、太宰がある時期、船橋薬局を”日課„のように利用したという故川奈部書店主の言を信じていいと思っている。』と記載されているが、太宰研究に半生を捧げた長篠康一郎は、『太宰治文学アルバム 女性編』で、『船橋地区におけるパビナールは、川奈部薬局が当時一手で各病医院に納入していた関係で、在庫量、使用料はつねに正確に記帳されており、川奈部薬局以外からの入手は考えられない。』と書いている。
さて、どちらが本当なのでしょうか。確かな確証は今となっては手に入らないので、真相は分かりません。『夾竹桃』の方には「確かな証人もいる」と書いてあるが、詳しい内容(その証人が誰なのか、期日はいつかなど)は記載されていないので、読み手からすると甚だ疑問だ。
ただ、料金を払わなかったかどうかは不明だが、『川奈部書店』に来たことがあるのは確かだとは思う。
今回は、偶然ゆかりの地を発見することができたので思わぬ収穫であった。もしかしたら、探せば他にも色々あるかもしれないが、当時からある店、建物はどんどん減少している。他にも探すなら今しかない。ネットや書籍での情報にも限りがある。疑問を持った建物、お店を発見したら、躊躇うことなく、根気よく聞き込みをしていくしかない。
お読みいただけたでしょうか。
コメントありがとうございます!返事が遅くなり大変申し訳ございません。
まさかご家族の方からコメントを頂けるとは思っておりませんでした。
貴重な情報をありがとうございます。
やはり太宰は訪れていたのですね!
未払いはあったということで、大変だったと思います。
こういったコメントを頂けるのは本当に貴重です。ありがとうございます。
また当ブログにて勝手に掲載して大変申し訳ございません。
最近は仕事や体調面等で太宰のゆかりの地巡りや調査ができておりません。
当ブログにて何か間違い等ございましたら、遠慮なくコメントを頂けると幸いです。
こちらこそコメントありがとうございました。
私のほうこそ心が温かくなりました。
太宰治が繋げてくれたご縁、私もそうだと思います。
しかしながら、三鷹の跨線橋といい、太宰治のゆかりの建造物等は年々減ってきてしまっています。船橋においても同じだと思います。
なので、少しでも太宰治について発信して、これからの若い世代に伝えていけたらと思っています。(といっても私のブログは自己満足が多いですが…)