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太宰治 日比谷公会堂

 太宰の小説にも登場する日比谷公会堂は、1929(昭和4年)に竣工した。建築家8人による指名設計競技の結果、佐藤功一の案が採用され、その案をもとに清水組(現在・清水建設)が建てた。

 当時、東京では唯一のコンサートホールとしてプロのオーケストラの演奏会やリサイタルなども多く開かれた。しかし、東京文化会館を皮切りに、サントリーホール、東京芸術場、オーチャードホール、昭和女子大学人見記念講堂といったコンサート専用ホールやコンサートに使用可能な多目的ホールが整備されるにともない、コンサートホールとしての地位は徐々に低下して行ったのだった。
 そして、講演会、イベントなどの音楽会以外の利用が増え、クラシック音楽の演奏会は殆ど開催されなくなったのであった。
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『晩秋の夜、音楽会もすみ、日比谷公会堂から、おびただしい数の鳥(カラス)が、さまざまの形をして、押し合い、もみ合いしながらぞろぞろ出て来て、やがておのおのの家路に向かって、むらむらぱっと飛び立つ。』(渡り鳥)

 一応、太宰の小説には日比谷公会堂は登場しますが、実際に太宰本人が公会堂に入ったことがあるかは不明。
 この日比谷公会堂は、市政会館と同時に造られました。現在も同建物内に公益財団法人後藤・安田記念東京都市研究所(旧・東京市政調査会)があります。

『昨年の晩秋、ヨオゼフ・シゲティというブダペスト生れのヴァイオリンの名手が日本へやって来て、日比谷の公会堂で三度ほど演奏会をひらいたが、三度が三度ともたいへんな不人気であった。孤高狷介のこの四十歳の天才は、憤ってしまって、東京朝日新聞へ一文を寄せ、日本人の耳は驢馬の耳だ、なんて悪罵したものであるが、日本の聴衆へのそんな罵言の後には、かならず、「ただしひとりの青年を除いて」という一句が詩のルフランのように括弧でくくられて書かれていた。』(ダス・ゲマイネ)

 この短編で登場する、ヨーゼフ・シゲティは実際に1931年に初来日しているようですね。Wikipediaにも、『1925年にレオポルド・ストコフスキーの招きで渡米。その後1930年代に世界各国を回り、1931年には初来日を果たし、その翌年にも日本に来訪している』と記載されている。が、これもまた太宰が実際に演奏を聴いたのかは定かではない。
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 上の写真は、市政会館の正面です。日比谷公園を歩いているとすぐに視界に飛び込んでくる、塔時計と茶褐色のタイル張りの外壁。オフィスビルの建ち並ぶ中、クラシックな雰囲気で、心を落ち着かせてくれる。
 当初は公園の東北部に建築される予定だったそうですが、南東部に変更され、建築物の北側部分を公会堂(日比谷公会堂)、残りを会館とした。公会堂は東京市が、会館は東京市政調査会がそれぞれ管理した。

 ちなみに、1999年(平成11年)6月11日に、東京都景観条例に基づき「東京都選定歴史的建造物」となっている。また、2003年(平成15年)6月9日、千代田区景観まちづくり条例に基づき「景観まちづくり重要物件」に指定されている。

 太宰が、公会堂に実際に入ったのかは分からないが新聞社試験を受けに来たことはあるため、必ず目にしていたことは確かだ。公園も散策したに違いない。太宰が見た景色を自分も見ているのだ、と思えばファンとしては嬉しい限りだ。
by dazaiosamuh | 2014-04-26 21:06 | 太宰治 | Comments(0)