2014年 04月 01日
太宰治が愛した鰻を求めて №1 美容院で時間潰し
国分寺駅を出た私は、早速お店に向かおうとしたのだが、駅前で新米美容師のお姉さんに声を掛けられた。なんでも、練習をしたいからカットモデルになってほしいらしい。料金も格安で、カットとパーマで3500円ほどでできるとのこと。掛かる時間を聞いたら、4時間程らしい。丁度私は髪を切ろうと思っていたのと、パーマをかけてみたいと思っていたところだったので、お昼を食べたら行きます、と言い、12時半頃に美容院に行く予約を取った。『若松屋』はランチタイムは11時から13、14時頃までやっているとネットで見つけたので、11時に着くように家を出たのだ。美容師さんから名刺を受取り、あいさつして一先ず目的の『若松屋』へと足を運んだ。
さらに、太宰はこの『若松屋』を舞台に、短編小説『メリイクリスマス』や『眉山』を書いている。太宰の死後、隆司さんは若松屋をたたみ、国分寺市に転居した。二代目、雅也さんは81年にすし店『東鮨』を開き、父の勧めで、三鷹時代のタレを再現した鰻料理も出した。10年には、『若松屋』の店名を復活させた。雅也さんは、「太宰さんのおかげで商売を続けていける」と感謝したという。
しかし、2014年1月26日、雅也さん(58)は急性心筋梗塞で亡くなった。3年前に膀胱癌の手術を受けた雅也さんは、入院前、会社勤めをする次男・祐二さんに鰻の割き方や名物・厚焼き玉子の焼き方を徹底的に仕込んだ。現在は、雅也さんの次男・祐二さんが、3代目として継いでいる。
しかし、営業している様子がなく、嫌な予感がした。店頭に貼られている営業時間を見ると、17時から、と書かれていた。やってしまった。時間を間違えた。たしかに此処に来た人のブログ、掲示板に、11時からやっていると書いている人がいたのだ。何度もお店の前をうろうろした。うろうろしたところで早くお店が開くわけでもない。
美容院に到着すると、先ほどのお姉さんが迎えてくれた。事情を話すと、「どうりで早いと思いました」と言われてしまった。店内にあるヘアーカタログから無難なスタイルを選び、早速カットとパーマを掛けてもらった。
今回はあくまでカットモデルなので、担当の女性は電話対応等の雑務をこなしながらの作業になった。初めてパーマを掛ける自分の姿に吹き出しそうになった。くるくると巻かれた頭を見て、実に滑稽だとすら思った。まだ慣れないせいか、何度も同じ個所を、巻いては解き、巻いては解きを繰り返されて、流石に頭皮が引っ張られて痛かった。引っ張られる度に、私の眉毛は八の字に吊り上がった。その自分の表情を見て尚更吹き出した。
今日は、鰻重を食べるために朝食を抜いてきたのだ。その方が、美味さが倍増すると思ったからだ。しかも、お昼も食べていない。あと少しの辛抱で鰻重が食べられると思うとよだれが出る。ごくりと唾を飲み込んだ。
それでも座りっぱなしでお尻も痛かったが、どうやら無事に終わった。
「結構、かかりましたね。」
「す、すみません。何度も巻くのに時間がかかってしまいました。」
傷つけるつもりはなかったが、言ってしまった。
そして、最後に軽く髪を洗い、ワックスもつけてもらい、少しばかりワクワクしながら鏡で自分の姿を見た。
そこには、まるで別人のアホ面の男が座っていた。提示したカタログのヘアースタイルとは、随分差があった。
「こいつ誰?」そう思った。
その女性が、上司を連れてきて、「ご希望通りの仕上がりでしょうか?」と聞いてきた。私は、新人のお姉さんのためにならないと分かってはいたが、「はい、大丈夫です。満足しました。」と答えた。お姉さんは、ほっとした様子だった。
しかし、本来はカットとパーマで1万円は超えることと、相手が新人で、あくまで私はカットモデルとして、練習台であることを引き受けて来たので、「まあいいか」と思った。こうやって美容師の卵たちは腕を磨いていくのだ。少しでも何か手ごたえを感じ取ることができたのなら幸いだ。
終わってみると、時計の針は17時を近かった。希望の髪型ではなかったが、新人のお姉さんのこれからの期待を胸に、ある意味、清々しい気持ちでお店を後にし、『若松屋』へと向かったのであった。